内田正信
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長18年(1613年) |
死没 | 慶安4年4月20日(1651年6月8日) |
改名 | 権九郎(幼名)→正信 |
戒名 | 理明院殿光徳徹宗大居士 |
墓所 | 東京都台東区上野公園の寛永寺現竜院 |
官位 | 従五位下、信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 下総小見川藩主→下野鹿沼藩主 |
氏族 | 内田氏 |
父母 | 父:内田正世、母:小川三益の娘 |
兄弟 | 正矩、正信 |
妻 | 正室:酒井直次の養女 |
子 | 新五郎、娘(高力一方室)、正衆、娘(岡部勝重室)、娘 |
内田 正信(うちだ まさのぶ)は、江戸時代前期の旗本、大名。下総小見川藩主、のち下野鹿沼藩の初代藩主。小見川藩内田家初代。
生涯
[編集]慶長18年(1613年)、800石の御納戸頭であった内田正世の次男として生まれる。寛永7年(1630年)から徳川家光の家臣として仕え、寛永12年(1635年)12月21日に奥小姓、寛永13年(1636年)6月4日に御手水番に任じられる。寛永14年(1637年)12月14日、相模国内で1000石を加増される。寛永15年(1638年)6月29日に叙任する。
寛永16年(1639年)11月10日、下総名取郡や常陸鹿島郡などで8200石を加増されて合計1万石の大名となり、小見川藩主となる。同時に御小姓組番頭となった。慶安2年(1649年)8月11日、下野国内で5000石を加増されて鹿沼藩主となり、御側出頭となる。慶安4年(1651年)4月20日、家光の死去に従って殉死した。享年39。跡を次男の正衆が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 酒井直次の養女
子女