14世紀
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千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 13世紀 - 14世紀 - 15世紀 |
十年紀: | 1300年代 1310年代 1320年代 1330年代 1340年代 1350年代 1360年代 1370年代 1380年代 1390年代 |
14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。
14世紀の歴史
[編集]世界
[編集]14世紀のユーラシア大陸では東アジアに発し中央アジアを経てヨーロッパにまで達したペストの大流行が起き、また19世紀半ばまで続くことになる小氷期がいよいよ本格化して寒冷化により農耕牧畜への大きな被害が出たため人口が大きく減少した。さらに、パクス・モンゴリカによる交易の広範な活性化により財貨の過剰流動性の制御が困難となり、また当時のユーラシア大陸全体に保有されていた銀の総量に従属する決済能力を超えて交易が拡大した結果、全世界的に経済活動が急激に縮小した。この事により歴史は新たな相へと向かう。
ヨーロッパではペストにより人口が大きく減少(詳細は後述)した後、イタリア・ルネサンスにより、新しい時代へと大きく転換した(イタリア・ルネサンス年表も参照のこと)。
13世紀にユーラシア大陸を覆っていたモンゴル帝国は弱体化し、アジア各地に明朝やティムール朝などモンゴル帝国の体制の影響を受けながらも地域的な新しい国家が誕生、モンゴル帝国の皇帝直轄政権たる大元ウルスは中央政府の権力闘争による混乱のもと、中国本土の内乱の中から台頭した明朝の脅威から逃れるため、大都を捨て北部モンゴル高原へ退去した(以後、北元と呼ばれる)。一方、13世紀末に成立したオスマン帝国も勢力を拡大した。これらの中規模帝国は、モンゴル帝国の統治下で普及した黒色火薬を用いた火砲(大砲や小銃)を軍制の中核に据える事で戦術の大規模な変貌を来して軍隊が急激に膨張、この巨大化した軍隊を扱う戦略の再編を経てやがて歴史学で火薬帝国と呼ばれる国家体制を成立させることとなる。
ペスト(黒死病)の大流行
[編集]正確な統計はないが、全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになり、病原体の拡散の障壁が失われたことが、この大流行の背景にあると考えられている。
日本
[編集]14世紀の日本は、時代区分上では中世、鎌倉時代後期から室町時代の初期(南北朝時代の全期間を含む)にあたる。
鎌倉時代
[編集]2度に渡る元寇を撃退し、得宗権力を強めた鎌倉北条政権であったが、武士たちに募る恩賞の不満や徳政令の発布、霜月騒動、平禅門の乱などによる政治的混乱で政権への不満を招いていた。
南北朝時代・室町時代
[編集]後醍醐天皇の討幕運動に足利尊氏・新田義貞ら有力御家人が参入した結果鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる天皇親政を開始する。新政は天皇が中華皇帝的な専制統治を行う方向性を志向しており、唐突な改革による混乱と恩賞のあり方などが武士のみならず公家の不満を招き、離反した尊氏が京都に室町幕府を開いて北朝を立て、吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝と対立する(南北朝時代)。
その後南朝の勢力は衰亡するが、尊氏と弟直義が対立する内紛(観応の擾乱)が起き、南朝は混乱に乗じて息を吹き返す。幕府内部での政治抗争は3代将軍足利義満の時代まで続き、抗争により有力守護大名が南朝に奔るといった状態が繰り返される。今川貞世が九州へ派遣されて平定を完了すると、室町幕府の権力は確立され、1392年に義満により南北朝の合一が行われる。これより前の1379年には室町幕府の政治事件「康暦の政変」も起こっており、以後義満は1391年に明徳の乱、1399年に応永の乱を自らの主導により誘発して対抗勢力を駆逐し、やがて天皇の権威にせまる将軍権力を確立する。
近隣諸国との関係・琉球の情勢
[編集]元寇により日本と元朝の公式の通商は途絶えたが、天龍寺船などの寺社造営資金の調達のための貿易船(寺社造営料唐船)の派遣や、留学僧の渡来など、ある程度の交流は続いていた。14世紀の東アジアには倭寇と呼ばれる海上勢力が活動しており(14世紀の倭寇は「前期倭寇」と呼ばれる)、中国で1368年に成立した明王朝では、日本に倭寇鎮圧を求めており、この頃九州に割拠していた南朝勢力である懐良親王は明の使節を迎えて冊封を受ける。15世紀に入って足利義満が冊封を受けなおして「日本国王」となり、大陸との交流は絶頂を迎える。
一方、当時の朝鮮半島でも倭寇征伐が行われており、その過程で名声を得た李成桂が高麗王朝を倒し李氏朝鮮が成立する。
琉球では中山・南山・北山の三山時代を迎えて、いずれも明王朝に朝貢をし、高麗にも使節を送っていた。三山のうち中山が勢力を拡大し、15世紀に琉球王国の成立にいたる。
できごと
[編集]1300年代
[編集]- 1300年 - 1350年頃
- 1301年
- 1302年
- 教皇ボニファティウス8世の回勅「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」。
- フランス王フィリップ4世による三部会の招集。
- ブリュージュの朝課事件と、続く金拍車の戦い(コルトレイクの戦い)でフランドルがフランスから独立。
- 1303年
- アナーニ事件。
- マージ・アル・サファーの戦いでマムルーク朝がイルハン朝のシリア進軍を阻止する。
- ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーがメーワール王国の都チットールガルを攻撃し滅亡させる。
- 1305年
- 1306年
- 1307年
- 1308年
- 神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世が甥ヨーハンに暗殺される。
- ハンガリー国王カーロイ1世が即位し、ハンガリー・アンジュー朝が成立。
- 後二条天皇が没し、第95代花園天皇が即位。
- 守邦親王が鎌倉幕府第9代将軍となる。
- ルーム・セルジューク朝滅亡。
- 1309年
1310年代
[編集]- 1310年
- パリ条約。神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア遠征( - 1313年)。
- 皇帝ハインリヒ7世の子ヨハンが故ボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカと結婚しボヘミア王に選ばれる。
- 1311年
- 1312年
- 北条煕時が鎌倉幕府第12代執権に就任。
- ハインリヒ7世がイタリア遠征途上のローマで神聖ローマ皇帝として戴冠される。
- ジェノヴァの航海者ランチェロット・マルチェロがカナリア諸島に到達。
- 1314年
- バノックバーンの戦いで、イングランド軍がスコットランド軍に大敗し支配権を喪失。
- フランスで「ネールの塔事件」が発覚する。国王フィリップ4世が死去。
- 1315年
- 1315年-1321年頃
- 1316年
- 北条高時が鎌倉幕府第14代執権に就任。
- 1317年
- 鎌倉幕府が持明院・大覚寺両統の迭立を提案するが不調に終わる(文保の和談)。
- アヴィニョン教皇ヨハネス22世が回勅「クォルムダム・エクスィギト」により清貧論争を激化させる。
- アヴィニョン教皇ヨハネス22世が回勅「スポンデント・パリテル」により錬金術を禁止。
- ジャック・フルニエ(後の教皇ベネディクトゥス12世)が南フランスのパミエ司教に就任する。
- この時の異端審問の記録がエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリの歴史書『モンタイユー』のもととなる。
- 1318年
- 花園天皇が譲位し、第96代後醍醐天皇が即位。
- イル・ハン国宰相であったラシードゥッディーンが処刑される。
- マルセイユにおいて教皇と総長に不服従を示したフランシスコ会厳格派(スピリトゥアル派)の修道士が処刑される。
- 1319年
1320年代
[編集]- 1320年
- デリーでトゥグルク朝が成立。
- 1320年の羊飼い十字軍。
- スコットランドでアーブロース宣言を採択、イングランドからの独立が決定的に。
- 1321年
- ダンテ・アリギエーリが『神曲』を完成させ、この年に死去してラヴェンナに葬られる。
- 東ローマ皇帝アンドロニコス2世に対し孫のアンドロニコスが反乱を起こす。
- 1322年
- ミュールドルフの戦いで、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世がハプスブルク家のフリードリヒ美王に勝利。
- 安藤氏の内紛から津軽大乱が発生。
- 1323年
- 1323年頃
- 元から日本へ向かう東福寺造営料唐船が現在の韓国全羅南道新安郡沖で沈没。
- ウィリアム・オッカムが『論理学大全(Summa Logicae)』を執筆。
- 1324年
- 1325年
- イブン・バットゥータのメッカ巡礼、以後30年にわたる大旅行の始まり。
- アステカ人がテスココ湖の島に都市テノチティトランを築く。
- パリ司教エティエンヌ・タンピエの神学の異端的教説に関する布告が撤回される。
- 正中の宗論にて、大徳寺の宗峰妙超が南都北嶺の学僧に勝利。
- 藤沢の清浄光寺が創建される。
- 1326年
- 嘉暦の騒動。
- チャガタイ・ハン国の東西分裂。
- ウィリアム・オッカムが異端宣告を受ける。
- 1327年
- 王妃イザベラによりイングランド王エドワード2世が廃位され、息子エドワード3世が即位。
- ジェーラムの戦いで、ムハンマド・ビン・トゥグルクがチャガタイ・ハン国を撃破。
- ジョチ・ウルスに対するトヴェリ蜂起。
- パドヴァのマルシリウスが破門される。
- ウルムのツンフト闘争。
- 1328年
- 1329年
- マイスター・エックハルトの著作と教説が異端宣告される。
1330年代
[編集]- 1330年
- イングランド王エドワード3世が母后イザベラとマーチ伯を失脚させる。
- 1330年頃
- 1331年
- 1332年
- 1333年
- 1334年
- 1335年
- 北条時行が中先代の乱を起す。足利直義が鎌倉脱出の際に護良親王を殺害。
- ハンガリー王カーロイ1世、ポーランド王カジミェシュ3世、ボヘミア王ヨハンによるヴィシェグラード会議。
- アヴィニョン教皇宮殿が建設される( - 1364年)。
- イルハン朝のアブー・サイードが暗殺され、フレグ王統は断絶。
- 1336年
- 1337年
- 1338年
- 1339年
1340年代
[編集]- 1340年
- サラードの戦いにて、カスティーリャ軍が勝利し、マリーン朝はイベリア半島から撤退。
- スロイスの海戦で、イングランド軍がフランス軍に勝利し、制海権を握る。
- イルハン朝のジハーン・テムルを廃し、タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグがジャライル朝を建国。
- ハールィチ・ヴォルィーニ戦争始まる( - 1392年)。
- 妙法院焼き討ち事件で佐々木道誉が上総に配流される。
- 1341年
- 塩冶高貞が高師直の讒言により討たれる。
- ブルターニュ継承戦争( - 1365年)。
- 東ローマ帝位継承戦争(1341 - 1347年)
- ヨハネス5世パレオロゴスとヨハネス6世カンタクゼノスの帝位争い。
- この混乱で帝国はバルカン半島の領土の多くを喪失し、小国家へと転落。
- 1342年
- 花園法皇が関山慧玄を開山に迎え妙心寺が創建される。
- 東ローマ帝国の都市テッサロニキでゼーロータイ(熱心党)の反乱が起こる( - 1350年)。
- 1343年
- 1344年
- 1345年
- 1346年
- クレシーの戦い。
- ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが「セルビア人とローマ人の皇帝」となる。
- オスマン朝のオルハンが東ローマ皇帝ヨハネス6世の娘テオドラ(オルハンの妻)を妻に迎える。
- デンマーク王ヴァルデマー4世がエストニアをドイツ騎士団に売却する。
- 1347年
- 1348年
- 1349年
1350年代
[編集]- 1350年
- 1351年
- 紅巾の乱。
- 高師直らが族滅され、尊氏と直義の対立が激化。正平の一統により北朝の崇光天皇が廃位される。
- 東ローマ皇帝ヨハネス6世カンタクゼノス主催の教会会議で静寂主義(ヘシュカスム)の教義が勝利する。
- 1352年
- 1353年
- 1354年
- 1355年
- ヴェネツィア元首(ドージェ)マリーノ・ファリエロのクーデターが失敗に終わる
- 1356年
- 1357年
- ポルトガル国王ペドロ1世の即位。惨殺された愛妾イネス・デ・カストロを王妃として復権させる。
- 1358年
- 1359年
1360年代
[編集]- 1360年
- 1361年
- 1362年
- デンマークとハンザ同盟との戦争が始まる( - 1370年)。
- 1363年
- 1364年
- アヴィニョン教皇宮殿が完成する(1335年 - )。
- ポーランド最古のクラクフ大学(ヤギェウォ大学)が創建される。
- 1365年
- 1366年
- 1367年
- 1368年
- 1369年
1370年代
[編集]- 1370年
- 1371年
- 1372年
- 1373年
- 1375年
- 1375年頃
- 1376年
- 1377年
- イングランドで「悪政議会」が招集される。エドワード3世が死去し、孫のリチャード2世が国王に即位。
- ヴェネツィアで世界最初の「海上検疫」が行われる。
- 教皇グレゴリウス11世がアヴィニョンからローマに帰還。
- イブン・ハルドゥーンが『助言書』の第一部「歴史序説(ムカディマ)」を執筆。
- ジャワ島中東部のマジャパヒト王国がスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国を征服する。
- 1378年
- 1379年
1380年代
[編集]- 1380年
- 1381年
- 1382年
- 明で錦衣衛が創設される。
- 足利義満により相国寺が創建される。北朝第6代後小松天皇が即位する。
- ポーランドのチェンストホヴァのヤスナ・グラ修道院に「黒い聖母」が納められる。
- ウエストミンスター大聖堂で、イギリス王リチャード2世と神聖ローマ皇女アンの成婚が行われる。
- ナポリ女王ジョヴァンナ1世が暗殺され、アンジュー家傍流のカルロ3世が即位。
- ハーッジー2世を廃位したバルクークがマムルーク朝の君主となる(バフリー・マムルーク朝からブルジー・マムルーク朝へ)。
- 1383年
- 長慶天皇が譲位し、第99代後亀山天皇が即位。
- 1385年
- 1386年
- 1388年
- 1389年
1390年代
[編集]- 1390年
- 1391年
- 1392年
- 1393年
- オスマン帝国のタルノヴォ征服により第二次ブルガリア帝国が滅亡する。
- フランスで「燃える人の舞踏会」事件。
- 藍玉の獄。
- 1394年
- 1395年
- ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが神聖ローマ皇帝ヴェンツェルからミラノ公の称号を授かる(ミラノ公国の成立)。
- テレク河の戦いで、ティムールがジョチ・ウルスのトクタミシュに勝利、ティムールはジョチ・ウルスの都サライを破壊。
- 1396年
- ニコポリスの戦いで、オスマン帝国がキリスト教諸国同盟軍を撃破する。
- 1397年
- 1398年
- 1399年
1400年代
[編集]人物
[編集]キリスト教世界
[編集]ローマ教皇
[編集]- ボニファティウス8世(1235年 - 1303年) - ローマ教皇(在位1294年 - 1303年)・フランス王と争いアナーニ事件後に憤死
- クレメンス5世(1264年 - 1314年) - ローマ教皇(在位1305年 - 1314年)・教皇庁をアヴィニョンに移転する
- ヨハネス22世(1244年? - 1334年) - ローマ教皇(在位1316年 - 1334年)・清貧論争や聖職禄問題に介入
- ベネディクトゥス12世(1285年 - 1342年) - ローマ教皇(在位1334年 - 1342年)・異端審問官としても業績を残す・教皇宮殿建設に着手
- ウルバヌス6世(1318年 - 1389年) - ローマ教皇(在位1378年 - 1389年)・教会大分裂のローマ派初代
- クレメンス7世(1342年 - 1394年) - ローマ教皇(対立教皇)(在位1378年 - 1394年)・教会大分裂のアヴィニョン派初代
フランス・フランドル
[編集]- マルグリット・ポレート(? - 1310年) - 神秘思想家・ベギン会の女性・自由心霊派に属し異端者としてパリで火刑に処される・主著は『純粋な魂の鏡』
- ジャック・ド・モレー(1244年? - 1314年) - テンプル騎士団の最後の総長・ヴィエンヌ公会議の決定で処刑される
- ギヨーム・ド・ノガレ(1260年 - 1313年) - フランス王フィリップ4世の政治顧問・法曹家・アナーニ事件や教皇庁アヴィニヨン移転で活躍
- ベルナール・ギー(1261年/1262年 - 1331年) - フランスのドミニコ会士・異端審問官・『異端審問の実務』の他に多くの教会文書を編纂
- フィリップ4世(端麗王)(1268年 - 1314年) - フランス王(在位1285年 - 1314年)・三部会を招集・アナーニ事件では教皇権を抑える
- ゲルソニデス(1288年 - 1344年) - フランスのユダヤ人思想家・マイモニデスを継承した理性主義を提唱・主著は『主の戦い』
- ヤコブ・ヴァン・アルテベルデ(1290年頃 - 1345年) - フランドル都市連合の指導者・百年戦争初期に親仏派のフランドル伯を追放しイギリスに接近
- フィリップ6世(1293年 - 1350年) - ヴァロワ朝初代のフランス王(在位1328年 - 1350年)・百年戦争ではクレシーの戦いで敗北
- ヤン・ヴァン・ルースブルック(1293年 - 1381年) - フランドルの修道士・神秘主義者・『霊的婚姻』『燦めく石』『最高の真理について』がある
- ジャン・ビュリダン(1295年頃 - 1358年) - フランスの聖職者・哲学者として「インペトゥス理論」を展開・「ビュリダンのロバ」でも有名
- ギー・ド・ショーリアック(1298年 - 1368年) - フランスの外科医・アヴィニョン教皇歴代の侍医で黒死病に遭遇する・『大外科書』を著した
- ギヨーム・ド・マショー(1300年頃 - 1377年) - フランスのアルス・ノーヴァの作曲家・詩人・「ノートルダム・ミサ曲」が有名
- エティエンヌ・マルセル(1315年 - 1358年) - パリ市長・王太子シャルルと対立し百年戦争の間にパリを支配・ジャックリーの乱とも合流
- ギョーム・カルル(? - 1358年) - フランスの農民・ジャックリーの乱の指導者・ナバラ王シャルルに敗れ処刑される
- ベルトラン・デュ・ゲクラン(1320年 - 1380年) - フランスの軍人・国王シャルル5世に仕え百年戦争初期に活躍・フランスの劣勢を挽回
- ニコル・オレーム(1323年 - 1382年) - フランスの聖職者・科学者として『天体地体論』を執筆・国王側近として貨幣改革の理論家として活躍
- ニコラ・フラメル(1330年 - 1418年) - パリの出版業者・錬金術師として「賢者の石」を発見したとされ『象形寓意の図』の作者に仮託される
- ジャン・フロワサール(1337年頃 - 1405年頃) - フランドル出身の年代記作家・『年代記』は百年戦争前半における重要な史料
- シャルル5世(賢明王)(1338年 - 1380年) - ヴァロワ朝のフランス王(在位1364年 - 1380年)・ブレティニ・カレー条約で領土奪回
- フィリップ2世(豪胆公)(1342年 - 1404年) - ヴァロワ家の初代ブルゴーニュ公(在位1363年 - 1404年)・婚姻によりフランドルを継承
- ロクス(1348年 - 1376年(1295年 - 1327年説もあり)) - フランス南部モンペリエ出身の信仰者・黒死病に対する守護聖人として崇敬される
イタリア
[編集]- ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ(1246年 - 1328年) - イタリア生まれの宣教師・インドを経て中国で宣教を行い大都大司教となる
- ディーノ・コンパーニ(1255年 - 1324年) - フィレンツェの政治家・商人・年代記作者として黒派と白派の対立を描く『年代記』を執筆
- アバノのピエトロ(1257年頃 - 1315年頃) - パドヴァ大学医学部教授・哲学者・占星術師・異端者の疑いをかけられ獄死する
- ダンテ・アリギエーリ(1265年 - 1321年) - フィレンツェの政治家・哲学者・詩人・『神曲』や『新生』のほか『俗語論』も執筆
- ジョット・ディ・ボンドーネ(1267年頃 - 1337年) - フィレンツェのゴシック期の画家・彫刻家・建築家・ルネサンスの先駆者とされる
- チェゼーナのミカエル(1270年頃 - 1342年) - フランシスコ会総長・修道会の福音的清貧をめぐって教皇ヨハネス22世と争う
- パドヴァのマルシリウス(1275年/1280年/1290年 - 1342年/1343年) - イタリアの哲学者・神学者・『平和の擁護者』の著者
- ジョヴァンニ・ヴィッラーニ(1276年/1280年 - 1348年) - フィレンツェの銀行家・歴史家・『新年代記』で同時代の経済発展と危機を記録
- カストルッチョ・カストラカーニ(1281年 - 1328年) - ルッカの傭兵隊長・トスカナ地方の覇権を握る・マキャヴェッリの『カストルッチョ伝』でも有名
- シモーネ・マルティーニ(1284年頃 - 1344年) - シエナのゴシック期の画家・アヴィニョンでも活躍し国際ゴシックの先駆者とされる
- マリーノ・ファリエロ (1285年 - 1355年) - ヴェネツィアの元首・世襲君主になる政変を起こすが失敗し処刑される
- ポルデノーネのオドリコ(1286年 - 1331年) - イタリア出身のフランシスコ会士・インドから中国まで歴訪し『東洋旅行記』を残す
- ジョヴァンニ・デ・マリニョーリ(1290年? - 1357年) - イタリア出身のフランシスコ会士・宣教師として元朝に赴き順帝に会見
- シモン・ボッカネグラ(? - 1363年) - ジェノヴァ初代総督・平民派政権を樹立するが毒殺される・オペラの主人公としても有名
- フランチェスコ・ペトラルカ(1304年 - 1374年) - イタリアの人文主義者・古典学者・桂冠詩人・『アフリカ』『凱旋』の著者
- ジル・デ・アルボルノス(1310年 - 1367年) - スペイン出身の枢機卿・アヴィニョン教皇に従いイタリア各地の僭主を平定し教皇領を回復
- ジョバンニ・ボッカチオ(1313年 - 1375年) - フィレンツェの古典学者・作家・ペストの時代を活写した『デカメロン』がある
- コーラ・ディ・リエンツォ(1313年? - 1354年) - ローマの政治家・護民官を名乗り教皇不在のローマ復興を唱えるが処刑される
- ジョン・ホークウッド(1320年 - 1394年) - イングランド出身の傭兵隊長・百年戦争に参加したのちにイタリア諸都市の抗争に介入
- フランチェスコ・ランディーニ(1325年 - 1397年) - イタリアの作曲家・詩人・盲目ではあったが「トレチェント音楽」を大成・「春は来たりぬ」他がある
- コルッチョ・サルターティ(1331年 - 1406年) - フィレンツェの政治家(書記官長)・人文主義者・古典復興を行い『専制君主論』を執筆
- フランコ・サッケッティ(1335年頃 - 1400年頃) - フィレンツェの商人・物語作家・『三百小話集(Trecent novelle)』を執筆
- フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ(1335年頃 - 1410年) - プラートの商人・15万通にも及ぶ「ダティーニ文書」を残す
- バルダッサーレ・ボナイウティ(1336年 - 1385年) - フィレンツェの政治家・歴史家・著作『フィレンツェ年代記』では黒死病の状況を記録
- ミケーレ・ディ・ランド(1343年頃 - 1401年) - フィレンツェの政治家(正義の旗手)・梳毛工によるチョンピの乱を指揮
- シエナのカタリナ(1347年 - 1380年) - ドミニコ会第三会員の在俗修道女・教皇のアヴィニョンからローマへの帰還を促す・後に列聖
- ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351年 - 1402年) - ヴィスコンティ家の初代ミラノ公(在位1395年 - 1402年)
神聖ローマ帝国
[編集]- マイスター・エックハルト(1260年頃 - 1328年頃) - ドイツの神学者・神秘主義者・異端宣告を受ける・著作に『神の慰めの書』など
- ハインリヒ7世(1275年 - 1313年) - ルクセンブルク朝の神聖ローマ皇帝(在位1308年 - 1313年)・イタリア遠征を敢行し詩人ダンテに称賛される
- ルートヴィヒ4世(1282年 - 1347年) - ヴィッテルスバッハ朝の神聖ローマ皇帝(在位1314年 - 1347年)・レンゼ選帝侯会議を開催
- ハインリヒ・ゾイゼ(1295年頃 - 1366年) - ドイツのドミニコ会士・神秘主義者・キリストの受難の観想を勧め苦行を実践・説教者としても活躍
- ヨハネス・タウラー(1300年 - 1361年) - ドイツのドミニコ会士・神秘主義者・日常生活での魂の救済を掲げた「神の友」の運動を推進する
- ヨハネス・ハドラウブ(13世紀末 - 1340年) - ドイツの詩人・ミンネザンガー・中世盛期の宮廷詩人選集『マネッセ写本』の編者と目される
- カール4世(1316年 - 1378年) - ルクセンブルク朝の神聖ローマ皇帝(在位1355年 - 1378年)・「金印勅書」を発布し七選帝侯を定める
- ルドルフ4世(建設公)(1339年 - 1365年) - ハプスブルク家のオーストリア公・「大公」の詐称やウィーンの整備で有名
- ティル・オイレンシュピーゲル(1300年? - 1350年?) - ドイツのクナイトリンゲン出身のトリックスター・民衆本の伝説で有名
イングランド
[編集]- オッカムのウィリアム(1285年 - 1347年) - イングランドのフランシスコ会士・後期スコラ学(唯名論)の神学者・哲学者
- ハンポールのリチャード・ロール(1300年頃 - 1349年) - イングランドの隠修士・神秘家・著作に『愛の炎』『生のかたち』がある
- ブロムヤードのジョン(? - 1352年頃) - イングランドのドミニコ会士・書物の収集と編纂に優れ『説教大全』を著す
- エドワード3世(1312年 - 1377年) - イングランド王(在位1327年 - 1377年)・百年戦争を引き起こす・別名は「羊毛商人王」
- ジョン・ウィクリフ(1320年頃 - 1384年) - オックスフォード大学教授・その教説からロラード派が展開し宗教改革の先駆者となる
- エドワード黒太子(1330年 - 1376年) - イングランドのエドワード3世の王太子・クレシーの戦いやポワティエの戦いで勝利
- ウィリアム・ラングランド (1332年 – 1386年頃) - イングランドの詩人・社会風刺を含んだ宗教詩『農夫ピアズの夢』を執筆
- ワット・タイラー(? - 1381年) - イングランドの農民・ワット・タイラーの乱の指導者・ロンドン市長により暗殺される
- ジョン・ボール(1338年頃 - 1381年) - イングランドの司祭・ウィクリフの影響を受けワット・タイラーの乱では精神的指導者となる
- ウォルター・ヒルトン(1340年/1345年 - 1396年) - イングランドの神秘主義者・著作に『完徳の階梯』『天使の歌』がある
- ジェフリー・チョーサー(1343年頃 - 1400年) - イングランドの詩人・巡礼途上の様々な人々が語らう『カンタベリー物語』を執筆
- ノリッジのジュリアン(1342年 - 1413年?) - イングランドの女性神秘家の系統・幻視による著作『神の愛の十六の啓示』が有名
- ジョン・マンデヴィル(生没年不詳) - イングランドの著作家・幻想と奇談で知られる『東方旅行記』を書く・架空人物説もある
スコットランド
[編集]- ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266年? - 1308年) - スコットランドのフランシスコ会士・後期スコラ学(実在論)の神学者・精妙博士
- ウィリアム・ウォレス(1272年頃 - 1305年) - スコットランドの愛国者・イングランドによるスコットランド支配に抵抗
- ロバート1世(1274年 - 1329年) - スコットランド国王(在位1306年 - 1329年)・独立戦争に勝利・アーブロース宣言を採択
東ローマ帝国
[編集]- テオドロス・メトキテス(1270年 - 1332年) - 東ローマ帝国宰相・パレオロゴス時代の建築を代表するコーラ修道院の増改築を行う
- ヨハネス・ククゼレス(1280年頃 - 1360年) - 東ローマ帝国の音楽家・カロフォニーと呼ばれる詠唱法を大成・「光栄讃詞」などの作品がある
- カラブリアのバルラアム(1290年頃 - 1348年) - 南イタリアのギリシア人神学者・静寂主義論争では反対派の中心となり後年はカトリックに改宗
- ヨハネス6世カンタクゼノス(1295年 - 1383年) - 東ローマ皇帝(在位1347年 - 1354年)・帝位継承争いで国土を消耗・『歴史』を残す
- グレゴリオス・パラマス(1296年 - 1359年) - アトス山の修道士・テサロニケ大主教・神学者として静寂主義(ヘシカズム)を提唱
- メテオラのアタナシオス(1305年 - 1380年) - メテオラの修道士・メガロ・メテオロン(メタモルフォシス)修道院を建立・ヨアサフは弟子
- ニコラオス・カバシラス(1319年/1323年頃 - 1391年後) - 東ローマ帝国の神学者・静寂主義を擁護・『聖体礼儀の注解』を執筆
- コンスタンティノス・ハルメノプロス(1320年 - 1383年) - 東ローマ帝国の法学者・ヨハネス6世の顧問・『ヘクサビブロス(六選集)』を執筆
- キュドネス・デメトリオス(1324年頃 - 1397年/1398年) - 東ローマ帝国の神学者・教会合同でラテン語を学びトマス神学を紹介・静寂主義と対立
- マヌエル・クリュソロラス(1350年 - 1415年) - 東ローマ帝国の人文主義者・フィレンツェに招かれサルターティらにギリシア語を教授する
- マヌエル2世パレオロゴス(1350年 - 1425年) - 東ローマ皇帝(在位1391年 - 1425年)・西欧諸国に救援依頼・文人皇帝でもある
東欧
[編集]- モスクワのピョートル(? - 1326年) - キエフと全ルーシの府主教・府主教座をモスクワに遷す・モスクワ大公にウスペンスキー聖堂建設も進言
- ゲディミナス(1275年 - 1341年) - リトアニア大公国の君主(在位1316年 - 1341年)・キリスト教化に苦慮しつつ東方に領土拡大
- イヴァン1世(カリター)(1288年 - 1340年) - モスクワ大公(在位1325年 - 1340年)・モンゴルの徴税制度を利用しモスクワの支配を拡大
- アレクセイ(モスクワ府主教)(1293年 - 1378年) - モスクワ府主教・モンゴル人との折衝を行い幼帝ドミートリーを補佐・「全ロシアの奇跡者」
- ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン(1308年 - 1355年) - ネマニッチ朝のセルビア帝国の君主(在位1346年 - 1355年)・バルカン半島に覇を唱える
- カジミェシュ3世(大王)(1310年 - 1370年) - ピャスト朝のポーランド王(在位1333年 - 1370年)・ウクライナに領土拡大
- ラヨシュ1世(大王)(1326年 - 1382年) - アンジュー朝のハンガリー王(在位1342年 - 1382年)、ポーランド王(在位1370年 - 1382年)
- ペルミのステファン(1340年 - 1396年) - ペルミの主教・フィン・ウゴル系コミ人への宣教を進める・イコン制作者としても有名
- ドミートリー・ドンスコイ(1350年 - 1389年) - 第4代モスクワ大公(在位1359年 - 1389年)・クリコヴォの戦いでモンゴル人に勝利
- ラドネジのセルギイ(1321年/1322年頃 - 1392年) - ロシアの修道士・至聖三者聖セルギイ大修道院の創設者
- ヴワディスワフ2世(1351年 - 1434年) - ヤギェウォ朝創始者(ポーランド王位1386年 - 1434年、リトアニア大公位1377年 - 1401年)
北欧
[編集]- ビルギッタ(1303年 - 1373年) - スウェーデンの修道女・ビルギッタ会をまとめヴァドステーナ修道院を建設・晩年はローマに定住
- マルグレーテ1世(1353年 - 1412年) - 北欧連合王国の事実上の支配者(1397年 - 1412年)・カルマル同盟を締結
イベリア半島
[編集]- イネス・デ・カストロ(1325年 - 1355年) - ポルトガル王ペドロ1世の愛妾・婚姻問題に絡み悲劇的な死を迎えるが死後に王妃として復権
- ペドロ1世(残酷王)(1334年 - 1369年) - カスティーリャ国王(在位1350年 - 1369年)・庶兄のエンリケ2世に殺害される
- エンリケ2世(恩寵王)(1333年 - 1379年) - カスティーリャ国王(在位1369年 - 1379年)・ペドロ1世を倒しトラスタマラ朝を興す
- ジョアン1世(大王)(1357年 - 1433年) - アヴィス朝の創始者・ポルトガル王(在位1385年 - 1433年)・アルジュバロータの戦いに勝利
- ライムンドゥス・ルルス(1232年 - 1315年) - マジョルカ島出身のフランシスコ会士・文字結合術のアルス・マグナを理論化する
- ビセンテ・フェレール(1350年 - 1419年) - バレンシア出身のドミニコ会士・教会大分裂ではアヴィニョン派を支持・カスペの妥協でも活躍
イスラム世界
[編集]- ドゥア(? - 1307年頃)- チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)の君主(在位1283年 - 1307年)・最盛期の君主
- ラシードゥッディーン(1249年 - 1318年) - イル・ハン国の政治家・ガザンとオルジェイトゥに仕える・歴史家として『集史』を編纂
- サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリー(1252年 - 1334年) - ペルシアのサファヴィー教団教主・サファヴィー朝の遠祖
- オスマン1世(1258年 - 1326年) - オスマン朝の初代スルタン(在位1299年 - 1326年)・コユンヒサルの戦いで東ローマ帝国に勝利
- イブン・アッティクタカー(1262年頃 - ?) - イラクのシーア派指導者・帝王学の書『アルファフリー』を残す
- ワッサーフ(生没年不詳) - イル・ハン国の歴史家・『世界征服者の歴史』の続編『領土の分割と年月の推移(ワッサーフ史)』を執筆
- アラー・ウッディーン・ハルジー(1266年? - 1316年) - ハルジー朝の第3代スルターン(在位1296年 - 1316年)・最大領土を実現
- マリク・カーフール(? - 1316年) - ハルジー朝の宰相・宦官・アラーウッディーンの下で南インド諸王朝を制圧・新王擁立に際し暗殺される
- アブー・アル・フィダー(1273年 -1331年) - マムルーク朝の政治家・アイユーブ家の末裔・歴史家として『人類史綱要』『諸国の秩序』がある
- アウハディー・マラーギー(1274年頃 - 1338年) - イスファハーン出身のスーフィー詩人・代表作は『ジャムの酒杯』・マラーゲに墓廟がある
- マンサ・ムーサ(カンカン・ムーサ)(? - 1337年?) - マリ帝国の第10代君主(マンサ)(在位1312年 - 1337年)・壮麗なメッカ巡礼で有名
- ハーッジー・ベクターシュ(? - 1337年頃) - トルコの神秘主義者・神秘主義教団を形成し後にイェニチェリの信仰にも影響を与える
- ギャースッディーン・トゥグルク(? - 1325年) - トゥグルク朝の初代スルタン(在位1320年 - 1325年)
- ヌワイリー(1279年 - 1332年) - マムルーク朝に仕えた官僚・歴史や地誌を含んだ百科全書的な著作『究極の目的』を執筆
- ハージュー・ケルマーニー(1280年 - 1352年) - ペルシャの詩人・ペルシャの「四大詩人」の一人
- オルジェイトゥ(1281年 - 1316年) - イル・ハン国の第8代君主(在位1304年 - 1316年)・ソルターニーイェに遷都
- ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー(1281年 - 1349年) - イル・ハン国の歴史家・散文史『選史』や韻文史『勝利の書』を執筆
- ナースィル・ムハンマド(1285年 - 1341年) - マムルーク朝の第10・13・15代スルタン(在位1293年 - 1341年まで断続的)
- ウズベク・ハン(? - 1340年) - ジョチ・ウルスの第10代君主(在位1312年 - 1342年)・最盛期の君主
- ケベク(? - 1326年)- チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)の君主(在位1320年 - 1326年)・その死後に国が東西分裂
- ムハンマド・ビン・トゥグルク(? - 1351年) - トゥグルク朝の君主(在位1325年 - 1351年)・度重なる遠征をおこない、首都を一時的にダウラターバードに遷都。「天才か狂人か」と評される
- イブン・バットゥータ(1304年頃 - 1368年頃) - モロッコ生まれの旅行家・マリーン朝のスルターンに依頼され『三大陸周遊記』を執筆
- イブン・アル=ハティーブ(1313年 - 1375年) - ナスル朝の政治家(宰相)・詩人・歴史家としては『グラナダ史』を残す
- ママイ(? - 1380年) - ジョチ・ウルスの政治家・クリコヴォの戦いでモスクワ公国に敗北
- ムラト1世(1319年/1326年 - 1389年) - オスマン朝の第3代スルタン(在位1359年 - 1389年)・コソヴォの戦いで勝利
- ハーフェズ(1325年 - 1389年) - ペルシャの詩人・ペルシャの「四大詩人」の一人・出身地シーラーズには「ハーフェズ廟」が残る
- イブン・ハルドゥーン(1332年 - 1406年) - チュニス生まれの政治家・歴史家として『歴史序説』の著者
- ティムール(1336年 - 1405年) - 中央アジアの征服者でティムール朝の建設者(在位1370年 - 1405年)
- トクタミシュ(? - 1406年) - ジョチ・ウルスの君主(在位1378年 - 1395年)・ジョチ・ウルスを再統一
- バヤズィト1世(1360年 - 1403年) - オスマン朝の第4代スルタン(在位1389年 - 1402年)・ニコポリスの戦いで勝利
- バルクーク(1366年 - 1399年) - マムルーク朝のスルタン(在位1382年 - 1399年まで断続的)・バフリー系からブルジー系へ
- マンスール・イブン・イリヤス(14世紀末 - 15世紀初頭) - ペルシアの解剖学者・神経系や循環器系の画像を伴う『人体解剖書』を執筆
南アジア・東南アジア
[編集]- ハリハラ1世(? - 1356年) - 南インドのヴィジャヤナガル王国サンガマ朝の初代国王(在位1336年 - 1356年)
- ガジャ・マダ(?- 1364年) - ジャワ島のマジャパヒト朝の宰相・トリブワナー女王からハヤム・ウルク王を補佐し王国の全盛期を築く
- ラーマーティボーディー1世(1314年? - 1369年) - タイのアユタヤ朝の初代国王(在位1351年 - 1369年)・アユタヤを都とする
東アジア
[編集]元・明
[編集]- 中峰明本(1263年 - 1323年) - 元の禅僧(智覚禅師)・各地を遊方行脚・趙孟頫との交友で「与中峰明本尺牘」が残る
- テムル(1265年 - 1307年) - 元の第2代皇帝(成宗)(在位1294年 - 1307年)・カイドゥの乱を鎮圧し西方ハン国と和平を結ぶ
- 黄公望(1269年 - 1354年) - 元の水墨画家・元末四大家の一人・「富春山居図」が代表作で画論『写山水訣』もある
- 呉鎮(1280年 - 1354年) - 元の水墨画家・元末四大家の一人・孤高清貧の生涯を送る・代表作に「洞庭漁隠図」がある
- アユルバルワダ(1285年 - 1320年) - 元の第4代皇帝(仁宗)(在位1311年 - 1320年)・廃止されていた科挙を復活
- 康里巎巎(1295年 - 1345年) - 元の色目人の官僚・書家として「李白詩巻」がある
- 楊維楨(1296年 - 1370年) - 元の官僚・詩人として『東維子集』がある
- 倪瓚(1301年 - 1374年) - 元の水墨画家・元末四大家の一人・各地を放浪し「漁荘秋霽図」などの作品を残す
- 高則誠(1305年 - 1359年) - 元の劇作家・夫婦の再会と情愛を描いた元曲「琵琶記」の作者
- 王蒙(1308年 - 1385年) - 元の水墨画家・元末四大家の一人・官吏でもあったが胡惟庸の獄に連座し獄死・「青卞隠居図」がある
- 薩都剌(1308年 - ?) - 元のモンゴル系イスラム教徒の官吏・詩人として『雁門集』がある
- 宋濂(1310年 - 1381年) - 元末明初の政治家・儒学者・明の礼楽制度を整備・『元史』の編者・方孝孺の師
- 劉基(劉伯温)(1311年 - 1375年) - 元末明初の軍人・政治家・詩人・軍師として小説や講談の主役として名高い
- 汪大淵(1311年 - ?) - 元の航海家・泉州からインド洋沿岸各国を訪れて『島夷志略』を著す
- トクト(1314年 - 1355年) - 元の宰相・『宋史』など歴史書の編纂や黄河の治水に尽力・紅巾の乱の鎮圧中に殺害される
- 李善長(1314年 - 1390年) - 明初の政治家(左丞相)・明の行政財政の基礎をなす・胡惟庸の獄に連座して誅殺される
- トゴン・テムル(1320年 - 1370年) - 元の最後の皇帝(順帝)(在位1333年 - 1370年)・大都を捨て北元の初代となる
- 韓山童(? - 1351年) - 元末の反乱指導者・白蓮教を組織し紅巾の乱を引き起こす
- 韓林児(? - 1366年) - 元末の反乱指導者・韓山童の子・宋朝の復興を唱える
- 方国珍(1319年 - 1374年) - 元末の群雄・塩の密売人から浙江で海賊と結んで自立・朱元璋と敵対するが屈服
- 陳友諒(1320年 - 1363年) - 元末の群雄・紅巾の乱から湖北を根拠地として自立・鄱陽湖の戦いで朱元璋に敗北
- 張士誠(1321年 - 1367年) - 元末の群雄・塩の密売人から蘇州を根拠地として自立・朱元璋に敗北する
- 朱元璋(1328年 - 1398年) - 明の初代皇帝(太祖洪武帝)(在位1368年 - 1398年)
- 徐達(1332年 - 1385年) - 明初の大将軍・左相国・大都を元一族から奪回し占領・第一の功臣とされる
- 胡惟庸(? - 1380年) - 明初の政治家(左丞相)・北元や日本と内通したとして胡惟庸の獄にて粛清される
- 藍玉(? - 1393年) - 明初の将軍・ブイル・ノール湖畔の戦いで北元に勝利・藍玉の獄にて粛清される
- 施耐庵(生没年不明) - 元末明初の作家・『水滸伝』の編者? 羅貫中の師か?(→水滸伝の成立史)
- 羅貫中(生没年不明) - 元末明初の作家・『三国志演義』『三遂平妖伝』の編者? 施耐庵の門人か?(→三国志演義の成立史)
- 高啓(1336年 - 1374年) - 明初の詩人・『元史』の編者・「宮女図」の詩文がもとで腰斬の刑に処される
- 方孝孺(1357年 - 1402年) - 明初の儒学者・建文帝の側近として翰林侍講学士となる・靖難の変に連座して虐殺される
- 建文帝(1377年 - 1402年?) - 明の第2代皇帝(在位1398年 - 1402年)・靖難の変により叔父燕王に帝位を簒奪される
チベット
[編集]- プトゥン(1290年 - 1364年) - チベット仏教の学僧・チベット史の根本史料『仏教史』のほか暦学・医学の著作を多数執筆
- カルマ・リンパ(1326年 - 1386年) - チベット仏教ニンマ派のテルトン(埋蔵経発掘者)・『チベット死者の書』を発掘したか
- ツォンカパ(1357年 - 1419年) - チベット仏教最大の学僧・歴代ダライ・ラマの所属するゲルク派(黄帽派)の開祖
高麗・朝鮮
[編集]- 鄭夢周(1337年 - 1392年) - 高麗の儒学者・倭寇について九州探題今川貞世と交渉を行う・李成桂の王位簒奪には反対し暗殺される
- 李成桂(1335年 - 1408年) - 李氏朝鮮の初代国王(在位1392年 - 1398年)・倭寇やモンゴルとの戦いで功績をあげ高麗を倒す
日本
[編集]- 二条為世(1250年 - 1338年) - 公卿(権大納言)・二条派の和歌の宗家として『新後撰和歌集』『続千載和歌集』を撰集・両統迭立では大覚寺統に付く
- 京極為兼(1254年 - 1332年) - 公卿(権大納言)・京極派の和歌の宗家として『玉葉和歌集』を撰集・両統迭立では持明院統に付く・両統迭立にからみ二度流罪にされる
- 度会家行(1256年 - 1351年) - 伊勢神宮(外宮)の神官・反本地垂迹説を大成し伊勢神道を提唱・南朝を支援し影響を与える
- 後深草院二条(1258年 - ?) - 後深草院付きの女房・日記であり紀行文でもある『とはずがたり』を残す
- 高階隆兼(活動時期1309年 - 1330年) - 御所画所の絵師・西園寺公衡の依頼で春日大社に奉納した「春日権現験記」で有名
- 梶原性全(1266年 - 1337年) - 僧医・隋唐から宋の医書を渉猟し体験を踏まえて「内臓図」を含む『頓医抄』全50巻を執筆
- 北条貞時(1271年 - 1311年) - 鎌倉幕府第9代執権(在任1284年 - 1301年)・執権退任後に嘉元の乱が起きる
- 長崎円喜(? - 1333年) - 武将・内管領(得宗家執事)・嘉暦の政変を経て息子高資ととも幕府末期の実権を握る
- 岡崎正宗(生没年不詳) - 刀工・相模国鎌倉で活動し「相州伝」と呼ばれる作風を確立・刀剣史上もっとも著名な刀工の一人
- 夢窓疎石(1275年 - 1351年) - 禅僧・京都天竜寺開山・七朝帝師(歴代天皇から国師号を七度賜る)
- 赤松則村(1277年 - 1350年) - 武将・守護大名・後醍醐天皇を支持し六波羅攻略で活躍・建武政権の後は足利尊氏に従う
- 虎関師錬(1278年 - 1346年) - 禅僧・東福寺ほかの住持・日本最初の仏教通史『元亨釈書』の著者
- 文観(1278年 - 1357年) - 真言律宗・真言宗の僧・醍醐寺座主・東寺一長者・後醍醐天皇に信任され南朝につく・画僧(『絹本著色五字文殊像』『絹本著色後醍醐天皇御像』等)・学僧
- 円観(1281年 - 1356年) - 天台宗の僧・法勝寺勧進職・後醍醐天皇に近侍するが後に北朝につく・『原太平記』(『太平記』の原型)の編集主幹
- 宗峰妙超(大燈国師)(1282年 - 1338年) - 禅僧・京都大徳寺開山・弟子の関山慧玄を妙心寺開山に推薦
- 卜部兼好(1283年頃 - 1352年以後) - 官人・遁世者・歌人・随筆家で『徒然草』の著者・和歌四天王の一人
- 後醍醐天皇(1288年 - 1339年) - 第96代天皇(在位1318年 - 1339年)・建武の新政を行う・吉野に退避し南朝の初代となる・著作に『建武年中行事』『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』等
- 永福門院(1288年 - 1342年) - 伏見天皇皇后(中宮)・京極派最大の歌人の一人で151首が勅撰和歌集に入集
- 頓阿(1289年 - 1372年以後) - 歌人・二条為世高弟「和歌四天王」の筆頭・『新拾遺和歌集』の選者・歌論書に『井蛙抄』等・後に頓阿の系統が古今伝授の嫡系となる
- 日野資朝(1290年 - 1332年) - 公卿(権中納言)・日野俊基らとともに後醍醐天皇に近侍・正中の変で佐渡に流罪となる
- 雪村友梅(1290年 - 1347年) - 禅僧・一山一寧の門人で元に渡航・帰国後は京都万寿寺住持・五山文学の先駆け
- 洞院公賢(1291年 - 1360年) - 公卿(太政大臣)・建武政権から北朝に転じ正平の一統で活躍・日記『園太暦』はこの時代の重要資料
- 北畠親房(1293年 - 1354年) - 公卿(大納言)・准三后・南朝の指導者として正平の一統を指揮・『神皇正統記』の著者
- 二条為定(1293年 - 1360年) - 公卿(権大納言)・二条派の和歌の宗家として『続後拾遺和歌集』『新千載和歌集』を撰集
- 楠木正成(1294年 - 1336年) - 武将・赤坂城や千早城で討幕運動を行う・建武政権から続いて南朝側に与す・「三木一草」の一人
- 名和長年(? - 1336年) - 武将・後醍醐天皇の隠岐脱出を援助・建武政権から続いて南朝側に与す・「三木一草」の一人
- 佐々木道誉(1296年 - 1373年) - 武将・室町幕府で政所執事などを歴任し貞治の変を主導・婆沙羅大名としても有名
- 花園天皇(1297年 - 1348年) - 第95代天皇(在位1308年 - 1318年)・政治的には中継ぎの天皇だが学問と芸術の諸分野で大きな業績を残す・『誡太子書』を著す
- 尊円法親王(1298年 - 1356年) - 天台座主・青蓮院門跡・伏見天皇の皇子・後代に公式文書として用いられた書流御家流の祖
- 賢俊(1299年 - 1357年) - 真言宗の僧・醍醐寺座主・東寺長者・文観に替わって北朝側につく・尊氏の護持僧となり幕政にも関与・著書に『紙本墨書賢俊日記』
- 守邦親王(1301年 - 1333年) - 鎌倉幕府第9代将軍(在任1308年 - 1333年)・鎌倉幕府滅亡の後に将軍を辞す
- 新田義貞(1301年 - 1338年) - 武将・左近衛中将・北条氏を滅ぼし鎌倉を占拠・建武政権から続いて南朝側に与す・越前藤島で戦死
- 北条高時(1303年 - 1333年) - 鎌倉幕府第14代執権(在任1316年 - 1326年)・鎌倉幕府滅亡時の得宗・東勝寺合戦で自刃
- 足利尊氏(1305年 - 1358年) - 室町幕府初代将軍(在任1338年 - 1358年)・北朝の光明天皇を擁立し幕府を開く
- 足利直義(1306年 - 1352年) - 武将・左兵衛督・足利尊氏の弟・幕府保守派の政治家・観応の擾乱で高師直一派を倒すが正平の一統の後に兄尊氏に追われ急逝
- 高師直(? - 1351年) - 武将・室町幕府執事・幕府革新派の政治家・四條畷の戦いなどで活躍するが観応の擾乱で足利直義と対立し殺害される
- 護良親王(1308年 - 1335年) - 後醍醐天皇の皇子(大塔宮)・天台座主(尊雲法親王)・征夷大将軍・足利尊氏と争い殺害される
- 日野名子(1310年 - 1358年) - 女官・著作家・西園寺公宗正室・著書『竹むきが記』は近代以前の女性が著した現存最後の日記文学とされる
- 宗良親王(1311年 - 1385年) - 後醍醐天皇の皇子(信濃宮)・天台座主(尊澄法親王)・征夷大将軍・各地を転戦・『新葉和歌集』を撰集
- 春屋妙葩(1312年 - 1388年) - 禅僧・相国寺第二世(事実上の開山)・五山十刹の制度を定め五山版などの出版を行う
- 光厳天皇(1313年 - 1364年) - 北朝第1代天皇(在位1331年 - 1333年)・鎌倉幕府滅亡で退位する・光明天皇は弟・『風雅和歌集』を親撰
- 北畠顕家(1318年 - 1338年) - 公卿(権中納言)・鎮守府将軍・南朝方として活躍するが石津の戦いで戦死・父は北畠親房
- 菊池武光(1319年? - 1373年) - 武将・肥後守・懐良親王を擁し南朝方につく・筑後川の戦いに勝利し大宰府を占領する
- 二条良基(1320年 - 1388年) - 公卿(摂政・関白・太政大臣)・歌人・連歌の大成者で『菟玖波集』の撰者
- 北条時行(1325年 - 1353年) - 武将・鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児・中先代の乱を起こし足利尊氏に対抗して南朝に帰順
- 義堂周信(1325年 - 1388年) - 禅僧・南禅寺ほかの住持・絶海中津とともに五山文学を代表し漢詩集『空華集』がある
- 今川貞世(了俊)(1326年 - 1420年?) - 武将・守護大名・九州探題として九州の南朝勢力を鎮圧・著作に『難太平記』がある
- 細川頼之(1329年 - 1392年) - 室町幕府管領・貞治の変で幕政を掌握・康暦の政変で失脚するも再び幕政に復帰
- 懐良親王(1329年? - 1383年) - 後醍醐天皇の皇子・征西大将軍(征西将軍宮)・「日本国王」として明と通交
- 足利義詮(1330年 - 1367年) - 室町幕府第2代将軍(在任1358年 - 1367年)・貞治の変以後は北朝の優位を固める
- 楠木正儀(1330年? - 1389年?) - 武将・楠木正成の三男・南朝和平派の代表・南朝方を支え北朝方と戦うがやがて帰順・最晩年は南朝に公卿として復帰
- 観阿弥(1333年 - 1384年) - 猿楽師・大和猿楽座の出身で観世家の祖となる・子に世阿弥がいる
- 絶海中津(1334年 - 1405年) - 禅僧・鹿苑院ほかの住持・義堂周信とともに五山文学を代表し漢詩集『蕉堅藁』がある
- 足利基氏(1340年 - 1367年) - 室町幕府の初代鎌倉公方・足利尊氏の子・足利義詮の弟
- 土岐康行(? - 1404年) - 武将・守護大名・土岐康行の乱(美濃の乱)を起こすが幕府に鎮圧される
- 山名氏清(1344年 - 1392年) - 武将・「六分の一殿」と称される守護大名・明徳の乱で敗死
- 斯波義将(1350年 - 1410年) - 室町幕府管領・貞治の変で失脚するも康暦の政変で幕政を掌握・義満死後の政局も指導
- 後亀山天皇(1350年? - 1424年) - 第99代天皇(在位1383年 - 1392年)・南北朝合一のときの南朝の天皇
- 大内義弘(1356年 - 1400年) - 武将・守護大名・南北朝合一を斡旋・応永の乱で敗死
- 足利義満(1358年 - 1408年) - 室町幕府第3代将軍(在任1368年 - 1394年)・花の御所を造営・出家後は北山第を造営
- 世阿弥(1363年? - 1443年?) - 猿楽師・能楽の大成者・『風姿花伝』などの著作でも知られる・父は観阿弥
- 後小松天皇(1377年 - 1433年) - 第100代天皇(在位1382年 - 1412年)・南北朝合一のときの北朝の天皇
架空のできごと
[編集]- 14世紀 - 10年ぶりに十字軍から帰還した騎士アントニウス・ブロックが故国スウェーデンで見たものは、黒死病の恐怖に慄く民衆、正気を失った魔女狩り、零落した聖職者、そして必死に神を求める人々であった。絶望の淵で出会った死神は、騎士アントニウスにチェスを持ち掛ける。残酷な勝負の結果、アントニウスと彼らの仲間には「死の舞踏」が待ち受けていた(イングマール・ベルイマンの映画「第七の封印」)。
- 1303年 - デリーを都とするハルジー朝の王アラー・ウッディーン・ハルジーは謀略によりメーワール王ラタン・シンを殺害した。残された王妃パドマーワティは、敵であるアラー・ウッディーンの恋慕をはねのけ、王国のあらゆる女性とともに覚悟を決めて死に赴く(マリク・ムハンマド・ジャーヤシーの叙事詩『パドマーワト』、映画「パドマーワト 女神の誕生」)。
- 1307年 - ウィルヘルム・テル(ウィリアム・テル)が息子の頭上のリンゴを射抜き、余勢をかってハプスブルク家の代官ヘルマン・ゲスラーを倒し、スイス独立の端緒となる(スイスの伝説から発展し、ハンス・シュライバーによって書かれた『ザルネンの書』に最も古い言及が認められる)。
- 1326年以降 - 鎌倉幕府の執権であった北条高時(相模入道)が田楽に興じていたところ「天王寺のやようれぼし(妖霊星)を見ばや」と歌う天狗たちに取り囲まれて前後不覚のまま翻弄される(『太平記』、河竹黙阿弥の歌舞伎狂言『北条九代名家功(高時)』)。
- 1327年 - 北イタリアのカトリック修道院にて怪事件が連続して発生。その謎をバスカヴィルのウィリアムとその弟子のメルクのアドソが解き明かしていく(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』)。
- 1348年 - この年に大流行したペストから逃れるためフィレンツェ郊外に引きこもったパンフィロら男3人、パンピネアら女7人の計10人が退屈しのぎの話をする。ユーモアと艶笑に満ちた恋愛話や失敗談などを1日につき10人が10話ずつ語り、10日で全100話からなる物語なので『デカメロン(十日物語)』という(ジョヴァンニ・ボッカッチョ『デカメロン』)。
- 1358年以降 - 多摩川矢口渡にて南朝の武将新田義興が謀殺される。残された義興の弟義岑は苦労を重ねるも兄を謀殺した頓兵衛と遭遇、卑劣な罠に嵌められあわやというその時、兄の義興が天皇から拝領した弓矢がどこからともなく飛んできて敵は倒され、新田義興の霊の声が響き渡る(平賀源内『神霊矢口渡』)。
- 1380年 - クリコヴォの戦いでイリヤー・ムーロメツとモスクワ大公国軍がママイ率いるジョチ・ウルス軍を打ち破るが、勝利した味方が慢心の言葉を発したため天の怒りにふれ、倒したはずの敵の死者たちが蘇り、圧倒的な強さで数を増して襲ってきた(イリヤー・ムーロメツの伝説)。
- 1381年 - 19世紀に生きていた「私」は夢の中から過去の世界へさかのぼり、ワット・タイラーの反乱に出くわし、農民たちとの交遊を楽しみ、説教師ジョン・ボールの社会変革の思いに耳を傾ける(ウィリアム・モリス『ジョン・ボールの夢』)。
- 1395年以前 - 足利義満が三代将軍であった時代、京の都の猿楽の一座に生まれた子、犬王はその異形の姿から周囲に疎まれ、顔を瓢箪の面によって隠されて育った。ある日、犬王は平家の呪いで盲目となった琵琶法師の少年友魚と出会い、ともにその生い立ちを超えて逆境の中から這い上がって行く(古川日出男『平家物語 犬王の巻』)。
- 1397年以前 - グロスターシャー出身の貧しいディック・ウィッティントンが唯一の財産である猫を手放し貿易船で送ったところ、ネズミの害に苦しんでいたある国の王に莫大な金額で買い取られ、たちまち裕福となってロンドンの市長を三度も務める名士となった(「ディック・ウィッティントンと彼の猫」伝説。)
- 14世紀末 - 百年戦争で結婚を約束していた恋人を失い、長らく独身を貫いてきたトゥールーズの資産家の女性クレマンス・イゾールは南フランスの伝統である詩のコンクールを毎年開催するという条件でトゥールーズ市にすべての財産を遺贈した。これをもとに「花合戦団(Compagniedes Jeux Floraux)」が結成された(クレマンス・イゾールの伝説)。
- 14世紀後半から15世紀初頭 - オスマン朝のムラト1世からバヤジット1世の時代にかけてトルコ人トリックスターのナスレッディン・ホジャが活躍し、ティムールとの交流も挿話として残っている(『ナスレッディン・ホジャ物語』。12世紀の人物だという説や、架空人物説もあり)。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- バーバラ・タックマン著 徳永守儀訳『遠い鏡(A Distant Mirror: The Calamitous 14th Century)』朝日出版社、2013年。 ISBN 978-4255007397
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、14世紀に関するカテゴリがあります。