増井裕
増井裕 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 滋賀県 |
生年月日 | 1964年3月1日(60歳) |
身長 | 165cm |
体重 | 54kg |
血液型 | AB型 |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
所属厩舎 | 栗東・土門健司(1983 - 1988) 栗東・フリー(1988 - 1999) |
初免許年 | 1983年3月5日 |
免許区分 | 平地(初期は障害免許も保持) |
騎手引退日 | 1999年2月28日 1998年7月11日(最終騎乗) |
重賞勝利 | 3勝 |
通算勝利 | 313勝 |
増井 裕(ますい ひろし、1964年3月1日 - )は、滋賀県出身の元騎手・調教助手。
経歴
[編集]1983年3月5日に栗東・土門健司厩舎からデビューし、阪神第6競走4歳新馬・ストームオー(16頭中12着)で初騎乗を果たすと、同13日の阪神第7競走5歳以上1300万下・フミノアサヒで2着、3着とはハナ差の接戦を制して初勝利を挙げる。1年目の同年は27勝(平地22勝, 障害5勝)をマークし、関西の新人賞に当たる関西放送記者クラブ賞を受賞したほか、同年から1995年まで13年連続2桁勝利を記録。
2年目の1984年には自己最多の50勝(平地47勝, 障害3勝)を挙げ、京都4歳特別では伊藤修司厩舎のノーザンテースト産駒カミカゼイチバンで2着に入り、東京優駿では「関西の秘密兵器」として5番人気に支持されたが8着に終わった。京阪杯では伊藤雄二厩舎のサニーシプレーで10番人気ながらカツラギエースの2着に入り、スワンステークスでは前年の桜花賞馬シャダイソフィアに騎乗。近走不振で猿橋重利からバトンタッチされた同馬は10番人気と人気を落としていたが、ニホンピロウイナーに7馬身離されたものの、安田記念馬ハッピープログレスを封じる2着に健闘。
3年目の1985年からは平地の騎乗に専念し、シンザン記念では16頭中12番人気のセントシーザーでライフタテヤマの2着、京都4歳特別ではグリーンアラシで2着に入る。1985年11月16日の京都第7競走4歳以上400万下・ゴッドユーティーで通算100勝を達成し、1987年にはダイタクロンシャンでデイリー杯3歳ステークスを制して重賞初制覇を挙げると、阪神3歳ステークスではサッカーボーイから8馬身離されたが、後方から追い込んで2着に入った。
1988年からはフリーとなり、サンキンハヤテで阪急杯を制したほか、フェアプレー賞を受賞。1989年には10月29日の京都第2競走3歳未勝利・ノースヒルオーで200勝を達成し、阪神3歳ステークスではニチドウタロー産駒のニチドウサンダーに騎乗。道中は逃げるダイタクヘリオスを2番手でマークして4着に入ると、1990年のシンザン記念ではダイタクヘリオスを破る。皐月賞では18頭中15番人気ながら5着と健闘し、ハクタイセイ・アイネスフウジン・メジロライアンには屈したものの、コガネタイフウと共に掲示板は確保。
1991年は小倉で行われた中日新聞杯で2着、同じく小倉で行われた中京記念ではレッツゴーターキン・ラッキーゲラン・メインキャスターに次ぐ4着に入る。
1994年にはエイシンテネシーで第1回香港国際ヴァーズに騎乗してレッドビショップ(フランス)の4着と健闘し、香港国際カップのフジヤマケンザン(4着)と並ぶ当時の香港国際競走の日本馬最高成績であった。
1995年は1月29日の小倉第5競走4歳新馬をダンスパートナーで勝利し、9月30日の京都第6競走3歳新馬・サクラエキスパートで300勝を達成。
1996年は7勝と初の1桁、1997年には自己最低の2勝に終わり、1998年4月25日の京都第2競走4歳未勝利・ラグタイムシチーで最後の勝利を挙げる。7月11日の函館第12競走4歳以上500万下・ツルミゴールド(11頭中9着)を最後に騎乗が無くなり、1999年引退[要出典]。
騎手成績
[編集]通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
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平地 | 305 | 335 | 293 | 2980 | 3913 | .078 | .164 |
障害 | 8 | 6 | 10 | 35 | 59 | .136 | .237 |
計 | 313 | 341 | 303 | 3015 | 3972 | .079 | .165 |
主な騎乗馬
[編集]- ダイタクロンシャン(1987年デイリー杯3歳ステークス)
- サンキンハヤテ(1988年阪急杯)
- ニチドウサンダー(1990年シンザン記念)
- その他
- コガネタイフウ
- ダンスパートナー
- エイシンテネシー
- ゴールドマウンテン