ソビエト連邦
- ソビエト社会主義共和国連邦
- Союз Советских Социалистических Республик
-
←
←
←
←1922年 - 1991年 ↓ (国旗) (国章) - 国の標語: Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
(万国の労働者よ、団結せよ!) - 国歌: Интернационал
インターナショナル
(1922–1944)
Государственный гимн СССР
初代 ソビエト連邦国歌
(1944–1955) [注釈 1]
2代目 ソビエト連邦国歌
(1955–1977)[注釈 2]
3代目 ソビエト連邦国歌
(1977–1991) [注釈 3]
3代目 ソビエト連邦国歌 (演奏版)
(1977–1991)
1945年以後のソビエト連邦領(実効支配地域含む)-
公用語 ロシア語(事実上) 首都 モスクワ
クイビシェフ(1941年-1943年、臨時首都)- 国家元首
-
1922年 - 1946年 ミハイル・カリーニン(初代)[役職 10] 1988年 - 1991年 ミハイル・ゴルバチョフ(最後)[役職 11] - 首相
-
1923年 - 1924年 ウラジーミル・レーニン(初代)[役職 12] 1991年 - 1991年 イワン・シラーエフ(最後)[役職 13] - 面積
-
1922年 19,553,129km² 1933年 21,352,572km² 第二次世界大戦後 22,402,200km² - 人口
-
1933年 163,166,100人 1970年 242,768,000人 1991年 293,047,571人 - 変遷
-
十月革命 1917年11月7日 建国 1922年12月30日 承認 1924年2月1日 一党独裁体制の放棄 1990年3月14日 8月クーデター 1991年8月19日 - 22日 ソビエト共産党の解散勧告 1991年8月24日 解体消滅 1991年12月26日
通貨 ソビエト連邦・ルーブル 時間帯 UTC +2 - +13(DST: なし) ccTLD .su 国際電話番号 +7 現在 ロシア
ベラルーシ
ウクライナ
モルドバ(沿ドニエストル共和国を含む)
ジョージア
アルメニア
アゼルバイジャン
カザフスタン
ウズベキスタン
トルクメニスタン
キルギス
タジキスタン
エストニア
ラトビア
リトアニア -
先代 次代 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
白ロシア・ソビエト社会主義共和国
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国ロシア
ベラルーシ
ウクライナ
モルドバ
グルジア
アルメニア
アゼルバイジャン
カザフスタン
ウズベキスタン
トルクメニスタン
キルギス
タジキスタン
エストニア
ラトビア
リトアニア
ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、ロシア語: Союз Советских Социалистических Республик 、頭字語: СССР[注釈 4])は、1922年から1991年までユーラシア大陸北部に存在した社会主義国家。複数のソビエト社会主義共和国から構成される連邦国家であった。首都はモスクワ。
国土面積は約2,240万km2で、世界最大の面積を有していた。国土の南西ではアジアとヨーロッパの各国と国境を接しており、一方の北東部では、海を挟んで北アメリカ大陸と向かい合っていた。人口は1991年時点で2億9,010万人に達し、当時の世界において中国・インドに次ぐ第3位であった[1]。
第二次世界大戦後、解体するまでの40年以上に渡り、米国と並ぶ世界の超大国の地位を維持していた。「ソビエト帝国」とも呼ばれ、軍事力や経済力、代理戦争、発展途上国への影響力、宇宙技術や兵器を中心とした科学研究への資金提供などで、東中欧をはじめ世界的に覇権を行使していた[2][3]。
概要
[編集]ソビエト連邦は、1917年にウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキが、二月革命により成立したロシア臨時政府を転覆した十月革命を起源とする。ボリシェヴィキは憲法で保障された世界初の社会主義国家であるロシア社会主義ソビエト共和国を樹立したが、十月革命がもたらした緊張はボリシェヴィキの赤軍と、白軍に代表される反ボリシェヴィキの諸勢力との間で行われるロシア内戦へと発展した。
ボリシェヴィキを脅威と見る協商国による干渉を受けつつも、赤軍は1920年までに内戦での勝利を決定的なものとし、十月革命後ロシア共和国からの分離独立を果たしていた諸地域(ウクライナなど)を1921年までに占領して、各地にボリシェヴィキが支配するソビエト共和国を樹立した[4][5]。ボリシェヴィキは旧ロシア帝国領の再統合を企図し、1922年12月30日にロシア、ウクライナ、ザカフカース、白ロシア(ベラルーシ)の4つのソビエト共和国から成るソビエト連邦(以下ソ連)を成立させた[4][5]。
1924年のレーニンの死後に党内闘争を経てヨシフ・スターリンが政権を掌握し[6]、共産党内外で反対派を弾圧し、計画経済体制を確立した。その結果、急速な工業化と強制的な集団化の時期を迎え、著しい経済成長を遂げたが、1932年から1933年にかけて人為的な飢饉を引き起こした。また、収容所制度もこの時期に拡大した。スターリンはまた、政治的パラノイアを煽り、軍事指導者、共産党員、一般市民を問わず大勢逮捕し、強制労働場に送るか死刑を宣告することによって、自分の実際の敵、認識上の敵を党から排除する大粛清を実施した。
1939年8月23日、西側諸国との反ファシスト同盟の構築に失敗した後、ソ連はナチス・ドイツと不可侵条約を締結した。第二次世界大戦の開戦後、中立国だったソ連は、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニアの東部地域を含む東欧諸国に侵攻し、領土を併合した。1941年6月、ドイツ軍がバルバロッサ作戦によりソ連領を侵略し、独ソ戦が幕を開けた。スターリングラード攻防戦などで枢軸国と交戦する過程で、ソ連の戦死者が連合国の死傷者の大半を占めた。ソ連軍は最終的にベルリンを占領し、1945年5月9日、ヨーロッパでの第二次世界大戦に勝利した。赤軍が制圧した地域は、東側諸国の衛星国となった。1947年、東西冷戦が勃発し、東側諸国は西側諸国と対峙し、西側諸国は1949年にはNATOに統合されることになる。
1953年3月5日、スターリンの死後、ニキータ・フルシチョフの指導のもと、非スターリン化、雪どけと呼ばれる時期が訪れた。何百万人もの農民が工業化された都市に移動し、国は急速に発展した。ソ連は、史上初の人工衛星と人類初の宇宙飛行、他の惑星である金星への初の探査機の着陸により、宇宙開発競争で早くから主導権を握った。1970年代、米国との関係は一時的にデタント状態になったが、1979年にソ連がアフガニスタンに軍を展開すると緊張が再開された。この戦争で経済資源が枯渇し、それに合わせるようにアメリカのムジャヒディン戦闘員への軍事援助がエスカレートしていった。
1980年代半ばに、ソ連最後の指導者ミハイル・ゴルバチョフが、グラスノスチとペレストロイカという政策で、さらなる改革と経済の自由化を目指した。その目的は、共産党を維持しつつ、経済の停滞を逆転させることだった。彼の在任中に冷戦が終結し、1989年には中・東欧のワルシャワ条約機構諸国がそれぞれのマルクス・レーニン主義体制を打破した。ソ連全土で強力な民族主義・分離主義運動が勃発した。ゴルバチョフは、リトアニア、ラトビア、エストニア、アルメニア、グルジア、モルドバがボイコットした国民投票を実施し、過半数の国民がソ連を新たな連邦として存続することを支持する結果となった。1991年8月、共産党の強硬派によるクーデターが発生したが、ロシア共和国大統領エリツィンを中心に阻止され、失敗に終わった。その結果、共産党への信頼は失墜し、ロシアとウクライナを中心とする共和国が独立を宣言した。1991年12月25日、ゴルバチョフが辞任した。ソビエト連邦の崩壊により、すべての共和国がポストソビエトの独立国として誕生した。ロシア連邦はソビエト連邦の権利と義務を引き受け、世界情勢においてその継続的な法的人格として認識されている。
ソ連は、社会的・技術的に多くの重要な成果を上げ、軍事力に関しても革新的なものを生み出した。日本やイギリス、西ドイツに抜かれるまでは世界第2位の経済力と世界最大の常備軍を誇り、公式核保有国である5か国の1つとして認識されていた。国連安全保障理事会の創設常任理事国であり、OSCE、WFTU、経済相互援助会議、ワルシャワ条約機構の主要国であった。
国名・象徴
[編集]国名の由来
[編集]ソビエト(露: Совет)というロシア語は「評議会」の意味[注釈 5]をもち、スラヴ祖語のvět-iti(「知らせる」)の動詞語幹から派生したものである。労働者の代表による評議会としての「ソビエト」は、1905年のロシア第一革命の中で初めて出現した[7][8]。それらのソビエトは帝国政府によって速やかに解散させられたが、1917年の二月革命による帝政の崩壊後、ロシア各地で労働者や兵士がソビエトを組織し、首都ペトログラードの労働者・兵士代表ソビエトはロシア臨時政府に対抗し得る権力を有した[7][5]。この二重権力状態の中で、ボリシェヴィキは「全権力をソビエトへ」のスローガンを掲げて臨時政府と対立し、1917年10月(旧暦)にはソビエトの名の下に武装蜂起を実行して臨時政府から権力を奪取した(十月革命)[9]。1918年1月、ボリシェヴィキは「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の建国を宣言し、1922年12月30日には同国と他のソビエト共和国を統合する連邦国家として「ソビエト社会主義共和国連邦」を成立させた[5][10]。ソビエト連邦の政治基盤は人民の代表によるソビエトと憲法で定められていたが、実際の政治的権力はボリシェヴィキの後継である共産党によって掌握されていた[5][11]。(ソビエト連邦#政治も参照)
国名の表記
[編集]ロシア語表記の正式名称はСоюз Советских Социалистических Республик[注釈 6]。通称はСоветский Союз[注釈 7]で、国歌の歌詞にも使用されている。略称はСССР、またはラテン文字でSSSRとなるが、これは正式名称を音訳すると「Soyuz Sovietskikh Sotsialisticheskikh Respublik」となるためである。英語表記の正式名称は、Union of Soviet Socialist Republics、通称はSoviet Union、略称はUSSRが用いられる。
日本語表記では「ソビエト社会主義共和国連邦」が用いられる。通称は、ソビエト連邦(「ソビエト」は「蘇維埃」「ソヴィエト」「ソヴィエット」「ソヴェト[12]」「ソヴエト」「ソヴェート」「ソベート[13]」「ソブイエト[14]」「ソウエト[15]」「ソウェート」「ソウエート[16]」「ソウエット[17]」「ソウエツト[17]」「サウエト[18]」「サウェート[19]」「サウエート[20]」「サウエット[21]」「サウィエート[22]」、より原語に近づけて「サヴィェート」とも)。略称はソ連邦、ソ連、または単にソビエトやソヴィエトともする。漢字では蘇聯邦、蘇聯などと表記され、蘇と略される。
第二次世界大戦後、少なくともヨシフ・スターリンが1953年に死去するまでの日本ではソヴェト同盟の表記が主流であり、ソビエト連邦の表記は前者に比べれば劣勢であった。しかし、ソ連が「Союз とは Федерация(連邦)である」と説明し、在日ソ連大使館も戦前から一貫して「連邦」の訳語を使用したことから[注釈 8]、1950年代後半から現在まで、「連邦」が優勢となっている。
構成共和国のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の国名にも「連邦」の文字が含まれるが、こちらは Союз ではなく Федерация の訳である。旧ソ連圏の統合を目指しているユーラシア連合やユーラシア経済連合の Союз は「連合」と訳されている。日本語読みでは Союз はソユーズで知られる。ソ連を構成したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国と、その後継国家ロシア連邦は「Федерация(連邦)」である。
ソビエト連邦は、国名に固有名詞(地名)を含まない世界でも希有な例であるが、連邦を構成する各共和国の国名には「ロシア・ソビエト連邦共和国」など地名が含まれている。
一部の西側諸国ではソビエト連邦全体を指して「ロシア」(Russia)と呼び続ける例も多かった。日本では労農ロシア[23]や赤露[24]などとも呼ばれたが、「ソ連」「ソビエト」(NHK等)「ソビエト連邦」が一般化した。
象徴
[編集]ソビエト連邦における国家の象徴として用いられたのは、赤い星ならび鎌と槌をベースとした国章であった。これはソビエト国家ならびに十月革命を体現する構成国家と共産革命における特徴的な記号として大きな意味を持つものとなっていた。
歴史
[編集]ロシアの歴史 | |
---|---|
この記事はシリーズの一部です。 | |
ヴォルガ・ブルガール (7c–13c) | |
ハザール (7c–10c) | |
キエフ大公国 (9c–12c) | |
ウラジーミル・スーズダリ大公国 (12c–14c) | |
ノヴゴロド公国 (12c–15c) | |
タタールの軛 (13c–15c) | |
モスクワ大公国 (1340–1547) | |
ロシア・ツァーリ国 (1547–1721) | |
ロシア帝国 (1721–1917) | |
ロシア臨時政府 / ロシア共和国 (1917) | |
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 / ソビエト社会主義共和国連邦 (1917–1991) | |
ロシア連邦 (1991–現在) | |
ロシア ポータル |
ロシア革命
[編集]1917年3月8日(ロシア暦2月23日)に首都ペトログラードで起こったデモに端を発する二月革命により、ロシア帝国は崩壊して漸進的な改革を志向するロシア臨時政府が成立した[25]。臨時政府は第一次世界大戦への参戦継続を決定したが、ドイツ軍との戦線はすでに破綻しており、国内の政治的混乱にも収拾のめどはついていなかった。他方、二月革命の中で労働者・兵士の代表によるソビエト(会議、評議会)がロシア各地で組織され、中でも最大の影響力を持つペトログラード労働者・兵士代表ソビエトと臨時政府の間では「二重権力」状態が生じた[5]。
1917年8月、ラーヴル・コルニーロフ将軍が臨時政府に対する反乱を起こし、それがソビエトの力によって鎮圧されると、ソビエト内ではウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキに対する支持が高まった[26]。ボリシェヴィキは、かねてよりソビエトへの全権力の集中を訴え、戦争継続を主張する臨時政府との対決姿勢を露わにしていた[26]。同年10月、ボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、11月7日(ユリウス暦10月25日)に首都ペトログラードのほぼ全域を制圧し、臨時政府から権力を奪取した(十月革命)。この11月7日が、ロシア革命記念日である。同日に開催された第2回全ロシア・ソビエト大会では、ソビエトによる体制の成立と、新政府である人民委員会議の成立が宣言された。首相にあたる人民委員会議議長にはレーニン、外務人民委員にはレフ・トロツキー、民族問題人民委員にヨシフ・スターリンが就任している[27]。ソビエト政権はモスクワ近郊を制圧し、11月10日には左派社会革命党を政権に取り込んだ。1918年1月10日からは第3回全ロシア・ソビエト大会が開催され、ロシアが労働者・兵士・農民のソビエトの共和国であると宣言され、連邦制をとるとした宣言が採択された(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国)[28]。
1918年3月、ボリシェヴィキはドイツ帝国を含む中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結し、第一次世界大戦から離脱したが、以降は連合国によるシベリア出兵の干渉戦争や、白軍など反革命勢力とのロシア内戦 (1917-22) に対処することになった[29]。一方で、ウクライナ人民共和国やアゼルバイジャンのバクー・コミューンなどボリシェヴィキ派のソビエト政権も各地で次々に樹立された[30]。これらの各政権は独立国であったが、ロシア・ソビエト政府の一部であると自らを定義することもあった[31]。
ロシア内戦
[編集]十月革命の直後から始まったロシア内戦は、1918年5月のチェコ軍団の反乱を契機に本格化した[32]。ソビエト政府は内戦中に経済政策として戦時共産主義を導入したが、これは農業と工業の崩壊を招き、数百万人の餓死者を出した[33]。土地の国有化によって地主階級も自作農(フートル農、オートルプ農)も消滅し、三圃制にもとづく農村共同体が復活したが、農業生産には重大な打撃が生じた[34]。1918年5月の食料独裁令で農産物は国家専売とされ、自由取引は禁止された[34]。第一次世界大戦後、経済復興のために農民は、十分な食料供給と生産が義務化された[34]。1920年は凶作となり、重い負担に不満をもった農民は西シベリアやタンボフ県で反乱を起こした[35]。1921-1922年にはロシア飢饉が発生し、農民反乱の拡大が政権を脅かすことを懸念したレーニンは、1921年より戦時共産主義に代わる新経済政策(ネップ)を導入し、穀物の強制徴収は廃止され、部分的に市場経済が取り入れられた[4]。
1920年、ロシア内戦におけるボリシェヴィキの勝利は決定的となった[5]。1921年までに、赤軍は十月革命後ロシアから分離独立を果たしていたウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースの民族国家を侵攻し、占領することに成功した[4]。同時に、ボリシェヴィキはそれらの地域(ウクライナ、ベラルーシ、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアなど)でソビエト政権を樹立した[4][30]。
ソビエト連邦の成立
[編集]ロシア内戦が収束に向かうと、各地のソビエト政権の間では統合への動きが強まった[36]。ロシア共産党の手によって各地の革命政権との統合が進行し、1920年にはロシア連邦共和国とアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の間で、緊密な軍事的・政治的な同盟条約が締結され、ウクライナ、白ロシア、グルジア、アルメニアとも同様の条約が結ばれた[37]。これらの国々は憲法を持つ主権国家ではあったが、最高機関は全ロシア・ソビエト大会と全ロシア中央執行委員会であり、ロシア連邦共和国の主導権は明確であった[38]。
1921年1月には、燃料危機、運輸危機、食糧難が連鎖的に発生し、3月にはクロンシュタットの反乱も起き、党内でも党内の民主化を求められた[35]。党指導部は党員が過剰であるとの理由で「党の総粛清」を開始、党歴の長さに応じてヒエラルヒーがつくられ、古参党員による寡頭支配が成立していった[35]。
1922年5月にはレーニンが脳出血で倒れ、一命は取り留めたものの影響力は急速に低下した[39]。4月にはスターリンがロシア共産党の書記長に就任、党組織を掌握し始めた[40]。8月にはソビエト政権の統合のための委員会が設置され、スターリンが主導者の一人となった。スターリンは9月に各政権が自治共和国として、ロシア・ソビエト社会主義共和国連邦に加入するという統合形式を発表した[31]。この意見はグルジア以外のソビエト共和国の賛成を得て採択されたものの、各共和国にとっては不満の残るものであり、レーニンの指導によって10月の中央委員会では、各共和国が対等な共和国として連邦に加入するという形式が定められた[41]。しかし、この修正ではザカフカースの3共和国がいったん連邦となってから加入することが定められたため、グルジアでの猛反発を招いた(グルジア問題)[41]。反対派は次第に追い詰められ、これによってザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国が成立している[42]。
1922年12月には第1回ソビエト連邦全連邦ソビエト大会が開催され、12月30日にロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の4国が平等な立場で加盟するとしたソビエト社会主義共和国連邦の樹立を宣言する[39]連邦結成条約が調印された。この連邦には各国が自由な意志で参加・脱退できると定められており、新たな最高機関の設立も決定された。
1923年、スターリンら党内主流派は、ソ連体制の正当性を工場労働者からの支持に見出し、労働者の入党キャンペーンを展開したが、さらに党内対立を招いた[43]。工場労働者を支持母体とみなす一方で、農民は潜在的には「敵」(反革命分子)とみなされた[35]。
1924年1月31日には最初のソビエト連邦憲法が成立した[39]。
1924年にレーニンが死亡したが、生前にはスターリンとトロツキーの対立を憂い、スターリンを警戒するようになっていた[40]。スターリンはまずトロツキーを孤立させ、次いでレーニンの側近だったグリゴリー・ジノヴィエフや、レフ・カーメネフ、カール・ラデックらを攻撃した。1927年にはトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフを党から除名したことで、明らかな優越者としての地位を確保し、[40]スターリンは正式に最高指導者になった。
外交面では連合国の直接干渉自体はなくなったものの、ソビエト政権が旧ロシア帝国の債務支払いを拒否したため、関係改善は進まなかった[44]。一方で国際的に孤立していたヴァイマル共和政下のドイツはソ連と接近し、賠償の相互放棄を定めたラパッロ条約の締結となった[45]。ドイツ軍はソビエト領内で軍事開発を秘密裏に行い、ソ連はそれによって情報を取得するという関係も築かれた[45]。この後、中東諸国や中華民国との国交が成立したものの、1925年にはロカルノ条約の成立によってドイツが西欧諸国側になったと受け止められた。これに対してソ連は東欧諸国やフランスと不可侵条約を締結することで対抗しようとした。
一国社会主義と五カ年計画
[編集]一方でコミンテルンは各国の共産主義運動を支援する世界革命を目指していたが、一国社会主義を唱えるスターリンの勝利によって、その運動はソ連を守るためのものとなった[46]。1925年5月スターリンは「ロシアのような後進国でも完全な社会主義を実現できる」とする一国社会主義論を唱え、金属工業を重視した[43]。しかし、1925年には「商品飢饉」が起きると、スターリン政権は、穀物や木材の輸出による利益(差益)による解決を決定し、農民から穀物を安く買い上げた[43]。
ネップで農業生産は拡大したが、商品価値の高い生産に集中するようになり、穀物の供給が滞るようになった[47]。スターリンはネップを終わらせ、計画経済への転換によるソ連の工業化をはかった。1928年から第一次五カ年計画が始まり、鉄鋼生産の増強、農業の集団化、電化や機械化に重点を置いた工業化が達成された。1928年と1937年を比較すると、石炭は3倍強、粗鋼は4倍強の生産高に達しており[48]、工業全体では第一次で2倍、第二次五カ年計画で2.2倍に達したといわれる[49]。同時期に欧米諸国が世界恐慌によって多数の失業者を出し、経済を縮小させたのと比較して、ソ連の経済成長率は世界最高を記録した。
農業集団化とクラーク撲滅
[編集]1927年秋には、農産物を安く買い取る国への販売を農民がしぶったため、穀物の調達難が起こり、都市の食糧難が発生し、これはスターリンの構想を崩壊させかねない危機となった[50]。スターリンは穀物調達難の原因を「クラーク(富農)」にあると決めつけ弾圧を強め[50][51]、1929年12月には「クラーク階級の抹殺」を宣言した[52]。また、農民を集団農場コルホーズへ編入させ、強引な農業集団化を推進した[50]。餓死者の報告に対して、スターリンは集団化による飢饉は「作り話」で「悪意ある噂」であるとみなし[53]、1932年8月の社会主義的財産保護法で穀物を「横領」した者には全財産の没収をともなう死刑、または10年の自由剥奪に処された[54]。1932年末から1933年初めに国内パスポートが義務づけられたが、農民には交付されなかったため、農民は仕事をもとめて都市に行くこともできなくなった[54]。1932年から1934年にかけてウクライナ、北カフカース、ヴォルガ流域、カザフスタンで飢饉が発生し、数百万人が犠牲となった[50]。カザフスタンでは農業集団化による100万人が死亡し[55]、30%の農民が中国に逃亡した。ウクライナでは400万から600万人が飢饉の犠牲となった[51](ホロドモール)[56]。北カフカースでも100万人が犠牲になった[55]。ソ連全体の餓死者は600万人から700万人ともいわれ[57]、犠牲者数は諸説ある。さらに工業賃金も上昇せず、労働者の実質賃金も12%近く減少した[49]。
クラーク(富農)と認定された農民は何百万人も極北やシベリアの強制収容所(グラグ)に強制移住させられた[50]。白海・バルト海運河計画などの大規模インフラの建設には、クラークや弾圧された共産党員ら囚人労働者が動員された。レーニンから「党の寵児」と呼ばれ、穏健な計画を唱えたニコライ・ブハーリンはこの時期に失脚した[58]。1930年代の富農撲滅運動では650万人が犠牲となり、強制収容所では350万人が死亡した[55]。
戦間期の外交
[編集]外交面では、コミンテルンは当初社会ファシズム論を唱え、社会民主主義勢力への批判を強めていたが、ファシズムやナチズムについてはむしろ容認していた[46]。しかし、ヒトラー内閣成立後、1933年11月にアメリカと国交を樹立。1934年9月には国際連盟に加盟し、常任理事国となった。折りしもドイツではナチ党政権が成立し(ナチス・ドイツ)、1935年には再軍備を宣言した。ソ連はこれに対抗するために、フランスと手を結ぶ東方ロカルノ政策で対抗しようとし、1935年に仏ソ相互援助条約が締結された[59]。コミンテルン第7回大会においても反ファシズム統一戦線の方針が確認され、人民戦線戦術がとられるようになった[60]。赤軍は1934年には60万人から94万人、1935年には130万人に拡大され、1937年にソビエト連邦海軍の設置が行われるなど急速な拡大が続けられた[61]。
しかしながら、イギリス・アメリカ・フランスなど資本主義陣営の中で、ファシズムより共産主義に対する懸念は依然として強く、むしろファシズムを共産主義に対する防波堤として利用しようとする向きもあった。特にそのソ連敵視が如実に表れたのが1936年の第二次エチオピア戦争であり、ファシズムのイタリアによるエチオピア侵攻という事態に対して、ソ連はイタリアに対する非難を行うも、イギリス・フランスはイタリアとの戦争を懸念して何ら制裁を課すことはしなかった。英仏の態度に失望したスターリンは、さらにミュンヘン会談における両国のナチスに対する譲歩がソ連への侵攻を容認しているのではないかという疑惑を深めていく[要出典]。
大粛清
[編集]急進する集団化と工業化については、党内のセルゲイ・キーロフやグリゴリー・オルジョニキーゼらといった勢力が穏健化を求めるようになった。その最中に起こった1934年のキーロフ暗殺事件以降、スターリンにより党内の粛清が激化し、ブハーリン、ゲオルギー・ピャタコフ、レーニンの後継人民会議議長であったアレクセイ・ルイコフ、ジノヴィエフ、カーメネフらといった有力党員、ミハイル・トゥハチェフスキーらといった軍人が次々と処刑された。その他多くの党員や軍人、一般国民が死刑もしくは流罪などにより粛清された。この粛清はスターリンの配下である粛清の実行者ですらその対象となり、ゲンリフ・ヤゴーダ、ニコライ・エジョフらもその犠牲となっている。
流罪の受け入れ先として大規模な強制収容所(シベリアのコルィマ鉱山など)が整備された。大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる。この粛清によりスターリンの体制はより強固なものとなった[62]。1938年以降、スターリンが1953年に死去するまで党大会は1回、中央委員会は数回しか開かれず、重要決定は全てスターリンによって行われた[63]。
第二次世界大戦
[編集]1938年のアンシュルス後、ソ連は「明日ではもう遅すぎるかも知れない」と、英仏に対してファシスト勢力への具体的な集団的行動による対応を求めた[64]。しかしミュンヘン会談によるドイツへの宥和政策は、英仏がドイツの矛先をソ連に向けようとしているというソ連側の疑念を強めさせた[64]。
ソ連は軍事の拡大を急ぎ、世界最初の機甲部隊の整備を行うなどしていたが、大粛清で赤軍の幹部を失ったことでそのスピードは明らかに低下していた[65]。このため当時のソ連首脳はこの時期のソ連は経済建設期にあり、深刻な戦争には耐えられないと考えており、大戦争の先延ばしを基本政策としていた[66]。1939年、外相がヴャチェスラフ・モロトフに交代した。ポーランド危機が切迫する中、英仏と同時進行してドイツとも提携交渉を行い、8月23日には独ソ不可侵条約を締結した[67]。この条約にはポーランドとバルト3国の分割が付属秘密議定書において取り決められていた[68]。
9月ドイツ軍のポーランド侵攻の際にはソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともに侵攻し、ポーランドの東半分を占領した[67]。ソ連側はカーゾン線に沿った範囲であり、ウクライナ人・ベラルーシ人が多数居住する地方であると主張している[67]。
バルト三国に圧力をかけ、赤軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに侵攻、傀儡政権を成立させて併合した[69]。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した[70]。しかしフィンランドの抵抗で思わぬ損害を招き、国際連盟からも追放された[70]。
大祖国戦争
[編集]ドイツとの関係は一定の協調関係となっていたが、細部ではきしみが生じていた。ソ連側はドイツ側を刺激しないよう対応し、ドイツ側の侵攻を警戒する情報は放擲された[71]。1941年6月にドイツはバルバロッサ作戦を発動し、独ソ戦が勃発した。これをまったく予期していなかったスターリンはきわめて動転した[72]。英ソはドイツ打倒のために接近し、7月12日に英ソ両国の代表はモスクワに集まって英ソ軍事同盟を締結した。8月25日にはペルシア回廊といわれる補給線を確保するためイランに侵攻、その後占領下に置いた。
ドイツ軍の猛攻で首都モスクワに数十キロメートルにまで迫られ、レニングラード攻防戦やクルスクの戦いなどにより軍民あわせて数百万人の死傷者を出したが、スターリンは戦争を「大祖国戦争」と位置づけて国民の愛国心に訴え、ドイツの占領地で民衆を中心としたパルチザンを組織し敵の補給線を攪乱した。味方が撤退する際には焦土作戦と呼ばれる住民を強制疎開させたうえで家屋、畑などを破壊して焼却する作戦を行い、ドイツ軍の手には何も渡らないようにさせた。連合国側であり西部戦線でドイツ軍と戦うアメリカやイギリスによる膨大な軍事支援(レンドリース法)、また極東における日本による参戦がなかったこともあり、対ドイツ戦に専念できたソ連軍は気候や補給難に苦しむドイツ軍を押し返していった。熾烈な攻防戦の末、1943年2月にスターリングラードの戦いに勝利すると、これを契機にしてソ連は次第に戦局を有利に進めるようになる。1943年5月にはコミンテルンを解散した。
やがてドイツ軍の後退とともにソ連軍は東欧各国を「解放」した。東欧各国の民衆は、ドイツ軍の占領に対して抵抗の最前線に立った共産主義者たちを支持した。東欧各国の共産党は、赤軍の圧力と民衆の支持を背景に、ソ連型社会主義をモデルにした社会主義政権を各地で樹立した。1945年5月、ソ連軍はドイツの首都であるベルリンを陥落させ、ドイツ軍を降伏に追い込んだ。
1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告した。これは連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づくものであったが、ソ連軍は日本の千島列島や南樺太、朝鮮半島北部、そして日本の同盟国の満洲国に対し侵攻した。この際のソ連軍の行動は、中立条約の破棄や日本の民間人に対する暴虐、そして戦後の捕虜のシベリア抑留や北方領土問題など、戦後の日ソ関係に大きなしこりを生む原因となった。
終戦
[編集]第二次世界大戦の期間中に2700万以上のソ連国民が死亡するなど大きな犠牲を出した[73]。一方でその勝利に大きく貢献したことで国家の威信を高め、世界における超大国の地位を確立した。大戦期間中にはヤルタ会談などの戦後秩序構築にあたっての会議にも深く関与している。国際連合創設にも大きく関与し、安全保障理事会の常任理事国となっている。さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の併合、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させ、これらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。
極東では日本の領土であった南樺太および千島列島を占領し、領有を宣言した。さらに、1945年8月14日に連合国の一国にあたる中華民国との間に中ソ友好同盟条約を締結し、日本が旧満洲に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満洲鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた(中華人民共和国建国後に返還)。
冷戦の開始とフルシチョフ時代
[編集]戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、スターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義(西側諸国)陣営に対抗した。スターリン政権下ではベルリン封鎖などの行動や朝鮮戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。
1953年、スターリンが死去し、ゲオルギー・マレンコフとニキータ・フルシチョフによる共同指導体制が始まった。スターリン体制下で恐怖政治の主導者となったラヴレンチー・ベリヤは処刑され、スターリン路線の行き過ぎた独裁政策が大幅に緩和された[63]。1955年にはマレンコフが失脚し、フルシチョフによる指導体制が確立した。1956年にはスターリン批判を行い、大粛清への告発と、スターリン体制からの決別が表明された。これは東欧諸国にも強い衝撃を与え、各国では政治改革の動きや反体制運動(ポズナン暴動など)が発生したが、ハンガリー動乱には武力介入してこれを鎮圧した。反対派を殺害・処刑・投獄し、各国政権に圧力をかけ収拾させた。一方で、スターリン批判は中華人民共和国の反発を招き、中ソ対立が進行することになった。アルバニアのエンヴェル・ホッジャもスターリン批判を行ったソ連を非難し、ワルシャワ条約機構を脱退することに至る。朝鮮民主主義人民共和国ではソ連型の社会主義体制を目指すソ連派が金日成排除のクーデターを画策するが、失敗し、勢力が一掃された。
フルシチョフ時代にも軍拡は推し進められており、核兵器とミサイル兵器の配備が進んでいた。1962年のキューバ危機は核戦争の危機を世界に知らしめることになり、その後はアメリカとの関係は改善が進んだ(雪解け)。しかしベトナム戦争やアフリカ・南アメリカでの、代理戦争と呼ばれる紛争は継続していた。
フルシチョフは食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進んだ結果、ソ連は食料を国外から輸入しなければならない事態に追い込まれた。
停滞の時代
[編集]1964年に、フルシチョフは農業政策の失敗と西側諸国に対して寛容な政策をとったことを理由に失脚させられた。代わってレオニード・ブレジネフが指導者となった。しかし中華人民共和国とは、中ソ対立が激化したことによって、両国の関係はほぼ断絶状態に近くなり、1970年代には米中国交正常化による中華人民共和国の西側への接近を許すことになった。ソ連は東欧諸国を勢力圏下に置き続けるため、1968年には「制限主権論(いわゆるブレジネフ・ドクトリン)」の名の下にチェコスロバキア社会主義共和国の民主的改革(プラハの春)に対して介入し、ソ連は強い国際社会の批判を浴びるようになった。この状況でソ連は西側諸国との協調を図るようになり(デタント)、戦略兵器制限交渉などが行われた。
プラハの春を武力で弾圧した事実は、同じ共産主義陣営の中にも動揺を生んだ。中華人民共和国はソ連を「社会帝国主義」と批判し、ルーマニア社会主義共和国のニコラエ・チャウシェスクも同様にソ連を批判して西側諸国に接近し、独自外交を展開。1973年のチリ・クーデター後に誕生したアウグスト・ピノチェト政権に対してソ連を中心とした東側諸国が国交断絶を行う中で、中国とルーマニアは関係を維持し続けた。西側諸国の共産党においてもイタリア共産党やスペイン共産党がソ連型社会主義と決別するユーロコミュニズムを採択するなど、国際共産主義運動は分裂状態に陥った。
1963年2月、仏ソ通商条約。1965年、仏ソ原子力平和利用協定。そしてベトナム戦争でホー・チ・ミン率いる北ベトナムを支援した(旧フランス領インドシナ)。1969年にはかねて対立していた中華人民共和国と珍宝島/ダマンスキー島をめぐって中ソ国境紛争を戦った。1970年1月にイタリアと、2月には西ドイツと貿易協定。1971年3月、仏ソウラン協定。10月、仏ソ共同宣言・仏ソ新経済協力協定。1972年、ソ連は凶作のため穀物メジャーを頼った。1974年5月、英ソ経済協力協定。12月、仏ソ首脳会談で経済協力5カ年協定。1975年1月、米ソ通商協定破棄を通告。10月、米ソ穀物協定。1976年3月、日米ソ3か国がヤクート天然ガス探査協定。11月、米ソ漁業協定。1977年3月、排他的経済水域を実施[74]。
1979年12月、ソ連はアフガニスタンの共産主義政権がソ連と距離を取ろうとしていると見なして、アフガニスタンへの侵攻を行った。これはパキスタン、サウジアラビア、イランなどといった一部のイスラム諸国および西側諸国、中華人民共和国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招き、デタントの流れは終焉した。アメリカはチャーリー・ウィルソンらCIAの支援の下でイスラム・ゲリラに対して支援を行い、アフガニスタンでの戦闘は泥沼化して1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、多大な人命と戦費の損失を招いた。さらにソ連を「悪の帝国」と名指しで批判するロナルド・レーガン大統領政権下のアメリカとの軍拡競争がさらに激化するようになった。1983年9月には大韓航空機撃墜事件が発生したことで西側諸国との緊張はさらに増した。
ブレジネフ政権は18年にわたった長期政権だった。停滞しつつも安定し、ソ連の歴史上、初めて飢餓も騒擾事件も粛清もなくなった。その代わり、改革はまるで行われず官僚主義による党官僚の特権階級化(ノーメンクラトゥーラ)、ブレジネフ一族の縁故主義など体制の腐敗が進んだ。経済面でも、1960年代ごろまで10%を誇った成長率は次第に鈍化していった。そのツケは国民生活に回り、食料や燃料、生活必需品の配給や販売が滞るようになった。改革開放を始めた中華人民共和国を除き、東側諸国全体の経済も1970年代後半から停滞していく事になる。1980年代に入り西側諸国の豊かな生活の情報がソ連国内で入手できるようになると、国民は体制への不満と自由な西側への憧れを強めていくことになる。小麦の生産量は世界一だった農業も慢性的な不振となり、小麦をアメリカから輸入することが恒常化した。しかしデタントの終焉後は穀物輸入も逼迫し、さらに経済の悪化を招いた。技術競争でもアメリカや日本に大きな遅れをとるようになり、ソ連崩壊の直前はGNPも日本に抜かれて3位となる。
ペレストロイカ
[編集]1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコと老齢の指導者が相次いで政権の座に就いた。しかし、共に就任後間もなく闘病生活に入りそのまま病死したため、経済問題を中心とした内政のみならず、外交やアフガニスタン問題についてさえも具体的な政策をほとんど実行に移せず、ブレジネフ体制以来の長老支配を内外に印象づけることになった。
その後、この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開すべく、1985年3月に誕生したミハイル・ゴルバチョフ政権は社会主義体制の改革・刷新を掲げ、ペレストロイカ(改革)を推し進めた。ゴルバチョフの選出は一晩かけての会議で決定された。
これにより長きにわたった一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進められた。1988年にはそれまでのソ連最高会議に代わり人民代議員大会創設が決定され、翌年3月26日にはソ連初の民主的選挙である第1回人民代議員大会選挙が実施された。ゴルバチョフは人民代議員を国民の直接選挙で選ばせることによって、改革の支障となっていた保守官僚(アパラチキ)を一掃しようと試みた。1986年4月に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故の対応の遅れと隠蔽によってソ連の深刻な官僚主義体質が露呈すると、ゴルバチョフはグラスノスチを本格化させ、情報統制の緩和を進めた。これを受けて、ソ連国民の間では歴史の見直しや、活発な政治討論などが行われるようになった。
グラスノスチの進展にともない国民の間では民主化要求が拡大、それを受けてソ連共産党の指導的役割を定めたソ連憲法第6条は削除され、1990年にはソ連共産党による一党独裁制の放棄、そして複数政党制と大統領制の導入が決定された。同年3月15日、人民代議員による間接選挙によって、ゴルバチョフが初代ソ連大統領に選出された。同時期に当局の検閲を廃止した新聞法が制定された。
しかし、これらの一連の政治経済改革は一定の成果を上げた反面、改革の範囲やスピードをめぐってソ連共産党内の内部抗争を激化させた。特に保守派は、改革の進展により軍産複合体など自らの既得権益が失われることに強く反発した。そして、共産党はエリツィンら急進改革派とゴルバチョフら穏健改革派、そして保守派のグループに分裂した。党内の分裂もあって国内の経済改革は遅々としたものとなり、経済危機を一層深刻化させた。こうした状況の中でエリツィンは保守派が幅を利かせる共産党に見切りをつけ、1990年7月のソ連共産党第28回大会を機に離党し、ポポフ、サプチャーク、アファナーシェフ、サハロフらとともに非共産党系の政治組織である地域間代議員グループを結成、共産党に対抗した。一方、穏健改革派のゴルバチョフは保守派と急進改革派の板挟みになり、抜本的な改革を推進できなかった。
従来の中央集権型の指令経済を破棄し、市場メカニズムを導入することが図られたが、保守派の抵抗などで経済改革は遅れ、国内ではインフレと物不足が深刻化した。市民の間では、事態を打開できないゴルバチョフらソ連共産党に対する批判が高まった。こうした国民の不満を吸収したのがエリツィンら急進改革派である。1991年6月12日にはロシア共和国大統領選挙が実施されてエリツィン・ロシア共和国最高会議議長が当選し、7月10日に就任した。ロシア共和国大統領選挙と同日にモスクワ市長選挙、レニングラード市長選挙がそれぞれ実施され、ポポフがモスクワ市長に、サプチャークがレニングラード市長に当選した。こうした急進改革派の躍進は保守派を焦らせ、のちの8月クーデターへと駆り立てる要因の一つとなった。
民族問題の再燃と連邦制の動揺
[編集]ペレストロイカは東西の緊張緩和や東欧民主化、そしてソ連国内の政治改革において大きな成果を上げたものの、改革が進むにつれて共産党権力の弱体化と、連邦政府の各共和国に対する統制力の低下という事態を招いた。こうした中で、国内では封印されていた民族問題の先鋭化と各共和国の主権拡大を要求する動きが生まれた。
1986年12月にはペレストロイカ開始後初めての民族暴動であるアルマアタ事件がカザフ共和国で発生した。1988年からはナゴルノ・カラバフ自治州の帰属をめぐってアルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国との間に大規模な紛争が発生、グルジアやモルダヴィア共和国でも民族間の衝突が起きた。
1990年3月11日には反ソ連の急先鋒と見られていたバルト3国のリトアニア共和国が連邦からの独立を宣言、ゴルバチョフ政権は経済制裁を実施し、宣言を撤回させたものの、同年3月30日にはエストニア共和国が、5月4日にはラトビア共和国が独立を宣言した。1990年5月29日にはロシア連邦共和国最高会議議長に急進改革派のエリツィンが当選、同年6月12日にはロシア連邦共和国が、7月16日にはウクライナ共和国が共和国の主権は連邦の主権に優越するという国家主権宣言を行い、各共和国もこれに続いた。こうした民族運動の高揚と連邦からの自立を求める各共和国の動きは、ゴルバチョフ自身が推進したペレストロイカとグラスノスチによって引き起こされたと言える半面、連邦最高会議で保守派との抗争に敗れた急進改革派が各共和国の最高会議に移り、そこでそれらの運動を指揮しているという側面もあった。特にソ連の全面積の76%、全人口の51%、そして他の共和国と比較して圧倒的な経済力を擁するロシア共和国の元首に急進改革派のエリツィンが就任したことは大きな意味を持っていた。
従来の中央集権型の連邦制が動揺する中でゴルバチョフは連邦が有していた権限を各共和国へ大幅に移譲し、主権国家の連合として連邦を再編するという新構想を明らかにした。その上でまず枠組みとなる新連邦条約を締結するため各共和国との調整を進めた。1991年3月17日には新連邦条約締結の布石として連邦制維持の賛否を問う国民投票が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった[注釈 9]。この国民投票の結果を受け4月23日、ゴルバチョフ・ソ連大統領と国民投票に参加した9共和国の元首が集まり、その後、各共和国との間に新連邦条約を締結し、連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編を行うことで合意した。その際、国名をそれまでの「ソビエト社会主義共和国連邦」から社会主義の文字を廃止し、「ソビエト主権共和国連邦」に変更することも決定された。
冷戦終結
[編集]1987年12月にはアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約が締結され、翌1988年5月からはソ連軍がアフガニスタンから撤退を開始した。同時に東欧各国に駐留していたソ連軍の一部も、本国への引き上げを行った。
ゴルバチョフは1988年3月の新ベオグラード宣言の中でブレジネフ・ドクトリンの否定、東欧諸国へのソ連の内政不干渉を表明していたが、これを受け1989年から1990年にかけてドイツ民主共和国(東ドイツ)やハンガリー人民共和国、ポーランド人民共和国やチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。そのほとんどは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスク大統領が処刑され、流血の革命となった。ソビエト連邦はかつてのハンガリー動乱やプラハの春の時とは異なり、これらの衛星国における改革に対して不介入を表明し、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。
このような流れの中で、ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により東西の冷戦構造は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月2日から12月3日にかけて地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。
崩壊
[編集]国内では1991年8月20日の新連邦条約締結に向けて準備が進められていた。しかし、新連邦条約締結が各共和国の独立と自らの権力基盤の喪失に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフ副大統領、ウラジーミル・クリュチコフKGB議長、ドミトリー・ヤゾフ国防相ら8人のソ連共産党中央委員会メンバーらによって条約締結を目前に控えた8月19日にクーデターが発生、ゴルバチョフを軟禁して条約締結阻止を試みたものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、加えてアメリカやフランス、日本やイギリスなどの西側諸国の大半もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わった。
クーデターの失敗によって新連邦条約締結は挫折、クーデターを起こしたソ連共産党中央委員会メンバーらは逮捕された。クーデターを起こしたメンバーはいずれも共産党の主要幹部でゴルバチョフの直属の部下だったこともあり、共産党とゴルバチョフの権威は失墜した。8月24日、ゴルバチョフは共産党書記長を辞任し、同時に共産党中央委員会の解散を勧告、8月28日、ソ連最高会議はソ連共産党の活動を全面的に禁止する決議を採択し、同党は事実上の解体に追い込まれた。
連邦政府の中核を担い、そして連邦を一つにまとめ上げてきたソ連共産党が解体されたことにより、各共和国を統制することができる政府組織は存在しなくなり、各共和国の元首が独自に権力を持つようになった。そしてこれ以後、実権は各共和国の元首から構成される国家評議会に移っていくことになる。
9月6日、国家評議会はバルト三国の独立を承認した。新連邦条約締結に失敗したゴルバチョフ・ソ連大統領はこの間も連邦制維持に奔走し、11月14日、ロシア共和国とベラルーシ共和国、そして中央アジアの五つの共和国の元首との間で主権国家連邦を創設することで合意、また連邦への加盟を拒んでいる残りの共和国への説得を続けた。しかし12月1日にはウクライナ共和国で独立の是非を問う国民投票が実施され、投票者の90.3%が独立を支持、当初は連邦制維持に賛成していたエリツィン・ロシア連邦共和国大統領も、5000万の人口を擁しソ連第2位の工業国であるウクライナが加盟しない主権国家連邦に、ロシア共和国が加入することは利益にならないとして、12月3日にウクライナ独立を承認しソ連崩壊の流れを決定づけた。
同年12月8日のベロヴェーシ合意において、ロシア、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)が連邦を離脱して、新たに独立国家共同体(CIS)を創設し、残る諸国もそれにならってCISに加入した。12月17日、ゴルバチョフ大統領は1991年中に連邦政府が活動を停止することを宣言。12月21日、グルジアとすでに独立したバルト三国を除く11のソ連構成共和国元首がCIS発足やソ連解体を決議したアルマアタ宣言を採択、これを受けて12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、翌日には最高会議も連邦の解体を宣言、ソビエト連邦は崩壊した。
地理
[編集]概要
[編集]ソビエト連邦 |
---|
最高指導者 共産党書記長 |
レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
標章 |
ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章 ソビエト連邦の国歌 鎌と槌 |
政治 |
ボリシェヴィキ · メンシェヴィキ ソビエト連邦共産党 ソビエト連邦の憲法· 最高会議 チェーカー · 国家政治保安部 ソ連国家保安委員会 |
軍事 |
赤軍 · ソビエト連邦軍 ソビエト連邦地上軍 · ソビエト連邦海軍 ソビエト連邦空軍 · ソビエト連邦防空軍 戦略ロケット軍 |
場所 |
モスクワ · レニングラード スターリングラード ·クレムリン · 赤の広場 |
イデオロギー |
共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
歴史 |
ロシア革命 ·ロシア内戦 ·大粛清· 独ソ不可侵条約· バルト諸国占領·冬戦争· 独ソ戦 ·冷戦 · 中ソ対立 · キューバ危機 ベトナム戦争 · 中ソ国境紛争 アフガニスタン紛争 · ペレストロイカ ·チェルノブイリ原子力発電所事故·マルタ会談 · 8月クーデター ソビエト連邦の崩壊 |
ソビエト社会主義共和国連邦は国土が22,402,200km2であり、当時において世界一の広さを誇った国であった。そのために隣接していた国は東ヨーロッパ、北ヨーロッパ、中央アジア、東アジア、など幅が広い。
国名 | 地域 | 備考 |
---|---|---|
アフガニスタン王国 | アジア | |
イラン | アジア | |
北朝鮮 | アジア | |
チェコスロバキア | ヨーロッパ | |
中華人民共和国 | アジア | ソ連との領土問題有 |
トルコ | アジア | |
ノルウェー | ヨーロッパ | |
ハンガリー | ヨーロッパ | |
フィンランド | ヨーロッパ | |
ブルガリア | ヨーロッパ | |
ポーランド | ヨーロッパ | |
モンゴル | アジア | |
ルーマニア | ヨーロッパ |
陸続きで隣接した国は、西はノルウェー、フィンランド、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、南はトルコ、イラン、アフガニスタン、モンゴル、中華民国(1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮(1948年以降)であり、海を挟んで南は日本(1945年以前は樺太および当時日本領だった朝鮮で国境を接していた)、東はアメリカ合衆国である。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は北極海に面したところや内陸部を中心に、極寒である。そのためなかなか開発が進まず、囚人を酷使した強制労働で多くの命が失われた。
自動車道の開発は遅れたが雪に強い鉄道が発達しており、シベリア鉄道は超長距離路線であるにもかかわらず「共産主義はソビエト権力+全国の電化である」というレーニン以来の方針により電化が進んでおり、軍事輸送や貨物輸送に大いに役立った。
長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件など)になったケースもある。海を隔てた隣国の一つである日本とは、第二次世界大戦から北方領土問題を持っており、この問題はロシア連邦になった現在も解決されていない。フィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。
また、ソ連はヨーロッパとアジアの2区域で11の時間帯 (標準時)をまたぐ、世界最大規模の国であったことから、現在ではユーラシアや北アジアと呼ばれることが多い。
サッカーでカザフスタンは欧州の連盟に参加していることからヨーロッパとする見方があるが、トルコ、キプロス、イスラエルなどの西アジアの国々も加盟しており、まったくこれは論拠にならない。
ソ連時代にいわゆる公用語も存在しなかった。すなわちロシア語はソ連の公用語ではなかった。レーニンがオーストロ・マルキシズムやカウツキーの影響のもと、1914年の論文『強制的な国家語は必要か?(Нужен ли обязательный государственный язык?)』において国家語の制定を批判し、スターリンも民族問題の専門家として民族語奨励政策を採用している。
汚染地域
[編集]ソビエト連邦は超大国であったが軍事や核兵器以外の産業は遅れており、エネルギーの効率や環境対策も遅れていた。そのため汚染地域が多く、ジェルジンスク、ノリリスク、スムガイト(現在はアゼルバイジャン)、チェルノブイリ(同ウクライナ)はきわめて汚染が酷かった。
特にチェルノブイリ原子力発電所事故では広島型原爆の約500発分の放射性降下物がまき散らされ、多くの被災者が出た。核実験場のあったセミパラチンスク(現在はカザフスタン・セメイ)では120万人がいわゆる死の灰を受け、30万人が後遺症の深刻な被害を受けている。
環境破壊
[編集]1948年にソビエト連邦は「自然改造計画」を実行し、綿花栽培のために大規模な灌漑を始めた結果、1960年を境にアラル海の面積は急激に縮小し干上がることで、1979年には塩分濃度の上昇により魚がほとんど死滅し漁業が潰滅した。砂と塩を巻き上げる砂嵐には塩がたっぷりと含まれており、残留農薬や化学肥料、細菌兵器の残滓など人体に有害な物質が含まれておりぜんそくなどの呼吸疾患が大流行、植物は育たず死の砂漠となり人が住めず農業も成り立たなくなり、多くの村や町が消えていった。 ソ連崩壊後の2005年、カザフスタン政府はアラル海の消滅を食い止めようと、世界銀行などからの支援によってコカラル堤防を建設するなど取り組み北アラル海は回復傾向にあるが、ウズベキスタンの領有する南アラル海は、干上がった湖底で石油・ガスの採掘を行う計画を立てている。
地方行政区分
[編集]ソビエト連邦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロシア共和国 | 構成共和国 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
自治共和国 | 地方 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
自治共和国 | 自治州 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
州 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
州 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
自治管区 | 自治州 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
ソビエト社会主義共和国
[編集]ソビエト連邦は、ソビエト社会主義共和国(Советская Социалистическая Республика 通称 ССР)の連合体として成立したという特異な事情が存在し、そのためソ連邦の領土というのはソ連邦の領土であると同時にソビエト社会主義共和国(以下「構成国」)の領土でもあった。
ソビエト社会主義共和国(1955年) | 首都 | 加盟 | 離脱[注釈 10] | 現在 | 首都 | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 | モスクワ | 1922年[75] | 1991年 | ロシア | モスクワ |
2 | ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 | キエフ | 1922年[75] | 1991年 | ウクライナ | キーウ[注釈 11] |
3 | 白ロシア・ソビエト社会主義共和国 | ミンスク | 1922年[75] | 1991年 | ベラルーシ | ミンスク |
4 | ウズベク・ソビエト社会主義共和国 | タシュケント | 1924年[76] | 1991年 | ウズベキスタン | タシケント |
5 | カザフ・ソビエト社会主義共和国 | アルマトイ | 1936年[77] | 1991年 | カザフスタン | アスタナ |
6 | グルジア・ソビエト社会主義共和国 | トビリシ | 1936年[78] | 1991年 | ジョージア | トビリシ |
7 | アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 | バクー | 1936年[78] | 1991年 | アゼルバイジャン | バクー |
8 | リトアニア・ソビエト社会主義共和国 | ヴィリニュス | 1940年[79] | 1991年 | リトアニア | ヴィリニュス |
9 | モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国 | キシニョフ | 1940年[注釈 12] | 1991年 | モルドバ | キシナウ |
10 | ラトビア・ソビエト社会主義共和国 | リガ | 1940年[79] | 1991年 | ラトビア | リガ |
11 | キルギス・ソビエト社会主義共和国 | フルンゼ | 1936年[77] | 1991年 | キルギス | ビシュケク |
12 | タジク・ソビエト社会主義共和国 | ドゥシャンベ | 1929年[77] | 1991年 | タジキスタン | ドゥシャンベ |
13 | アルメニア・ソビエト社会主義共和国 | エレバン | 1936年[78] | 1991年 | アルメニア | エレバン |
14 | トルクメン・ソビエト社会主義共和国 | アシガバート | 1924年[76] | 1991年 | トルクメニスタン | アシガバート |
15 | エストニア・ソビエト社会主義共和国 | タリン | 1940年[79] | 1991年 | エストニア | タリン |
当初のソビエト連邦は、ロシア、ウクライナ、白ロシア、そしてカフカースに位置したザカフカース連邦共和国の4共和国で構成されており[注釈 13]、その後の中央アジア民族境界策定作業や、1936年のザカフカース連邦共和国廃止、また第二次世界大戦前後のバルト三国併合とモルダヴィア共和国の置かれるベッサラビア地域の再領有、冬戦争でのカレリア獲得は十数以上の構成国を擁する要因となった。しかし、ザカフカースの解体によって共和国になったアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの3カ国と対照的に、共和国から自治共和国へと降ろされたカレリアの例もある。
憲法上の地位
[編集]構成国という存在は、憲法で明記されており、例えば1936年の連邦憲法では、構成国をこのように明記している。
...第13条 ソビエト社会主義共和国連邦は、平等の権利をもつ下記のソビエト社会主義共和国の自由意志による結合に基づいて形成された同盟国家である。
...第15条 連邦構成諸共和国は、それぞれ共和国の特殊性を考慮し、かつ連邦憲法の適合する範疇において固有の憲法を有する
...第17条 すべての連邦構成共和国に対して、連邦からの脱退の権利が留保される。
これらの規定は、およそ40年後の1977年に制定されたブレジネフ憲法においても明記される。しかし、構成国に保障された権利の大部分は終始形骸化しており、特に連邦からの脱退を明記した第17条では、脱退に向けた詳細な手続きが定まっていないなど、共和国の平等というものはもはや存在しないようなものであった。
国際社会では、ウクライナ共和国と白ロシア共和国が一国として国際連合に加盟するなど、構成国としての外交もごく一部で行われていた。
自治ソビエト社会主義共和国
[編集]構成国内には、自治ソビエト社会主義共和国(Автономная Советская Социалистическая Республика 通称 АССР)が存在する場合があり、こちらはソビエト連邦を直接に構成するものではないものの、ソ連邦中央と現地との協議によって成立した。
自治ソビエト社会主義共和国(1987年現在) | 成立 | 場所 |
---|---|---|
バシキール自治ソビエト社会主義共和国 | 1919年 | ロシア連邦共和国 |
ブリヤート自治ソビエト社会主義共和国 | 1956年 | ロシア連邦共和国 |
チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国 | 1936年 | ロシア連邦共和国 |
チュヴァシ自治ソビエト社会主義共和国 | 1925年 | ロシア連邦共和国 |
ダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国 | 1921年 | ロシア連邦共和国 |
カバルダ・バルカル自治ソビエト社会主義共和国 | 1936年 | ロシア連邦共和国 |
カルムイク自治ソビエト社会主義共和国 | 1935年 | ロシア連邦共和国 |
カレリア自治ソビエト社会主義共和国 | 1923年 | ロシア連邦共和国 |
コミ自治ソビエト社会主義共和国 | 1936年 | ロシア連邦共和国 |
マリ自治ソビエト社会主義共和国 | 1936年 | ロシア連邦共和国 |
モルドヴィア自治ソビエト社会主義共和国 | 1934年 | ロシア連邦共和国 |
北オセチア自治ソビエト社会主義共和国 | 1934年 | ロシア連邦共和国 |
タタール自治ソビエト社会主義共和国 | 1920年 | ロシア連邦共和国 |
トゥヴァ自治ソビエト社会主義共和国 | 1961年 | ロシア連邦共和国 |
ウドムルト自治ソビエト社会主義共和国 | 1934年 | ロシア連邦共和国 |
ヤクート自治ソビエト社会主義共和国 | 1922年 | ロシア連邦共和国 |
ナヒチェヴァン自治ソビエト社会主義共和国 | 1931年 | アゼルバイジャン共和国 |
アブハズASSR | 1931年 | グルジア共和国 |
アジャリアASSR | 1921年 | グルジア共和国 |
カラカルパクASSR | 1932年 | ウズベク共和国 |
憲法上の地位
[編集]1977年憲法では、第10章でこれが定められ、独自の憲法を制定する権利などが明記された。
自治区・自治管区
[編集]都市
[編集]ソビエト連邦の都市の起源は、中央アジアやカフカース地方では紀元前からの歴史をもつが、ルーシの歴史においては早くとも6世紀ごろからとなっている。しかし、ソ連時代に直結する都市の発展は帝政時代の19世紀、特に19世紀後半の改革によって成長を遂げたと言える。都市の年平均人口増加率は、1811年から1867年の56年間で1.5パーセントであったのに対し、1868年から1913年の45年間では2.3パーセントと増加[80]、その結果、1811年時点での都市人口277万人(全人口の7%)から、1867年で740万人(全人口の10%)、1914年になると2,328万人(12.5%)へと上昇した[80]。都市の規模に注目するなら、1811年時点で人口10万人以上の都市がペテルブルクとモスクワの2都市、1万人以上の人口を擁する都市が77[80]だけであったのが、1897年には人口10万都市が17、1万都市は356にも増えたことが明確にしてくれる。この凄まじい発展には帝政当時の鉄道建設、穀物移出、炭鉱、採油、繊維業などの全体的な産業の発展によるところが大きい。
これらの都市も、二度の革命と国内戦を経て荒廃し、1917年から1920年にはマイナス5.7パーセントの人口減を記録した。この数値は都市人口がおよそ500万人減少したことを示す[81]。しかし、ネップが功を収めたことにより1920年から1926年の都市人口増加率は年間3.7パーセントと、若干でありながらも回復傾向にあった[注釈 14]。1926年から1939年のソ連は国内戦の復興からも脱却し、ソビエト国家の発展に全力を注げた。この間に都市人口は倍近くに増加し、都市人口比率は30パーセントとなる[注釈 15]。この急速な発展が成功した理由としては、都市化自体に未発達が存在していたという面も存在するが、同時期の工業化政策によるところが大きいとされる。
代表する都市
[編集]ここで列挙する都市は、主に構成国の首都であったり、革命期のゴエルロ計画で地域都市と定められたり、あるいは第二次世界大戦(特に独ソ戦)において英雄都市に指定されたりした都市である。構成国だと、ロシア共和国が大多数を占め、その次にウクライナ共和国となる。構成国の首都である6都市(モスクワ、キエフ、タシケント、トビリシ、エレバン、バクー)、また、英雄都市に指定された4都市(モスクワ、レニングラード、キエフ、オデッサ)すべてがロシア共和国とウクライナ共和国に点在する。
名称 | 構成共和国 | 人口(1981年) | 名称 | 行政区分 | 人口(人) | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | モスクワ | ロシア連邦共和国 | 8,015,000人 | 11 | トビリシ |
|