内山正博 (競馬)
内山正博 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県 |
生年月日 | 1963年3月19日(61歳) |
身長 | 161cm |
体重 | 53kg |
血液型 | A型 |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
所属厩舎 | 栗東・小林稔(1984 - 1988) 栗東・フリー(1988 - 1996) 栗東・小野幸治(1996 - 1998) 栗東・フリー(1998 - 2003) |
初免許年 | 1984年3月3日 |
免許区分 | 平地・障害 |
騎手引退日 | 2003年4月20日 2002年9月15日(最終騎乗) |
重賞勝利 | 2勝 |
G1級勝利 | 1勝 |
通算勝利 | 3675戦255勝 |
内山 正博(うちやま まさひろ、1963年3月19日 - )は、福岡県出身の元騎手・現調教助手。
来歴
[編集]1984年に栗東・小林稔厩舎からデビューし、3月3日の阪神第7競走5歳以上400万下・マーメードハット(8頭中6着)で初騎乗を果たす。同馬は須貝彦三厩舎の管理馬で、馬主は森乃福郎であった。同31日の阪神第2競走4歳未勝利で伊藤修司厩舎のギフトイチバンに騎乗し、初勝利を挙げる。1年目の同年は6月の阪神、9月の函館、12月の中京で1日2勝をマークするなど21勝を挙げ、関西の新人賞にあたる関西放送記者クラブ賞を受賞。
2年目の1985年には金鯱賞・キャノンゼットで重賞初勝利を挙げ、1987年にはサッカーボーイで阪神3歳ステークスを制し、自身2年ぶりの重賞制覇が唯一のGI制覇となった。同年には弟弟子の塩村克己がデビューして33勝を挙げるが、内山は12勝に終わる。
1988年からはフリーとなるが、弥生賞3着でサッカーボーイの主戦騎手を降板。同年は初の1桁となる4勝に終わり、2桁が4年連続でストップするが、4勝中3勝は11月の福島で挙げたものであった。
1989年から1995年までは7年連続2桁をマークし、1991年7月28日の小倉第6競走4歳未勝利・アンサーティンで通算100勝を達成。1994年には自己最多の28勝を挙げ、神戸新聞杯では河北通から乗り替わったメルシーステージでスターマンの2着に入ったが、京都新聞杯からは河北の手綱に戻っている。
1995年はサッカーボーイ産駒サウンドバリヤーで京都新聞杯5着に入り、菊花賞[1]でも騎乗。同年10月21日京都第3競走4歳以上500万下・パシアンで200勝を達成し、1996年からは同じ小林厩舎の兄弟子で、またサッカーボーイに騎乗してGIを勝利した縁から小野幸治厩舎に所属。同年から2000年は1桁台に低迷し、1998年からは再びフリーとなる。その間の1997年は、第1回シリウスステークスでフサイチヒロシをトーヨーレインボーの3着、北九州記念ではメガミゲランを3着に導くなど、重賞でも見せ場を作った。
1999年は自己最低の3勝に終わり、阪急杯・フサイチヒロシ(16頭中14着)を最後に重賞での騎乗も無くなる。2001年には6年ぶりの2桁となる13勝と盛り返すが、結局は最後の2桁勝利となった。2002年9月2日の小倉第7競走3歳未勝利・ネバーセイネバーが最後の勝利となり、9月15日の阪神第7競走3歳以上500万下・ジャングルビート(競走中止)が最後の騎乗となった。2003年4月20日付で現役を引退。
引退後は翌21日に開業した岡田稲男厩舎所属の調教助手となり、現在に至る。
成績
[編集]- 通算成績 - 3675戦255勝(うち障害競走14戦3勝)重賞2勝
主な騎乗馬
[編集]※太字はGIレース。
- キャノンゼット(1985年金鯱賞)
- サッカーボーイ(1987年阪神3歳ステークス)
- その他
脚注
[編集]- ^ 『「競馬」G1最強馬カタログ―競馬ガイドブックシリーズ〈5〉 (バナナ文庫)』辰巳出版、1996年4月1日、ISBN 488641124X、p98。