カルタン幾何学[注 1](かるたんきかがく)(英: Cartan geometry)とは、微分幾何学における概念で、多様体の各点における「一次近似」がクラインの幾何学とみなせるものの事である。カルタンの幾何学はクラインの幾何学とリーマン幾何学を包括する幾何学概念として提案された。
以下、本項では特に断りがない限り、単に多様体、関数、バンドル等といった場合はC∞級のものを考える。また特に断りがない限りベクトル空間は実数体上のものを考える。
カルタン幾何学の背景にあるのはクラインのエルランゲン・プログラムである。エルランゲン・プログラムは、当時「幾何学」、例えばユークリッド幾何学、双曲幾何学、球面幾何学、射影幾何学等が乱立していた状況に対し、それらを統一する手法を提案したものであり、今日の言葉で言えば、これらはいずれも等質空間の概念を使う事で統一的に記述できる事を示した。
すなわちクラインの意味での幾何学(以下単にクライン幾何学と呼ぶ)とは、リー群Gとその閉部分リー群Hの組を等質空間上に「幾何学を保つ」変換群Gが作用しており、X上の一点の等方部分群がHであるとみなしたものである。
しかしエルランゲン・プログラムには、当時すでに知られていたリーマン幾何学が記述できない、という限界があった。実際リーマン多様体は等質空間にはなっていないので、エルランゲン・プログラムでは記述できない。
カルタンの意味での幾何学(以下単にカルタン幾何学と呼ぶ)は上記の事情を背景に、クラインの幾何学とリーマン幾何学を包含する形で定義された幾何学概念である[1]:
多様体自身にクライン幾何学の構造が入れば、すなわちであれば、Mの各点の接ベクトル空間は自然にと同型になる。ここで、はそれぞれG、Hのリー代数である。
そこでちょうどリーマン幾何学の「一次近似」である接ベクトル空間がユークリッド幾何学になっているように、カルタン幾何学では、多様体Mの「一次近似」である接ベクトル空間に、クライン幾何学の「一次近似」であるを対応させる。このとき、多様体Mには等質空間をモデル空間とするカルタンの幾何学の構造が入っている、という。
しかしあくまで「一次近似」がクラインの幾何学と等しいだけなので、実際にはカルタン幾何学はクライン幾何学とはズレる。このズレを図るのがの曲率である。
カルタン幾何学を導入するもう一つの動機が滑りとねじれのない転がしである。これはm次元のリーマン多様体をm次元平面上「滑ったり」、「捻れたり」する事なく「転がした」ときにできる軌跡に関する研究である。
この軌跡はユークリッド幾何学をモデルにするカルタン幾何学を使うことで定式化が可能であり、曲線の発展という。ユークリッド幾何学はm次元平面上の幾何学であるので、m次元平面上の軌跡になるが、一般のクライン幾何学をモデルとするカルタン幾何学の発展は、上の軌跡となる。
本節では[2]を参考に、2次元ユークリッド幾何学をモデルとするカルタン幾何学を直観的に説明する。を2次元ユークリッド空間とし、をの合同変換群とする。すなわちはとを使ってと書ける変換全体の集合である。はと同一視できる。
Mを2次元多様体とし、M上に人が一人立っているとする。人が立っている場所をとし、人の前方向をx軸、左方向をy軸とすると、接ベクトル空間の基底が定義できる。Mはユークリッド空間をモデルにしているので、その人は自分の近傍をユークリッド空間だと思っている。
の正規直交基底全体の集合をとし、とすると、は自然にM上の-主バンドルとみなせる。以上の議論から、の元は、M上にいる人(とその向き)であるとみなせる[注 2]。
M上にいる人をと表すとき、その人がM上の位置(=u)を変えずに向きだけを「無限小だけ」変えた場合、その向きの変化を表す速度ベクトルはの元とみなせるが、これは人の向きを変えた回転変換の微分なので、回転変換群の無限小変換群(=に対応するリー代数)であるの元であるともみなせる。
すなわち、の元をの元と対応させる事ができる:
また人がM上の位置uから無限小だけ歩いた場合は、歩いたことによるの変化の速度ベクトルはの元とみなせるが、その人は自分がユークリッド空間を歩いているのだと理解しているので、速度ベクトルをの無限小変換群(=のリー代数)であるの元であるとみなす。すなわちの元をと対応付けて考える。
結局、ユークリッド幾何学をモデルとするカルタン幾何学とは、M上の-主バンドルで、ファイバーごとの線形写像
を持ち、各に対し、uのファイバーの接バンドルへのωの制限が
を満たすもので「性質の良いもの」(後述)である。
本節ではカルタン幾何学の定式化に必要となる用語を定義する。
Gをリー群とし、をそのリー代数とし、さらにNをGが右から作用する多様体(例えばG-主バンドルの全空間P)とする。
なお、NがG-主バンドルの全空間Pの場合にはは垂直部分空間の元である事が容易に示せる。
定義 (リー群の随伴表現) ― Gをリー群としをそのリー代数とする。このとき、Gの線形表現
をに対し、
により定義し、AdをGの随伴表現(英: adjoint representation)という[5]。
ここでは上の線形同型全体のなすリー群である。随伴表現の定義はの取り方によらずwell-defninedである。
クライン幾何学の構造を調べる準備としてモーレー・カルタン形式を導入する。
モーレー・カルタン形式は以下を満たす[6]:
定理 ―
ここでは上のリー括弧であり、-値1-形式α、βに対し、である。
上記の2式のうち下のものをモーレー・カルタンの方程式[7](英: Maurer-Cartan equation)、もしくはリー群Gの構造方程式[8](英: structure equation)という。
リー群Gとその閉部分リー群の組でが連結になるものをクライン幾何学、もしくは(カルタン幾何学のモデルになるので)モデル幾何学(英: model geometry)という[9][10]。
をモデル幾何学とし、、をそれぞれG、Hのリー代数とする。
ωをH-主バンドルのカルタン接続(英: Cartan connection)という。また紛れがなければMの事をカルタン幾何学という[12]。
3つの条件の直観的な意味を説明する。
- 1つ目の条件は、とが同一視できる事を意味しており、前述した直観的説明のように、モデルがユークリッド幾何学であれば、Mにいる人は、自分の近傍がユークリッド空間であるとみなしているので、人の動きの速度ベクトルの集合が、無限小変換全体で記述可能である事を要請するのは自然である。
- 2つ目の条件は、各に対し、ωが同型写像の逆写像である事を要請している。はがに定める無限小変換なので、前述した直観的説明からこれは自然な要請である。なお、この2つ目の条件から特に直観的説明のところで登場した以下の要件が従う:
- 3つ目の条件は、前述した直観的説明からにいる人は自分の近傍がモデル幾何学に似ているとみなしているので、を右から乗じれば、の元はに移動してしまうので、左からもを乗じてに戻す随伴表現を作用させたものと等しくなる事を要請する。
なお、は同型なので、M上定義できるカルタン幾何学には
という制約が課せられる事になる。
カルタン接続の定義は主バンドルの接続(主接続)の接続形式の定義とよく似ているが、両者は似て非なる概念であり、H-主バンドルの主接続の接続形式はHのリー代数に値を取るが、カルタン接続はGのリー代数に値を取っている。しかし、ををモデル幾何学とする多様体M上のカルタン幾何学とするとき、H-主バンドル上定義されたカルタン接続は、自然に
というG-主バンドル上の-値1-形式
に拡張する事ができ[14]、はG-主バンドルの接続形式である[14]。逆にを任意のG-主バンドルとし、をQ上定義された接続形式とするとき、のH-部分バンドルでであり、しかもであればωのTPへの制限はP上のカルタン接続になる[15]。
なお、モデル幾何学が「簡約可能」という条件を満たす場合は、上記のものとは別の形の関係性をカルタン接続と主接続は満たす。詳細は後述する。
定義から分かるように、カルタン幾何学の定義は、、およびHには依存しているが、Gには直接依存していない。これは、、およびHはM上のカルタン幾何学の局所的な構造を定めるのに対し、Gはクライン幾何学の大域的な構造を定めるものであるため、Gが不要である事による。
リー代数に対応するリー群Gは一意ではなく[注 4]、これが原因で大域的な構造を定めるGはカルタン幾何学の定義に必須でないばかりか、一部の定理ではGを(に対応する)別のリー群に取り替える必要が生じてしまう。
そこでGに直接言及せず、を使ったカルタン幾何学の定式化も導入する。そのために以下の定義をする:
以下、特に断りがなければ、が効果的である事を仮定する[注 6]。ここでが効果的であるとは、に含まれるのイデアルがのみである事を意味する。G、Hを、に対応するリー群とすると、が効果的である事は、、とするとき、Kが離散群になる事と同値である[18]。
定義 (無限小クライン幾何学によるカルタン幾何学の定義) ― Mを多様体とし、をモデル幾何学とし、
- をH-主バンドルとし、
- ωをクライン幾何学によるカルタン幾何学の定義の条件を満たすP上の-値1-形式とする。
このとき、組をHを伴うをモデルとするM上のカルタン幾何学(英: Cartan geometry on M modeled on with H)という[12]。
本節ではカルタン幾何学の最も簡単な例として、クライン幾何学のカルタン幾何学としての構造を調べる。をクライン幾何学とし、とし、とする。ここではGの単位元eの同値類である。このとき
は自然にH-主バンドルとみなせる。G上のモーレー・カルタン形式がカルタン接続の定義を満たす事を示せるので、はをモデルとするカルタン幾何学になる。
局所クライン幾何学とその上のカルタン幾何学
[編集] リー群Gとその閉部分リー群の組を考える[注 7]。Gの離散部分群で、へのGからの作用のへの制限が効果的なものを考える(が効果的な事はである事と同値である)。このとき、による商集合を考える。Mが連結なとき、を局所クライン幾何学(英: locally Klein geometry)という[20]。
局所クライン幾何学M上に以下のようにカルタン幾何学を定義できる。まずが効果的なのでとすると、商写像
には自然にH-主バンドルの構造が入る[注 8]。またG上のモーレー・カルタン形式はその定義より左不変なので、商写像に対し
を満たす一意な-値1-形式をとする事で、にカルタン接続がwell-definedされ、上にをモデルとするカルタン幾何学が定義できる[20]。
2つのカルタン幾何学の間の(局所的および大域的な)同型概念を以下のように定義する:
定義 ― をモデル幾何学とし、M1、M2を多様体とし、、をそれぞれをモデル幾何学とするM1、M2上のカルタン幾何学とする。
バンドル写像
でがはめ込みであり、によるの引き戻しが
となるものをカルタン幾何学間の局所幾何学的同型(英: local geometric isomorphism)という[21]。とくにfが(可微分)同相写像であれば、を幾何学的同型(英: geometric isomorphism)という[21]。
任意のに対しては同型写像であるので、TPはωにより
という同一視ができ、TPはベクトルバンドルとして自明である。
よって特にを各に対してωの逆写像でTpPに移すことで、TP上のベクトル場を作る事ができる。
定数ベクトル場を用いると、以下の「普遍共変微分」を定義できる:
定義 (普遍共変微分) ― Vをベクトル空間とし、を(滑らかな)写像とする。このとき、fにベクトル場(は接ベクトル空間の元なので自然に微分作用素とみなしたもの)を作用させた
をfのAによる普遍共変微分[訳語疑問点](英: universal covariant derivative)という[23]。
モデル幾何学が「簡約可能」という条件を満たす場合は、普遍共変微分は通常の共変微分を導く。これについては後述。
本節ではカルタン幾何学が定義された多様体の接バンドルの構造を調べる。そのために以下の定義をする。
ををモデル幾何学とするM上のカルタン幾何学とする。はHのへの作用を定義するが、のへの制限は上の随伴表現である(のではを保つ)ことから、はHのへの作用を誘導する。またHはH-主バンドルPに作用していたので、これの作用により、ベクトルバンドル
を定義できる。実はこのベクトルバンドルは接バンドルと同型である:
定理 (接バンドルと無限小クライン幾何学の関係) ― ベクトルバンドルとしての同型
が成立する[24]。
具体的には写像
はwell-definedであり、ベクトルバンドルとしての同型写像である[24]。ここでは同型写像の逆写像でをに移したものである。
クライン幾何学をカルタン幾何学とみなした場合、カルタン接続はモーレー・カルタン形式ωGと等しいので、カルタン接続は構造方程式
を満たすが、一般のカルタン幾何学は構造方程式を満たすとは限らない。そこで以下の量を考える:
定義 (曲率) ― カルタン接続ωを持つ多様体M上のカルタン幾何学に対し、P上の-値2-形式
をカルタン幾何学の曲率(英: curvature)という[12]。
Ωは(局所)クライン幾何学からのズレを表す量であると解釈でき、明らかにクライン幾何学や局所クライン幾何学の曲率は恒等的に0である。
曲率は以下を満たす:
定理 (カルタン接続のビアンキ恒等式) ― カルタン接続ωとその曲率Ωは下記の恒等式(ビアンキ恒等式、英: Bianchi identity)を満たす[25]:
点のファイバーPuにはHが単純推移的に作用するので、をfixして、によりHとPuを同一視すると、TPu上にモーレー・カルタン形式ωHが定義できる。しかもωHはの取り方に依存しないことも容易に証明できる。実は曲率のPuへの制限はωHに一致する。
なお、実はv、wの少なくとも一方がTpPuに属していれば、である事が知られている[26]。よって特に次が成立する:
このΩ'は次節で導入する曲率関数を用いる事で具体的に記述できる。
が同型写像であったことから、写像の合成
を定義できる。またすでに述べたようにv、wの少なくとも一方がTpPuに属していれば、である事が知られている[26]事から、この写像は上の写像をwell-definedに誘導する。
曲率がM上の-値2-形式Ω'を誘導する事を前に見た。このΩ'は曲率関数を使って以下のように書き表す事ができる。
さらに以下の定義をする:
モデル幾何学がアフィン幾何学である場合は、この捩率はアフィン接続の捩率テンソルに一致する。詳細は後述。
本節の目標は、商写像
とカルタン接続の合成の幾何学的意味を説明する事である。
まず、は以下のように特徴づける事ができる:
上記の特徴付けから、の幾何学的意味は同型に関係しているので、この同型の幾何学的意味を見る。にベクトル空間としての基底をfixし、同型
によるの像をとすると、はの基底をなす。
よって特に、とすると、FはM上のフレームバンドル(英語版)(=各点のファイバーがTMの基底からなるバンドル)になる[28]。
一般には対応
は全単射ではないが、の定義から、カルタン幾何学が下記の意味で「一階」であれば、この写像は全単射になる:
定義 ― 随伴表現
が忠実なとき、クライン幾何学(およびをモデルに持つカルタン幾何学)は一階[訳語疑問点](英: first order)であるといい、そうでないとき高階[訳語疑問点](英: higher order)であるという[29]。
以上の準備のもと、を幾何学的に意味付ける:
定理 (の解釈) ― 記号を上と同様に取り、カルタン幾何学が一階であるとする。このとき、の基底でという同一視を行うと、に対し、
は基底でを成分表示したときの係数を対応させる値1-形式であるとみなせる[28][注 11]。
上記のような、にとなるを対応させる-値1-形式をフレームバンドル上の標準形式(英: canonical form)という[30]。上述の定理はカルタン幾何学が一階であればは標準形式として意味づけられる事を保証する。
簡約可能なモデル幾何学に対するカルタン幾何学
[編集] 本節ではモデル幾何学が「簡約可能」という性質を満たす場合にが対するカルタン幾何学の性質を見る。具体的にはモデル幾何学がユークリッド幾何学やアフィン幾何学の場合には簡約可能になる。
まず簡約可能性を定義する:
なお、の取り方は一意とは限らないので注意されたい。
Gが2つのリー群の半直積で書けている場合は、G、Hに対応するモデル幾何学は、Bのリー代数をとして選ぶ事で簡約可能である[33]。
よって特にユークリッド幾何学の等長変換群は直交群と平行移動のなす群の半直積で書けるので対応するモデル幾何学は簡約可能である。アフィン幾何学も同様である。
ををモデル幾何学にする多様体M上のカルタン幾何学とする。モデル幾何学が、と簡約可能なとき、の元はの元との元の和で一意に表現できるので、カルタン接続も
のように「部分」と「部分」の和で書ける。この分解を用いると、カルタン接続と主接続の接続形式との関係性を以下のように記述できる:
したがって、簡約可能なモデル幾何学の場合にはカルタン接続から主接続の接続形式が得られることになる。
一方、は
によりをと同一視すると、はと同一視でき、前述のように(カルタン幾何学が一階であれば)は標準形式であるとみなせる。
したがって分解はカルタン接続を接続形式と標準形式に分解するものであるが、実は逆に接続形式と標準形式からカルタン接続を復元できる:
前述した、カルタン接続から接続形式と標準形式とに分解する定理とは丁度「逆写像」の関係にあり、簡約可能で一階の場合はカルタン接続は接続形式と標準形式との組と1対1に対応する[34]。
モデル幾何学が簡約可能である場合、上述したようにカルタン接続ωから定義されるはH-主バンドルPの接続形式になる。ベクトル空間V上のHの線形表現があれば、ベクトルバンドルとしての接続(Koszul接続)の一般論から、接続形式はM上のベクトルバンドルにKoszul接続を定める[35]。
よって特に、接バンドルは
と書けたので、はTM上のKoszul接続、すなわちアフィン接続∇を定める。
このことから分かるようにモデル幾何学がアフィン幾何学でなくても、簡約可能でありさえすればアフィン接続を誘導する。
しかし特にモデル幾何学がアフィン幾何学であれば、アフィン変換群Gの上の随伴表現は