明延鉱山

明延鉱山
明延鉱山坑道跡(世谷通洞坑)
所在地
明延鉱山の位置(兵庫県内)
明延鉱山
明延鉱山
所在地兵庫県養父郡大屋町(現:養父市大屋町)
日本の旗 日本
座標北緯35度16分19秒 東経134度39分34秒 / 北緯35.27194度 東経134.65944度 / 35.27194; 134.65944座標: 北緯35度16分19秒 東経134度39分34秒 / 北緯35.27194度 東経134.65944度 / 35.27194; 134.65944
生産
産出物スズ亜鉛タングステン
生産量25,500t/月(1987年頃)
歴史
開山大同年間
閉山1987年3月
所有者
企業官営
三菱合資会社
三菱鉱業株式会社
⇒太平鉱業株式会社
⇒三菱金属鉱業株式会社
⇒三菱金属株式会社

⇒明延鉱業株式会社
取得時期1868年(明治政府取得)
1896年(三菱合資会社取得)
1973年(明延鉱業取得)
プロジェクト:地球科学Portal:地球科学

明延鉱山(あけのべこうざん)とは、兵庫県養父郡大屋町明延(現:養父市)でかつて操業していたスズ亜鉛タングステンなどの多品種の非鉄金属鉱脈をもつ鉱山。特にスズは日本一の鉱量を誇っていた。

概要

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明延鉱山平安時代初期の大同年間に採掘開始といわれる。1868年明治元年)、生野銀山とともに官営となり、1896年(明治29年)に三菱合資会社に払い下げられた。

1973年昭和48年)に三菱金属株式会社(現三菱マテリアル株式会社)となり、同年発生したオイルショックをきっかけに、1976年(昭和51年)に三菱金属の子会社として分離・独立し明延鉱業株式会社となる。最盛期には、鉱山関係の人口が4,123人(963世帯)おり、娯楽施設の協和会館では、最新の映画が上演され、多くの芸能人島倉千代子村田英雄フランク永井など)が歌った[1]

1912年大正元年)に明延鉱山の鉱石を神子畑(みこばた)選鉱所に運ぶためにつくられた 5.75 km の鉱山列車「明神電車」は、1952年(昭和27年)以来、乗車賃「一円」で乗客を運んだことから、「一円電車」として有名になったこともある。

粗鉱生産量は、ピーク時の戦時中から1951年(昭和26年)頃には月産35,000t[2]、閉山前頃には、銅、亜鉛、スズの粗鉱生産量が月産25,500tであったが、プラザ合意後の急激な円高に伴う銅、亜鉛、スズの市況の下落により、大幅な赤字を計上することとなり、まだ採掘可能な鉱脈を残して、1987年(昭和62年)1月31日午後11時20分の発破を最後に、同年3月をもって閉山した[3]

2007年平成19年)11月30日公表の近代化産業遺産認定遺産リスト(経済産業省)において、「25. 我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の中で、明延鉱山関係では、「明神電車と蓄電池機関車」「明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)」「明盛共同浴場『第一浴場』建屋」の3点が認定された。

明延鉱山跡には、選鉱所の建物や鉱山鉄道で使われていた踏切の警報機、レール等が、2006年(平成18年)に現認されている。また、鉱山で使われていた鉄道車両(明神電車と蓄電池機関車、貨車等)や明延鉱山探検坑道は、養父市立あけのべ自然学校が管理している。明神電車の一部の車両は、朝来市の「道の駅あさご」にも、三両静態保存されている。

アクセス

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脚注

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  1. ^ 朝日新聞大阪本社版1986年12月11日「円高に消される 明延鉱閉山②」
  2. ^ 産経新聞兵庫版1983年2月3日「上層気流 兵庫の企業 明延鉱業」
  3. ^ 朝日新聞大阪本社版1987年2月1日「最後のハッパ ヤマ男が泣いた 明延鉱山1500年に幕」

関連項目

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資料映像

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外部リンク

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