祐天寺
祐天寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 東京都目黒区中目黒五丁目24番53号 |
位置 | 北緯35度38分10.8秒 東経139度41分47.9秒 / 北緯35.636333度 東経139.696639度座標: 北緯35度38分10.8秒 東経139度41分47.9秒 / 北緯35.636333度 東経139.696639度 |
山号 | 明顯山(明顕山)[1] |
院号 | 善久院[2] |
宗派 | 浄土宗[1] |
本尊 | 祐天上人像[1] 阿弥陀如来 |
創建年 | 1718年(享保3年) |
開山 | 祐天(勧進開山)[2] |
開基 | 祐海 |
正式名 | 明顯山善久院祐天寺 |
公式サイト | 明顕山祐天寺 |
法人番号 | 7013205000162 |
祐天寺(ゆうてんじ)は、東京都目黒区中目黒五丁目にある浄土宗の寺院である。山号は明顕山。本尊は祐天上人像(本堂安置)と阿弥陀如来坐像(寄木造、阿弥陀堂安置)[3][4]。現在の本堂は、元々は常念仏堂として建立された堂宇を再建したものである。
沿革
[編集]享保3年の春ごろから増上寺36世住持の祐天の体調が悪化したため、弟子の祐海は祐天が常念仏を行える廟所を探す。しかし同年7月15日(1718年8月11日)に祐天が亡くなる。
祐天が廟所を目黒の地に建立することを望んでいたこともあり、祐海は同じ目黒にある善久院を100両で購入し、住職となる。損傷の激しい善久院に祐天の廟所と常念仏堂を建立再興した。
享保8年(1723年)1月13日、祐天寺の寺号が正式に許可される。[5]
祐天を開山とし、祐海は第2世となる[2]。
境内
[編集]墓地は二カ所に分かれている。
- 柳原愛子(大正天皇の生母)
- 伯爵柳原前光
- 生実藩主森川氏
- 長州藩主毛利家室の墓 - 山門横にある。
- 土佐藩主山内家室の墓
- 寺村道成(日野春草)
- 松岡辰方
- 渋沢喜作(成一郎)
- 渋沢作太郎
- 歌橋
- 堤功長
- 岡千仭
- 水野幸吉 - 外交官
- 森要蔵
- 森寅雄
文化財
[編集]- 国の登録有形文化財
- 本堂
- 書院
- 地蔵堂
- 地蔵堂門
- 表門
- 水屋
- 鐘楼
- 東京都指定有形文化財
- 旧崇源院霊屋宮殿
- 木造祐天上人坐像
- 東京都指定文化財旧跡
- 祐天上人墓
- 区指定有形文化財
- 仁王門
- 阿弥陀堂
- 絹本著色阿弥陀三尊来迎図
- 絹本著色当麻曼荼羅図・祐天上人像
- 絹本著色阿弥陀如来像(裏面 飛天散華図)
- 木造祐海上人坐像
交通アクセス
[編集]参考画像
[編集]- 表門
- 仁王門
- 阿弥陀堂
- 地蔵堂
- 地蔵堂門
- 水屋
- 鐘楼
- 祐天上人の墓
- 累(かさね)塚
脚注
[編集]- ^ a b c 新編武蔵風土記稿 中目黒村.
- ^ a b c 江戸名所図会.
- ^ 『全国寺院名鑑 北海道・東北・関東編』(史学センター、1976)、p.320の祐天寺の項に本尊は祐天上人と阿弥陀如来とある。本尊については単に「祐天上人」とする資料もある(『日本歴史地名大系 東京都の地名』、平凡社、2002、p.738、など)。
- ^ 伊藤 丈. “阿弥陀堂建立の記”. 2010年5月14日閲覧。伊藤 丈. “祐天寺の開創(一) 祐天上人真像晋山”. 2010年5月14日閲覧。伊藤 丈. “祐天寺の開創(二) 本堂新建造立”. 2010年5月14日閲覧。
- ^ 玉山成元. “祐天寺のなりたち”. 2010年5月14日閲覧。
- ^ 美術出版社 2001, p. 81.
参考文献
[編集]- 美術出版社 (2001), 全国・寺社仏像ガイド, 美術出版社
- 斎藤長秋 編「巻之三 天璣之部 祐天寺」『江戸名所図会』 2巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、115,120-123,126頁。NDLJP:1174144/62。
- 「中目黒村 祐天寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ47荏原郡ノ9、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763981/102。