阿骨打
太祖 完顔阿骨打 | |
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金 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 金 |
在位期間 | 収国元年1月1日 - 天輔7年8月28日 (1115年1月28日 - 1123年9月19日) |
都城 | 上京会寧府 |
姓・諱 | 完顔阿骨打(女真名) 王旻(漢名) |
諡号 | 応乾興運昭徳定功仁明荘孝大聖武元皇帝 |
廟号 | 太祖 |
生年 | 咸雍4年7月1日 (1068年8月1日) |
没年 | 天輔7年8月28日 (1123年9月19日) |
父 | 劾里鉢(次男) |
母 | 翼簡皇后 |
陵墓 | 和陵(後に睿陵に改葬) |
年号 | 収国 : 1115年 - 1116年 天輔 : 1117年 - 1123年 |
阿骨打(アクダ)は、金の初代皇帝(在位:1115年1月28日(1月1日) - 1123年9月19日(8月28日))である。女真(ジュシェン)族の完顔部(ワンヤン部)の族長であった。日本では、女真名である阿骨打(アクダ)に部族名の完顔を冠した「完顔阿骨打」という名でよく知られている。
生涯
[編集]祖父は、生女真の完顔部の族長である烏古廼(景祖ウクナイ)である。父は、ウクナイの次男劾里鉢(世祖ヘリンボ。阿骨打は次男)である。生母は、女真拿懶(ナラン)部の首長の娘である翼簡皇后である。
完顔部(満洲のワンギャ部の前身で、慣例としてワンヤンと読む)は、女真人のうち、遼からは間接統治を受ける生女真(せいじょしん)の一部族であり、松花江の支流である按出虎水(アルチュフ川)の流域(現在の黒竜江省ハルビン市)に居住していた[1][2][3][4][5]。阿骨打(アクダ)の先祖は、完顔部の族長として節度使の称号を遼から与えられ、遼の宗主権下で次第に勢力を拡大した[2][4][5]。阿骨打は、完顔部の族長・節度使を務めた父の劾里鉢(ヘリンボ)と、叔父の盈歌(穆宗インコ)、兄の烏雅束(康宗ウヤス)とを補佐したことで完顔部の勢力拡大に功があり、23歳のとき、敦化付近の窩謀罕の討滅戦に参加した[1]。その後も幾多の戦争を経験し、インコの時代の末年には、「訊事号令はアクダから申し上げる」といわれるほどに、完顔部の内政・外交の中心的存在になっていた[1]。兄のウヤスの代に入って、完顔部は生女真をほとんど統一した[2][4][5]。1113年、ウヤスが死去したのちは、アクダが首長の地位を継承し、節度使の称号を得ていた[2][4]。
阿骨打は、兄の死後、女真(ジュシェン)の君長から成る勃極烈(ボギレ)制度を整備し、そのリーダーとして都勃極烈(トボギレ)を称した[1][2][5]。当時中国東北部を支配していたのは、契丹(キタン)人国家の遼で、その皇帝であった天祚帝は、即位当時はともあれ、中国風の豪奢な生活を送るようになり、酒食に溺れ、狩猟にうつつをぬかしており、その華美な宮廷生活を支えるための女真人への搾取も強化され、貢納督促にあたる遼の役人の横暴さは女真の人びとを怒らせた[1][3][6][7]。生女真の長アクダはついに立ち上がり、1114年に契丹(キタン)人国家の遊牧民王朝である遼に対して挙兵し、遼の拠点の寧江州を攻撃し、占領した[1]。また女真の旧慣にしたがって猛安・謀克の制を立てて、女真人を軍事的に組織した[1][2][6][8]。すなわち、300戸をもって1謀克(ムクン)に組織し、それが10集まって1猛安(ミンガン)としたのである[2][6][8][注釈 1]
1115年、阿骨打は、按出虎水(アルチュフ)の河畔で皇帝に即位し、国号を大金と定め、会寧を都とし、「収国」の年号を定めた[1][2][3][4][5]。按出虎水の女真名アルチュフは、女真語で"黄金"を意味しており、「金(アルチュフ)」の国号は、按出虎水から産出する砂金の交易によって女真族が栄えたことによるとされる[3][4][6][注釈 2]。金朝の最初の首都となった会寧(上京会寧府)は、按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる[3]。『金史』(1345年成立)によれば、アクダは、
遼は、堅い精錬した鉄を国の号としたが、それは結局変色し、壊滅する。ただ、金だけはそうはならない。金の色は白く、ワンヤン部は白色をたっとぶのだ[3]。
として、遼に対する強烈な対抗心をみせている[3]。
同年、アクダの軍が、契丹の女真支配の拠点となっていた黄龍府(現在の吉林省長春市農安県)を攻めると、契丹最後の皇帝天祚帝は、みずから70万とも号する兵を率いて遠征したが、アクダ軍の大勝利に終わった[1][3][4]。1116年、アクダが率いる女真軍は、東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)も陥落させて、遼東地方を支配下に収めた[3][4]。遼の権威は地に墜ち、契丹はアクダに講和を申し入れた[3]。
一方、北の遼に苦しめられてきた宋朝(北宋)は、アクダの快進撃の報に接して金朝に接近し、1118年、宋と金で遼を挟撃することをもちかけた[9][注釈 3]。契丹との講和交渉が進まないなか、金は宋の提案に乗ることとし、1120年に、「海上の盟」と称される盟約を北宋との間で結んだ[9][12]。条件は、契丹国家の遼に従来支払ってきた歳幣(絹30万匹、銀20万両)を女真国家の金にまわすこと、戦闘において万里の長城よりも南には金は越えないこと、金・宋同盟が成ったのちは金・遼講和を進めないことの3つであった[9][12]。さらに宋側から追加された条件は燕雲十六州に関してであった[9]。それは、燕京(大興府、現在の北京市)については宋が攻めるが、雲州(西京大同府、現在の山西省大同市)の攻撃は金が担当すること、ただし、占領後は宋に引き渡してほしいというものであった[9]。アクダは、身勝手な宋の申し出に反駁し、宋もそれに応えられない状況が続いたが、1121年、アクダは結局約束通り雲州を制圧して、天祚帝を陰山山脈方面(当時は西夏の領域)に敗走させた[9][12]。
一方の宋は、南方で方臘の乱が起こったため、燕京攻撃のために用意した軍の一部をこれにまわさざるを得ず、攻撃が遅れた[9][13]。しかも、最後の砦として契丹がのこした、耶律淳・耶律大石らが守る守備軍に、弱体化した宋軍は連敗を喫したため、宋軍の司令官の童貫は、当初提示した条件を自ら破り、燕京を落とすよう金に要請した[9][13][注釈 4]。結局、金が燕京を落として宋に割譲し、大量の銭と糧食を代償として得ることとなった[9]。燕京を陥落させたアクダに対し、部下が、「宋にあたえることなくずっと金が占領したらいかがか」と進言すると、アクダは、「燕京ほか六州はすでに返還を約束した。自分は男子である。二言はない」と答えたという[13]。アクダは、盟約を尊重して燕京以下六州を北宋に割譲し[1]、代わりに燕京の人民を全て連れ去った[注釈 5]。またこの代償に、銀20万両・絹30万匹・銭100万貫・軍糧20万石を歳幣に、遼にかわって宋から金は受けることとなっていた。しかし、宋朝は歳幣を支払わなかっただけでなく、かえって遼の天祚帝と連絡をとって女真国家西部の攪乱をねらった[9]。
『金史』によれば、この間、アクダは、女真語をあらわす文字の創成を、同族の完顔希尹や完顔葉魯らに命じ、彼らは、1119年(天輔3年)8月、契丹文字や漢字を参考にして女真文字(「女真大字」)を完成させたという[1][15][注釈 6]。
1123年、阿骨打は、逃亡した遼の天祚帝を追撃することを試みたが途中で発病し、部堵濼(ウトゥル、現在の吉林省松原市扶余市)西の行宮において56歳で病没した[1]。晩年は酒食に耽り、健康を害したという[16]。阿骨打の後を継いだ同母弟の呉乞買(太宗ウキマイ)は、1125年に天祚帝を捕えて遼を完全に滅ぼしたのち、歳幣の支払い等をめぐって北宋と対立し、1127年の靖康の変で北宋を滅ぼして華北一帯を領有した[9]。なお、第3代皇帝熙宗以降の金の皇帝は、最後の末帝を除き、すべてアクダの子孫である。
2003年9月5日、北京市南西郊外の九龍山で1980年代に発見された金朝の陵墓から、阿骨打のものと見られる石棺と遺骨、装飾品が発見されたと、北京市文物局は発表した。
逸話
[編集]- 阿骨打自身は雄々しい容貌を持ち、身の丈八尺、寛大で厳格かつ沈毅寡黙、弓矢に巧みな偉丈夫で[1]、女真族にとって理想的な君主であったという。
- 『遼史』によると、1112年、天祚帝の時代のこと、宴が祝われた際、各部族長が酒席で踊りを披露するよう命じられたが、生女真の完顔阿骨打のみは、幾度も促されたにもかかわらず、頑として踊ることを拒否した。契丹の朝臣たちは、阿骨打の傲慢さに激怒し、厳罰に処そうとしたが、天祚帝は「女真族は礼儀を知らないだけで、狩猟上手である」と誉めるところがあった。その3年後、阿骨打は遼を攻略し、金朝の成立を宣言したのである[17]。
補佐した諸大臣
[編集]- 呉乞買(ウキマイ) - 諳班勃極烈(1115年7月-1123年8月)
- 撒改(サガイ) - 国論勃極烈(1115年7月-9月)、国論忽鲁勃極烈(1115年9月-1121年)
- 斜也(シエ) - 国論昊勃極烈(1115年7月-1123年)、国論忽鲁勃極烈(1121年-1123年)
- 習不失 - 阿買勃極烈(1115年7月-1123年)
- 阿離合懣 - 国論乙室勃極烈(1115年7月-1120年)
- 蒲家奴 - 昃勃極烈(1121年-1123年)
- 粘没喝(ネメガ) - 移賚勃極烈(1121年-1123年)
宗室
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関連系図
[編集](追)昭祖 石魯(シル) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景祖 烏古廼(ウクナイ) | 烏骨出(ウクチュ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
劾者(ヘテェ) | (追)世祖 劾里鉢(ヘリンボ) | 劾孫(ヘスン) | (追)粛宗 頗剌淑(ポラシェ) | 阿離合懣 | (追)穆宗 盈歌(インコ) | 習不失 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
撒改(サガイ) | (追)康宗 烏雅束(ウヤス) | (1)太祖 阿骨打(アクダ) 完顔旻 | (2)太宗 呉乞買(ウキマイ) 完顔晟 | 斜也(シエ) 完顔杲 | 撻懶(ダラン) 完顔昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
粘没喝(ネメガ) 完顔宗翰 | 謀良虎 完顔宗雄 | (追)徳宗 斡本(オベン) 完顔宗幹 | 斡離不(オリブ) 完顔宗望 | (追)徽宗 繩果(ジェンガ) 完顔宗峻 | 斡啜(オジュ) 完顔宗弼 | (追)睿宗 訛里朶(オリド) 完顏宗輔 | 訛魯観(オルゴン) 完顔宗雋 | 蒲魯虎(ブルフ) 完顔宗磐 | 阿魯補 完顔宗偉 | 阿魯(アル) 完顔宗本 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
設野馬 | (4)海陵王 迪古乃(テクナイ) 完顔亮 | (3)熙宗 合剌(ホラ) 完顔亶 | (5)世宗 烏禄(ウル) 完顔雍 | 烏帯(ウタイ) 完顔宗言 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乙卒 完顔秉徳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ムクンとは女真語で「族」「郷里」の意味であり、そのリーダーもムクン(族長、里長)と称し、ミンガンは「千」の意味で、そのリーダーもミンガン(千戸長)と称した[6][8]。軍事組織としてこれをみれば、武器・食糧をみずから携帯した100人の兵がムクン軍として300家族から徴兵され、さらにその10倍の組織から千人隊が組織される[8]。これが同時に新しい行政組織となった[2][8][6]。ここに編入されたジュシェン人たちは、戦闘のないときには、狩猟や牧畜、農耕といった日常的な生業を営んでいた[8]。これは、徴兵の面でも地域支配の上でも効率的な仕組みであった[8]。金が成立すると、各地のジュシェン人たちが金に帰属したが、アクダはその首長を、勢力の大小にしたがい、ミンガンやムクンに任命した[6]。
- ^ ジュシェンの富強の源泉となった物資は、砂金以外では鉄が考えられる[6]。阿城区の南東約30キロメートル地点に金代とみられる製鉄遺跡が確認され、発掘調査も1960年代になされている[6]。ロシア極東の沿海州からも金代の製鉄遺跡が見つかっており、そこでは精錬や鍛造の技術をともなっており、工程に応じた地域間分業がある程度成立していたことも判明している[6]。
- ^ 当初馬政が使者として送られたこの交渉で暗躍したのが、宦官の童貫であった[10]。童貫は、徽宗の文人趣味に取り入って帝に重用され、軍事権を専断し[10]、方臘の乱鎮圧の任にもあたった[11]。なお、『水滸伝』で有名な宋江は、童貫にしたがって方臘征討軍に加わり、いくらかの功績をなしたといわれている[11]。
- ^ 耶律淳は、漢人官僚の李処温らに推されて皇帝位についた(北遼)[13]。太祖耶律阿保機の八世の孫と称する耶律大石は、支配下にあった部族を率いて西走し、陰山の天祚帝のもとへ向かったが、天祚帝とも意見があわず、さらに西に向かい、中央アジアの東西トルキスタンに帝国を建国した[14]。これが西遼(カラ・キタイ)であり、東カラハン朝の首都のベラサグンを占領して国都とした[14]。
- ^ この際に大規模な集団強姦が発生したともいわれている。
- ^ 「女真小字」の方は、1138年(天眷元年)に第3代皇帝の熙宗ホラが制定し、1145年(皇統5年)に公布したというが、具体的な文字の詳細は、大字についても小字についても『金史』には記述されていない[15]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『アクダ』 - コトバンク
- ^ a b c d e f g h i 『金(中国の王朝)』 - コトバンク
- ^ a b c d e f g h i j 梅村(2008)pp.415-418
- ^ a b c d e f g h 佐伯(1975)pp.254-256
- ^ a b c d e 河内(1989)pp.228-230
- ^ a b c d e f g h i j 河内(1989)pp.230-232
- ^ 佐伯(1975)pp.251-253
- ^ a b c d e f g 梅村(2008)pp.420-423
- ^ a b c d e f g h i j k 梅村(2008)pp.418-420
- ^ a b 佐伯(1975)pp.261-262
- ^ a b 佐伯(1975)pp.263-264
- ^ a b c 佐伯(1975)pp.256-257
- ^ a b c d 佐伯(1975)pp.257-259
- ^ a b 佐伯(1975)pp.277-279
- ^ a b 梅村(2008)pp.465-469
- ^ 内藤(2015)pp.186-187
- ^ 阿南・ヴァージニア・史代 (2010年8月). “遼・金王朝 千年の時をこえて 第18回”. 人民中国. オリジナルの2016年8月17日時点におけるアーカイブ。
参考文献
[編集]- 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0。
- 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。
- 内藤湖南『中国近世史』岩波書店〈岩波文庫〉、2015年7月。ISBN 978-4-00-381171-9。
- 三上次男・神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X。
- 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。