井原笠岡軽便鉄道機関車第1号形蒸気機関車

井原笠岡軽便鉄道
機関車第1号形蒸気機関車
基本情報
運用者 井原笠岡軽便鉄道→井笠鉄道
製造所 オーレンシュタイン・ウント・コッペル-アルトゥール・コッペル
製造番号 6533 - 6535
製造年 1913年
製造数 3両
引退 1971年
主要諸元
軸配置 B
軌間 762 mm
全長 5,180 mm
全幅 1,708 mm
全高 2,943 mm
機関車重量 9.14 t
固定軸距 1,400 mm
動輪径 600 mm
軸重 4.57 t
シリンダ数 2気筒
シリンダ
(直径×行程)
210 × 302 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー 飽和式
ボイラー圧力 12.38 kg/cm2
火格子面積 0.39 m2
全伝熱面積 18.29 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 0.51 t
水タンク容量 1.36 m3
出力 50 PS
テンプレートを表示
塗装整備後(2018年)

井原笠岡軽便鉄道機関車第1号形蒸気機関車(いばらかさおかけいべんてつどうきかんしゃだい1ごうがたじょうききかんしゃ)は、井原笠岡軽便鉄道(後に井笠鉄道に改称)に在籍したタンク式蒸気機関車である。

概要

[編集]

1913年(大正2年)11月17日の井原笠岡間19.4kmの開業に備え、形式 機関車第壱號、記号番号 1 - 3として3両が同年10月にプロイセン王国(当時)のオーレンシュタイン・ウント・コッペル-アルトゥール・コッペル(Orensteim & Koppel-Arthur Koppel A.-G.)社で製造された[1]

これらは井原笠岡軽便鉄道の資材調達を請け負った三井物産からコッペル社の日本総代理店であった東京のオットー・ライメルス商会(Otto Reimers & Co.)を経由して発注されており、来着した車両に貼付された製造銘板の下部には日本における取り扱い代理店としての同商会の名が明記されていた。

1912年の工事設計認可の時点では、12t級C型機として申請がなされていた。しかし、建設中に急騰した資材価格に対する予算削減策[2]の一環としてグレードダウンされ、実際に来着したのは一回り小型な9t級B型機である本形式となっている。

構造

[編集]

運転整備重量9.14t、軸距1,400mm、出力50PS車軸配置0-4-0(B)飽和式単式2気筒サイド・ウェルタンク機で、同時期出荷の岩手軽便鉄道11[3]と基本設計を同じくする。いずれも当時日本に大量に輸入[4]されていたコッペル社製762mm軌間軽便鉄道向け小型蒸気機関車としては標準的な寸法と設計[5]の車両である。ただし、同時期に近隣の下津井軽便鉄道が新造した11形などと同様、比較的長距離の運行でしかも降雨が少ない地域であるため給水可能駅が限られる[6]、という事情から、井笠側の指定で運転台前方に突き出した石炭庫および道具箱のさらに前方に延長する形で、特に大型のサイドタンクを追加搭載しており、このクラスの機関車としては大容量となる1.36m3の水タンク容積を確保[7]している。また、ボイラー前部の煙室直後まで伸びたこのサイドタンクとの干渉を避けるべく、チェックバルブはボイラー上部の蒸気ドームと砂箱の間に設けられている。

弁装置は大型機関車で一般的なワルシャート式であり、簡易なコッペル式や複雑なアラン式などを避けて堅実かつ動作の確実な機構を選択している。

シリンダは煙突よりやや後退した位置に取り付けられており、また加減弁はこの種のコッペル社製小型機関車としては珍しく大型の蒸気ドーム内に内蔵されているため、左右各2本の蒸気管がSカーブを描いてシリンダと煙室を結んでいる。

連結器はピン・リンク式で、開業当初は中心高さが349mmであったが、高屋線の開業とこれに伴う両備鉄道の客貨車の直通運転に備え、1925年1月15日付けで井笠鉄道在籍全車について同社車両と同じ501mmへの中心高さ引き上げ改造が実施された。

ブレーキは片押しシューによる手ブレーキのみを備え、蒸気ブレーキなどは装備していない。

運用

[編集]

開業以来特に大きな不具合も発生せず、1961年10月16日のホジ100形新製投入に伴う除籍まで[8]半世紀近くに渡って、井原笠岡軽便鉄道→井笠鉄道の主力機関車としてほとんど改造されることもないまま[9]、重用され続けた。

これは以後の増備車が開業前に希望していたのと同クラスのコッペル社製12t級C型機である6・7の2両を除き、いずれも性能面で不満足であったこと[10]に一因があった。

保存

[編集]
井原笠岡軽便鉄道機関車第1号形蒸気機関車
池田動物園で保存されている2号機

廃車後も3両とも解体されず、鬮場(くじば)車庫の奥に他の不要となった蒸気機関車各形式と共に保管され、2は1962年8月31日にいかなる理由によるものか3と改番の上で岡山市の池田動物園に譲渡されて同園で現在も保存され、3も一旦備後赤坂駅付近にあった井笠鉄道直営の赤坂遊園に旧薬師駅駅舎や客貨車などと共に保存された後、1991年の同園閉園に伴い撤去され、現在は広島県福山市新市町にある新市クラシック・ゴルフ・クラブ入り口付近にホハ12と共に保存されている。

復活運転

[編集]

これに対し、井笠鉄道自身が記念物として保存することになった1は、1971年3月31日の井笠鉄道線全廃まで鬮場車庫に保管され、同日14時38分笠岡発井原行の井笠鉄道としての最終列車である「さようなら列車」の先頭に無火状態ながら連結されて[11]運転された。その後、同年4月2日に井原に残っていた他の車両と共に廃止となった線路上を回送され、再度鬮場車庫で保管された[12]

この歴史的機関車に対し、折からの蒸気機関車ブームで稼働状態に修復可能な762mm軌間用蒸気機関車や客車を捜していた西武鉄道が客車や貨車の譲渡とともに貸し出しを要請、これが受け入れられると所沢工場へ持ち込んで徹底的な整備[13]の上で1973年9月より2形1「信玄号」[14]と命名し、前年9月より鉄道100周年記念と銘打って新潟県の頸城鉄道より借り入れて運行していた1形2「謙信号」とともに、井笠鉄道から譲渡された8両の客車を4両ずつ牽引する形で、同社山口線での運行を開始した。

この時点において軌間762mmの非電化軽便鉄道で可動状態の蒸気機関車は、西武が借り入れたこれら2両を別にすれば尾小屋鉄道に冬期の除雪用として残されていた5号[15]が1両かろうじて在籍するのみであった。このため、首都圏近郊で、それぞれ特徴的な形状を備える2両のコッペル社製蒸気機関車が大正時代に製造された古典的な構造の木造客車を牽引するこの山口線での復活運転は、客車の派手な塗装など遊園地のアトラクション的な性格が強かったとはいえ、当時日本では事実上消滅していた本物の軽便鉄道の姿を伝えるものとして、鉄道愛好者に大きな驚きをもって受け入れられた。

この貸し出し運転は最終的に同社が台糖公司から購入した、より大形で強力な5形の整備を行って運用を開始する1977年まで続き、1は同年の運行終了後に再度整備の上で井笠鉄道へ返却された。

返却後は1980年以降旧新山(にいやま)駅跡に建設された井笠鉄道記念館に保存され、現在も同館でホハ1やホワフ1と共に展示されている。

同形機

[編集]

本形式は、俗に“50PS新設計”と呼ばれる規格型機関車であり、日本国内(外地を含む)へ同形機が導入されている。その状況は、次のとおりである。

  • 1913年(大正2年)
    • 製造番号 6046 - 6048 : 東京電気 8 - 10(軌間762mm)
    • 製造番号 6533 - 6535 : 井原笠岡軽便鉄道 1 - 3(軌間762mm)
  • 1921年(大正10年)
    • 製造番号 9876, 9877 : 台湾(軌間762mm)

製造番号6046 - 6048については、東京電気(現在の東芝)が川崎で土工に使用していたものであるが、1914年(大正3年)に9が岩手軽便鉄道に譲渡され、11となった。岩手軽便鉄道では、車軸配置0-6-0(C)形を1から付番したので、車軸配置の異なる本車は11から付番した。こちらは、サイドタンクはなくウェルタンクのみで、蒸気の取り出しを蒸気ドームの側部から取っていたため、井原笠岡軽便鉄道のものより小型であった。岩手軽便鉄道は1936年(昭和11年)に国有化されたため、ケ92形ケ92)と改番された。1937年(昭和12年)4月には松浦線に転属し、その改軌工事完成後の1944年5月(昭和19年)には、北海道に移って工事用に使用された。施設局での車蒸番号は84であった。当初は室蘭本線追分 - 三川間の線増工事用にあてられたものと推定されている。1949年(昭和24年)3月には、大阪地方施設部に転属した記録があるが、いつしか北海道に戻り、廃車は1958年(昭和33年)7月1日で、国鉄の特殊狭軌線用機関車としては、最後の車両となったことが特筆される。処分は苗穂工場での解体であった。

参考文献

[編集]
  • 小熊米雄「井笠鉄道の蒸気機関車」、『鉄道ファン 1970/7 Vol.10 110』、交友社、1970年、pp34-39
  • 臼井茂信「国鉄狭軌軽便線 19・24」、『鉄道ファン 1985/2, 10 Vol.25 286, 294』、交友社、1985年
  • 金田茂裕「O&Kの機関車」、エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン、1987年
  • 湯口徹『レイル No.30 私鉄紀行 瀬戸の駅から(下)』、エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン、1992年
  • いのうえ・こーいち『追憶の軽便鉄道 井笠鉄道』、エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン、1997年

脚注

[編集]
  1. ^ メーカー製番 6533 - 6535。
  2. ^ この際、軌条も当初30ポンド級を使用する予定であったところを1ランク落として28ポンド級に変更した。それでも資金難は完全には解決せず、このため井笠は借入金で建設資金を追加調達した。このことから、第一次世界大戦寸前の諸物価高騰と日本政府が実施した関税率引き上げの影響が甚大であったことが見て取れる。
  3. ^ 後の国鉄ケ92。
  4. ^ その総数は貝島炭坑向け44.3t機などの大型機を含め約450両に上る。
  5. ^ 当時の口の悪い鉄道愛好者達は、日本全国の小私鉄や産業鉄道に猖獗を極めたコッペル社製小型機関車を指して「オーレンシュタイン犬の糞」と笑い、そのあまりに画一的な設計を難じたとされる。だが、その規格化された標準設計こそは量産工業製品の低価格化実現に当たっての最重要課題である。また、資金力の弱い地元弱小資本が大半であったその種の小私鉄にとっては廉価で性能が良く、しかも納期が短いこれらのコッペル社製機関車は正に救いの神であった。その意味では、これは不当な非難であったと言う他ない。むしろ、後述するように井笠を含め、これらの小私鉄では「犬の糞」と言われるほど大量に市場に出回ったコッペル社製機関車の供給が止まった後の機関車増備時にこそ、適切な性能の車両が得られないなどの深刻な問題が多発している。
  6. ^ 開業の時点では、起点である笠岡の隣で車庫のあった鬮場(くじば)と、終点でやはり車庫が設けられていた井原の2駅にのみ給水設備が設けられており、途中駅には給水設備が無かった。
  7. ^ 台枠内のウェルタンクの容積は約0.8m3で、70%程度の増積が実現していることになる。
  8. ^ ただし井笠最後の現役蒸気機関車となったのは、より大形の6・7で、本形式はホジ1形の就役開始以降は検査時等の予備車として残されていた。
  9. ^ ただし摩耗部品の交換はこまめに行われており、シリンダ上部の弁室上蓋などが変更されている。
  10. ^ 例えば、認可申請段階まで作業が進んでいた宮原式水管式ボイラー搭載機関車(この種の機関車は2社が導入したがいずれも失敗に終わっている)をキャンセルして購入された大日本軌道鉄工部が製造した新造車である4は、堅実な設計であったが何故か脱線の悪癖があり、一旦縁起を担いで8(初代)に改番されたものの結局早期に佐世保鉄道へ売却されて井笠からは姿を消し、戦後の混乱期に釜石製鉄所の放出品(同製鉄所では戦時中の輸送力増強に際して20t級大型機を大量導入し、従来の15t級機関車が余剰を来していた)を入手した9は15t級B型機で軸重が過大であったため、走らせただけで線路を折るという前代未聞の不具合が発生し、ほとんど使用されることもないままに廃車となっている。
  11. ^ 同車には当時の鬮場機関区区長が乗務し、警笛吹鳴とブレーキ操作を担当した。
  12. ^ 一時井笠鉄道と資本関係があった近畿日本鉄道系列の伏見桃山城キャッスルランドに展示されたこともあったが、井笠鉄道本社近隣にある山陽本線の陸橋下に設けられた交通公園に保存されていた9と交代する形(9が搬出された後は、鬮場車庫に保管されていたホジ9が運び込まれて展示スペースを埋めた)で鬮場に戻されている。後に9も返却され、こちらは一旦井原鉄道井原駅予定地に保存された後、現在は近隣の七日市公園に展示されている。
  13. ^ 記念物として屋根のある車庫で長期保管されており、車体の痛みは少なかった。だが、除籍以来10年以上ボイラが使用されていなかったため、所轄労働基準監督署に新規設計として認可を申請せねばならず、煙管など老朽部材を補修・交換して実用に耐えうるレベルまで補修する作業が行われたほか、走り装置など各部の分解整備が行われ、さらに弁装置で駆動されるオイルポンプの取り付けによる自動給油化など、原形を崩さぬよう配慮しながらメンテナンス性向上のための改造が実施された。
  14. ^ 山梨県には縁もゆかりもない機関車であるが、先行して運行を開始した頸城鉄道2が新潟県で使用されていた車両であることから上杉謙信にちなんで「謙信」と命名されていたため、これと対になる名前として武田信玄が選ばれたものであった。
  15. ^ 1947年立山重工業製。ただしこの時期には冬期でさえほとんど使用されなくなっていた。