趙雲
趙雲 | |
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蜀漢 鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯 | |
出生 | ?(生年不詳) 冀州常山国真定県 |
死去 | 建興7年(229年) |
拼音 | Zhào Yún |
字 | 子龍 |
諡号 | 順平侯 |
主君 | 公孫瓚→劉備→劉禅 |
兄弟 | 兄(名は不詳) |
子 | 趙統、趙広 |
趙 雲(ちょう うん、拼音: 、?(生年不詳) - 建興7年(229年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は子龍(しりゅう[1]・しりょう[2])。冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡は順平侯。
正史における趙雲[編集]
以下は正史『三国志』(蜀書)趙雲伝(裴松之注『趙雲別伝』を含む)より。『三国志演義』の趙雲については『三国志演義における趙雲』を参照。
若き頃[編集]
常山国真定県の出身。身長八尺(約185cm)あり、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて幽州の公孫瓚の配下となった[3]。
当時、袁紹は冀州牧を称していた為、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた。公孫瓚は趙雲の来付を喜び、趙雲を嘲笑して「聞くところでは、君の州の人は、みな袁紹に付くことを願っているという。君はどうして、ひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのか?」と言った。趙雲は「天下はがやがやと勝手なことを言っていますが、未だ何が正しいのかを知ることができず、民には逆さ吊りにされるような災厄があります。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、個人的に将軍(公孫瓚)を尊重したわけではありません」と言った。こうして公孫瓚とともに征討した[4]。
公孫瓚配下時代[編集]
劉備との出会いと別れ[編集]
この時、公孫瓚の元に身を寄せていた劉備と出会い、これが二人を結びつける機縁となる。次第に劉備と趙雲は仲を深めていった[5]。
青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎(騎兵隊長)[注釈 1]となった。
その後、趙雲の兄が亡くなり、服喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は、趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と答えた[6]。
劉備との再会[編集]
建安5年(200年)頃、曹操に追われた劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲は鄴で久しぶりに劉備に目通りした。再開を喜んだ劉備は、趙雲と同じ牀(ベッド)を共にして眠った。劉備は趙雲を派遣して募兵させて、密かに募った数百人の兵を連れて、みな劉備左将軍の部曲(私兵)と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった。こうして趙雲は劉備に随って荊州へ逃れた[7]。
劉備配下時代[編集]
旧友を生け捕る[編集]
建安8年(203年)、博望坡の戦いで敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を挙げたが、彼が小さいころからの同郷の友人であることから、劉備に助命嘆願すると共に、法律に明るい人物として彼を軍正に推挙した。その結果、夏侯蘭は軍正として登用されたが、趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬよう、自分から彼に接近しないように気遣った[8]。
長坂坡の戦い(長坂の戦い)[編集]
建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る精鋭5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて臣下数十騎と逃走した。劉備の娘2人は曹純に捕らえられたが、趙雲が劉禅(阿斗)を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、無事2人は危機を免れることができた。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。
この時、趙雲が北に逃げ去ったと言うものがいた。劉備は手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない!」と怒った。ほどなく趙雲が到着した[9]。
荊州平定[編集]
同じく建安13年(208年)、荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になった(赤壁の戦い#南郡攻防戦)。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁の樊氏(未亡人)を趙雲に嫁がせようとした。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄なら、わたしの兄のようなものです」と、同姓を理由に断わった。樊氏は絶世の美女であったので、なおも趙雲に娶るように薦める者がいた。趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者ではありません。それに、天下に女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。その後、趙雲の警戒通り、趙範は逃亡したが趙雲は何の未練も持たなかった[10]。
阿斗を再び救う[編集]
劉備は趙雲を留営司馬に任じた。そのころ、劉備の正妻となっていた孫権の妹である孫夫人(孫尚香)は、孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率い、侍女には武装させて軍法を無視するわがままぶりを発揮し、劉備は手を焼いていた。劉備は趙雲が厳格で公私をわきまえ、全体を引き締めるに最適の人物であると判断し、趙雲を目付役(監視役)としてこの役に任命した[11]。
孫権は劉備が入蜀したことを知ると、船を出し孫夫人を呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。諸葛亮は趙雲に命じ、張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した[12]。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている[13]。
益州平定[編集]
建安18年(213年)、諸葛亮・張飛・劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた[注釈 2]。
益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした。趙雲は「(前漢の)霍去病は匈奴がまだ滅んでいないとして、屋敷を作ろうとしませんでした。今の国賊は匈奴程度では済まされず、まだ平安を求める時ではありません。天下が平定されるのを待ち、それぞれ郷里に帰って故郷で農業をするのが一番適切です。益州の民衆は度重なる兵火に見舞われ、田地も屋敷も荒れ放題でございます。今はこれを民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役や徴税を行なえば、彼らは自然と心服するでしょう」と反対した。劉備はその意見に賛成し、従った[14]。
定軍山の戦い[編集]
建安24年(219年)、漢中攻め(定軍山の戦い)で、曹操軍の兵糧を奪うため、黄忠は趙雲の兵を借り出陣したが、約束の時間を過ぎても戻ってこなかった。心配した趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ曹操の大軍と出くわしたが、見事な撤退戦で無事に囲(拠点)へと戻った。この際、敵陣に取り残された張著を救出した[15]。
しかし曹操軍は再び盛り返し、趙雲らの囲まで追撃してきた。囲には沔陽長の張翼がおり、張翼は門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は囲に入ると大いに門を開き、旗を伏せて太鼓を止めさせた。曹操軍は趙雲に伏兵があると疑い引きあげた。そして、趙雲は雷のように太鼓を天を震わせるほどたたき、弩で後から曹操軍を射た。曹操軍は驚き、混乱の中、互いに蹂躙し漢水の中に落ち、大勢が死んだ[16]。これが後に空城計と呼ばれる心理戦である。
劉備は翌日の朝、趙雲の囲に自ら向かい、昨日の戦いの場所を視て、「子龍の一身はすべてこれ肝である(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と称賛した。楽を演奏し、宴会は夕方にまで至った。軍中は趙雲を号して虎威将軍とよんだ[17]。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。『三国志演義』にて、諸葛亮が空城計を用いて司馬懿ら魏軍を退けるエピソードがあるが、この趙雲の空城計がモデルとなっている。
対呉戦争[編集]
章武元年(221年)、呉を討とうとする劉備に、趙雲は「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば呉はおのずと降伏するでしょう。曹操は死にましたが、子の曹丕は漢室を簒いました。このときをはずさず、衆心を集め、早く関中を経略し、黄河・渭水の上流を確保して凶逆を討伐するならば、関東の義士は必ず兵糧を持ち、馬に鞭あて王師を歓迎するでしょう。魏をおいて、先に呉と戦ってはなりません。いったん戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか」[注釈 3]と諫めたが聴き容れられず、対呉戦争(夷陵の戦い)では、趙雲は江州督として留まった。劉備が敗戦すると永安まで兵を進め劉備を救援した[19]。
劉禅配下時代[編集]
その後、病を発し病床に臥せた劉備は章武3年(223年)4月に白帝城にて崩御した。建興元年(223年)5月、子の劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。
第一次北伐[編集]
建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、魏の曹叡は曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共に別動隊を率いてその相手をする事となり、その間に諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かった[注釈 4]という(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。
しかし趙雲が自ら殿(しんがり)を務め、兵を巧みに取りまとめて軍需物資を殆ど捨てずに退却に成功した。諸葛亮は、副将の鄧芝に「街亭の戦いでは、わが軍が撤退するとき将兵はばらばらになったが、箕谷の戦いでは撤退するときでもわが軍はまとまることができた。これはどういうわけか?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲将軍のおかげであります。将軍自らが殿となり、軍需品や器物をほとんど捨てずにすみ、わが部隊はまとまりを失わずすんだのです」と答えた[20]。諸葛亮は恩賞として、趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、「敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま残して赤岸(赤崖)の倉庫におさめ、10月になるのを待ち、冬の下賜とされますようお頼みします」と進言した。この趙雲の進言に、諸葛亮は大いに喜んだ[21]。
その後、敗戦の責任から諸葛亮共々降格となり、自身は鎮軍将軍に降格された[注釈 5]。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。
最期[編集]
死後[編集]
景耀4年(261年)3月、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬・費禕・陳祗・夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。
劉禅は詔勅で、「趙雲はかつて先帝に従い、その功績はすでに顕かである。朕は幼いときに困難に直面しながらも、彼の忠誠と従順を頼りに危険から身を救うことができた。諡号とは、大きな功績を記す英雄を指す。世間では趙雲に諡号を贈るのは当然のことだと取り沙汰している」と述べた[24]。大将軍の姜維たちは会議を行い、以下を上奏した。
「考えますに、趙雲はむかし先帝に従い、その労苦・功績はすでに顕かであります。天下を巡り働き、法律を遵守し、功績は記録すべきものがございます。陛下をお救いした当陽の役では、義は金石を貫き、忠は至上を守るに十分なものでした。君主がそれを賞することを思い、礼により下に厚くすれば、臣下はその死を忘れます。死者であり知覚があれば、それは不朽とするに足ります。生者であり恩に感じいれば、それは身を投げ出すに足るものです」[25]
「謹んで諡法を調べますに、柔順で賢明で、慈愛を持ち恵愛にあふれることを『順』といい、仕事を行う際に秩序のあることを『平』といい、災禍や反乱を打ち勝ち平らげることを『平』といいます。趙雲に諡して順平侯というべきです」[26]
逝去時期の違いについて[編集]
正史では「建興7年(229年)卒」となっているが、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』では、「漢中に至ってより一年、趙雲・陽羣・馬玉・閻芝…(略)…を失った」[27]とあり、228年11月以前に趙雲が亡くなっていることになっている。そのため、『後出師表』について真作か偽作かで研究者の間でも主張が分かれ、結論が出ていない。
墓地[編集]
正史には趙雲がどこに葬られたのか記録はないが、以下に趙雲墓とされている墓が3か所ある。
大邑趙雲墓[編集]
趙雲の墓としてもっとも有力視されている墓。錦屛山(銀屛山とも)の南麓に位置する。趙雲が晩年、この地に駐屯、または領地とし、羌族の侵入を防いだとされ、死後、住民らの請願によってこの地に埋葬されたとある[要出典][28][29]。墓の前に建てられた子龍廟は明末の戦争で破壊された。1665年、大邑知県の李徳耀が趙雲墓のために祠堂と碑を建て、その後も何度かの改修、拡張工事が行われ、1930年には大邑県長・解汝襄が県民と一緒に子龍廟を拡張し、前殿、本殿、拝殿などからなる壮観な建造物になった。その後は文化大革命や四川地震で深刻な被害を受けたが、現在政府により修復作業が進められており、2025年下半期に一般公開が予定されている[30]。
南陽趙雲墓[編集]
南陽市南三十里に存在した墓。もっとも古い記録で明の天順5年(1461年)『大明一統志』に記述がある[31]。盗掘に遭い、現在は碑文の拓本が残っている。
伝説では、清の順治帝が自身を劉備の生まれ変わりだと名乗り、二弟の関羽が夢に現れ、「三弟の張飛は遼陽に、四弟の趙雲は南陽にいると告げた」と大臣たちに言い、三種の神勅を発し、第一は全国の関帝廟を大改修すること、第二は遼陽で張飛の生まれ変わりを探すこと、第三は南陽で趙雲の生まれ変わりを探すことであった。南陽の知県は3ヶ月間、趙雲らしき人物を探したが見つけられなかった。
この時、偶然にも南陽市の南三十里の村で、誤って人に怪我を負わせてしまった罪で役所に送られた趙走軍(あだ名:趙大個)という農民がいた。 知県は趙大個の濃い眉、大きな目、長身で整った容姿を見て趙雲に違いないと思い、趙大個の名前を聴いた知県は「”走”に”軍”を足すと、”運(运)”(うん)=”雲(云)”(うん)ではないか? 彼は間違いなく趙雲の生まれ変わりだ!」 と喜んだ。知県は縛られていた趙走軍を解き、服を着替えさせ、食事をするように命じ、明日都へ向かうことを告げた。趙走軍は都に行くことは傷害の罪で処刑されるのだと思い、恐ろしくなった彼はその夜、首を吊った。
趙走軍が自害したと聞いて、知県は急いで都に戻って皇帝に謝罪した。 順治帝は一部始終を知ると、彼を責めることなく、ただただ四弟に永遠に会えなくなったことに激しく涙を流し、趙走軍を王侯として手厚く南陽に葬り、子龍祠を建てて永遠に偲ぶようにとの詔を発し、これが南陽の趙雲墓になった[32]。
臨城趙雲墓[編集]
2005年5月19日、臨城県麒麟崗から光緒・戊戌(24年(1898年))の『漢順平侯趙雲故里』の碑が発見され、2009年に河北省政府によって無形文化遺産リストに含まれた[33]。 この臨城県の動きは正定県との趙雲の故郷をめぐる論争を引き起こし、学界でも議論を巻き起こした。地元の伝説によれば、臨城県には3つの趙雲故里の碑があったとされている[34]。
臨城の趙雲墓については、1982年に臨城県文化管理局が行った文化財調査の際に臨城県澄底村の西1.3キロで発見された[35]が、大邑趙雲墓や南陽趙雲墓が、明代に遡る『大明一統志』や現地の年代記に記録されているのに対し、臨城趙雲墓は年代記、文人の詩、歴史書には見つかっていないため、研究者は趙雲の墓である可能性は低いとみている。
民間伝承によると、趙姓の人々がこの墓前で千年以上にわたって春と秋に祭祀を行ったというが、墓石や記念碑はなく、大邑や南陽のように墓の近くに寺院も建っていない。 その理由は、「後主・劉禅は趙雲の蜀漢建国への功績に感謝し、成都から臨城まで72の墓の建設を命じた。これは後世の墓荒らしを防ぐためでもあった。そのため、「一年三百六十日、毎月毎日、趙雲を埋葬する」という故事が澄底村で代々受け継がれてきた。臨邑古城の亂木の溜め池一帯には、趙雲の墓と呼ばれるこのような大きな墓が20以上ある。 「亂木」(旧称「亂墓」)とは、墓を造る者が人目を欺くために、意図的に墓を荒らしたという意味で、これが亂木村の名前の由来でもある」[36]とされている。
家族[編集]
親族[編集]
- 兄:名は不詳。『趙雲別伝』に記載。趙雲が公孫瓚の配下時代に亡くなっている。『三国志演義』には登場しない。
子孫[編集]
- 趙統:長男。趙雲の死後、後を継いだ蜀漢の武将。『三国志演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
- 趙広:次男。蜀漢の武将。沓中での戦いにて戦死。『三国志演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。
- 関樾:趙雲の娘(趙氏)と、関羽の長男である関平との間に生まれたとされる人物。
趙雲別伝の信憑性と見解[編集]
『別伝』についての解説[編集]
「別伝」とは、主に後漢時代から東晋時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[37]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎や佐著作郎の課題として書かれた[38]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[39][40][41]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[42]。裴媛媛によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[43]。だが時には、『孫資別伝』に対して裴松之が指摘しているように[44]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[45]。また顔師古が『東方朔別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[46]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[47][48]。
史書は後漢時代まで国家が編纂するものであった(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[49]。『趙雲別伝』には趙雲が活躍する記述が多いのに対し、陳寿による本伝の記述は簡素[注釈 6]であることから、その信憑性を疑う声も少数ある。しかし、引用した作品を厳しく批判したり矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また三国志研究者の論文や著作物でも、史書を補う資料として扱うのが通例である。
採用者および肯定派の見解[編集]
- 裴松之:『三国志』の注釈として引用し、内容について批判・指摘をしていない。
- 司馬光:『資治通鑑』を編纂するにあたって、『趙雲別伝』の記述を採用している。
- 渡邉義浩:「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べている[50]。
- 矢野主税:対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、別伝は「一般史書の欠を補う貴重な史料」だと論じ、その一例として、『趙雲別伝』内に「蜀の後主が〔趙〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[51]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という作品的性質から、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[52]。
否定派の見解[編集]
- 何焯:趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なることを指摘し、また第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたことには「諸葛亮は賞罰が厳粛であるのに、趙雲を降格する一方で、どうして妄りに報奨を与えられるものだろうか。そうでないことは明らかだ。別伝の類はみな子孫が美辞で飾り立てたものであるため、承祚(陳寿)は採用しなかったのだ」と述べており、『趙雲別伝』の記述を批判する傾向にある[53]。劉備の呉討伐に対する諫言については、国家経営は諸葛亮の担当であり、彼が諫めるのは当を得ているが、趙雲のような武臣が口を挟むのは分不相応である[注釈 7]として、「〔趙雲の〕家伝は〔他人の〕美談を奪い取っているのだ」と主張する。また劉備の大敗を受けて諸葛亮が想起したのが法正だったことに触れながら「雑号将軍〔である趙雲〕の及ぶところではない」とし、さらには、『趙雲別伝』は諸葛瑾の書状や孫権が帝位を称した際の諸葛亮の言葉を模倣したのだろうとも述べている[55]。
その他[編集]
評価[編集]
後世、中国では趙雲を、目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した。清代に作られた成都武侯祠の趙雲の塑像が、文官の服を着せられているのはこのためである。清代は『三国志演義』の流行により、更に高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、武将廊に筆頭の位置に置かれている。
また、康熙61年(1722年)には歴代帝王廟に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[注釈 8]。小林瑞恵は、趙雲が従祀名臣に列したことについて、趙雲を不忠者と評しなかった『三国志演義』の版本の流行による影響の可能性を指摘している[58][注釈 9]。
その他評価[編集]
- 陳寿:「黄忠と趙雲は、共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となった。灌嬰・滕公のともがらであろうか」[注釈 10]
- 楊戯:「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克、共に選り抜きの兵を指揮し、勲功をあげた猛将であった」[60]
- 李光地:「張嶷と趙雲は、明瞭な頭脳と賢明さを備えている」[61]
三国志演義における趙雲[編集]
『演義』での趙雲について[編集]
『三国志演義』とは、『三国志』や元雑劇、『三国志平話』などを基にして、中国の明代に書かれた長編白話小説。著者は羅貫中の手によるものと伝えられている。趙雲に関しては、正史『三国志』趙雲伝および裴松之が注釈に引く『趙雲別伝』のエピソードや趙雲の言動がそのまま採用、または引用されており、キャラクター造形もこの『別伝』をベースとし、そこに武力面が更に強調された、知勇兼備の槍の使い手の偉丈夫として活躍する。初登場時はまだ少年で、『身長八尺、濃い眉に大きな眼、広い顔に重なった顎、容貌は立派で、威風があり凛々しい姿』となっている。性格面では、プライドの高い関羽、乱暴者の張飛、冷静沈着な趙雲となっており、諸葛亮から与えられる任務を素直にきっちりこなすので、物語中では特に信頼され重用されている。関羽・張飛・馬超・黄忠と並んで五虎大将軍(五虎上将・五虎将とも)の一人となっている。
『三国志演義』を元にした後世の作品では、京劇の影響を受けて劉備たち桃園の四人目の兄弟(四弟)と呼ばれていたり、白袍に銀槍を得物とし、白馬に乗った若武者の美丈夫のイメージが現代まで続いている。
『演義』での趙雲のあらすじ[編集]
仁君を求めて[編集]
正史とは違い、演義では最初袁紹に仕えていたが、袁紹には国や民を救済する心がない人物だと判り、少年・趙雲は公孫瓚の指揮下に入ろうとした。公孫瓚が袁紹配下の文醜に襲われていたところに遭遇し、公孫瓚を助けるため文醜と五、六十合渡り合ったが決着はつかず、文醜は馬を返して去って行った。公孫瓚は慌てて趙雲の元に駆け寄り感謝し、臣下に迎えて共に陣営へと戻った。
その後、公孫瓚配下の将として活躍をするが、界橋の戦いにて袁紹軍の追撃に遭ったところで劉備、関羽、張飛たちが公孫瓚軍の加勢にやってくる。公孫瓚は劉備に礼を言い、趙雲を引き合わせた。この時劉備は趙雲に大きな敬愛の念を抱き、趙雲もまた劉備に惹かれ、お互い離れがたく思った。
劉備と別れる時、劉備と趙雲はお互いの手をとり、劉備は「子龍どのはひとまず心を強く持って公孫瓚に仕えてください。またお会いできる日はあります」と、涙を流して二人は別れた。その後、公孫瓚は袁紹に敗れ、趙雲は袁紹からしきりに臣下になるよう招かれるがこれを固辞し、各地を放浪の末に劉備と再会し、二人は大いに喜んだ。こうして趙雲は劉備軍の配下となった。
長坂坡の戦い[編集]
穣山の戦いを経て、曹操の大軍に攻め寄せられた劉備軍は城を棄てて、劉備を慕う民衆と共に逃げ出すが、長坂坡で追いつかれ、混乱の中で趙雲は劉備の妻子を見失ってしまった。趙雲はひとり戦場を駆け回っていた所、敵将の夏侯恩に遭遇する。これを討ち取り、夏侯恩が曹操から授かっていた宝剣『青釭剣(せいこうけん)』を手に入れる。さらに戦場深く入っていき、ようやく阿斗(劉禅)と糜夫人を発見した。糜夫人は足手まといになることを恐れて趙雲に阿斗を託して井戸に身投げしてしまう[注釈 9]。趙雲は曹操軍に糜夫人の亡骸を盗まれないよう、土塀を崩して井戸を覆い、阿斗を懐に抱えて馬に乗って、曹操軍の大軍を単騎で戦い駆け抜けた。
曹操は縦横無尽にひとりの大将が戦場を駆け巡る姿を眺め、「あれは誰か?」と左右の物に聴いた。曹洪が山から下りて大声で問うと、趙雲は「我こそは常山の趙子龍!」と答えた。曹操は趙雲を手に入れたくなり、「矢を射てはならぬ、生け捕りにせよ」と命じた。これが幸いして、趙雲はこの難から逃れることができた。
それでもまだ追ってくる敵将を次々に青釭剣で討ち取り、袍に大量の返り血を浴びながらも無事に劉備の元へ戻ることができた。趙雲は劉備の前にひざまずいて泣きながら糜夫人の死を告げ、阿斗を差し出した。劉備は阿斗を受け取ると、地に放り投げてしまう。劉備は阿斗に「おまえのような子供のために、ひとりの大事な将軍を失うところであった!」と言った。趙雲は泣きながら「肝脳地にまみれさせても、このご恩に報いることはできません」と涙した。
桂陽太守・趙範との戦い[編集]
赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部の四郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)を領有するために動き出す。桂陽攻略では趙雲が名乗りをあげるが、張飛も名乗りをあげて二人は喧嘩になる。そこで諸葛亮は二人にくじを引かせて、結果趙雲が向かうことになった。桂陽太守の趙範は降伏しようとするも、臣下の陳応が反対したので、三千の兵を与えて趙雲を攻撃させることにした。しかし陳応は趙雲にあっさり撃退されてしまう。趙範は降伏を願いでた。
趙範は趙雲と同じ姓で真定出身であり、さらに趙雲と同年生まれで、趙雲の方が4か月生まれが早かったので、趙雲を兄として二人は義兄弟のちぎりを結んだ。酒宴が開かれ、たけなわになった頃、趙範は一人の女性を呼び入れた。その女性は大変美しく、趙雲がこの女性は誰なのかと問うと、趙範の亡くなった兄嫁の樊氏だという。趙範は「兄嫁は再婚するのに三つの条件を述べ、一つ目は名声をとどろかせており、二つ目は顔立ちが優れていること、三つ目は文武ともに優れて、知性を備えていることです」と述べて、その条件を満たしている趙雲こそ娶るに相応しいと喜んで勧めた。趙雲は「おまえの兄嫁はわたしの兄嫁でもある。どうしてそのような道理に背くことができるのか!」と大いに怒り、拳で趙範を殴り倒して城を出て行った。
趙範は臣下の陳応と鮑隆を呼びつけ、偽りの投降をして隙をついて趙雲を捕らえる計画を立てた。その夜、二人は趙雲の陣営にやってきて投降するも、趙雲はこれが偽りだと見抜いて酒で酔わせて二人を斬り捨てた。ふたりの配下の兵に道案内をさせ桂陽城に向かう。慌てた趙範は城から逃げ出すが捕らえられてしまった。
早馬で桂陽の陥落を知った劉備と諸葛亮は桂陽に赴き、趙範がやったことは好意からであり、敵意がなかったことを知ると、劉備は樊氏を娶ることを趙雲に薦めるも、趙雲は「天下に女性はたくさんおります。(劉備の)名声が落ちてしまいます。どうして妻子がいないことを憂えましょうか」と固辞し、劉備は感嘆した。そして趙範を解放してそのまま桂陽太守とし、趙雲は賞された。
劉備の結婚[編集]
劉備は孫権の妹(孫夫人・孫尚香)との縁談を孫権から薦められて、この申し出を受けることにした。趙雲は呉に向かう劉備の護衛として同行することになった。諸葛亮から三つの錦袋(錦嚢の計)を授かり、困ったときに順番に開けるように命じられる。この婚姻話は周瑜・孫権による、劉備を暗殺するための罠であったが、三つの錦袋の中の指示に従って、数々の困難から趙雲は劉備を守りぬき、呉国太にもふたりの婚姻を認められ、無事に劉備と孫夫人は夫婦となって荊州へ戻ることができた。
阿斗の奪還[編集]
孫権は劉備が益州に入ったと知ると、呉国太が危篤であると偽りの書状を孫夫人に届けて江東に連れ戻そうとした。同時に阿斗も連れ出して荊州と交換させようと考えていた。趙雲は孫夫人とともに阿斗がいないことに気付き、慌てて孫夫人の船を追いかけた。呉兵から抵抗され孫夫人に罵られるも、隙をついて趙雲は阿斗を奪い返した。見回りから帰ってきた張飛が油江を慌てて塞ぎ、呉の船に飛び乗って、阿斗だけは返してもらって孫夫人は見逃すことにした。こうして無事に阿斗を連れ戻すことに成功した。
益州平定で諫言する[編集]
劉備が益州を平定すると、成都にある田地や屋敷を諸将に分け与えようとするのを趙雲が「民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役を行なえば自然と心服するでしょう」と諫め、劉備はこれを聴きいれた。
空城計で魏軍を破る[編集]
諸葛亮は曹操軍の北山の食料を焼き払って輜重を奪うため、黄忠と趙雲を派遣する。二人はくじを引いて黄忠が先鋒、趙雲が陣営の守りについた。約束の時刻になっても黄忠が戻らなければ、趙雲も出陣する取り決めをした。
約束の時刻になっても黄忠が戻ってこなかったので、趙雲は張翼に陣営の守りをまかせ黄忠の元へ向かった。阻む魏兵を倒しながら、黄忠たちが張郃と徐晃に囲まれているのが目に入ったのでこれを救出して本陣へと馬を走らせた。曹操は驚いて諸将にあの将は何者かを問い、趙雲だと知ると「長坂の英雄は健在だったか。あの者を軽んじてはいけない」と伝令を出した。途中、張著を救出し、本陣へと到着した。
曹操軍が本陣に迫ってきていることを知り、趙雲は張翼が門を閉め防御を固めるのを拒み、弓弩兵を陣営外の壕に伏せさせ、陣営内の旗を倒して音を立てないようにし、ひとり馬に乗って槍を手にして門の外に出た。張郃と徐晃は兵を率いて追いかけてきたが、陣営の門が開かれ、ただ一人趙雲が陣営の外に構えて立っているという異様なありさまであった。そこへ曹操が自らやってきて前進するよう促し、魏兵が陣営前に大声で走り出るも趙雲はまったく動じない。逃げようとした曹操軍に、趙雲は槍を振るい合図すると壕の中から弓弩がいっせいに放たれ、曹操軍は混乱し、互いに踏みつけ押し合い、漢水に落ちて多数の死者が出た。こうして蜀軍は曹操陣営を占領し、輜重を奪うことができた。報告を受けた劉備と諸葛亮は漢水までやってきて、配下から詳細を聴いた劉備は諸葛亮に喜んで言った。「趙子龍は全身肝っ玉である!」
関羽の敵討ちを諫める・劉備の死[編集]
関羽が呉に殺されたため、劉備は軍を率いて弔い合戦をすると詔を下した。趙雲は諸葛亮と共にこれを諫めて止めようとするも、劉備はこれを聴きいれず、対呉戦争へと行ってしまう。その途中、張飛は苛烈な私刑でむち打ちにした部下二人に恨まれ、暗殺されてしまう。さらに夷陵にて劉備軍は陸遜の火計に遭い大敗を喫するが、江州にいた趙雲が援軍を引き連れてやってきた。陸遜は趙雲がやって来たことを知ると軍を撤退させた。劉備を救った趙雲は白帝城を目指して逃走した。この戦いで多くの将兵が戦死してしまい、劉備は心労から病にかかってしまう。病状は回復せず、ある晩、夢の中に死んだ関羽と張飛が現れた。死期を悟った劉備は諸葛亮と趙雲を呼び寄せて後事を託す。劉備は趙雲に「朕はお前と共に艱難の中今までやってきた。ここで別れるとは思わなかった。古くからの交わりを思い、どうかいつも幼子を気に掛けてやってくれ」と言った。趙雲は涙を流して地に拝し「わたしは犬馬の労で社稷をお支えいたします」と言った。
南蛮平定・北伐へ[編集]
諸葛亮は、北伐を進める前に後顧の憂いを断つべく、度々反乱が起きる南蛮の地を平定すべく南蛮征伐を開始し、趙雲もこれに同行する。馬謖の「心を攻めるは上策、城を攻めるは下策」の案を採用した諸葛亮は、南蛮王の孟獲を七度捕らえて七度目も解放しようとしたところ、孟獲はようやく心から蜀に降伏した。
南蛮から帰還した諸葛亮は、皇帝となった劉禅に出師表を奏上して、ついに北伐に取り掛かる。この時老兵となっていた趙雲は、北伐の人選からもれたので抗議の声をあげる。諸葛亮は「子龍将軍のお年は高く、もし間違いがあればこれまでの名声がぐらついてしまいます」と説得するも、趙雲は「戦場で死ぬことができれば、わたしは後悔はありません。どうか先鋒をご命令ください」と聞かなかった。鄧芝が趙雲と共に先鋒に行くことに名乗りをあげたので、諸葛亮は精鋭五千と副将十人をつけて出発させた。趙雲は韓徳の八万の軍勢とぶつかり、韓徳の息子たちをつぎつぎに討ち取った。鄧芝は「まさかすでに七十になっているとは思えません」[注釈 11]と趙雲の猛将ぶりを称えた。
韓徳は戻って夏侯楙に報告し、夏侯楙みずから軍勢を率いて趙雲に攻めてきた。趙雲は韓徳を討ち取り、鄧芝も兵を率いて攻撃すると夏侯楙の軍勢は撤退したが、程武が逃走を装い、伏兵がいるところまで趙雲を誘い込み、幾重にも包囲するという計略を進言して実行した。趙雲は深追いしてこの計略にはまってしまった。孤立した趙雲は脱することができなかった。「わたしも老いに従わなかったのでここで死ぬのか」とため息をつくと、蜀軍勢が突撃してきたので魏軍は次々に逃げだした。軍勢の先鋒は張飛の息子の張苞で、関羽の息子の関興も到着し、二人の力によって趙雲は窮地を脱することができた。
老将趙雲・最後の戦い[編集]
馬謖の敗北により、諸葛亮の退却命令を受けて趙雲らは箕谷から軍を退かせようとするが、魏軍の猛追を抑えるため、鄧芝が本隊を率いて先に退却し、趙雲は別動隊を率いて敵の背後に回った。魏軍は山坂の後ろから現れた趙雲らの軍勢に驚き、蘇顒他次々に敗れ、残った兵たちも散っていった。趙雲は無事に諸葛亮の元へ帰還したが、趙雲の軍が一人一騎も失っていないことを不思議に思った諸葛亮が問うた。鄧芝は「子龍将軍は一人で殿となられたので、それがしは兵を率いて先行いたしました。子龍将軍が将を斬り、功をあげられ敵をひるませたおかげで、わが軍は物資を放棄しなかったのです」と言った。諸葛亮は喜び、倉の中から金五十斤を趙雲に贈り、絹1万疋を兵たちへの褒美とした。しかし趙雲はそれを辞退し、「三軍に何ら功はなく、わたしたちにはそれぞれ罪がございます。もしこの褒美を受け取ってしまったら丞相の賞罰が明確ではないことになります。ひとまず庫におさめて、冬になってから諸軍に配っても遅くはないかと存じます」と述べた。諸葛亮は「先帝がおられた時、子龍どのの徳を称賛されていたが、今それが改めて分かった」とますます敬服した。
趙雲の死[編集]
ふたたび北伐をすすめるべく、諸葛亮は宴会を開いて諸将と打ち合わせをしていた時であった。突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れてしまった。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統と趙広がやってきた。二人は父が昨晩病没したと、拝して泣きながら言った。諸葛亮は地団駄を踏み、「今年多くの将を失ってしまった。今日子龍どのも亡くなり、国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった」と泣いて言った。後主の劉禅もまた、その言葉を聞くと声をあげてひどく泣いた。「朕は昔、幼いころ子龍がいなかったら乱軍の中できっと死んでいたであろう」。劉禅は趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈り、成都の錦屛山の東に埋葬して、廟堂を立てて春夏秋冬、祭りを行うよう命じた。
『演義』における趙雲の解説[編集]
上野隆三は、『演義』における趙雲像について、『三国志』趙雲伝の注に引く『趙雲別伝』の記述から見出される知的な印象に、勇猛さが新たに多く書き加えられたことで、文武両道の儒将のイメージが作り上げられたと述べている[65]。また五虎大将の序列について、先述した『演義』の操作により趙雲は馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せたため、毛宗崗本とも呼ばれる『演義』で最も普及する版の編者である毛宗崗が、史書では5番手の趙雲を3番手まで引き上げたのではないかと論じている[66]。
『演義』に関連する作品[編集]
三国志後伝[編集]
酉陽野史による蜀漢滅亡後、劉備や諸葛亮、関羽、張飛、趙雲らの子孫の活躍を描いた作品。
反三国志演義[編集]
周大荒が新聞『民徳報』にて連載した作品。馬超、趙雲の二人が主人公。馬超の妹の馬雲騄と趙雲が結婚する。
民間伝説・その他[編集]
白龍[編集]
「白龍(はくりゅう)」、もしくは「白龍駒(はくりゅうく)」という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。白龍の話は映画レッドクリフで採用されている。
子龍池(洗馬池)[編集]
四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった池。「子龍洗馬池」とも。白龍とともに趙雲が傷を癒したという。その後は邸宅の所有者が何度も変わり、その都度改築などを経て、1950年頃には池は埋め立てられ、「子龍塘街」から現在の「和平街」に改名された。跡地にある和平街小学校に『漢順平侯洗馬池』の石碑がある。以下は子龍池にまつわる伝承である。
南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都は大きな被害に遭い、蒙古の皇太子・闊端はこれを誇らしげに眺めていた。そこへ突然、白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れた。英気あふれる彼は常勝将軍・趙雲にとても良く似ていた。彼は「兵よ集え、賊に抗え! 我と国を守れ!」と大喝して蒙古兵に突撃した。蒙古兵は次々に槍で突かれ、死体は山のように築かれた。白袍の将軍に従った兵たちは、ついに蒙古兵を成都から追い出すことができた。後日、成都の人々はみな「あれは趙子龍が顕現して蒙古を倒してくれたのだ」と言った。趙雲はかつて子龍池(洗馬池)で馬を洗っていたので、人々はその池の横に楼閣と塔を建て、馬に乗り跳躍した趙雲の塑像を祀った。毎日絶え間なく香が焚かれ賑やかだったという[67]。
涯角槍[編集]
読みは「がいかくそう」。『三国志平話』に書かれる。長さ九尺(約3メートル)あり、「生涯に敵う者なし」という意味で名付けられている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。
金牛山の剣[編集]
『古今刀剣録』に「章武元年(221年)、蜀主・劉備が金牛山から鉄を採取し、長さ三尺六寸の剣を八本鋳造した」とあり、そのうちの一本を趙雲に与えたと書かれている[68]。
戒指[編集]
趙雲が指輪を身につける文化を広めたとの伝承がある。『益州』と『荊州』で幾つかの違った話がある他、趙雲の故郷である河北省正定出身の語り部・周四成の『趙子龍与戒指』の話に見られる内容では、『益州』の話に京劇や他の語り部に見られる「徐庶が趙雲を救う」エピソードが加えられ、詳細が語られている。
- 益州版:趙雲が長板坂で阿斗を救出して包囲を突破したとき、張郃と曹洪から薬指に深い傷を負った。傷痕はかなり目立ち、醜く感じたので、趙雲は職人に傷を隠すための金の輪(蓋指)を作らせた。
- 荊州版:荊州版は2種類あり、共通点として「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ 、その指には金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」[69]とされている。 相違点は、像の由来が『戴戒指的来歴』では「後主・劉禅は趙雲が命を救ってくれたことに感謝し、趙子龍の像を作った」と書かれている点と、『荊州人戴戒指的来歴』では「荊州の関帝廟にある趙雲の像」[70]に基づいており、「指輪は荊州の人々のお気に入りの装飾品になった」。
- 正定版:「(趙雲が長坂坡で徐庶に助けられ窮地を脱したが、その時、張郃・曹洪から指に傷を負ったので指輪で傷を隠した。)その後、劉備の軍隊が四川に入城すると、益州の人々は趙雲が手に輝く指輪をしているのを見て、彼らも指輪をつけるようになった。今日、指輪をつける習慣が四川省の成都と綿陽の人々の間で今も伝承されている」[71]
最期にまつわる話[編集]
四川省大邑県と河北省正定県ほか、複数の伝承がある(趙雲の妻が関連する死については孫軟児#趙雲の死と刺繍針を参照)。湖北省咸寧地方にある『趙雲得意笑死』という話は、これらとは違った内容になっている。以下はその内容。
「『三国志演義』には、趙雲は老衰で死んだと書いてある。私たちは、年配の人たちから「趙雲は笑い死にした」という違う話を聞いたことがある。 「周公瑾は怒って死んだが、趙子龍は笑って死んだ」という古い話。
趙雲の72歳の誕生日。宴会が用意され、誕生日を祝いに来た親戚や友人らは老将軍に乾杯して、その生涯の功績を称える歌を詠んだ。「20歳、先帝(劉備)に従い、命懸けで戦い続けた。30歳、当陽の地にて単騎で後主(劉禅)を救って名を揚げた。40歳、長江を渡りて後主を連れ戻した。50歳、南蛮征伐に向かい、軍の柱となった。60歳、祁山に出でて曹軍の五将軍を斬った。70歳、あなたは元気そのもので、優れた馬と槍を持ち、将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」これを聞いた趙雲は手を振って言った。「いやいや、今日の常山の趙子龍があるのは、我が君と、皆様の支えがあったからこそです!」
宴会が終わり、招待客がみな帰ったあと、趙雲は突然筋肉と骨が腫れているのを感じた。彼は「長い間戦場にいなかったから、違和感があるのだろうか? 風呂に入ろう。」と思い、一人部屋に閉じこもって服を脱いで裸になった。この身体は何百回の戦いを経ても、一度も怪我をしたことがなく、傷一つない。皆が詠った言葉を思い出す。 「将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
「はははははは…」思わず大声で笑うと、息が切れた。こうして彼は名誉の死を遂げた。」[72]
墓にまつわる話[編集]
妻[編集]
- 孫軟児:民間伝承に登場する妻(詳細は該当記事を参照)。映画『三国志』(2008年)で軟児の名前が採用されている。
- 李翠蓮:河北梆子劇『青釭剣』の演目にて趙雲の妻として登場する。長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚する。
趙雲に関連する人物・故事など[編集]
人物[編集]
四字熟語[編集]
- 一身是胆(いっしんしたん):強い勇気があり、何事にも恐れないことのたとえ。体全体に胆力が満ち溢れているという意味から。劉備が趙雲の勇ましさを称えたという故事から[73]。
- 満身是胆(まんしんしたん):一身是胆の類義語[74]。
趙雲に関連する施設[編集]
墓については「趙雲#墓地」を参照
河北省正定県[編集]
趙雲廟[編集]
(詳細は趙雲廟を参照)
- 廟門
- 四義殿:劉備・関羽・張飛と共に趙雲の像が並ぶ。
- 五虎殿:五虎将の像が並ぶ。
- 君臣殿:劉備・諸葛亮・関羽・張飛・趙雲の像が並ぶ。
- 順平侯殿(正殿):趙雲像の左右に趙統・趙広が祀られている。清代の『漢順平侯趙雲故里』の碑の他に、展示品に大邑趙雲墓の土、長坂坡の土がある。
- そのほか、「趙子龍飲馬槽」の展示など。
子龍広場[編集]
河北省正定県の庁舎前にある広場。巨大な趙雲像がある。像の裏側に趙雲を賛辞する言葉が刻まれている。
常山公園[編集]
「常山東路」にある公園。趙雲の騎馬像がある。
湖北省当陽市[編集]
長坂坡公園[編集]
長坂坡古戦場に整備された、趙雲を顕彰する「長坂坡公園」があり、趙雲を称えた『長阪雄風』の石碑や、『演義』での名場面を再現した壁画や像が展示されている。その他、「長坂路」のロータリーには阿斗を抱え、槍を構えた趙雲の大きな騎馬像がある。
四川省大邑県[編集]
静恵山公園[編集]
(詳細は静恵山公園を参照)
山上に「子龍廟」があり、羌族を監視するために趙雲が築いたという「望羌台」の他、石碑や像がある。「子龍路」「白馬溝」など、趙雲にまつわる地名も複数ある。
台湾・台南市佳里区[編集]
佳里子龍廟・永昌宮[編集]
(詳細は佳里子龍廟を参照)
趙雲(趙聖輔天帝君)を主神として祀った廟。台湾にはこの佳里子龍廟の他にも趙雲廟が複数存在する。
趙雲を主題とした作品[編集]
- 映画
- テレビドラマ
- 小説
-
- 伴野朗『三国志英傑列伝「火龍の槍(趙雲編)」』 (1997年、実業之日本社) - ISBN 4-408-89092-4
- 加野厚志『趙雲子竜 中原を駆けぬけた三国志最強の戦士』(2001年、幻冬舎文庫) - ISBN 978-4344400818
- 万城目学『悟浄出立「趙雲西航」』(2016年、新潮社、新潮文庫) - ISBN 978-4-10-120661-5
- 塚本青史『趙雲伝』(2022年、河出書房新社) - ISBN 978-4309030258
- 宮城谷昌光『三国志名臣列伝 蜀篇「趙雲」』(2023年、文藝春秋、文藝春秋BOOKS) - ISBN 978-4-16-391661-3
- 朗読CD
-
- 三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ “夷陵に燃ゆ” / 趙雲篇(2012年、主演:KENN)
- 漫画
-
- 陳某『火鳳燎原』(2001年-連載中、東立出版社、メディアファクトリー)
- 黄十浪『雲漢遥かに-趙雲伝』(2008年-2009年、メディアファクトリー全3巻) - ISBN 978-4840122542
- ゲーム
-
- Three Kingdoms Zhao Yun(2024年、中国、ZUIJIANGYUE Game、ETime Studio、Merlion Games)※2024年6月時点では日本語未対応。
その他関連作品[編集]
映画[編集]
- 三国志 大いなる飛翔(1989年、中国、趙雲役:張建利)※DVD版タイトルは『三国志 武将列伝』
- レッドクリフ(PartI・2008年、PartII・2009年、中国・韓国・日本・アメリカ、趙雲役:胡軍(フー・ジュン))
- 新解釈・三國志(2020年、日本、趙雲役:岩田剛典)
テレビドラマ[編集]
- 人形劇 三国志(1982年-1984年、日本、趙雲(声):松橋登)
- 三国志演義(1994年、中国、趙雲役:青年期・張山/楊凡 老年期・侯永生)
- 三国志 Three Kingdoms(2010年、中国、趙雲役:聶遠)1994年版テレビドラマのリメイク的作品。
アニメ作品[編集]
- 三国志 (日本テレビ)(1985年、日本、趙雲(声):佐々木功(ささきいさお))
- 横山光輝 三国志(1991年-1992年、日本、趙雲(声):小杉十郎太)
- 三国志_(アニメ映画)(1992年-1994年、日本、趙雲(声):堀秀行)第一部・第二部・完結編の三部作構成。
- 最強武将伝 三国演義(2010年-2011年、日本、中国、趙雲(声):載寧龍二(さいねい龍二))
- SDガンダムワールド 三国創傑伝(2019年-展開中、日本、趙雲ダブルオーガンダム(ダブルオーガンダム):池田恭祐)
ゲーム[編集]
- 三國志シリーズ(1985年-展開中、コーエーテクモゲームス)
- 真・三國無双シリーズ(2000年-展開中、コーエーテクモゲームス、趙雲(声):小野坂昌也)
- Fate/Samurai Remnant(DLCコンテンツ第三弾:断章白龍紅鬼演義)(2023年-展開中、コーエーテクモゲームス、趙雲(声):阿座上洋平)
漫画[編集]
- 三国志 (横山光輝の漫画)
- 本宮ひろ志 『天地を喰らう』(1983年-1984年、集英社、週刊少年ジャンプ、全7巻)
- 原作:武論尊、作画:池上遼一 『覇-LORD-』(2004年-2011年、小学館、ビッグコミックスペリオール、全22巻)
- 原作:武論尊、作画:池上遼一『SOUL 覇 第2章』(2011年-2013年、小学館、ビッグコミックスペリオール、全3巻)
- 一騎当千 (漫画)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 「主騎」を「護衛隊長」と訳している書籍があるが、『新唐書』巻135哥舒翰伝に見られる「使王思禮主騎(騎兵の主),李承光主步(歩兵の主)」や、『資治通鑑』第六十巻の「為備主騎兵」などのように、「騎兵隊長」と訳すのが正しい。
- ^ 『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。」と四将と並んで昇進したと記録されている。
- ^ 宮川尚志は「この意見は、新たに興った蜀漢のまさに進むべき国策を明確に認識したもの」と評し、「魏の領土となった華北を久しく放置すれば、民心はいつとはなしに漢の故土であったことを忘れ、魏政権を正しいものとみなしてしまうであろう。民心なおひそかに漢を思う間にこそ、堂々と実力に訴え、名分に正し漢の正統の権利を主張すべきである」と述べている[18]。
- ^ 諸葛亮伝および『華陽国志』によれば、趙雲らの軍は擬軍(少数の兵を多数に見せかけること)であったという。
- ^ 胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[22]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[23]。
- ^ これは趙雲に限らず、蜀の人物が書かれた『蜀書』は『魏書』が全30巻なのに対して全15巻しかなく、武官は記述量が全体的に少なめである。
- ^ ただし趙雲以外にも多くの臣下が諫めたとあり、そのうちの一人である秦宓は諫言により一時投獄された[54]。
- ^ この時、他に増祀された従祀名臣は、倉頡、仲虺、畢公高、周呂侯、仲山甫、尹吉甫、劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度、呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彦博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥、呼嚕、博果密、托克托、常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏[57]。
- ^ a b 嘉靖版『三国志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている[62]。これに対し、王長友は『嘉靖本』の割注が『毛宗崗本』では省かれていることに触れ、またその割注について、思想が陳腐で融通のきかない文人によるものだと推測している[63]。
- ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[59]。
- ^ 登場時は少年だったので、北伐のこの時点で七十歳だと計算が合わない。少年=十九歳だとしても六十歳前になる。また、このような『演義』内でのやや唐突な時間経過の描写は、山本健吉が「物語作者が読者をあざむいていたことをこういうときほど痛感することはない。(中略)物語の時間は、極度に圧縮された時間である」と述べているように[64]、時代の移行を示す物語的表現手法とみられる。
出典[編集]
- ^ 井波律子 訳『正史三国志5 蜀書』ちくま学芸文庫、1993年、185頁。
- ^ 渡邉義浩. "趙雲". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2024年1月4日閲覧。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲別傳曰:雲身長八尺,姿顏雄偉,為本郡所舉,將義從吏兵詣公孫瓚。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 時袁紹稱冀州牧,瓚深憂州人之從紹也,善雲來附,嘲雲曰:「聞貴州人皆原袁氏,君何獨回心,迷而能反乎?」雲答曰:「天下訩訩,未知孰是,民有倒縣之厄,鄙州論議,從仁政所在,不為忽袁公私明將軍也。」遂與瓚征討。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 時先主亦依託瓚,每接納雲,雲得深自結託。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲以兄喪,辭瓚暫歸,先主知其不反,捉手而別,雲辭曰:「終不背德也。」
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 先主就袁紹,雲見於鄴。先主與雲同床眠臥,密遣雲合募得數百人,皆稱劉左將軍部曲,紹不能知。遂隨先主至荊州。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 先是,與夏侯惇戰於博望,生獲夏侯蘭。蘭是雲鄉里人,少小相知,雲白先主活之,薦蘭明於法律,以為軍正。雲不用自近,其慎慮類如此。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲別傳曰:初,先主之敗,有人言雲已北去者,先主以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之,雲至。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 從平江南,以為偏將軍,領桂陽太守,代趙範。範寡嫂曰樊氏,有國色,範欲以配雲。雲辭曰:「相與同姓,卿兄猶我兄。」固辭不許。時有人勸雲納之,雲曰:「範迫降耳,心未可測;天下女不少。」遂不取。範果逃走,雲無纖介。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 先主入益州,雲領留營司馬。此時先主孫夫人以權妹驕豪,多將吳吏兵,縱橫不法。先主以雲嚴重,必能整齊,特任掌內事。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 權聞備西徵,大遣舟船迎妹,而夫人內欲將後主還吳,雲與張飛勒兵截江,乃得後主還。
- ^ 三國志/卷34(先主穆皇后《漢晉春秋》) 云:先主入益州,吳遣迎孫夫人。夫人欲將太子歸吳,諸葛亮使趙雲勒兵斷江留太子,乃得止。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲別傳曰:益州既定,時議欲以成都中屋舍及城外園地桑田分賜諸將。雲駮之曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家為,令國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,今安居複業,然後可役調,得其歡心。」先主即從之。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 夏侯淵敗,曹公爭漢中地,運米北山下,數千萬囊。黃忠以為可取,雲兵隨忠取米。忠過期不還,雲將數十騎輕行出圍,迎視忠等。值曹公揚兵大出,雲為公前鋒所擊,方戰,其大眾至,勢偪,遂前突其陳,且鬥且卻。公軍散,已復合,雲陷敵,還趣圍。將張著被創,雲復馳馬還營迎著。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 公軍追至圍,此時沔陽長張翼在雲圍內,翼欲閉門拒守,而雲入營,更大開門,偃旗息鼓。公軍疑雲有伏兵,引去。雲雷鼓震天,惟以戎弩於後射公軍,公軍驚駭,自相蹂踐,墮漢水中死者甚多。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 先主明旦自來至雲營圍視昨戰處,曰:「子龍一身都是膽也。」作樂飲宴至暝,軍中號雲為虎威將軍。
- ^ 宮川 1988, p. 125.
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 孫權襲荊州,先主大怒,欲討權。雲諫曰:「國賊是曹操,非孫權也,且先滅魏,則吳自服。操身雖斃,子丕篡盜,當因眾心,早圖關中,居河、渭上流以討凶逆,關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏,先與吳戰;兵勢一交,不得卒解。」先主不聽,遂東征,留雲督江州。先主失利於秭歸,雲進兵至永安,吳軍已退。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 亮曰:「街亭軍退,兵將不復相錄,箕穀軍退,兵將初不相失,何故?」芝答曰:「雲身自斷後,軍資什物,略無所棄,兵將無緣相失。」
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 時先主亦依託瓚,每接納雲,雲得深自結託。雲以兄喪,辭瓚暫歸,先主知其不反,捉手而別,雲辭曰:「終不背德也。」
- ^ (中国語) 『資治通鑑』巻71太和二年胡注, ウィキソースより閲覧, "據《晉書‧職官志》:鎭軍將軍在四征、四鎭將軍之上。今趙雲自鎭東將軍貶鎭軍將軍,蓋蜀漢之制,以鎭東爲專鎭方面,而以鎭軍爲散號,故爲貶也。"
- ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "《宋書· 百官志》鎭軍將軍比四鎭,在四鎭之次。《晉志》 之鎭軍將軍為鎭軍大將軍,故在四征、四鎭之上也。"
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲別傳載後主詔曰:「雲昔從先帝,功積既著。朕以幼沖,涉塗艱難,賴恃忠順,濟於危險。夫諡所以敘元勳也,外議雲宜諡。」
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 大將軍姜維等議,以為雲昔從先帝,勞績既著,經營天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石,忠以衛上,君念其賞,禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。
- ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 謹按諡法,柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平,應諡雲曰順平侯。
- ^ (中国語) 後出師表, ウィキソースより閲覧。「自臣到漢中,中間朞年耳,然喪趙雲、陽羣、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯將七十餘人,…」
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- ^ “一身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
- ^ “満身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
参考文献・関連書籍[編集]
- 陳寿撰、裴松之注 『正史 三国志 5 蜀書』井波律子訳、ちくま学芸文庫、1993年。ISBN 4-480-08045-7。
- 「中国の思想」刊行委員会編訳『正史 三国志英傑伝III 貫く 蜀書』徳間書店、1994年。ISBN 4-19-860086-4。
- 渡邉義浩 著「趙雲 主君の子を守り抜く」、鶴間和幸 編『侠の歴史・東洋編(上)』清水書院、2020年、240-249頁。ISBN 978-4-389-50122-8。
- 『三國志 英傑完全ランキング』渡邉義浩監修、宝島社、2020年。ISBN 978-4-299-01092-6。
- 『三国志ビジュアル百科』渡邉義浩監修、株式会社コーエーテクモゲームス 企画協力、講談社、2018年。ISBN 978-4-06-513580-8。
- 小林瑞恵「関羽・趙雲 崇拝・愛される武将」後藤裕也・小林瑞恵・高橋康浩・中川諭『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014年、p. 147-261。ISBN 978-4-585-29078-0。
- 坂口和澄『三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所』平凡社新書、2006年。ISBN 4-582-85325-0。
- 宮川尚志『諸葛孔明 「三国志」とその時代』光風社選書、1988年。ISBN 4-87519-014-X。
- 董毎戡『三国演義試論』上海古典文学出版社、1956年。ISBN 9787200148374。
- 『華陽国志』