びっくり日本新記録
びっくり日本新記録 | |
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ジャンル | スポーツバラエティ番組 |
構成 | 出倉宏、鵜沢茂郎 |
演出 | 長谷川美夫 ほか |
監修 | 赤尾健一(1980年代前半[いつ?]) |
司会者 | 初代:橋本テツヤ、うつみ宮土理 第2代:小林亜星、藤谷美和子 第3代:関口宏、セーラ・ロウエル 第4代:大野しげひさ、キャロライン洋子、パティー、ヘレン笹野、津島要、マリアン 第5代:荒川強啓、ヒロコ・グレース |
出演者 | 実況 志生野温夫 チャレンジ・ボーイ 三浦康一 その他 笑福亭鶴光 |
製作 | |
製作総指揮 | 山田英雄(チーフプロデューサー) |
プロデューサー | 河村シゲル 豊永幸男 |
制作 | 読売テレビ IVSテレビ制作(第1期) オフィス・トゥー・ワン(第2・3期) |
放送 | |
放送国・地域 | 日本 |
第1期 | |
放送期間 | 1975年10月5日 - 1978年3月26日 |
放送時間 | 日曜 19:00 - 19:30 |
放送分 | 30分 |
第2期 | |
放送期間 | 1978年10月1日[1] - 1979年4月1日[2] |
放送時間 | 日曜 19:00 - 19:30 |
放送分 | 30分 |
第3期 | |
放送期間 | 1979年7月1日[3] - 1985年10月6日[4] |
放送時間 | 日曜 19:00 - 19:30 |
放送分 | 30分 |
決定版!スターが挑戦!!びっくり日本新記録(スペシャル) | |
出演者 | 芸能人多数 |
放送期間 | 1980年4月5日 - 1983年4月9日 1985年3月21日 |
放送時間 | 別項 |
放送枠 | 土曜スペシャル(*1) 木曜スペシャル(*8) |
放送分 | 114分・84分・144分 |
回数 | 8回 |
『びっくり日本新記録』(びっくりにっぽんしんきろく)は、日本テレビ系列局ほかで放送されていたスポーツバラエティ番組である。第1期は読売テレビとIVSテレビ制作の共同製作で、第2期と第3期はオフィス・トゥー・ワンと読売テレビの共同製作。製作局の読売テレビでは1975年10月5日[5]から1985年10月6日まで(途中休止していた時期あり)、毎週日曜 19:00 - 19:30 (日本標準時)に放送。
概要
[編集]毎回一般からの参加者たちが、風変わりなスポーツアトラクションで記録を競いあっていた視聴者参加型番組(チャレンジ番組)である。
- 第1期(1975年10月5日 - 1978年3月26日)には、製作担当のIVSテレビ制作が番組制作を兼任。テリー伊藤こと伊藤輝夫が、IVSテレビ制作入社後に初めてADに付いたのがこの番組である。当初はスタジオからの放送で、1回の放送で3〜4種類の競技を行い、その競技も屋外やスタジオ内で行っていたが、後にオール屋外ロケの収録番組になり、競技も1回放送で1種に変更された。橋本てつや(後の橋本テツヤ)とうつみ宮土理が司会を務めていた時期のみ、番組冒頭に橋本による「ナポレオンもビックリ!不可能を可能に変える30分!」という前口上があった。
- 第2期と第3期の大半の回(1978年10月1日 - 1979年3月25日、1979年8月5日 - 1985年10月6日)では、オフィス・トゥー・ワンが番組制作を兼任。挑戦者が志生野温夫の実況(アフレコ)のもと、競技するのが番組のメインであった(初代司会者橋本テツヤは、ロケ現場にも出かけ、実況も行っていた)。優勝者には番組が公認した日本記録公認証と豪華賞品が贈られ、表彰式ではアシスタント役の女優が、花のレイと祝福のキス(頬への口づけ。なお、優勝者が女性の場合は男性司会者がキスを務めた)をプレゼントし、最後に男性司会者が「おめでとう!!日本一(荒川強啓のみ「やったぜ日本一、おめでとう!!」)」と叫び、その競技のハイライトシーンとナレーションで締めくくる形であった。なお、志生野は時々収録に参加し、顔を出して自己紹介もしていた。
- 1978年4月から同年9月、および1979年4月から同年6月までは放送を休止。
第2期以降のエンディングでは、毎回エンディングテーマが流れると同時に「記録…それはいつも儚い。一つの記録は一瞬ののちに破られる運命を自ら持っている。それでも人々は記録に挑む。限りない可能性とロマンをいつも追い続ける。それが人間なのである。次の記録を作るのは、あなたかも知れない」のナレーションで締めくくられ、その間は挑戦者たちが記録ならずといったシーンがスローモーションで流れていた。そしてBGMがテーマソングに切り替わり、最後には認定された日本記録のテロップが「日本新記録」と表示されたが、次週にも引き続き競技の模様が放送される場合には「本日の最高記録」と表示された。また、以前にも登場した競技で前回とタイ記録だった場合に「日本タイ記録」と表示されたこともある。
- なお、大野しげひさが司会を務めていた頃のオープニングでは、「日本一、なんとすばらしいことだろう。しかし、あなたにもそのチャンスはある。さあ、人間のロマンと可能性に挑戦しよう!」というナレーションをバックに後述のテーマソングが流れていた。オープニングのナレーションは、司会が荒川強啓になってからもコメントを一部変更したうえで続けられていた。
初期には記憶力など知的能力を争う内容も多かったが、中期以降は肉体能力を争う方向に特化していった。
ハンググライダーで高い所から飛び立ち、その飛距離を競う本番組の企画「鳥人間コンテスト」は、番組の終了後にも単独番組として毎年制作・放送されている。大会の回数は番組企画として放送されていた頃からの通算でカウントされており、2024年には46回を数えるに至っている。
本番組のテーマソングは、小林亜星と筒井広志が共同で作曲した。ただし、第1期のスタジオ収録時代に使われていたのは別のテーマソングで、こちらは作曲者が不明となっている。
番組開始時には三洋電機グループの単独提供で放送されていたが、同グループは第1期の後番組である『スターウルフ』の放送期間中にこの時間帯のスポンサーを降りた。このため、第2期からは複数社提供での放送となり、さらにその後はタイガー魔法瓶メインの複数社による協賛番組となっていた。なお、三洋電機グループ提供時代にはオープニングキャッチが存在し、三洋電機グループ提供時代とタイガー魔法瓶その他の協賛番組時代には優勝者への商品提供も行っていた。
番組は1985年10月6日放送分をもって終了した。最終回の内容は10年間の名シーン(映像は第2期以降のものがほとんど)を振り返る総集編で、当初は9月中旬に放送される予定だったが、『日曜ナイター』の雨傘番組としての編成だったことから順延となり[注 1]、10月6日に組まれていた巨人×阪神戦が雨天中止になったことでようやく放送された。[注 2]
出演者
[編集]歴代司会者
[編集]- 初代:橋本テツヤ、うつみ宮土理(1975年10月5日 - 1977年3月27日)
- 2代目:小林亜星、藤谷美和子(1977年4月3日 - 1978年3月26日)
- 3代目:関口宏、セーラ・ロウエル(1978年10月1日 - 1979年3月25日)
- 4代目:大野しげひさ、キャロライン洋子 →ナンシー・チェニー → パティー → ヘレン笹野 → 津島要 → マリアン(1979年4月1日 - 1984年3月25日)
- 5代目:荒川強啓、ヒロコ・グレース(1984年4月1日 - 1985年9月29日)
実況
[編集]記録発表
[編集]- 後に皇室ジャーナリストとなる高清水有子がアシスタントディレクター時代に担当していた。
レギュラー挑戦者
[編集]- チャレンジボーイという肩書で、轟二郎が本名の「三浦康一」を名乗って参加していた。「逆立ち相撲」で日本一に輝いたこともある。1984年にチャレンジボーイを引退した。
その他
[編集]- 笑福亭鶴光 - 「橋本・うつみ」時代に、屋外競技のレポーターとして出演。また後述のスペシャルでもレポーターとして出演。
スペシャル
[編集]大野時代の1980年から1983年までと、荒川時代の1985年の春秋の改編期に、レギュラー放送で過去行われた競技に芸能人が挑戦する『決定版!スターが挑戦!!びっくり日本新記録』が行われていた。この番組ではレギュラー挑戦者の三浦康一も「轟二郎」名義で出場した。なお男性芸能人が優勝しても、レギュラー放送の様な「女性司会者からのキス」は一切なかった。
放送日と行われた競技
[編集](出典:『読売新聞』読売新聞社、1980年4月5日 - 1983年4月9日・1985年3月21日のラジオ・テレビ欄。)
放送日 | 放送時間(JST) | 行われた競技 | 備考 |
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1980年4月5日 | 土曜19:00 - 20:54 |
| 『土曜スペシャル』で放送(30分拡大) |
1980年10月11日 | 土曜19:30 - 20:54 |
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1981年4月5日 | 日曜19:00 - 20:54 |
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1981年10月4日 |
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1982年4月4日 |
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1983年1月2日 | 日曜18:30 - 20:54 |
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1983年4月9日 | 土曜19:00 - 20:54 |
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(この間、中断) | |||
1985年3月21日 | 木曜19:30 - 20:54 |
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備考
[編集]- 1982年は秋の大会が行われなかったが、当初は10月3日(日曜)の19:00 - 20:54に放送する予定であった。だが当時は、セントラル・リーグの読売ジャイアンツと中日ドラゴンズが10月になっても猛デッドヒートを繰り広げており、当日はプロ野球中継「巨人×大洋」戦(後楽園球場)に差し替えられた(番組は雨傘番組となったが試合は予定通り行われた)。そして番組放送はずっと後になり、1983年1月に正月特番として、内容を再編集して放送したが、思わぬ結果を招く事になった。
スタッフ
[編集]いずれも1980年代前半[いつ?]。
- 監修:赤尾健一
- 構成:出倉宏、鵜沢茂郎
- 技術:エキスプレス
- 美術:シミズ舞台工芸
- 演出:長谷川美夫 ほか
- プロデューサー:河村シゲル(オフィス・トゥー・ワン)、豊永幸男(読売テレビ)
- チーフプロデューサー:山田英雄(読売テレビ)
放送局
[編集]系列・略称は放送終了時・ネット終了時のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | ネット形態 | 備考 |
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近畿広域圏 | よみうりテレビ (YTV) | 日本テレビ系列 | 製作局 | |
関東広域圏 | 日本テレビ (NTV) | 同時ネット | ||
北海道 | 札幌テレビ (STV) | |||
青森県 | 青森放送 (RAB) | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | ||
岩手県 | テレビ岩手 (TVI) | 日本テレビ系列 | 1980年3月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局 | |
宮城県 | ミヤギテレビ (mm34) | |||
秋田県 | 秋田放送 (ABS) | |||
山形県 | 山形放送 (YBC) | 1980年3月まで放送 | ||
山形テレビ (YTS) | フジテレビ系列 | 1981年4月から放送 山形放送のテレビ朝日系列とのクロスネット局化に伴う移行[注 3] | ||
福島県 | 福島中央テレビ (FCT) | 日本テレビ系列 | 1981年9月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局 | |
山梨県 | 山梨放送 (YBS) | |||
新潟県 | 新潟放送 (BSN) | TBS系列 | 遅れネット | 1975年10月9日から放送[6] |
新潟総合テレビ (NST) | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 遅れネット ↓ 同時ネット | 現・NST新潟総合テレビ 1979年8月から放送[注 4] | |
テレビ新潟 (TNN) | 日本テレビ系列 | 同時ネット | 1981年4月の開局時から放送 | |
長野県 | 信越放送 (SBC) | TBS系列 | 遅れネット | 1980年9月まで放送 |
テレビ信州 (TSB) | テレビ朝日系列 日本テレビ系列 | 同時ネット | 1980年10月の開局時から放送 | |
静岡県 | 静岡放送 (SBS) | TBS系列 | 遅れネット | 1978年3月まで放送。放送終了時点で日曜8:00から放送[7] |
静岡けんみんテレビ (SKT) | テレビ朝日系列 日本テレビ系列 | 同時ネット | 現・静岡朝日テレビ 1978年10月から1979年6月まで放送 | |
静岡第一テレビ (SDT) | 日本テレビ系列 | 1979年7月の開局時から放送 | ||
富山県 | 北日本放送 (KNB) | |||
石川県 | 北陸放送 (MRO) | TBS系列 | 遅れネット | 1984年9月まで。金曜17:30から放送[8] |
石川テレビ (ITC) | フジテレビ系列 | 1984年10月から放送。金曜19:00から放送 | ||
福井県 | 福井放送 (FBC) | 日本テレビ系列 | 同時ネット | |
中京広域圏 | 中京テレビ (CTV) | |||
鳥取県・島根県 | 日本海テレビ (NKT) | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | ||
広島県 | 広島テレビ (HTV) | 日本テレビ系列 | ||
山口県 | 山口放送 (KRY) | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 1978年9月までは日本テレビ系単独加盟局 | |
徳島県 | 四国放送 (JR → JRT) | 日本テレビ系列 | ||
香川県 ↓ 香川県・岡山県 | 西日本放送 (RNC) | 当初の放送対象地域は香川県のみ 1983年4月の電波相互乗り入れで岡山県でも放送 | ||
愛媛県 | 南海放送 (RNB) | |||
高知県 | 高知放送 (RKC) | |||
福岡県 | 福岡放送 (FBS) | |||
長崎県 | テレビ長崎 (KTN) | フジテレビ系列 日本テレビ系列 | ||
熊本県 | テレビ熊本 (TKU) | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 遅れネット | 1982年3月まで放送 |
くまもと県民テレビ (KKT) | 日本テレビ系列 | 同時ネット | 1982年4月の開局時から放送 | |
大分県 | テレビ大分 (TOS) | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | ||
宮崎県 | テレビ宮崎 (UMK) | |||
鹿児島県 | 鹿児島テレビ (KTS) | フジテレビ系列 日本テレビ系列 | 1982年9月まではテレビ朝日系列とのトリプルネット局 | |
沖縄県 | 沖縄テレビ (OTV) | フジテレビ系列 | 遅れネット | 1984年3月に打ち切り[注 5] |
番組内では、司会者の紹介のあとにネット局の紹介テロップが表示された。
関連項目
[編集]- 鳥人間コンテスト選手権大会
- めちゃ2イケてるッ!(フジテレビ) - パロディ企画「イケてる!日本新記録」を放送。実況は本番組と同じく志生野が務めた。
- ザ!鉄腕!DASH!!(日本テレビ) - 1998年4月から前半枠の一部で放送されているバラエティ。体当たり企画や勝負企画が多い。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 日本テレビのプロ野球ナイター中継は、1979年までは19:30 - 20:54に行われていた。そのため、本番組の休止はそれまでは年末年始ぐらいにしかなかったが、1980年にナイター中継が19:00開始に変更されたため、以後はプロ野球シーズン中にたびたび休止するようになった。
- ^ この日は、奇しくも裏番組で本番組と同じく在阪準キー局が製作する『アップダウンクイズ』(毎日放送)も最終回だった。
- ^ 1981年4月から1993年3月までの山形放送における日曜19:00枠が日本テレビ系同時ネット枠からテレビ朝日系同時ネット枠に変更されたため。同時に山形テレビの日曜19:00枠はフジテレビ系同時ネット枠から日本テレビ系同時ネット枠となった。なお、山形放送における日曜19時台における同時ネットは、1993年4月の山形テレビのテレビ朝日系列へのネットチェンジに伴い、『おしえて!ガリレオ』(事実上の枠交換)で12年ぶりに復活している。
- ^ 1979年8月から同年10月までは7日遅れで朝9時30分から放送し、同年10月7日から1981年3月29日までは同時ネットを行っていた。このため、10月7日には同局で7日遅れの分と同時ネットの分が同じ日に放送されるという事態が起こった。
- ^ 月曜 19:00 - 19:30 に遅れネット。
出典
[編集]- ^ 『中日新聞縮刷版』中日新聞社、1978年10月1日、24頁。
- ^ 『中日新聞縮刷版』中日新聞社、1979年4月1日、24頁。
- ^ 『中日新聞縮刷版』中日新聞社、1979年7月1日、24頁。
- ^ 『中日新聞縮刷版』中日新聞社、1979年10月6日、24頁。前述の通り、この回はナイター中継の雨傘番組として編成された。
- ^ よみうりテレビ開局20周年記念事業企画委員会 編『よみうりテレビの20年 : 写真と証言』読売テレビ放送、1979年7月、139頁。NDLJP:12276016/143。
- ^ 『北國新聞』1975年10月9日付朝刊テレビ欄より。
- ^ 「静岡新聞」1978年3月26日付、テレビ欄
- ^ 『北日本新聞』1981年2月27日付朝刊テレビ欄より。
読売テレビをはじめとする日本テレビ系列 日曜 19:00 - 19:30 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
びっくり日本新記録 (1975年10月5日 - 1978年3月26日) | スターウルフ ↓ 宇宙の勇者 スターウルフ (1978年4月2日 - 1978年9月24日) | |
スターウルフ ↓ 宇宙の勇者 スターウルフ (1978年4月2日 - 1978年9月24日) | びっくり日本新記録 (1978年10月1日 - 1979年4月1日) | ミュージック・ボンボン (1979年4月15日 - 1979年6月24日) |
ミュージック・ボンボン (1979年4月15日 - 1979年6月24日) | びっくり日本新記録 (1979年7月1日 - 1985年10月6日) | ザッツ!好奇心 (1985年10月13日 - 1986年1月26日) |