葉梨新五郎
葉梨 新五郎 はなし しんごろう | |
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生年月日 | 1901年2月20日 |
出生地 | 日本 茨城県稲敷郡木原村 |
没年月日 | 1956年3月27日(55歳没) |
死没地 | 日本 |
出身校 | 鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校) 明治大学専門部法律科中退 国士舘高等部(国士舘大学の前身)中退 |
所属政党 | 立憲政友会 日本自由党 民主自由党 自由党 |
子女 | 長男・葉梨信行(衆議院議員) |
選挙区 | 茨城県第1区 (戦前中選挙区)→茨城県全県区→茨城県第1区 (中選挙区) |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1932年2月20日 - 1936年1月21日 1937年4月30日 - 1942年4月29日 1946年4月10日 - 1948年12月23日 1953年4月19日 - 1955年1月24日 |
葉梨 新五郎(はなし しんごろう、1901年(明治34年)2月20日 - 1956年(昭和31年)3月27日)[1]は、日本の政治家。衆議院議員。
来歴・人物
[編集]茨城県稲敷郡木原村に葉梨伴之助の四男として生まれた[2]。東京出身[1][3]。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)で学ぶ[4]。旧制中学を卒業し[5]、明治大学専門部法律科[3]中退[1]、国士舘高等部(国士舘大学の前身)[3]中退[1]。
中央新聞、日本電報通信社(後の電通)の記者、関東長官秘書官などを経て[2][3]、1932年旧茨城1区から立憲政友会公認で第18回衆議院議員総選挙に初当選し、戦前・戦後合わせて公職追放の期間を挟み[6]、5回当選している(第18回、第20回、第22回、第23回、第26回)[3]。初当選時の第18回衆議院選挙における最年少当選者[5](満31歳)。戦後は日本自由党・民主自由党・自由党に所属し、通貨安定本部長、農地改革法審議特別委員長などの要職を歴任した。このほか新興採炭取締役会長、大阪時事新報、桜川紡績、日東農産、三鋼紹介の各社長などを歴任した[3]。
1955年の総選挙で落選。翌1956年3月27日死去[1][3]。享年55[1]。
死後、長男の信行が地盤を継承したが、初出馬から3回連続で落選の苦杯をなめた。
家族・親族
[編集]- 妻 鈴子
- 長男 信行
- 長女 貞子
- 二男 之義
- 三男 孝之
- 四男 靖之
- 五男 之紀
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 「葉梨新五郎」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社、2015年 - コトバンク、2024年4月15日閲覧。
- ^ a b 『代議士録』武内甲子雄編、人事興信所、1946年10月25日、136頁。
- ^ a b c d e f g 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、498頁。
- ^ 今村貞二『愚者物語』藤田正実、栗田書店、1962年11月3日、313頁。
- ^ a b 渡辺一正『普選第三回政戦のあと』普選徹底会、1933年2月18日、36,94頁
- ^ 公職追放の該当事項は「大阪時事新報社社長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、86頁。NDLJP:1276156。)
参考文献
[編集]- 『第十六版 人事興信録 上』(1951年)は5頁
関連項目
[編集]外部リンク
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議会 | ||
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先代 赤松勇 | 衆議院労働委員長 1954年 | 次代 川崎寛治 |
名誉職 | ||
先代 坂本一角 | 最年少衆議院議員 1932年 - 1936年 | 次代 内藤久一郎 |