チャールズ・グランヴィル (第2代バース伯爵)
第2代バース伯爵チャールズ・グランヴィル(英語: Charles Granville, 2nd Earl of Bath、1661年8月31日(洗礼日) - 1701年9月4日)は、イングランド王国の貴族、軍人、政治家、廷臣。
生涯
[編集]初代バース伯爵ジョン・グランヴィルとジェーン・ワイチの息子として生まれ、1661年8月31日に洗礼を受けた[1]。1676年から1678年まで国外を旅行した後、1680年にローンストン選挙区で庶民院議員に当選したが、1681年イングランド総選挙で立候補しなかった[2]。翌年に妻の不倫が発覚すると出国[2]、神聖ローマ帝国側で従軍して第二次ウィーン包囲に参戦、1684年1月27日に帝国の伯爵に叙された[1]。また、1683年から1685年まで寝室侍従を務めた[2]。
その後、1685年にコーンウォール選挙区で庶民院議員に当選したほか、1685年から1689年までスペイン駐在大使を務め[2]、1689年7月16日に繰上勅書でグランヴィル男爵を継承した[1]。その後、1691年から1693年まで父と共同でコーンウォール統監とデヴォン統監を務め、1692年から1693年まで寝室侍従を務めた[1]。
1701年8月22日に父が死去するとバース伯爵の爵位を継承したが、同年9月4日に拳銃自殺し、セント・ジェームズで死去した[1]。22日、父とともにキルカンプトンで埋葬された[1]。死後、息子ウィリアムが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1678年5月22日、マーサ・オズボーン(Martha Osborne、1689年9月11日没、初代リーズ公爵トマス・オズボーンの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[1]。1691年3月10日、イサベラ・デ・ナッソー・ドーヴァーカーク(Isabella de Nassau d'Auverquerque、ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルクの長女)と再婚、1男を儲けた[1]。
- ウィリアム(1692年 – 1711年) - 第3代バース伯爵
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 21–22.
- ^ a b c d Watson, Paula (1983). "GRANVILLE (GRENVILLE), Charles, Lord Lansdown (1661-1701)". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年6月14日閲覧。
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先代 サー・ヒュー・パイパー サー・ジョン・コリトン準男爵 | 庶民院議員(ローンストン選挙区選出) 1680年 – 1681年 同職:サー・ヒュー・パイパー | 次代 サー・ヒュー・パイパー ウィリアム・ハーボード |
先代 フランシス・ロバーツ リチャード・エッジカム | 庶民院議員(コーンウォール選挙区選出) 1685年 – 1686年 同職:ボドミン子爵 1685年 フランシス・ロバーツ 1685年 – 1686年 | 次代 サー・ジョン・ケアルー準男爵 ヒュー・ボスコーエン |
名誉職 | ||
先代 バース伯爵 | コーンウォール統監 デヴォン統監 1691年 – 1693年 同職:バース伯爵 | 次代 バース伯爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 ジョン・グランヴィル | バース伯爵 1701年 | 次代 ウィリアム・グランヴィル |
グランヴィル男爵 (繰上勅書により) 1689年 – 1701年 |