アントニオ・デル・ポッライオーロ

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アントニオ・デル・ポッライオーロ
Antonio del Pollaiolo
18世紀に制作された肖像画
誕生日 1429年/1433年
出生地 フィレンツェ
死没年 1498年2月4日
死没地 ローマ
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アントニオ・デル・ポッライオーロ
『アポロとダフネ』

アントニオ・デル・ポッライオーロ: Antonio del Pollaiolo, 1429年/1433年1月17日 - 1498年2月4日)はルネサンスイタリア画家彫刻家版画家エングレービング)、金細工師。また、エナメル技法に大きな貢献をした。アントニオ・ディ・ヤコポ・ポッライウオーロAntonio di Jacopo Pollaiuolo)、アントニオ・ポッライオーロAntonio Pollaiolo)とも呼ばれる(ポライオーロポルライオーロとも表記される)。

生涯[編集]

アントニオ・デル・ポッライオーロはフィレンツェで生まれた。弟のピエロ・デル・ポッライオーロも画家で、よく一緒に仕事をした。2人の作品はともに古典主義の影響が見受けられ、また人体解剖学への関心の高さも示している。伝えられるところでは、兄弟は知識の向上のため、実際に解剖を行ったと言われている。ポッライオーロという筆名は、父親が鳥肉の売買をしていたことに由来している(イタリア語pollaio は「鶏小屋」という意味)。アントニオは最初、金細工・金属細工を、父親かアンドレア・デル・カスターニョのどちらかから学んだ。カスターニョはおそらく絵も教えたのだろう。

アントニオ・デル・ポッライオーロ『ヘラクレスとヒュドラ (ポッライオーロ)』、1475年頃、 ウフィツィ美術館

アントニオのいくつかの絵は過剰な残虐性を示していて、その顕著な例は、1473年から1475年にかけて、フィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂のプッチ家礼拝堂に描いた『聖セバスティアヌス』に見ることができるだろう。その一方で、逆に、女性を描いた肖像画は、15世紀の肖像画の特徴だが、落ち着きと服装のディテールに細心の注意が見てとれる。

しかし、アントニオが大きな成功を収めたのは、彫刻家および金属細工師としてであった。もっとも、多くの場合、弟のピエトロと共作だったので、正確にどれが彼の作品かを判断することは難しい。

『裸の男たちの戦い』は唯一現存しているアントニオの版画である。大きさ・洗練さともに、イタリアの版画レベルを引き上げ、現在でもルネサンス版画の傑作の一つと考えられている。

1484年、アントニオはローマに居を構え、そこでローマ教皇シクストゥス4世の墓碑を制作した(完成は1493年。現在はサン・ピエトロ大聖堂の美術館にある)。人物の誇張した表現には、またしても解剖学的特徴が、はっきりと現れている。1496年、アントニオは、既に始まっていたサント・スピリト教会聖具室の仕上げをするために、フィレンツェに戻った。

アントニオ・デル・ポッライオーロ
『裸の男たちの戦い』版画

アントニオはローマで死んだ。死んだ時はかなり裕福で、サン・ピエトロ大聖堂のローマ教皇インノケンティウス8世霊廟も完成させていた。埋葬されたのは、ローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂で、弟の隣に記念碑が建てられた。

評価と影響[編集]

何といっても、注目させられるのは、人物の動きに対する理解の深さである。人物の動き、張り詰めた筋肉の状態に対するアントニオの解剖学的な分析は、他のフィレンツェの画家たちに大いに貢献した。さらに、風景に向けられた先駆的な関心も見過ごせない。アントニオは、解剖学の研究のため死体を解剖し、それはレオナルド・ダ・ヴィンチの出現を予想していたと言われている。アントニオの弟子の中には、ボッティチェッリもいる。

主な作品[編集]

絵画・版画[編集]

彫刻[編集]

  • Judith(1455年頃 - 1470年頃) - ブロンズ
  • 聖クリストフォルスと幼子イエス - メトロポリタン美術館
  • ヘラクレス - ブロンズ

参考文献[編集]

  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Pollaiuolo". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 22 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 1.
  • Giorgio Vasari includes a biography of Pollaiuolo in his Lives of the Artists.