米倉昌言
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保8年3月9日(1837年4月13日) |
死没 | 明治42年(1909年)2月27日 |
改名 | 直吉(幼名)、昌言 |
墓所 | 神奈川県横浜市金沢区六浦町の米倉氏墓地 |
官位 | 従五位下・下野守、丹後守、正五位、従四位、正四位、従三位、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 武蔵金沢藩主 |
氏族 | 米倉氏 |
父母 | 米倉昌寿、板倉勝長娘・演暢院 |
兄弟 | 朽木紘綱、昌言、池田頼誠、昌慧、 安部信発、正直、昌邦、本多助実継室、 恒子ら |
妻 | 諏訪忠恕娘 本庄道美娘 |
子 | 昌臧、昌大、諏訪頼固室 |
米倉 昌言(よねくら まさこと)は、江戸時代後期の大名。武蔵国六浦藩8代藩主。官位は従五位下・下野守、丹後守。維新後、六浦知藩事。子爵。六浦藩米倉家11代。
生涯
[編集]天保8年(1837年)3月9日、7代藩主・米倉昌寿の六男として誕生した。
安政5年(1858年)5月、13代将軍・徳川家定に御目見し、6月に叙任する。万延元年(1860年)6月24日、父が病気を理由に隠居したため、その跡を継ぐ。幕末の動乱期の中では佐幕派として行動し、田安門番や日光祭礼奉行を務めた後の文久3年(1863年)2月に大坂加番、元治元年(1864年)10月には大番頭を務めた。同年の第一次長州征討、慶応2年(1866年)の第二次長州征討にも参加している。
慶応3年(1867年)末、横須賀製鉄所の警護を務めたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で知藩事となり、金沢藩を六浦藩と改称する。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官となり、明治17(1884年)7月8日、子爵を叙爵[1]。
明治42年(1909年)2月27日、死去。享年73。
家族
[編集]父母
妻
子女
脚注
[編集]- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 | 子爵 (六浦)米倉家初代 1884年 - 1909年 | 次代 米倉昌臧 |