俵孝太郎
俵 孝太郎(たわら こうたろう、1930年〈昭和5年〉11月12日 - )は、日本のニュースキャスター、政治評論家。
血液型はA型
年譜
[編集]- 1949年3月 東京高等師範学校附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業。
- 1953年3月 東京大学文学部倫理学科卒業[1]。学科の同期に、ヘーゲル研究者で東北大学教授の上妻精、思想の科学研究会会長代行で名古屋学院大学教授の後藤宏行、東京大学教授の谷嶋喬四郎、山口大学教授の山田洸がいる。
- 1953年4月 産業経済新聞社に入社し(同期に山根卓二)、大阪本社社会部記者(警察、港、労働運動を担当)
- 1959年8月 サンケイ新聞東京本社政治部記者(社会党→衆議院→総理官邸→厚生省、文部省→大蔵省→社会党→大蔵省→総理官邸→外務省→社会党→法務省を担当)
- 1965年8月 サンケイ新聞論説委員・東京本社政治部記者[注 1]。
- 1969年2月 サンケイ新聞論説委員。
- 1969年8月 産経新聞社を退社。
- 1969年10月 文化放送ニュースキャスター。
- 1978年10月~1987年3月 フジテレビニュースキャスター。
- 1984年12月~1987年8月 臨時教育審議会第1部会[注 2]専門委員(審議会廃止により辞任)。
- 1987年11月 大蔵省財政制度審議会委員(4期8年在任)。
- 1994年5月~2001年四月会(反創価学会系の宗教団体や評論家による、自社さ連立内閣と歩調を合わせた会合)代表幹事。
- 1995年11月 大蔵省同審議会特別委員(6期6年在任)。
- 2001年1月~2010年 財務省財政制度等審議会財政制度分科会専門委員 。
人物
[編集]祖父
[編集]- “祖父の俵孫一と小泉純一郎の祖父の小泉又次郎は、政治的にも個人的にも盟友以上の親しい仲であり、又次郎が祖父の家を訪ね、茶の間に直行、押し入れから、決まったところに置いてある又さん専用の浴衣に着替え、風呂に入ったり、座敷の真ん中で昼寝をしたり、客と会っている祖父には構わずに“奥さん、めし”と祖母に言って食事をしたり、自宅同然に過ごしていた。そんな又次郎と茶の間でしょっちゅう顔を合わせていた俵は、“家長として、どっしり構えていなければならない自宅よりも気の置けない友人宅のほうが、湯上りに縁側で肌脱ぎになってゆっくりくつろげるというような事があったかもしれない”と。小泉純一郎が9歳の時、祖父・又次郎は永眠したが、“「あなたより私のほうがよっぽど、お祖父さんの背中の“絵”を見ているかもしれないよ」と言ったら、彼は苦笑していた”との事。
テレビ
[編集]- 『FNNニュースレポート6:00』の初代キャスターをつとめたが、硬派なそのイメージもあって視聴者受けがよくなく、1979年7月頃の時点で『6:00』は主婦層の視聴者が多いこの時間帯において平均視聴率が5%で、平均10%を記録していたこれの裏番組の『テレポートTBS6』(TBS)に苦戦していたため(視聴率はいずれもビデオリサーチ調べ、関東地方)[2]、山川千秋とトレードする形で『FNNニュースレポート23:00』へ異動した[2]。以降、冒頭の挨拶「こんばんは、俵孝太郎です」がビートたけしや志村けんなどに物真似されたり、同じフジサンケイの傍系ラジオ局・文化放送『セイ!ヤング水曜日(火曜深夜)→青春大通り火曜日・谷村新司(・ばんばひろふみ)』や『青春キャンパス』の「天才・秀才・バカ」のシリーズのネタにされるなど、名物キャスターとして8年間務めた。
- 『マジカル頭脳パワー!!』ではレギュラー解答者として、所ジョージに次ぐ2位の21回のトップ賞回数を誇った。
論調・特徴
[編集]- 石井英夫を産経抄担当にしようとした社会部長上がりの論説委員長の青木彰の人事に反発して1969年に産経新聞社を退社し独立した。
- 独立後は保守派の論客としてニュース番組のコメンテーターや討論番組の出演、地方での講演をこなし、日刊ゲンダイでコラムを連載。他にも辛口派の批評誌として知られる新潮45に、当時の朝日新聞を中心とした言論界を批判する随筆を幾度も寄せたこともある。
- 日本を悪くした元凶として日本教職員組合、朝日新聞、創価学会、吉本興業の4つをあげている。また、反創価学会の四月会では代表幹事を務めた。
- クラシック音楽にも造詣が深く、それについての著書や連載(intoxicate)もある。
- 2011年以降は目立った近況や講演会の情報はなく実質引退状態とされていたが、2023年現在も、時評社が発行する月刊『時評』内「一戦後人の発想」、北國新聞社が発行する『月刊北國アクタス』で連載を受け持つなど、健在ぶりを示している。
主な著書
[編集]- 戦後首相論
- 敗戦・占領下の日本の歴史 戦争も戦後も知らない人たちへ
- 世界の中の日本最良の選択
- どこまで続くヌカルミぞ 老老介護奮戦記
- 日本の政治家親と子の肖像
- 政治家の風景
- No.2が日本の生き方だ!20世紀の選択
- 我、「朝日新聞」と戦えり 日本最後のタブーを斬る
- 責任国家の責任と誠治
- 『わが家のいしずえ 明治の父権教育』サンケイ出版、1982年12月10日。NDLJP:12254343。
- 『「田中裁判」もう一つの視点 ロッキード捜査と一審判決への疑問』時評社、1984年12月1日。NDLJP:12014187。
- 『新人類は日本を滅ぼす 目覚めよ!ニッポンの鬼軍曹』ネスコ、1986年3月20日。NDLJP:12248740。
- 対論・政治改革の非常識、常識
- 日本の未来を託す!
クラシック音楽関連の著作
[編集]- 気軽にCDを楽しもう
- CDちょっと凝り屋の楽しみ方
出演
[編集]過去の出演番組
[編集]文化放送
[編集]フジテレビ
[編集]報道番組
期間 | 番組名 | 役職 | 備考 | |
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1975年10月1日 | 1976年3月 | FNNニュース7:30 | キャスター | |
1978年10月2日 | 1979年9月28日 | FNNニュースレポート6:00 | ||
1979年10月1日 | 1987年3月31日 | FNNニュースレポート23:00 | 山川千秋と入れ違いで就任 |
その他
- 夜のヒットスタジオDELUXE ニュースコーナー(1985.4~1985.9)
- FNN報道特別番組(上記3番組の担当期間にコメンテーター)
- タケちゃんの思わず笑ってしまいました(サブ司会 Part5(1985年3月12日放送))
日本テレビ
[編集]- マジカル頭脳パワー!!(1990.10.27~1995.3.16)
毎日放送
[編集]- ダウンタウン・セブン(不定期出演)
NHK
[編集]CM
[編集]- エプソン(現・セイコーエプソン)「テレビアン」 - 1984年(ナレーション)
- 産経新聞社「コミックサンケイ」 - 1991年
- 日本コカ・コーラ「タブクリア」 - 1993年
- ブルドックソース「東京のお好みソース」 - 1993年(ナレーション[3])
- ホーネンコーポレーション(現・J-オイルミルズ)「豊年サラダ油 ECO-PAX」 - 1993年
- 日本国際通信(ITJ)「0041国際電話」 - 1996年
- 松下電器産業「ナショナルIHジャー炊飯器にっぽん炊き」 - 1990年代(村田兆治と共演)
- サントリー「ダイエット生」 - 2001年(小泉孝太郎と共演)
その他
[編集]- 1972年1月17日、不審者が杉並区の自宅に押し入ろうとしたが防犯ベルが作動して退去。後に脅迫電話があった[4]。
- TBSのテレビドラマ「パパはニュースキャスター」の主人公で田村正和が演じるニュースキャスターの鏡竜太郎の名前は俵が由来であることを脚本家の伴一彦が明かしている[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “俵孝太郎 プロフィール” 2020年2月28日閲覧。
- ^ a b 週刊TVガイド 1979年8月17日号 26頁「俵・山川両キャスターが番組トレード」
- ^ “ブルドックソース、「東京のお好みソース」CMに「天才バカボンのママ」が登場”. 日本食糧新聞 (1993年7月23日). 2022年11月11日閲覧。 “ナレーションに辛口の評論で人気の俵孝太郎を起用、当たり前の幸せをしっかりと肯定してくれている。”
- ^ 「俵さん宅も賊ねらう 後でおどしの電話」『朝日新聞』昭和47年(1972年)1月18日、13版、18面
- ^ sacabanの2012年2月18日のツイート、2021年8月11日閲覧。
関連人物
[編集]- 俵孫一 - 祖父、濱口内閣の商工大臣。
- 俵国一 - 冶金学者。大叔父(俵孫一の妻(三菱財閥の金庫番・三村君平の娘・マツ)の弟)。
- 俵萌子 - 元妻。産経新聞社で同僚だった。離婚後も萌子は俵の名字で活動。萌子との間に1男1女を儲けた。
- 小泉孝太郎 - 俳優。父の小泉純一郎が、俵の名前から命名。CMで共演。
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期間 | 6:00 | 6:30 | 5:30 | ||||||||||
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メイン | スポーツ | 男性 | 女性 | 男性 | 女性 | スポーツ | |||||||
月曜日 | 火曜日 | 水曜日 | 木曜日 | 金曜日 | 土曜日 | 日曜日 | |||||||
1978年10月2日 | 1979年9月28日 | 俵孝太郎 | 松平康隆 | 逸見政孝 | 田丸美寿々 | (放送なし) | |||||||
1979年10月1日 | 1980年3月28日 | 山川千秋 | 近藤唯之 | ||||||||||
1980年3月31日 | 1980年5月11日 | 藤崎健 | 海野まり子 | 佐野稔 | 近藤唯之 | ||||||||
1980年5月12日 | 1980年7月6日 | 佐野稔 | 近藤唯之 | 佐野稔 | 近藤唯之 | ||||||||
1980年7月7日 | 1982年3月14日 | 佐野稔 | 近藤唯之 | ||||||||||
1982年3月15日 | 1982年3月21日 | 近藤唯之 | 佐野稔 | ||||||||||
1982年3月22日 | 1982年3月28日 | 古賀万紀子 | |||||||||||
1982年3月29日 | 1982年10月31日 | 近藤唯之 | 佐野稔 | 増田明男1 | |||||||||
1982年11月1日 | 1983年3月20日 | 河村保彦1 | 河村保彦 | ||||||||||
1983年3月21日 | 1983年3月27日 | 斎藤裕子 | |||||||||||
1983年3月28日 | 1984年3月18日 | 永島信道1 | |||||||||||
1984年3月19日 | 1984年4月1日 | 竹内貞男2 | |||||||||||
1984年4月2日 | 1984年7月15日 | 逸見政孝3 | 大林宏 | 小出美奈 | 長尾潤1 | 石野紀代子4 | |||||||
1984年7月16日 | 1984年9月23日 | 吉崎典子 | |||||||||||
1984年9月24日 | 1984年9月30日 | 竹内貞男2 | |||||||||||
1984年10月6日 | 1985年3月31日 | (放送なし) | |||||||||||
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