クラスター (疫学)
疫学におけるクラスター(英: disease cluster、感染集団、疾患クラスター、疾病集積)とは、時間的および地理的の両方の観点で、近接して発生する特定の疾患または障害の事例の集積である。発生率が異常 (unusual) に高い集団のみを指すとする立場[1] から、偶然により生じると考えられるよりも多ければ該当するとする立場[2](p40)、そのような条件は不要で複数の事例が集積していれば足りるとする立場[3](p292) [4](p16) までさまざまな見解がある。
概要
[編集]地域別の公衆衛生に関する監視システムの発達と密接に関連した概念である。通常、クラスターと認知されると地域の公衆衛生部門に報告され[注 1]、その疾患(あるいは障害)の原因の特定や拡大防止のための情報収集と分析がおこなわれる。特に、原因や伝播過程が不明の疾患の場合には、情報収集の最初のステップとして、クラスターの発見が重要となる[5](pp198-201)。
疫学黎明期の 1854年にイギリスのロンドンで発生したブロード・ストリートのコレラの大発生は、そのようなクラスターの典型的な例である。当時、コレラを引き起こす病原体(コレラ菌)は知られていなかったが、麻酔科医のジョン・スノウはロンドン市内のコレラ症例集積地点の情報を分析して、感染の経路となっていた井戸を特定し、流行を終息させることに貢献した[6]。
1976年にアメリカ合衆国のフィラデルフィアで原因不明の肺炎のクラスターが見つかった際には、ペンシルベニア州保健局が大規模な調査をおこなった。症例の多かった退役軍人の会合やパレードの出席者、その観覧者あるいは周辺の滞在歴や訪問歴などの情報を分析した結果、大規模な感染の広がりがあきらかになった。この肺炎の原因として特定された細菌はレジオネラ (Legionella pneumophila) と命名されたが、これは退役軍人会会員をあらわす legionnaire に由来する名称である。[5](pp122-124)
日本語での用法
[編集]日本語圏では、2009年の新型インフルエンザや2020年の新型コロナウイルス感染症の流行への日本政府の対応において、「クラスター」という語が使われた。それぞれ文脈に応じた特殊な意味を与えられている。ただし、いずれも病原体や感染経路を把握したり流行を抑制したりする目的で、近接した複数の感染事例の情報を収集する際に使われたので、その点は、一般的な疫学用語としての「クラスター」と共通している。
日本の新型インフルエンザ対応における用法
[編集]日本における2009年新型インフルエンザの流行に対しては、「クラスターサーベイランス」がおこなわれた。これは「集団(学校、施設、家族等さまざまな集団)におけるインフルエンザの続発にかかる情報収集」[7] と定義される。医師、学校、施設等からの連絡に基づき、同一の集団(学校、施設等)における複数のインフルエンザ患者の発生を保健所が把握する。7日以内に複数の患者が発生していること[8] が目安である。たとえば学校に対しては、同一学級または部活動等の単位でインフルエンザ様症状(38度以上の発熱があって、鼻汁もしくは鼻閉、咽頭痛、咳のどれかがある状態をいう)による欠席が7日間に2名以上出たときは、迅速に保険所に連絡することを要請していた[9]。
この当時用いられていた「クラスター」は、不特定の者が参加する催物や1回きりの会合などでの感染は対象としない。特定のメンバーが日常的に接触を繰り返す集団内での複数患者の発生を指す用語である。また、患者同士が同一の感染ネットワーク上にあることも要件としない。
当時の行政文書ではしばしば「クラスター(集団発生)」のようにカッコ書き付きであり、「集団発生」の同義語というあつかいであった。一般向け報道では「集団発生」あるいは「集団感染」を使っていて[10] [11] [12]、「クラスター」の語を使うことはほとんどなかった。
日本の新型コロナウイルス感染症対応における用法
[編集]日本においては、2020年(令和2年)の新型コロナウイルス感染症流行に伴い、2月24日に開催された新型コロナウイルス感染症対策専門家会議(以下「専門家会議」と呼ぶ)第3回会議での検討結果を踏まえて翌25日政府の新型コロナウイルス感染症対策本部(以下「対策本部」と呼ぶ)が決定した「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」[13] が「クラスター」という語を多用したことから、その後報道等で頻出するようになった。本来は、特定の環境においてひとりの感染者が大量の2次感染を起こすスーパー・スプレッダーを示す便宜的な表現として考案された用語だった[14](p23)。しかし当時の政府文書は、スーパー・スプレッダーに着目することを図によってほのめかすにとどまり[15]、文章による明確な定義を示さなかった。その後、異なる意味を持つ「クラスター」の使用が並立することになり、スーパー・スプレッダーとは関係ない内容に変わっていく[16]。
「クラスター」の法的定義としては、鳥取県が2020年8月27日に公布した条例による「不特定又は多数の者が立ち入り、又はとどまる施設又は催物において新型コロナウイルス感染症の患者……が複数生じた場合における患者の集団であって、その人数が5名以上であるもの」[17] という規定がある。他の地方公共団体にはクラスターを定義する条例はないが、感染状況に関する情報の発表などで、同様の定義が事実上の標準として使われていた[18]。1箇所での大人数の感染という現象は、当初は「集団感染」と呼ばれていた[19] が、専門家会議が3月2日に公表した「新型コロナウイルス感染症対策の見解」[20](pp6-7) がはじめて「クラスター」と表現した。厚生労働省は、この意味での「クラスター」について、それが発生しやすい環境は「3つの密」が重なる場所であると指摘し、3つの密を避けるように国民に呼びかけた[21]。なお、5名以上という基準は、2020年3月17日に厚生労働省が公表した「全国クラスターマップ」改訂版[22] で使われたものである[注 2]。2020年夏以降になると、日本政府は2名以上が1箇所で感染した事例を「クラスター」として数えるようになり[26]、5名以上という基準を維持する地方公共団体発表とのあいだに齟齬が生じた[16]。
もうひとつの定着した用法は、誰から誰に感染したかというネットワーク(通常、有向グラフとして表現される)を把握して、つながりのある感染者の集団を「クラスター」と呼ぶものである[27]。保健所がおこなう積極的疫学調査のために国立感染症研究所が作成したマニュアルの2020年(令和2年) 2月27日版に「連続的に集団発生を起こし(感染連鎖の継続)、大規模な集団発生につながりかねないと考えられる患者集団を指す」[28] とある例が最も古い。3月15日に厚生労働省が初めて公開した「全国クラスターマップ」[23] も、「感染者間の関連が認められた集団(クラスター)を地図上に表示した」[29] ものであった[注 2]。対策本部が3月28日に作成した「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」[30] も、「患者間の関連が認められた集団」をクラスターとしている。この「基本的対処方針」は、2023年5月8日に廃止されるまで3年以上、改訂を重ねながらもおなじクラスター定義を使いつづけた[31]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ Agency for Toxic Substances and Disease Registry, U.S. Department of Health and Human Services (2000年8月30日). “Definition of Disease Clusters” (英語). Case Studies in Environmental Medicine (CSEM). Disease Clusters: An Overview. 2009年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月11日閲覧。
- ^ John M. Last 著、日本疫学会, 重松逸造, 青木国雄 訳『疫学辞典』(第3版)日本公衆衛生協会、2000年。ISBN 4819201670。 NCID BA45495395。
- ^ 吉田眞紀子 著「これだけは押さえておきたい感染症疫学用語」、吉田眞紀子, 堀成美 編『感染症疫学ハンドブック』医学書院、2015年、290-297頁。ISBN 9784260020732。 NCID BB18801361。
- ^ 浦島充佳『パンデミックを阻止せよ! : 感染症を封じ込めるための10のケーススタディ』(新型コロナウイルス対応改訂版)化学同人〈DOJIN選書 84〉、2020年。ISBN 9784759816846。 NCID BB3134189X。
- ^ a b Johan Giesecke 著、山本太郎 訳『感染症疫学: 感染症の計測・数学モデル・流行の構造』(新版)昭和堂、2020年。ISBN 9784812219355。 NCID BC01704084。
- ^ 高嶋直敬 著「疫学の草分け:John Snow」、日本疫学会, 三浦克之, 玉腰暁子, 尾島俊之 編『疫学の事典』朝倉書店、2023年、534-535頁。ISBN 9784254310979。 NCID BD00456483。
- ^ 新型インフルエンザ対策推進本部事務局 (2009年6月10日). “新型インフルエンザの早期探知等にかかるサーベイランスについて(依頼)” (PDF). 厚生労働省. 事務連絡 (各都道府県・保健所設置市・特別区 衛生主管部(局)長宛). 2024年4月16日閲覧。
- ^ 厚生労働省 新型インフルエンザ対策推進本部事務局 (2009年6月25日). “新型インフルエンザにかかる今後のサーベイランス体制について” (PDF). 厚生労働省. 事務連絡 (各都道府県・保健所設置市・特別区 衛生主管部(局)長宛). 2024年4月16日閲覧。
- ^ 厚生労働省 新型インフルエンザ対策推進本部事務局 (2009年7月24日). “新型インフルエンザ (A/H1N1) に係る今後のサーベイランス体制について” (PDF). 厚生労働省. 事務連絡 (各都道府県・保健所設置市・特別区 衛生主管部(局)長宛). 2024年4月16日閲覧。
- ^ 「集団発生、新型と見抜けず (特集「新型インフルエンザ」)」『JIJI.COM』時事通信社、2009年。2024年4月18日閲覧。
- ^ 「新型インフルの集団感染1.5倍 1週間で1330件」『朝日新聞DIGITAL』朝日新聞社、2009年9月2日。2024年4月18日閲覧。
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- ^ a b c 田中重人「日本のCOVID-19 対応における多義語「クラスター」の用法: 2020 年の記録」『文化』第86巻第3/4号、東北大学文学会、2023年、239-219頁、CRID 1050298211930578048、hdl:10097/0002000300、ISSN 03854841。
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- ^ 田中圭太郎 (2020年3月19日). “厚労省作成「コロナクラスターマップ」こんなにお粗末”. FRIDAY DIGITAL. 2024年1月27日閲覧。
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- ^ “クラスター、全国2000カ所以上で発生”. 東京新聞. (2020年11月12日) 2024年1月27日閲覧。
- ^ 神垣太郎, 砂川富正 著「感染症アウトブレイク」、日本疫学会, 三浦克之, 玉腰暁子, 尾島俊之 編『疫学の事典』朝倉書店、2023年、8-9頁。ISBN 9784254310979。 NCID BD00456483。
- ^ 国立感染症研究所感染症疫学センター (2020年2月27日). “新型コロナウイルス感染症患者に対する積極的疫学調査実施要領: 患者クラスター(集団)の迅速な検出の実施に関する追加”. 国立感染症研究所. 2024年4月18日閲覧。
- ^ “新型コロナウイルス感染症について”. 厚生労働省 (2020年3月15日). 2020年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月15日閲覧。
- ^ 新型コロナウイルス感染症対策本部 (2020年3月28日). “新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針”. 内閣官房. 2024年1月27日閲覧。
- ^ “基本的対処方針に基づく対応”. 内閣感染症危機管理統括庁. 新型コロナウイルス感染症について(国民の皆さま). 2024年1月27日閲覧。
関連項目
[編集]- 疫学
- がんクラスター
- スーパー・スプレッダー
- ソーシャルディスタンス
- 3つの密
- Cuzick–Edwardsテスト(Cuzick–Edwards test)
- Corbyの有毒廃棄物訴訟(Corby toxic waste case)