14世紀

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千年紀: 2千年紀
世紀: 13世紀 - 14世紀 - 15世紀
十年紀: 1300年代 1310年代 1320年代 1330年代 1340年代
1350年代 1360年代 1370年代 1380年代 1390年代
ナスル朝イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。
黒死病(ペスト)の大流行。東方から流入したこの病気により地中海からヨーロッパでは軒並み人口が減少した。画像は黒死病の犠牲者を運び出すフランドル地方のトゥルネーの人々(『ジル・ル・ミュイジフランス語版の年代記』の挿絵)。
百年戦争の始まり。クレシーの戦いではエドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。
ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆英語版」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。
カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。
皇帝ハインリヒ7世を選出する七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は1356年金印勅書で法制化されることになる。
スイスの自立。13世紀末に成立した原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。
教皇のバビロン捕囚。フランス王フィリップ4世の圧力で教皇クレメンス5世アヴィニョンに移された。画像はアヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。
ダンテとベアトリーチェ・ポルティナーリ英語版。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデー英語版による歴史画(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)で、フィレンツェアルノ川の橋のたもとでベアトリーチェに心寄せるダンテが描かれている。
中世都市シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿英語版(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。
ミラノ大聖堂。1386年からミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの命により、北方の建築職人も招いてイタリアには珍しい多数の尖塔アーチを聳えさせるゴシック様式で建設が始まった。完成は500年後の1813年のことになるが「ミラノのドゥオモ」の名で親しまれている。
セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。
落日の東ローマ帝国。周辺諸国に圧迫されるとともに帝位をめぐる内乱でこの国はバルカンの小国家に転落した。画像は1351年のヘシュカスモス論争についての教会会議を召集する皇帝ヨハネス6世カンタクゼノス
クリコヴォの戦いモスクワ大公ドミートリー・ドンスコイ率いるルーシ諸侯連合軍がママイ率いるジョチ・ウルス軍に大勝した。この勝利は「タタールの軛」からロシアが自立する第一歩となった。画像は17世紀に描かれた挿絵。
ヨーロッパ最後の異教大国リトアニア。東西両教会に挟まれたリトアニアでは古来の信仰を堅持した大公ゲディミナスが均衡を保って統治を行っていた。画像は都ヴィリニュスを建設するゲディミナスを描いた歴史画。
アステカ帝国の勃興。アステカ人はウィツィロポチトリ神託に従い、蛇を咥えた鷲がサボテンに止まった地を探し当て、テスココ湖を干拓し都テノチティトランを築いた。画像はその様子が描かれた16世紀の「メンドーサ写本英語版」。
チムー王国モチェ文化の流れを汲みインカ帝国に先立ってペルー北部の沿岸地帯を支配した王国で金属加工に優れていた。画像はチムー王国で用いられた装飾用の金製品(メトロポリタン美術館蔵)。
鎌倉幕府の滅亡。有力御家人の離反が続く中で、新田義貞により稲村ヶ崎の防衛線が突破されると、鎌倉市街は炎上し、得宗高時ら北条一族の自刃が相次いだ。画像は最後の合戦が行われた東勝寺の腹切りやぐら。
後醍醐天皇鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。
「騎馬武者像」。総髪で抜身の太刀を肩にかけた合戦後の武士を描いた作品として知られ、長らく足利尊氏を描いたものとされていたが、近年は高師直や他の人物の説も上がっている。京都国立博物館の所蔵で重要文化財ともなっている。
足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。
能楽の大成。当時猿楽と呼ばれたこの芸能は観阿弥世阿弥の親子二代の下で発展した。特に世阿弥は二条良基足利義満の庇護を受け洗練された芸風を極めた。画像は現在の能舞台での様子。
グレート・ジンバブエ遺跡。サビ川上流のジンバブエ高原に作られた石造遺跡で、ジンバブエとはショナ語で「石の家」を意味する。イスラムや中国の元・明時代の陶磁器が出土することでも知られる。画像は遺跡を取り囲む「大囲壁」の全景写真。
西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で途方もない黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。画像は1375年に中世の世界地図(マッパ・ムンディ)の様式で描かれた「カタロニア地図英語版」のマンサ・ムーサ。
マリーン朝フェス。ムワッヒド朝に代わりマグリブを制圧したマリーン朝はマラケシュからフェスに都を遷した。画像はスルタンのアブー・イナーン・ファーリスによって建てられた学院のブー・イナーニーヤ・マドラサミナレット
聖王ルイの洗礼盤フランス語版」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。
オスマン朝の拡大。小アジアから起こったオスマン朝はバヤジット1世の時代までにバルカン諸国を臣従させ、ニコポリスの戦いではキリスト教徒連合軍に大勝を収めた。画像はトプカプ宮殿博物館所蔵の細密画に描かれたニコポリスの戦い。
集史』の編纂。イル・ハン国の宰相で歴史家ラシードゥッディーンはその当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。
歴史家イブン・ハルドゥーン。北アフリカからイベリア半島そしてエジプトからシリアを遍歴し、政治家として活躍する一方で、連帯意識(アサビーヤ)を軸とする変転極まりない社会や経済の考察から歴史学の構築に取り組んだ。画像は故郷チュニスに建てられた銅像。
草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。
アラー・ウッディーン・ハルジーハルジー朝の君主として、モンゴルを撃退し、南インドのヒンドゥー教国家を次々と服属させた。その統治は冷徹だが果断な人物であった。画像はメトロポリタン美術館にある挿絵の肖像画。
ワランガルの落日。14世紀前半のハルジー朝とトゥグルク朝の南征はインド南部のヒンドゥー教国家を圧倒した。カーカティーヤ朝もその一つで、繁栄を誇った都ワランガルは制圧され廃墟となった。画像はワランガル門(カーカティーヤ・カラ・トラナム)英語版とワランガルの要塞跡。
ヴィジャヤナガル王国の興隆。14世紀の半ばまでにこの王国の発展のもと南インドのヒンドゥー教は活気を取り戻した。画像はその都ヴィジャヤナガル(ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。
チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。画像はニューヨークルビン美術館英語版所蔵のツォンカパの肖像画。
元曲。元時代の中国では歌曲の一種である雑劇が盛んになり、この時代の名をとって「元曲」と呼ばれた。画像は泰定元年(1324年)に描かれた山西省洪洞県広勝寺水神廟明応王殿の「雑劇図」。
趙孟頫。中国絵画に新風を吹き込み元末四大家の先駆者となった趙孟頫だったが、宋朝の末裔であるにもかかわらず異民族の元朝に仕えたことは批判を浴びた。画像は趙孟頫「浴馬図(北京故宮博物院蔵)」の一部。
青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。
明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。

14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀

14世紀の歴史

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世界

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14世紀のユーラシア大陸では東アジアに発し中央アジアを経てヨーロッパにまで達したペスト大流行が起き、また19世紀半ばまで続くことになる小氷期がいよいよ本格化して寒冷化により農耕牧畜への大きな被害が出たため人口が大きく減少した。さらに、パクス・モンゴリカによる交易の広範な活性化により財貨の過剰流動性の制御が困難となり、また当時のユーラシア大陸全体に保有されていたの総量に従属する決済能力を超えて交易が拡大した結果、全世界的に経済活動が急激に縮小した。この事により歴史は新たな相へと向かう。

ヨーロッパではペストにより人口が大きく減少(詳細は後述)した後、イタリア・ルネサンスにより、新しい時代へと大きく転換した(イタリア・ルネサンス年表も参照のこと)。

13世紀にユーラシア大陸を覆っていたモンゴル帝国は弱体化し、アジア各地に明朝ティムール朝などモンゴル帝国の体制の影響を受けながらも地域的な新しい国家が誕生、モンゴル帝国の皇帝直轄政権たる大元ウルスは中央政府の権力闘争による混乱のもと、中国本土の内乱の中から台頭した明朝の脅威から逃れるため、大都を捨て北部モンゴル高原へ退去した(以後、北元と呼ばれる)。一方、13世紀末に成立したオスマン帝国も勢力を拡大した。これらの中規模帝国は、モンゴル帝国の統治下で普及した黒色火薬を用いた火砲大砲小銃)を軍制の中核に据える事で戦術の大規模な変貌を来して軍隊が急激に膨張、この巨大化した軍隊を扱う戦略の再編を経てやがて歴史学で火薬帝国と呼ばれる国家体制を成立させることとなる。

ペスト(黒死病)の大流行

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正確な統計はないが、全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになり、病原体の拡散の障壁が失われたことが、この大流行の背景にあると考えられている。

日本

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14世紀の日本は、時代区分上では中世鎌倉時代後期から室町時代の初期(南北朝時代の全期間を含む)にあたる。

鎌倉時代

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2度に渡る元寇を撃退し、得宗権力を強めた鎌倉北条政権であったが、武士たちに募る恩賞の不満や徳政令の発布、霜月騒動平禅門の乱などによる政治的混乱で政権への不満を招いていた。

南北朝時代・室町時代

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後醍醐天皇の討幕運動に足利尊氏新田義貞ら有力御家人が参入した結果鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる天皇親政を開始する。新政は天皇が中華皇帝的な専制統治を行う方向性を志向しており、唐突な改革による混乱と恩賞のあり方などが武士のみならず公家の不満を招き、離反した尊氏が京都室町幕府を開いて北朝を立て、吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝と対立する(南北朝時代)。

その後南朝の勢力は衰亡するが、尊氏と弟直義が対立する内紛(観応の擾乱)が起き、南朝は混乱に乗じて息を吹き返す。幕府内部での政治抗争は3代将軍足利義満の時代まで続き、抗争により有力守護大名が南朝に奔るといった状態が繰り返される。今川貞世が九州へ派遣されて平定を完了すると、室町幕府の権力は確立され、1392年に義満により南北朝の合一が行われる。これより前の1379年には室町幕府の政治事件「康暦の政変」も起こっており、以後義満は1391年に明徳の乱、1399年に応永の乱を自らの主導により誘発して対抗勢力を駆逐し、やがて天皇の権威にせまる将軍権力を確立する。

近隣諸国との関係・琉球の情勢

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元寇により日本と元朝の公式の通商は途絶えたが、天龍寺船などの寺社造営資金の調達のための貿易船(寺社造営料唐船)の派遣や、留学僧の渡来など、ある程度の交流は続いていた。14世紀の東アジアには倭寇と呼ばれる海上勢力が活動しており(14世紀の倭寇は「前期倭寇」と呼ばれる)、中国で1368年に成立した明王朝では、日本に倭寇鎮圧を求めており、この頃九州に割拠していた南朝勢力である懐良親王は明の使節を迎えて冊封を受ける。15世紀に入って足利義満が冊封を受けなおして「日本国王」となり、大陸との交流は絶頂を迎える。

一方、当時の朝鮮半島でも倭寇征伐が行われており、その過程で名声を得た李成桂高麗王朝を倒し李氏朝鮮が成立する。

琉球では中山・南山・北山の三山時代を迎えて、いずれも明王朝に朝貢をし、高麗にも使節を送っていた。三山のうち中山が勢力を拡大し、15世紀に琉球王国の成立にいたる。

できごと

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1300年代

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1310年代

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1320年代

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1330年代

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1340年代

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1350年代

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1360年代

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1370年代

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1380年代

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1390年代

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1400年代

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人物

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キリスト教世界

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ローマ教皇

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フランス・フランドル

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イタリア

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神聖ローマ帝国

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イングランド

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スコットランド

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東ローマ帝国

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東欧

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北欧

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イベリア半島

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イスラム世界

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南アジア・東南アジア

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東アジア

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元・明

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チベット

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高麗・朝鮮

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日本

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架空のできごと

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  • 14世紀 - 10年ぶりに十字軍から帰還した騎士アントニウス・ブロックが故国スウェーデンで見たものは、黒死病の恐怖に慄く民衆、正気を失った魔女狩り、零落した聖職者、そして必死に神を求める人々であった。絶望の淵で出会った死神は、騎士アントニウスにチェスを持ち掛ける。残酷な勝負の結果、アントニウスと彼らの仲間には「死の舞踏」が待ち受けていた(イングマール・ベルイマンの映画「第七の封印」)。
  • 1303年 - デリーを都とするハルジー朝の王アラー・ウッディーン・ハルジーは謀略によりメーワール王ラタン・シンを殺害した。残された王妃パドマーワティは、敵であるアラー・ウッディーンの恋慕をはねのけ、王国のあらゆる女性とともに覚悟を決めて死に赴く(マリク・ムハンマド・ジャーヤシーの叙事詩『パドマーワト』、映画「パドマーワト 女神の誕生」)。
  • 1307年 - ウィルヘルム・テル(ウィリアム・テル)が息子の頭上のリンゴを射抜き、余勢をかってハプスブルク家の代官ヘルマン・ゲスラーを倒し、スイス独立の端緒となる(スイスの伝説から発展し、ハンス・シュライバーによって書かれた『ザルネンの書』に最も古い言及が認められる)。
  • 1326年以降 - 鎌倉幕府の執権であった北条高時(相模入道)が田楽に興じていたところ「天王寺のやようれぼし(妖霊星)を見ばや」と歌う天狗たちに取り囲まれて前後不覚のまま翻弄される(『太平記』、河竹黙阿弥の歌舞伎狂言『北条九代名家功(高時)』)。
  • 1327年 - 北イタリアのカトリック修道院にて怪事件が連続して発生。その謎をバスカヴィルのウィリアムとその弟子のメルクのアドソが解き明かしていく(ウンベルト・エーコ薔薇の名前』)。
  • 1348年 - この年に大流行したペストから逃れるためフィレンツェ郊外に引きこもったパンフィロら男3人、パンピネアら女7人の計10人が退屈しのぎの話をする。ユーモアと艶笑に満ちた恋愛話や失敗談などを1日につき10人が10話ずつ語り、10日で全100話からなる物語なので『デカメロン(十日物語)』という(ジョヴァンニ・ボッカッチョ『デカメロン』)。
  • 1358年以降 - 多摩川矢口渡にて南朝の武将新田義興が謀殺される。残された義興の弟義岑は苦労を重ねるも兄を謀殺した頓兵衛と遭遇、卑劣な罠に嵌められあわやというその時、兄の義興が天皇から拝領した弓矢がどこからともなく飛んできて敵は倒され、新田義興の霊の声が響き渡る(平賀源内神霊矢口渡』)。
  • 1380年 - クリコヴォの戦いイリヤー・ムーロメツモスクワ大公国軍がママイ率いるジョチ・ウルス軍を打ち破るが、勝利した味方が慢心の言葉を発したため天の怒りにふれ、倒したはずの敵の死者たちが蘇り、圧倒的な強さで数を増して襲ってきた(イリヤー・ムーロメツの伝説)。
  • 1381年 - 19世紀に生きていた「私」は夢の中から過去の世界へさかのぼり、ワット・タイラーの反乱に出くわし、農民たちとの交遊を楽しみ、説教師ジョン・ボールの社会変革の思いに耳を傾ける(ウィリアム・モリス『ジョン・ボールの夢』)。
  • 1395年以前 - 足利義満が三代将軍であった時代、京の都の猿楽の一座に生まれた子、犬王はその異形の姿から周囲に疎まれ、顔を瓢箪の面によって隠されて育った。ある日、犬王は平家の呪いで盲目となった琵琶法師の少年友魚と出会い、ともにその生い立ちを超えて逆境の中から這い上がって行く(古川日出男『平家物語 犬王の巻』)。
  • 1397年以前 - グロスターシャー出身の貧しいディック・ウィッティントンが唯一の財産である猫を手放し貿易船で送ったところ、ネズミの害に苦しんでいたある国の王に莫大な金額で買い取られ、たちまち裕福となってロンドンの市長を三度も務める名士となった(「ディック・ウィッティントンと彼の猫」伝説。)
  • 14世紀末 - 百年戦争で結婚を約束していた恋人を失い、長らく独身を貫いてきたトゥールーズの資産家の女性クレマンス・イゾール英語版は南フランスの伝統である詩のコンクールを毎年開催するという条件でトゥールーズ市にすべての財産を遺贈した。これをもとに「花合戦団(Compagniedes Jeux Floraux)」が結成された(クレマンス・イゾールの伝説)。
  • 14世紀後半から15世紀初頭 - オスマン朝のムラト1世からバヤジット1世の時代にかけてトルコ人トリックスターナスレッディン・ホジャが活躍し、ティムールとの交流も挿話として残っている(『ナスレッディン・ホジャ物語』。12世紀の人物だという説や、架空人物説もあり)。

関連項目

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参考文献

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  • バーバラ・タックマン著 徳永守儀訳『遠い鏡英語版(A Distant Mirror: The Calamitous 14th Century)』朝日出版社、2013年。 ISBN 978-4255007397

外部リンク

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  • ウィキメディア・コモンズには、14世紀に関するカテゴリがあります。