王含

王 含(おう がん、? - 324年)は、中国西晋東晋の軍人。字は処弘本貫琅邪郡臨沂県

父は王基王導従兄王敦の兄。王瑜[1]王應の父。王應は後に叔父の王敦の後継者となった。

生涯

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凶暴で非行が多かったと伝わる。王敦の出世に伴って出世し、荊州刺史征東大将軍都督揚州江西諸軍事になる。永昌元年(322年)に王敦が東晋に対して反乱を起こすと同調し、驃騎大将軍・開府儀同三司となった。

太寧2年(324年)、明帝が王敦を討伐するべく兵を出した。この際、王敦は重病に倒れていたため、代理として王含が元帥となり、7月に5万の軍勢を率いて首都建康に迫った[2]。しかし明帝は自ら諸軍を率いて親征し、1000人の兵を王含軍の陣に夜襲したため、王含は敗北した[2]。この時、王敦は敗報を聞いて「兄は老いぼれ下女のように役立たずだ」と憤慨して自ら陣頭に立とうとしたが、間もなく失意の内に死んだ[2]。このため王含は陣営を焼いて夜中に逃走。荊州にいた従弟の王舒(叔父王会の子)の下に走ったが、長江に沈められて溺死した。

王含の母

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代の小説『宣室志中国語版[3]には、王含の母が狼に変身した話が載っている。

王含の母は金氏といい、人の出だった。弓馬に長け、馬で森へ分け入っては獣を狩り、人々に恐れられていた。そんな金氏も、70歳を超えると老いと病で衰え、部屋から出なくなった。

ある夕方、金氏の部屋から狼が飛び出て、夜明け前に帰ってきた。そんなことが2夜続いた。次の朝、金氏の食事に鹿を出すと、金氏は「生でよこせ」と言い、生で食い尽くした。この事件は家人の話題になり、金氏は恥じ入った。その夕方にも狼が飛び出て行ったが、帰って来ることはなかった。 — 『宣室志』第8巻「王含」より要約

脚注

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  1. ^ 世説新語』人名譜より。
  2. ^ a b c 駒田 & 常石 1997, p. 90.
  3. ^ ウィキソースには、『宣室志』第8巻の原文があります。

参考文献

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  • 中国の思想刊行委員会 編『三国志全人名事典』徳間書店、1994年11月。 
  • 駒田信二; 常石茂『新十八史略4』河出書房新社、1997年7月。