奥村五百子
奥村 五百子(おくむら いおこ、弘化2年5月3日(1845年6月7日)‐ 明治40年(1907年)2月7日)は、幕末・明治期の社会運動家。愛国婦人会の創設者。
経歴
[編集]肥前国唐津出身[1]。父は真宗大谷派釜山海高徳寺の住職・奥村了寛で、父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装の姿で長州藩への密使を務めたこともあった。同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。
離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた[2]。北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。
栄典
[編集]関連項目
[編集]- 広岡浅子 - 大隈重信の紹介で知り合い、初対面ですぐに意気投合し、「万事相談相手として互いの長所を認め合う仲」となった(大久保高明『奥村五百子詳伝』 愛国婦人会 1908(明治41)年)。1906年(明治39年)、五百子が唐津で病気療養中だった時に、浅子がお見舞いに来唐した。その際、せっかく唐津まで来られたならと唐津の有力者を集めて講演会が開催された。そこで浅子は女子教育の必要性を主張し、翌年の唐津女学校(現在の唐津西高等学校)の設立につながった。二人は「無二の親友」と言われ、1907(明治40)年、五百子が京都の療養先で息を引き取った時には、大阪から駆けつけた浅子がその最期を看取っている。
参照
[編集]- ^ [1]「去華就実」と郷土の先覚者たち 第13回 奥村五百子 (上)
- ^ [2]「去華就実」と郷土の先覚者たち 第14回 奥村五百子 (下)
- ^ 『官報』第7639号、「叙任及辞令」1908年12月11日。
参考文献
[編集]- 小野賢一郎『奥村五百子』先進社、1930年
- 守田佳子『奥村五百子 : 明治の女と「お国のため」第一版』、太陽書房、2002-03-01、ISBN 978-4-901351-19-5
- 守田佳子『奥村五百子 : 明治の女と「お国のため」第二版]』、太陽書房、2023-01-05、ISBN 978-4-86420-296-1
- 塩田咲子「奥村五百子」(『日本史大事典 1』(平凡社、1992年)ISBN 978-4-582-13101-7)
- 永原和子「奥村五百子」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年) ISBN 978-4-095-23001-6)
外部リンク
[編集]- 近代日本人の肖像「奥村五百子」 (国立国会図書館WEBサイト)
- 晩年の浅子 (大同生命特設WEBサイト) - 明治・大正期の女性実業家・広岡浅子との交友関係について紹介
- 唐津の明治維新と近代化 奥村五百子、pp. 30–31、唐津市教育委員会、2018