毛利吉広
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 延宝元年1月12日[1](1673年2月28日) |
死没 | 宝永4年10月13日(1707年11月6日)[1] |
改名 | 千之助[1](幼名[2])→就勝[1]→吉広 |
別名 | 主膳[1][2] |
諡号 | 青雲公[1] |
戒名 | 青雲院殿前二州太守四品拾遺補闕大官令徹山道照大居士[1] |
墓所 | 山口県萩市椿の大照院[1][2] |
官位 | 従五位下[1]、従四位下大膳大夫侍従[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩藩主 |
氏族 | 毛利宗家→右田毛利家→毛利宗家 |
父母 | 父:毛利綱広[1][2] 母:房子(昌寿院、梨木永祐の娘[2])[1] 養父:毛利就信 養母:長寿院(亀子、酒井忠隆の娘) |
兄弟 | 吉就[3][2]、吉広、元重[4]他 |
妻 | 正室:小石姫(養心院、鷹司輔信の娘)[1] |
子 | 養嗣子:吉元 |
毛利 吉広(もうり よしひろ)は、江戸時代前期から中期の大名。毛利氏18代当主。長州藩4代藩主。2代藩主・毛利綱広の次男[1]。
概要
[編集]延宝元年1月12日[1](1673年2月28日)に江戸麻布の藩邸で生まれる[2]。
貞享元年(1684年)に一門八家の一つ右田毛利家当主・毛利就信の養嗣子となり、異母兄で長州藩主を継いでいた毛利吉就から偏諱を授与されて
元禄7年(1694年)に吉就が嗣子なくして早世するとその養嗣子として跡を継ぐ[1][2]。8月に兄同様、5代将軍・徳川綱吉より偏諱を授与され、亡き父の1字を取って[要出典]吉広に改名した[2]。
元禄9年(1696年)にはじめて領国に入国する[2]。藩財政が窮乏化する中、三田尻海岸の干拓[2]、橋本川の治水工事、城下町整備や検地など積極的な政策を展開するが、宝永4年(1707年)10月13日[1]に江戸桜田の藩邸で[2]、35歳で死去する[1][2]。改革は中途半端に終わった。
嗣子はなく、また弟の元重も前年に死去し、その子で甥に当たる元直も幼少であったため、長府藩から
偏諱を与えた人物
[編集]- 毛利広政(右田毛利家、吉敷毛利就直の四男、就直の実兄・毛利就信の養子)
- 毛利広包(吉敷毛利家、就直の五男で広政の実弟)
- 毛利広規(阿川毛利家、正室は毛利就包(広政・広包の兄)の娘)
- 宍戸広隆(宍戸氏)
- 椙杜広中(椙杜氏、椙杜元縁の孫)
- 椙杜広品(広中の実弟・養嗣子)
- 福原広頼(宇部領主福原家)
- 福原広泰(毛利広為)(初め大野毛利家の嗣子、のち兄の広頼が亡くなったのに伴い実家を相続)
- 山内広通(山内采女広通、備後山内氏)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。
- 吉田祥朔『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961。