毛沢東バッジ
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毛沢東バッジ | |||||||||||||||||
中国語 | 毛主席像章 | ||||||||||||||||
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毛沢東バッジ(もうたくとうバッジ、毛泽东像章、Chairman_Mao_badge、毛主席像章とも)は、1966年から1971年までに中華人民共和国内で広く普及したバッジ。
当時の国家指導者である毛沢東の肖像が描かれているものが主であるが[1]、そうでないものもある。文化大革命の間に数十億個生産され、種類は1万種に及ぶと推測されている。
形状[編集]
一般的なバッジの大きさは1センチから3センチ程度であり、材質は陶器、金属(銀やアルミニウム)、竹、プラスチックやビニールで作成されていた。
制作の歴史[編集]
文革以前[編集]
最も初期の毛沢東バッジは1937年に東北抗日聯軍で制作されたと考えられている。1940年~50年代には毛の同志であり、抗日戦争の英雄に対しての記念品として、あるいは様々な業績への功労賞(朝鮮戦争に従軍した義勇兵、公共事業に協力した農民や労働者等)として授与されるものであった。この時期に作成されたバッジは種類も生産数も少なかった[2]。
文革中[編集]
1966年5月に文革が始まり、毛が紅衛兵の代表に毛沢東バッジを授与したことにより、文革におけるバッジの重要性が高まった。
さらに9月5日には中国共産党中央および国務院による「大串连」(全国各地の学生が北京を訪れて革命の経験交流を行い、北京の学生が各地を訪れて革命を宣伝することを奨励する通知)[3]により、毛沢東バッジを身に付けた紅衛兵が中国各地を訪れ、バッジの存在が中国全土に認知されることとなり、バッジの生産に拍車がかかった。
中国東北部を訪れたある紅衛兵は、農村で暮らす少年に自分が作った漢方薬とバッジを交換してほしいと言われたため、自分及び仲間が身に付けているバッジを集めて少年にプレゼントしたという。
また、革命に関する特定の地域のバッジ[注 1]を入手するとその土地を訪問したことと同等と見なされた[4]。高原(gāo yuán)という紅衛兵は毛の故郷である韶山市を訪ねようとしたが旅費が長沙市までの分しか工面できなかったため、韶山市で作成されているバッジを長沙市で購入して韶山市を訪問したことの代替とした。
紅衛兵がバッジを身に付けるのは革命への熱意と毛への忠誠を示すためだったが、特に大きなものや精巧にデザインされたバッジは身に付けている者に大きな社会的信用をもたらしたため、人々はこぞってバッジを手に入れようとした。
文革以後[編集]
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脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ “Mao Badges: Standard Mao Badges”. THE MAO ERA IN OBJECTS. 2024年7月7日閲覧。
- ^ “Mao Badges: Early Mao Badge”. THE MAO ERA IN OBJECTS. 2024年7月7日閲覧。
- ^ 梅本可奈子 (2008年9月5日). “【今日は何の日】1966年:「大串連」が始まる”. excite.ニュース. 2024年7月7日閲覧。
- ^ “Mao Badges: Memories Of Badge Acquisition”. THE MAO ERA IN OBJECTS. 2024年7月8日閲覧。
参考文献[編集]
- Schrift, Melissa (2001). Biography of a Chairman Mao Badge: the Creation and Mass Consumption of a Personality Cult. Rutgers University Press. ISBN 978-0-8135-2937-0
- Wang, Anting, ed (1993) (Chinese). [Catalogue of Chairman Mao Badges]. Zhongguo Shudian Chubanshe
- Yuan, Wei, ed (1997) (Chinese). [Illustrated Collections of Badges in the Chinese People's Revolutionary Military Museum]. Shandong Huabao Chubanshe