燕京大学
座標: 北緯39度59分30秒 東経116度18分14秒 / 北緯39.9917度 東経116.3040度
燕京大學 | |
1926年当時のキャンパス | |
ラテン語: Yenching University | |
種別 | 国立 |
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開学期間 | 1919年–1952年 |
校長 | 翁独健 |
所在地 | 北京市海淀区 |
燕京大学(えんけいだいがく、繁体字: 燕京大學)は、かつて中華人民共和国に存在した大学。燕京大学は1919年に英米系の教会学校3校が合併し、設立された私立大学。1951年の中華人民共和国成立後に国立化されたが、その翌年に閉校となった。
沿革・概要
[編集]前身
[編集]米英両国の教会が北京に設置した教会学校3校を前身とする。燕京大学は1919年に英米系の教会学校3校が合併し、設立された。
- 匯文大学(Peking University) - 1870年(同治9年)、アメリカメソジスト監督教会が設置した学校。開校当初は「崇内懐理書院」と称された。
- 華北協和女子大学(The North China Union College for Women) - 1864年(同治3年)開校。
- 通州協和大学 - 1867年(同治6年)開校。当初は「公理会潞河書院」と称された。
燕京大学
[編集]1919年(民国8年)、匯文大学、華北協和女子大学及び通州協和大学が合併し燕京大学が設立され、南京で金陵神学院で司教を務めていたジョン・スチュワート(en)が校長に任命された。
1921年(民国10年)にスチュワートは、米国でタイム社を経営するヘンリー・ルース(en)及びアルコアの寄付を獲得し、北京市郊外の皇族庭園を買収、中国最大のキャンパスを建設、1926年(民国15年)に新キャンパスに移転し、神学部、法学部、医学部及び文学部、理学部の専門学科を設置した。
1928年(民国17年)、チャールズ・マーティン・ホールらの出資を受け、姉妹校であるハーバード大学と燕京大学の共同でハーバード燕京研究所を設置した。アメリカ資本に買収されたことにより、アメリカ大使館と同様の処遇を受けた。そのため、日中戦争開戦下でも日本軍は大学構内に踏み入れなかった。
1941年(民国30年)太平洋戦争が勃発。日本にとって米国が敵国となったため、開戦直後より日本軍が大学構内に突入占領し、大学は閉鎖された。1942年(民国31年)、四川省成都市に臨時学校が設立され、授業を再開する。1945年(民国34年)、日本の敗戦に伴い、北平市に復帰、翌年には成都の臨時学校より教員及び学生が復学し、あわせて工学部が設置された。
1951年、中華人民共和国成立後に国立化するも、1952年には大学教育機関再編に伴い、大部分は北京大学に、工科は清華大学、社会科学類は中国人民大学へ継承され、校舎は北京大学に移管された。
歴代校長
[編集]- ジョン・レイトン・スチュアート : 1920年 - 1945年
代理校長
[編集]教員
[編集]卒業生
[編集]- 費孝通:社会学・人類学者。
脚注
[編集]- ^ 1939年にハーバード燕京研究所に招聘され、客員教授として赴任。