山田六左衛門
山田 六左衛門(やまだ ろくざえもん、1901年2月28日[1] - 1978年3月24日)は、共産主義活動家。
経歴
[編集]鹿児島県熊毛郡南種子村(現在の南種子町)字平山生まれ。早稲田高等学院政経科中退。1927年(昭和2年)に日本労働組合評議会に加盟。1928年(昭和3年)に日本共産党に入党。同じ年の3月15日の三・一五事件などで検挙[2]。
戦後は1946年(昭和21年)日本共産党に再入党。1949年1月、第24回衆議院議員総選挙において和歌山県第1区から日本共産党公認で立候補して落選した[3]。1950年(昭和25年)の日本共産党の分裂時に関西の「国際派」の指導者となったため、除名された。1955年(昭和30年)に日本共産党が統一した際に復党し、1958年(昭和33年)に中央委員となった[2]。大阪府委員長なども務める[4]。
1961年(昭和36年)7月15日に綱領草案討議における「少数意見抑圧」に反対する声明を出す。7月20日、反党活動を行なったとして春日庄次郎らとともに除名された[5]。
同年10月11日、春日らと社会主義革新運動準備会を結成[6][7]。副議長に就任。1962年5月、春日庄次郎、安東仁兵衛らと「統一社会主義同盟」(現在のフロント (社会主義同盟)の前身)を結成[2]。
脚注
[編集]- ^ 『山田六左衛門』 - コトバンク
- ^ a b c 20世紀日本人名事典
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』284頁。
- ^ 日本人名大辞典
- ^ 日本共産党の60年(新日本出版社刊)
- ^ 大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編 共産党第8回大会[政]1961.7.25
- ^ 『社会・労働運動大年表』データベース
参考文献
[編集]- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。