パタラ・サティヴェ
パタラ・サティヴェ პატარა სატივე | |
---|---|
国 | ジョージア |
州 | シダ・カルトリ州 |
地区 | ハシュリ地区 |
テミ (თემი) | ゴミ・テミ |
標高 | 750 m |
人口 (2014)[1] | |
• 合計 | 68人 |
等時帯 | UTC+4 (GET) |
市外局番 | 368 |
北緯42度01分09秒 東経43度41分20秒 / 北緯42.0192度 東経43.6889度 |
パタラ・サティヴェ(グルジア語: პატარა სატივე、グルジア語ラテン翻字: Patara Sative)は、ジョージアのシダ・カルトリ州ハシュリ地区にある村落。ゴミ・テミに属する。シダ・カルトリ平野西部、スラムラ川の南側に位置する。海抜は750メートル。ハシュリからは東北東へ約16キロメートルの位置にある。
語源
[編集]サティヴェはスラムラ川の両岸を合わせた地名であり、北側のほうが南側よりも集落の規模が大きかった。そのため、北側は「大きい」を意味する「ディディ」(グルジア語: დიდი、グルジア語ラテン翻字: Didi)をつけて「ディディ・サティヴェ」、南側は「小さい」を意味する「パタラ」(グルジア語: პატარა、グルジア語ラテン翻字: Patara)をつけて「パタラ・サティヴェ」と呼ばれた。「サティヴェ」は、「いかだ」を意味する「ティヴィ」(グルジア語: ტივი、グルジア語ラテン翻字: tivi)に由来し、「—の場所」という意味を持つ接頭辞「サ-」(グルジア語: სა-、グルジア語ラテン翻字: sa-)を組み合わせたものである。言い伝えによると、この地にはいかだ置き場が存在していた[2]。
歴史
[編集]カルトリ王国の時代、サティヴェはアミレジビ家が所有する土地であったが、バグラティオン=ダヴィタシヴィリ家の手へと渡った[3]。
1634年10月23日付でのカルトリ国王ロストムの文書があり、この中でサティヴェの村に関する言及がある。バグラティオン=ダヴィタシヴィリ家はプツァに居住しており、しばしばサティヴェを訪問した。バグラティオン=ダヴィタシヴィリ家は村に水源をもたらし、今日でも水を供給し続けている。人々はこの水源を「領主の泉」と呼んでいる。
1750年代、レズギ人が頻繁に侵入を繰り返し、村としてのサティヴェは壊滅状態となった。1761年2月19日、ザアル・ダヴィタシヴィリはエレクレ2世に対し、サティヴェの村を次のように述べた。
- ……私たちの土地ではもう火を焚くことすらできず、奴隷にできる人間も残っていないため、レズギ人は散り散りに去っていきました……
その後、王宮は援助を行い、サティヴェを復興するための措置が講じられた。その上で、エレクレ2世は次の命令を下した。
- サティヴェの人々は例外なく、義務の遂行と食料の貢納をしなければならない。軍の動員については、神が認めない。
人口
[編集]国勢調査による人口は、次の通り。
年 | 人口 | 男性 | 女性 | 出典 |
---|---|---|---|---|
2002 | 90 | 44 | 46 | [4] |
2014 | 68 | 36 | 32 | [1] |
参考文献
[編集]- カルトリ・ソビエト百科事典, 第7巻, 709頁, トビリシ, 1984年.
注釈
[編集]- ^ a b საქართველოს 2014 წლის მოსახლეობის საყოველთაო აღწერის ძირითადი შედეგები (PDF) (Report). საქართველოს სტატისტიკის ეროვნული სამსახური. 15 January 2019. p. 377. 2020年11月22日閲覧。
- ^ ს. მაკალათია, ფრონის ხეობა, თბ. 1963 წ. გვ. 66
- ^ ს. მაკალათია, ფრონის ხეობა, თბ. 1963 წ. გვ. 67
- ^ საქართველოს მოსახლეობის 2002 წლის პირველი ეროვნული საყოველთაო აღწერის ძირითადი შედეგები, ტომი II p.238