田中美津

たなか みつ

田中 美津
生誕 (1943-05-24) 1943年5月24日
日本の旗 日本 東京都文京区
死没 (2024-08-07) 2024年8月7日(81歳没)
住居 日本の旗 日本
メキシコの旗 メキシコ
職業 鍼灸師
団体 リブ新宿センター
肩書き ぐるーぷ闘うおんな代表
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田中 美津(たなか みつ、1943年5月24日[1] - 2024年8月7日)は、日本の女性解放運動家、鍼灸師フェミニスト1970年代ウーマン・リブ運動の代表的な人物の一人である。

経歴

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1943年、東京都文京区本郷吉祥寺前の魚屋「魚菊」の三女(五人兄弟の四番目)として生まれる。仮死状態で生まれ、百日咳でよく学校を休む虚弱児だった[2][3]尋常高等小学校出の学歴のない両親のもと、世の中の価値観や権威を押し付けられることなく育った[4]

一方、小学校2年生のとき、家業の従業員に[5]チャイルド・セクシャル・アビューズ(幼児への性的虐待)を受けた[6]。このことにより、「女性差別」と「虚弱なからだ」は生涯のテーマとなっていく[7]。実家は中学2年生くらいの時期に割烹料理店に商売替えをしており、家運は上向きとなっている[8]

高校卒業後コピーライターの養成所に通ったのち、宣伝会社に就職したが9か月で社内不倫により退社。実家が営む料理店で家事手伝いをする[9]。大学には進学していない。自分の生き方を探す中で、22歳から24歳にかけて自分を生かすためにお見合いを2回しているが、自分から断っている。近所に住むベトナム青年がカンパを取りにきたのをきっかけに、ベトナム戦災孤児の救援活動に参加[10]、それが反戦活動「反戦あかんべ」という市民グループ結成につながっていく[11]。また、東京大学赤門付近に居住していたことにより、カルチェ・ラタン闘争や各種市民運動に参加した[12]。その後、山谷の運動や秋葉原で働く労働者の解雇撤回闘争などに関わっていく[13]

安田講堂にこもった赤軍派の若者に宿として提供。本郷三丁目の自宅がアジト化し、革命を叫ぶ男たちを観察する中で失望し[14]、女性解放に目覚める。ヴィルヘルム・ライヒ『性と文化の革命』を読み感銘を受ける[15]

1970年8月、「女性解放連絡会準備会」を設立[16]。同年10月4日、朝日新聞都内版は、各地で女性解放のためのグループがつくられていると報じ、運動の原語の「Women's liberation movement」を「ウーマン・リブ」と名付け、見出しに掲げた[16]。田中は記事の中で「女性解放連絡会準備会」の呼びかけ人として紹介された[17]

同年10月21日の国際反戦デーに女性だけによるデモが行われ、田中らは「便所からの解放」という手書きのビラをまいた。日本でウーマンリブが社会的注目を浴びたのはこの日のデモが最初だといわれる[18][19][20]。田中はウーマンリブ運動の先駆者となった[21]。このとき田中は、チラシ配布時の女性たちの反応に、「時代を掴んだっ!」と思ったという[22]加納実紀代は「リブにはさまざまな流れがあり、それがリブの豊かさとエネルギーを生んでいる」としながらも「リブ=田中美津さんの感がつよい」「田中美津なくして日本のリブは語れない」と述べている[23]

1971年8月21日~24日、長野・信濃平スキー宿ヒュッテ鈴荘にて第1回リブ合宿が、田中をリーダーとする「ぐるーぷ闘うおんな」や思想集団「エス・イー・エックス」などのリブ合宿実行委員会の呼びかけにより開催された。10代から40代までの子連れを含む約300人が全国から集まった[24]

1972年9月、「ぐるーぷ闘うおんな」のリーダーとして、東京代々木のマンション内にウーマンリブ運動の一拠点として「リブ新宿センター」を設立。「エス・イー・エックス」「闘う女性同盟」「緋文字」「東京こむうぬ」の4グループ(総勢約20名)とともに運営された。メンバーの中で田中は最年長で、運動を楽しくするために様々なアイディアを発想、実施した[25]。同センターは女性の駆け込み寺として、また中絶や避妊また法律などの相談センターとしても機能したほか、様々な講座開催や抗議運動など多彩な活動を展開し、1977年7月に閉所している。この活動資金となった「リブニュース」(1972年10月1日創刊、18回発行)に田中は多くの文章を発表した[26]

1975年、一連のリブ運動に疲れ果て[27]休養を兼ねて[28]国際婦人年世界会議出席のためにメキシコに渡り、4年半(4年3か月?[29])現地で暮らす。その間、メキシコ人との間に[29]未婚で[28]息子を出産[30]。手に職をつけることを考え、鍼灸学校に入学するために帰国。親から入学金を借り、区の女性福祉資金から学費を借り、生活保護を受けながら3年間通学[31]。1982年、鍼灸学校卒業と同時に新宿御苑前の駅前で開業[32]。後は鍼灸師として活動している[33]

2007年東京都知事選挙では「アサノと勝とう!女性勝手連」の呼びかけ人として演説し、その立ち上げ集会の締めくくりとして歌も披露した。

2019年7月、彼女を撮ったドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(吉峯美和監督、90分、共同製作・配給:パンドラ)が完成し、同年10月26日より渋谷ユーロスペースにて上映されている[34][35]

2024年8月、多臓器不全により死去。81歳没[36]

発言と思想

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分断された女性

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幼い時に受けたチャイルド・セクシャル・アビューズ(幼児への性的虐待)により、「私はダメだ、穢れてる」「私って邪悪な存在なんだ」と思い込み、「邪悪な私でも生きてていいんだと思えるような生き方をみつけよう」ともがき続ける[37]。その中で、泣いているベトナムの子供に自分の姿を見て、自己救済としてのベトナム救援活動を始めている[38]。 が、ヴィルヘルム・ライヒの『性と文化の革命』に感銘を受け、「性に対して否定的な考え方を持ってると、権威をありがたがって、自分の欲望を恐れる、のびやかさのない人間になる。管理されやすい人たちばっかりの世の中ができてしまうんだよ」と思い、心に光がさす。それが田中の一番有名なビラ[39]「便所からの解放」につながっていく[40]

私たち女は本来精神的な存在であるとともに、性的な存在である。それなのに男の意識を通じて、母(子どもを産ませる対象)と便所(性処理に都合のいい対象)とに引き裂かれてきた。そう、私有財産制下の秩序は、女をそのように抑圧することで保たれてきたのだ   田中美津「便所からの解放」 — 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 5

ここで田中は、「女が女として生きる」ことができない、女を分断する男性社会を告発している[39]

しかし田中は、「女だけが抑圧されている」といった被害者意識であるわけではない。男性も同様の抑圧の中にあるとしている。(2015年子宮筋腫・内膜症体験者の会)[41]

一方で「中絶の自由」とともに「生める社会を!生みたい社会を!」と訴える(2017年11月15日講演)[42]とともに、女性側も自ら<川へ行ってしまう自分>(=「おじいさんは山へ芝刈りにおばあさんは川へ洗濯へ」を社会的役割の強制の例えとしている)も変えていかないといけない[43]としている。

〇でありかつ×である

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日本のウーマン・リブがもつ軽やかさしなやかさは田中だけによるものではないが[33]、田中には、建て前(例えば社会正義)と本音(自分の欲望)の両方を矛盾をも取り込み逃げない思考(田中が言う「取り乱し」)がある[44]

「いやな男なんかに、もちろんお尻触られたくない。でも好きな男が触りたいと思うお尻は欲しい。これが「ここにいる女」というものだ」[45]という田中から繰り返されるフレーズは、同じように「絶対的に悪いだけのものとか、良いだけのものとかは極めて少ないのではないか」(2014年6月21日たんぽぽ総会記念講演)[46]「化粧が媚なら、素顔も媚だ、イヤリングしながら戦って何が悪い」[47]「男からはかわいいと思われたい部分があるし、職場なんかでは女としてかわいいかどうかで云々されたくないしサ」のように、「〇か×か」ではない「〇でありかつ×」という考え方が見える[48]

言葉と学歴

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「大学に行っても、私が欲しているものは手に入らないような気がして」[11]。と、大学には進学していない。運動をする中で、大学を経た女性に接し、大学に行くことにより男と同じ言葉や理論で思考・行動することで男並みになろうとする方向に行ってしまいやすいこと、結果として女としての言葉を取り戻すのにかえって苦労していると彼女たちをとらえた。そして、「自分のぐるりのことから考える」というフレーズを繰り返し、自分の言葉で語ることを強調している[47]。上野千鶴子は、田中の独特な言葉の使い方に「他人を乗せる力がある」と評している[49]

こころとからだ

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鍼灸師である田中は、人は幸せになるために生きているとし、小さな生き物としてただ生きていることの大切さを訴える[50]。自分を肯定し、今を生き、からだを冷やさずに、幸せそうな顔をして、自分以上のもの以外のものになろうとしない、溜ったものは出す、といった健康法を説く講演会を多数行っている[51]

著書

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単著

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  • 『いのちの女たちへ とり乱しウーマンリブ論』(田畑書店、1972年)
  • 『自分で治す冷え性』(マガジンハウス、1995年)
  • 『いのちのイメージトレーニング』(筑摩書房、1996年、のち新潮文庫、2004年)
  • 『ぼーっとしようよ養生法 心のツボ、からだのツボに…』(毎日新聞出版、1997年)
  • 『新装版 いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論』(パンドラ、2001年)
  • 『ぼーっとしようよ養生法 心のツボ、からだのツボに…東洋医学』(三笠書房、2003年)
  • 『かけがえのない、大したことのない私』(インパクト出版会、2005年)
  • 『新・自分で治す「冷え症」』(マガジンハウス文庫、2008年)
  • 『新装改訂版 いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論』(パンドラ、2010年)
  • 『新版 いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論』パンドラ、2016年)
  • 『自分で治す冷え症』(マガジンハウス、2017年)
  • 『この星は、私の星じゃない』(岩波書店、2019年)
  • 田中美津『明日は生きてないかもしれない……という自由』インパクト出版会、2019年。ISBN 9784755402937NCID BB29405479全国書誌番号:23307815https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030032027-00 

共著

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  • 『美津と千鶴子のこんとんとんからり』(木犀社、1987年、上野千鶴子との共著)

脚注

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  1. ^ 田中美津』 - コトバンク
  2. ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 279.
  3. ^ 「いのちの女たちへ」p96
  4. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 125.
  5. ^ 「いのちの女たちへ」p94
  6. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 110.
  7. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 126.
  8. ^ 「いのちの女たちへ」p121
  9. ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 281.
  10. ^ 「いのちの女たちへ」p117
  11. ^ a b 『戦後日本スタディーズ2』, p. 284.
  12. ^ 『ひとびとの精神史5』p211
  13. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 113.
  14. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 214.
  15. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 76.
  16. ^ a b 加納実紀代侵略=差別と闘うアジア婦人会議と第二波フェミニズム」『紀要論文 女性学研究』第18巻2009年度男女共同参画事業シンポジウム「70年代フェミニズムを検証する : 侵略=差別と闘うアジア婦人会議の軌跡」、大阪府立大学女性学研究センター、アジア婦人会議、2011年3月、149-165頁、doi:10.24729/00004887 
  17. ^ 『インパクション 73号:特集リブ20年』p10
  18. ^ 井上輝子, 長尾洋子, 船橋邦子「ウーマンリブの思想と運動 : 関連資料の基礎的研究」『東西南北』第2006巻、和光大学総合文化研究所、2006年1月、134-158頁、CRID 1050001338313796096 
  19. ^ 上野千鶴子. “上野講演 ウーマン・リブ”. 国際基督教大学ジェンダー研究センター. 2023年7月25日閲覧。
  20. ^ 「強い女」男社会を告発 第38回 リブ女の解放宣言 性を公然と議論、風当たりも強く”. 日本経済新聞 (2014年5月18日). 2023年7月25日閲覧。
  21. ^ 上野 2015, p. 189-190.
  22. ^ 『明日はいきていないかもしれない…という自由』p5
  23. ^ 『インパクション 73号:特集リブ20年』p9
  24. ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 287.
  25. ^ 『インパクション 73号:特集リブ20年』p42
  26. ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 286-289.
  27. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 38.
  28. ^ a b 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 165
  29. ^ a b 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 143
  30. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 23.
  31. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 91.
  32. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 135.
  33. ^ a b 『ひとびとの精神史5』p209
  34. ^ この星は、私の星じゃない
  35. ^ ユーロスペース
  36. ^ 鍼灸師の田中美津さん死去、81歳 1970年代ウーマンリブを牽引”. 産経新聞:産経ニュース (2024年8月8日). 2024年8月8日閲覧。
  37. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 74.
  38. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 112.
  39. ^ a b 『ひとびとの精神史5』p224
  40. ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 285.
  41. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 120.
  42. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 171.
  43. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 119.
  44. ^ 『ひとびとの精神史5』p228
  45. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 59.
  46. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 94.
  47. ^ a b 『戦後日本スタディーズ2』, p. 304.
  48. ^ 『ひとびとの精神史5』p229
  49. ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 313.
  50. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 177,238.
  51. ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 96,103,123.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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