前田利精
この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。 (2023年6月) |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 宝暦8年11月15日(1758年12月15日) |
死没 | 寛政3年9月15日(1791年10月12日) |
改名 | 勇之助(幼名)、利精 |
墓所 | 石川県加賀市の実性院 |
官位 | 従五位下、備後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 加賀大聖寺藩主 |
氏族 | 前田氏 |
父母 | 父:前田利道、母:加藤氏(円成院) |
兄弟 | 利貞、利精、利物、元三郎、利寧、利以、利行、利幹 |
妻 | 正室:なし 側室:西島氏(敬大院)、恵遊院、長泉院 |
子 | 利考、利純、利信、利竜、秀、千(松平直寛室)、 養子:利物 |
前田 利精(まえだ としあき)は、加賀大聖寺藩の第6代藩主。
生涯
[編集]宝暦8年(1758年)11月15日、第5代藩主・前田利道の次男として大聖寺で生まれる。宝暦9年(1759年)に長兄・利貞が早世したため世子となり、安永7年1778年5月25日に父の隠居により家督を継ぐ。しかし安永10年(1781年)、父が死去すると、遊廓に頻繁に通って女狂いとなり、無頼と交じって好き放題にふるまうなど、無法を繰り返すようになる。これら一連の行動に関して、家臣団は無論、本家の藩主・前田治脩も諫言したが、利精は聞く耳を持たなかった。
このため天明2年(1782年)8月21日、治脩は利精を「心疾」として監禁し、家督は利精の弟である利物に継がせた。寛政3年(1791年)9月15日に大聖寺で死去した。享年34。
系譜
[編集]父母
- 前田利道(父)
- 円成院 ー 加藤氏、側室(母)
側室
- 敬大院 ー 西島氏
- 恵遊院
- 長泉院
子女
- 前田利考(長男)生母は敬大院(側室)
- 前田利純(次男)生母は長泉院(側室)
- 前田利信(三男)生母は長泉院(側室)
- 前田利竜(四男)生母は敬大院(側室)
- 秀、生母は敬大院(側室)
- 千 ー 松平直寛室、生母は恵遊院(側室)
養子
- 前田利物 ー 実弟