イングランド銀行

ウィキペディアから無料の百科事典

イングランド銀行
Bank of England (英語)
イングランド銀行本店
イングランド銀行本店
本店 シティ・オブ・ロンドン
位置 北緯51度30分50.76秒 西経0度5分18.96秒 / 北緯51.5141000度 西経0.0886000度 / 51.5141000; -0.0886000
設立 1694年7月27日
総裁 アンドリュー・ベイリー
イギリスの旗 イギリス
通貨 UKポンド
GBP (ISO 4217)
基準貸付利率 0.5%
継承 通貨委員会(アイルランドのみ)
ウェブサイト bankofengland.co.uk

イングランド銀行(イングランドぎんこう、: Bank of England、旧日本名: 英蘭銀行)は、イギリス中央銀行[注釈 1]

概説[編集]

1690年、同行成立以前から、フォンテーヌブローの勅令フランスから流れたユグノー資本が英国債の売れ行きに貢献していた。4年後に創立したとき、世界は大同盟戦争ウィリアム王戦争、そしてザームエル・オッペンハイマーの活躍する大トルコ戦争のさなかにあり、同行は政府への貸付を主要な業務とする商業銀行であった。多くのユグノーが毎年の選挙で理事となった[1]。1697年の同行第4次利払いリストによると、ウーブロン家をはじめとする移住の早かったユグノーは同行の15%を支配した。後発組にはテオドール・ヤンセントーマス・パピヨンなどがおり、彼らが先行組から同行の株式を譲りうけ、しかも英国債の約1割を所有した[2][3]

同行は政府を通してイギリス東インド会社ハドソン湾会社などへも貸付を行っていた[4]。ユグノー出身で6代目総裁のジェームズ・ベイトマン(James Bateman)はロンドン市長と南海会社副社長を務めた[5]

18世紀後半、将来ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの義父となるレヴィ・バレント・コーエンをふくむユダヤ人が、最初アムステルダムにいながら、やがてロンドンに定住するまで、東インド会社の破綻した事業を買収していた[6]

1800年8月から1816年8月までの各16ヵ年においては年平均60万ポンドの割引収入をあげて準備金を蓄え[7][注釈 2]、イングランド銀行は1816年に金本位制を採用した。やがてロスチャイルドが台頭し、各国の外債発行とイングランド銀行の準備金補填に関わった。銀価格低下の時期にアルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事を務め、19世紀末の不況に対応した。

第一次世界大戦ではJPモルガンが戦時国債の独占代理人を務めた。1934-1935年、イングランド銀行は植民地の中央銀行設立に関わった。第二次世界大戦後は財務省法官(Treasury solicitor)が政府のために100%保有するところとなった[8]。しかし大きな権限縮小を免れ、金プールの運営に参画した。

オイルショック後のセカンダリー・バンキング危機では金融機関の救援に奔走した。1997年に財務省から金利設定の権限を委譲される一方、翌1998年には債務管理庁と金融サービス機構に各種権限を移譲した。

近代[編集]

ユグノー金融と三角貿易[編集]

イングランド銀行憲章の調印(1694年)
出資者1268人中123人がユグノーであった。7月10日の選挙でユグノーから初代総裁ジョン・ウーブロンがえらばれた。理事は6人であったが、そこに同ウーブロン家のジェームズアブラハムが席を占めた。

16世紀に王立取引所が設立され、17世紀中ごろには民間の金匠銀行(Goldsmith)が発行する記名式の金匠手形(goldsmith note)が流通していた。ところが第3次英蘭戦争(1672年 - 74年)の戦費増大により政府が金匠手形の返済を保留したことで多数の金匠銀行が破綻した。この種のリスクの顕在化が銀本位制の銀行創設要請の理由のひとつになった[注釈 3]

イングランド銀行は1694年5月、スコットランド人ウィリアム・パターソン[注釈 4]財務府長官チャールズ・モンタギューが主導した歳入法(Ways and Means Act)により軍事費を調達する目的で創設された[注釈 5]イングランド王国政府の銀行として同年7月27日ウィリアム3世メアリー2世勅令により認可された。資本金は120万ポンドであったが年利8%で政府に120万ポンドを貸し出し、一方で120万ポンドを上限に紙幣を発行することができる株式会社とされた。初代総裁はジョン・フーブロンで、初期の紙幣にはイングランド銀行の捺印があり、金匠手形と同様に記名式であった[9]証券市場の成立などの改革も進められた[10]

1695年10月にジョン・ロック銀貨の改鋳について建議した。ロック案は閣議決定されて、12月17日に法案となった。ロックは27日にFurther Considerations Concerning Raising the Value of Money という論文を発表した。翌年1月に法案は裁可も得て成立した[11]。1696年には総資産が330万ポンドに達した[注釈 6]

1699年、イギリスが清から広東貿易を許される。1720年、南海泡沫事件

1734年、イングランド銀行はスレッドニードル街の現在地へ移転した。かつてはポールトリー街のグローサーズ・ホール内にあった。

1750年、長期国債の発行権を独占する[4][注釈 7]。1764年、砂糖法

1772年、ロンドンのニール・ジェイムズ・フォーダイス・アンド・ダウン銀行の倒産を端緒とするブリテン金融危機 (1772年-1773年)英語版はスコットランドやオランダへ波及し、スコットランドではエアー銀行が倒産した。アダム・スミスの『国富論』執筆に影響した[12]

1780年、ゴードン暴動が起こる。以来、軍がイングランド銀行の夜間警備にあたるようになった。この警備習慣はライバル銀行家たちの怒りを買った[注釈 8]

1786年、大臣がおかれない減債委員会(Commissioners for the Reduction of the National Debt)が発足した。

1797年、前年からの恐慌 (1796年-1797年)英語版と、対仏大同盟に基づく活動により正貨が流出し、イングランド銀行制限法により兌換が停止された。イギリスの銀行の数はこの年270行であったが、1810年には783行にまで増加した。1810年の地金委員会による調査で、このときの兌換停止は金高騰と為替相場下落の原因と指摘された[13][注釈 9]

国際金融家ロスチャイルド[編集]

1816年のイングランド銀行と王立証券取引所

1807年奴隷制度廃止運動の高まりにより大英帝国内での奴隷貿易が禁止される。バルト海貿易で富を築き、当銀行理事を務めたジョン・ソーントンは、息子ヘンリや総裁を務めたサミュエルらとともに奴隷貿易廃止法案に尽力していた[10]。この禁止はのちの帝国経済への長期的な打撃となり、1815年の恐慌を起こした。

1816年、イングランド銀行は諸国に先駆けて銀本位制から金本位制に切り替えた。1816年から1817年には兌換が部分的に再開されたが[注釈 10]1819年恐慌も発生した。

1823年に兌換は全面的に再開され、同年と1825年には代理商取引法が制定されて契約を促したものの、取引所の利害関係も混乱させた。

このころ外債が洪水のように契約されており、男爵位を得たロスチャイルドは請負人として最も活躍した [注釈 11] [14][注釈 12]。ロスチャイルドはロンドンの投資家の関心を呼ぶために、スターリング・ポンド建て外債の利率を定めていた。

6月、国庫委員会の議事録にネイサン・メイアー・ロスチャイルドが登場する[15]。同年3月すでに、フランスが総額1億2000万フランの公債を発行するにあたり、ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドがシンジケート団(以下、シ団)を組織し引受けた。アッシニアの担保に財産を没収された教会・貴族の反発があるも、フランス政府は低利借り換えを画策。実現に向けて公債相場を維持するため[16]、ネイサンは翌年5月イングランド銀行から1年間金100万ポンドの保証を受ける。12月1日に保証額中30-50万ポンドを持ち出し[15]、担保としてイギリスの「整理公債」を預託、持ち出した金塊はフランス銀行に預け入れた。結局、利率が低すぎてシ団は半壊。ロスチャイルドは残り、逆に力を誇示することになった[16]

イングランド銀行から始まった1825年の恐慌英語版もまた欧州に波及した。ラテンアメリカ投機の一部での株価暴落が引き金であった[注釈 13]。フランス銀行に正貨の供給を受け[注釈 14]、破綻寸前で踏みとどまったが[注釈 15]、この惨事は社会運動に発展し、紡績工場法が修正されたり、労働組合が承認されたりした。また、銀行券、特に小額紙券の流通量が著しく減らされることとなった[注釈 16]

国際流動性に向かう投機[編集]

1833年の新特許法でイングランド銀行券が法貨となる。同年、クラウン・エージェンツ[注釈 17] が政府により創設される。

1839年、マンチェスター商業会議所が、それまでの3年間における金利の恣意的な変更が為替相場を乱高下させたと主張[19]。勢いづいていたチャーティズムを政府は翌年4月にかけ弾圧。また、この年に国内電信が敷設される。

1844年、改正されたピール銀行条例(当時の呼称は「英蘭銀行条例」、イングランド銀行条例)により中央銀行となる[注釈 18]鉄道狂時代が続く。

1851年、ロスチャイルド商会が貴金属精錬所を設立。この年、ドーバー海峡横断ケーブル開通。翌年にロスチャイルドの精錬所はイングランド銀行で2番目の公認精錬所となる[20]

ピール銀行条例に加えて1852年には「銀行券法」が施行され、1854年には高利禁止法が撤廃される[注釈 19]。1856年、パリ宣言私掠船の放棄が謳われる。

1857年恐慌でアメリカ株を中心に市場が弱気となったところ、イングランド銀行は単独で割引を継続し、11月20日だけで100万ポンド近い法定限度超過。追ってピール銀行条例が停止した[21]

1861年には再びイングランド銀行条例が成立し、以後、イギリスが世界の実質的な手形交換所と化す[22]。条例の改正や公定歩合については日本でも官報に報じられた[23]。それまでイングランド銀行が25年ごとに国債所有者名簿を閉じていた慣習を廃止[24]

1866年の恐慌ベイルアウト。発端は割引商会オーバーレンド・ガーニー(現・バークレイズ)の失敗に関連した国際金融市場のしぼみと、イタリアでの銀本位制廃止。これにより横浜へ進出していた銀行支店が3つも撤退した。公定歩合10%。二度目の特許状停止。同年、ホンジュラスにおき鉄道スキャンダルさらに移民法制定

1857年恐慌から1873年恐慌を経て、シティー・オブ・グラスゴー・バンクが詐欺的な業務の上に破産した1878年までの20年間は、金利の変更が実に年平均10回にまで及んだ[25]。途中の1868年にはアルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事に就任している。終わりの1878年には首相のローズベリーがネイサンの孫ハンナと結婚した。1875年ハックス・ギブズ(Henry Hucks Gibbs)が総裁となった。彼はギブズ商会の共同経営者であった。この会社は1981年に香港上海銀行が買収した。

現代[編集]

狭かった国際金融市場[編集]

1880年からのボーア戦争では、植民地政府などのために次の金融機関と組んで、非難を浴びながらも国債発行の代理人となった。モルガン・グレンフェルベアリングス銀行、ロスチャイルド、JPモルガン[26]

1890年、デフォルト寸前の[注釈 20]ベアリングス銀行を救済。同行の損失を秘匿しつつ、政府・シ団と組んで保証基金を設置、450万ポンドの外債をとりつける。やがて公衆の知るところとなり、1893年恐慌に発展する[注釈 21][29]

1895年、横浜正金銀行の指図でか、イングランド銀行は下関条約の賠償金を市場に放出。資金は供給過剰となる[30][注釈 22]

1899年、インドを金為替本位制とする。インドは植民地であり、世界的な銀消費国でもあった。1ポンド=銀貨15ルピーとした[31]。前もってブリュッセルで国際通貨会議が開かれていた。飢饉に困ったインド人が銀製品の装飾品を売ることで銀価の低落が起こらないように、それから税収を安定させるために、植民地政府は世界で初めて本格的な灌漑事業をインドに展開した。

1901年、ルピー銀貨の鋳造益を充てていたインドの金本位準備をロンドンへ移送。翌年、インド政庁管轄の紙幣準備の一部をイングランド銀行へ預託させるとともに、同政庁に金の自由鋳造を断念させる。こうしてルピーを弱めたイギリスは、その輸出においてインド全輸入の6割超を占めた[32]

1901年4月に6千万ポンド、1902年4月に3200万ポンドのコンソル債を一括引受で発行[注釈 23]

1903年、プランテーション植民地のマレーシアが、インドと同様に金為替本位制に編成された[34][注釈 24]

1907年恐慌まで日銀から借入。この時期をはさみ、1895年と1908年に増収目的で保有証券を売却[35][注釈 25]。また、この恐慌以後はライヒスバンクが、兌換を部分停止したり、またイングランド銀行に対抗して金利を設定したりして、正貨流出の抑止に努める[36]

1909年以降、金本位準備の一部を預金銀行やマーチャント・バンカーに短期通知貸。さらに金本位準備は、もともと新規国債の消化と市場に流通する国債の買い支えに利用されていた[37]

国際化するスターリング・ポンド[編集]

1914年7月30日に4%だった金利を翌日に8%へ、8月1日には10%まで一気に引き上げ[38]。特許状は停止せず。第一次世界大戦中はJPモルガンがイングランド銀行で発行する戦時債券の独占代理人であった[注釈 26]。日本の鈴木商店双日の前身)に巨額の融資を行った。

1919年4月、金本位制離脱。1925年9月に復帰する。この離脱期間に世界恐慌の第一波が起こる[40]。国際カルテルが流行。

1924年10月、JPモルガンと引受地域を分担しドーズ公債を起債。翌年5月、政府が借款を受ける[41]

1928年、ヴィッカース・アームストロングの合併を援助していたのが実現。大蔵省紙幣とイングランド銀行券の発行が統合される。

1929年9月26日、世界恐慌の直前に金利引き上げ。FRB が6.0%であったが、イングランド銀行は5.5%から6.5%に。

1931年8月1日、フランス銀行とニューヨーク連邦準備銀行から5千万ポンド借り入れ[42]。9月21日に金本位制離脱。金解禁していた日本からは10-11月に各月とも1.3億円超の正貨が流出した[43]

1934年、ニュージーランド準備銀行ができる。翌年、カナダ銀行インド準備銀行が開設される。

1939年3月、ナチス・ドイツに全土を占領されたチェコスロバキア中央銀行が[注釈 27]国際決済銀行名義でイングランド銀行に預託している23.1トンの金準備をライヒスバンクに移すよう不本意な指図をさせられ、24日に国際決済銀行の担当部局が指図のままに口座を振り替えた[44]。5月に財務大臣のジョン・サイモンが総裁のモンタギュー・ノーマンへチェコの金準備ではないかと確認を要請したが総裁は知らないと応えて、6月に44万ポンドの準備金が売却され内42万ポンドがニューヨークへ船積みされた[45]

1946年、国有化されるが運営目的は何も制限されず、金融監督権限を得る。

1947年7月、国際通貨基金に登録されたポンド平価[注釈 28] での交換性を一時的に回復するも、交換要求が殺到して6週間後に制限。

1949年、ポンド切り下げ[注釈 29] により輸出が増加。準備総額は1950年代半ばごろ20億ドル以上に達した[46]

国際流動性の危機[編集]

1954年、ロンドン金市場再開。1939年の開戦以来。同市場で南アフリカ準備銀行の代理人を務める[47]。ロイ・ブリッジという為替ディーラーの仲介で国際決済銀行と以下の諸点を確認。イングランド銀行への事前の照会や合意がなくても国際決済銀行は南ア銀行とイングランド銀行金庫室=ロンドン金現物市場で取引をする。国際決済銀行は南アフリカから週あたり最高10万オンス以上は購入しない。その最高額を引揚げるときは事前に通知する。1957年、ポンド危機。公定歩合7%に上昇。1958年、他のヨーロッパ主要国とともに、非ドル地域で保有するポンドに限り交換性を回復した。

1962年初め、金プールの代理人として参加国[注釈 30] 中央銀行に承認される[48]。認められる前は、金プールの前身となるシンジケートにおいて、そこから使用した正金の量をイングランド銀行は毎月末ニューヨーク連邦準備銀行に報告し、そのあとイングランド銀行がシンジケートの誰に保証金を支払わなければならないかNY連銀の指示を待った[49]

1964年、1966‐1967年、ポンド危機[注釈 31]。1966年、クラインワート・ベンソンロンズデール(現ソジェン)によるゴールド・フィックス会員シャープス・ピクスレーの買収を主導した。1968年、ロンドン金市場崩壊[注釈 32]ユーロクリア誕生。1971年、シリングを廃して1ポンド=100ペンスの10進法とする。また、スミソニアン協定で1ポンド=約2.60ドルに切り上げた。

1973年から1975年まで、セカンダリー・バンキング危機[50]。これに関するイングランド銀行アーカイブ資料[注釈 33] が何ゆえか失われている。イングランド銀行は、ライフボートを通じて26金融機関を援助[注釈 34]。また、イングランド銀行単独で14の金融機関にベイルアウト[注釈 35][注釈 36]。1974年、BP株の買収などによりバーマ・オイルを救済した[51]。1976年の銀行法でイングランド銀行は、銀行制度全体を揺るがす大失敗をやりそうな銀行を直接所有監督する権限を得た。

1977年、Bank of England Nominees Limited (BOEN) なる子会社を設立。株主が指名制で会社法との整合性を問われた。エドムンド・デル(Edmund Dell)がBOENを情報公開制度の例外であると主張。SAFE理事のロバート・オーウェン(Robert Owen)が、事実上イングランド銀行は子会社であるはずのBOENとその秘密株式によって支配または私物化されていると主張した[52]

1979年、国家債務、868億8500万ポンド。全預金受託機関に対する認可・監督権限を得る。翌年7月まで最低貸出金利17%。

1981年、イングランド銀行がバーマ・オイルから民事訴訟を提起された。原告は1974年に同行が行った買いオペで不当な利益が生じていると主張。イングランド銀行の取得したBP株の価格は、オペ時点の1億9700万ドルから急騰し、報道時に12億ドルや24億ドルにものぼった[53][54]

短期金融市場の歯車[編集]

1984年、ゴールド・フィックスであったジョンソン・マッセイの貿易金融子会社が倒産した[注釈 37]。救済措置としてイングランド銀行などが1億5000万ポンドの債務保証を与えた。1985年、1ポンド硬貨導入。史上最安の1ポンド=1.04USドル。

1986年、ビッグバン。1987年、アイヴァン・ボウスキーに対する捜査追及によってギネス株の価格操作事件が発覚(Guinness share-trading fraud)、イングランド銀行がモルガン・グレンフェル(現ドイツ銀行)CEOクリストファー・リーヴズ(Christopher Reeves)の引責辞任を強制する事態となった。1988年、ジョンソン・マッセイ・バンカーズへの債務保証に使われた資金が全て返還された。

1990年、欧州通貨制度に参加。1991年、国際商業信用銀行に営業停止命令。ときの重役の複数がロスチャイルド家と関係[55]

1992年、ポンド危機。この年の国家債務、2145億2800万ポンドに達する。欧州通貨制度を離脱。キャドバリー報告書

1995年、イングランド銀行が証券集中保管機関であるCRESTクラウドプロバイダー国際銀行間通信協会を選択[56]。イングランド銀行副総裁のペナント・リー(Rupert Pennant-Rea)が、行内で女性ジャーナリストのシノン(Mary Ellen Synon)と性行為、ベアリングス銀行の救済を最後の業績として引責辞任した[57][58][59]

1996年7月、ロスチャイルド家当主となるはずであったロンドン家のアムシェル(1955-1996)パリのホテルで変死。

1997年、イングランド銀行の金融政策委員会が財務省から政策金利など金利設定の権限を移譲された。

1998年4月、債務管理庁(Debt Management Office)に英国債管理政策に関する権限を委譲した。同年、根拠法改正により副総裁枠が増えて、この新枠副総裁も減債委員会に参加するようになった。また、イングランド銀行は一昨年に設立された金融サービス機構へ金融機関を監督する権限を移管した。移管は1998年イングランド銀行法によった。

2002年8月、CREST がユーロクリアに買収される。2003年2月、公定歩合3.75%に。48年ぶりの低金利となる。同年7月に3.5%へ。2004年、新ロンドン証券取引所がオープン。スレッドニードルからの移転。

2007年、ノーザン・ロックに特別融資。2009年、発券数の週次決算報告を廃止。同年3月末の時点で、ポンド相場は1.42ドル。イギリスの世界金融危機は、ノンバンクを連鎖の発端とする本質において、セカンダリー・バンキング危機および1992-3年のモーゲージ危機と共通するという[60]

2011年11月以降、総裁のマービン・キングが国際決済銀行主要会合の議長を兼ねる。

2013年4月、金融サービス機構廃止。同年7月1日から初めての外国人のマーク・カーニーが総裁になった。

2014年、副総裁の定員が4人となった。イングランド銀行関係者(Joint Standing Committee)2人が外為相場の不正操作事件に関与したことが発覚(Forex scandal)。

2015年5月、イングランド銀行はビットコインフォーラムメンバーになった[61]。イングランド銀行は、ブロックチェーン技術に基づいた法定電子通貨の発行を検討している。政府も1460万ドルの研究資金を提供すると謳っている[62]。同年6月、イングランド銀行はロスチャイルドとアドバイザーをつとめ、政府がロイヤルバンク・オブ・スコットランド株を売却する方針に同調した[63]

2017年7月、BOENが解散した。イングランド銀行が所有する信託会社として発足し40年が経っていた。

機能[編集]

オランダ資本の凋落[編集]

創立時から当分は事実上の財務省として機能した。政府に対する直接融資、国債の引受と消化もこなした[64]

1701年の株主は1903人であったが、このうち107人が総裁の資格たる4000ポンド以上の株式を保有していた。その107人は、創立時の出資者を多数ふくむ[注釈 38]。ユグノーはセファルディムを参加させるようになった。筆頭はソロモン・デ・メディナ[注釈 39]。総裁資格をもつ107人のうち、およそ9分の1がユダヤ人であった[65]。メディナとスペイン系のシルバ家[注釈 40] は同行で大口の地金売りであった。

1750年オランダ人は、イングランド銀行・東インド会社・南海会社株の国外保有分について78%を支配した[6]。1751年では、3294人の議決権を有する同行出資者のうち約1000人がオランダ人またはフランダース人であった。総裁資格のある者495人のうち、少なくとも105人がオランダ人であった。10年ほどするとアムステルダム銀行で信用危機が起こった[注釈 41]。スイスの株式保有者で4000ポンド以上にのぼったのはベルンが最初。ケンブリッジ大学の31あるカレッジで最古のクレアカレッジも株式を保有[67][注釈 42]

1697年に議会の条例により、イングランドウェールズでは、イングランド銀行を除いて株式会社銀行がつくれなくなった。株主の銀行家たちが独占するため制定に圧力をかけたのである。これで機能はともかく、地方金融の面倒まで見る立場となった。しかし、この条例は1825年の恐慌で批判された。会社形態の独占が地方金融機関の成長を阻害し、ひいては恐慌を招いたというのである。そこで翌年に解禁される。ただし、ロンドンから半径65マイルに限った[注釈 43]。完全解禁は1833年である[68]

ロンドン手形交換所[編集]

1864年、イングランド銀行はロンドン手形交換所に加盟、同行宛に加盟銀行が直接振替指図書を振り出し交換尻を決済できるようになった[69]。なお、イングランド銀行は本店宛の支払請求に対しては本店で払った。

1944年までに国内ロンドン外支店は17店舗をつくっている。このうち14は中央銀行としてスタートするまでに設立され、そのうち5つは大不況の始まるまでに閉鎖されている[70]。この数は同時期の大陸系中央銀行と比べると少ない。実は準備率も同様である[71]。産業革命を先駆けたイギリスの金融市場は大陸より手形制度を早く発展させた。それでイギリスの銀行は一般に預金通貨の発行高が大陸系銀行よりも高く[71]、イングランド銀行も例外ではなかった。そうした中でイングランド銀行がベアリング危機等でベイルアウトするときは、ロンドン手形交換所加盟銀行と連携した。欧州の国際決済銀行ネットワークを小さくしたようなものがイギリスにはずっと早くできていたことになる。イングランド銀行にとり加盟銀行はよほど可愛いと見える。1930年8月9日、ロイヤルバンク・オブ・スコットランドは加盟銀行ウィリアムズ・ディーコンズ・バンクWilliams Deacon's Bank の経営破たんをネット価格23万5千ポンドで買収することにより、株主がピンチをかぎつけるまえに救済した。イングランド銀行は病み上がりのディーコンズが再出発できるように西部支店を譲渡した。以後もロイヤルバンクを通じて資金を融通していたが、1940年で321万2千ポンドも焦げついていた[72]。渉外事業でも加盟銀行と連携している。1931年7月にピアソンが50%を支配するロンドンラザードが休業瀬戸際となって、翌年5月イングランド銀行はフランスの有価証券を担保に加盟銀行の1行と共同融資にふみきった[73]

20世紀末からの在り方[編集]

現在は1998年イングランド銀行法で制定された諸機能、つまり物価安定の維持と英国政府の経済政策支援を遂行する。まずたとえば、①イングランドウェールズにおける通貨発行権(UKポンド参照)をもつ[注釈 44]。②政府の銀行であると共に「最後の貸手」として銀行の銀行である。さらに③外国為替と金準備を管理し、政府の証券(国債)を登録するが、④政府統合基金の運営も行う。

中央銀行という範疇を超えて機能している可能性が疑われている。イングランド銀行は国際決済機関セデルに数十の匿名口座を持っていた。セデルは内緒で①金融機関の支店が②国際金融市場で決済する便宜のために、匿名口座を開いていた。イングランド銀行が匿名口座を持つ場合、述べた①②のいずれにもあてはまらない[74]

金融サービス機構(Financial Services Authority)は、1997年10月に発足して翌年イングランド銀行から金融機関監督権限を移管されたが、(LIBORなど)幾たびのスキャンダルを経て、2012年金融サービス法(Financial Services Act 2012)にもとづき2013年4月に廃止された。金融サービス機構の権限は新設の金融安定委員会(Financial Policy Committee)に移された[75]

金融サービス機構は自主規制団体の寄せ集めだった。投資顧問規制機関(IMRO)、生保・投信規制機関(LAUTRO)、金融仲介・管理・ブローカー規制協会(FIMBRA)の三者が統合されたのである[注釈 45]。金融サービス機構の監督権限はかつてないほどに強化されていたが(Financial Services and Markets Act 2000)、エクイタブル生命(The Equitable Life Assurance Society)の抱える年金債務に手段を講じなかったことがスキャンダル化した。監査法人アーンスト・アンド・ヤングも追及された。エクイタブルの営業網は、2001年2月にハリファクス(Halifax)へ売却された。2002年12月12日、機構の委員長ハワード・デービス(Howard Davies)が辞任の意思を明らかにした。金融サービス機構は会長アデア・ターナー(Adair Turner)が就任した世界金融危機時の対応についても酷評された。「誰も負債水準を管理できず、危機がやってきても誰も責任の所在を分からなかった」[75]

歴代総裁[編集]

1899年以降のイングランド銀行の歴代総裁は以下の通り。ただし、以下の表は イングランド銀行ホームページの資料 を基に作られたものである[76]

名前 期間
サミュエル・グラッドストン(Samuel Gladstone) 1899-1901
アガストゥス・プレボスト(Augustus Prevost) 1901-1903
サミュエル・モーリー(Samuel Morley) 1903-1905
アレクサンダー・ワラス(Alexander Wallace) 1905-1907
ウィリアム・キャンベル(William Campbell) 1907-1909
レジナルド・ジョンストン(Reginald Johnston) 1909-1911
アルフレッド・コール(Alfred Cole) 1911-1913
ウォルター・カンリフ(Walter Cunliffe) 1913-1918
ブライアン・コケイン(Brien Cokayne) 1918-1920
モンタギュー・ノーマン(Montagu Norman) 1920-1944
トーマス・カット(Thomas Catto) 1944-1949
キャメロン・コボルド(Cameron Cobbold) 1949-1961
ローランド・ベアリング(Rowland Baring) 1961-1966
レスリー・オブライアン(Leslie O’Brien) 1966-1973
ゴードン・リチャードソン(Gordon Richardson) 1973-1983
ロバート・リー=ペンバートン(Robert Leigh-Pemberton) 1983-1993
エドワード・ジョージ(Edward George) 1993-2003
マーヴィン・キング(Mervyn King) 2003-2013
マーク・カーニー(Mark Carney) 2013-2020
アンドリュー・ベイリー(Andrew Bailey) 2020-

建築[編集]

1694年創立当初の建物は、始めサンプソン(生没年不詳)によって1732~34年に建設され、1788年からソーン(1753~1837)によって長期にわたる建造が行われた。 ソーンの建物は当時としては驚くほどに簡素な窓のない壁で囲まれ、天窓から採光するという特異なものであり、外壁はコリント式のピラスターで区画されておりムーアゲイトに向かう角のみ、ティヴォリのヴェスタ神殿を模したティヴォリ・コーナーがある。内部はソーン独特のネオ・クラシシズムを示すドームをかけた空間が並ぶが、コンソル公債局はその初期の部分で、大きな柱間、特異な櫛形のアーチ、浅い交差ヴォールト、単純なベンデンティヴ、カリアチッドに支えられたガラス・ドームという類例のない独創的な比例を持つ構成である。 1818~23年の配当局Davidend Office も、同様の構成から成る室内であるが、そこでは、モールディングがほとんどなくなり、柱とペンデンティヴが一つの滑らかに連続した局面で作り上げられ、カリスチッドは倍の高さになり、ガラス張りのドラムで囲まれ、ガラス・ドームは高く上昇して、より統一ある空間に発展している。 ソーンはこの時期のイギリスの主導的建築家で、ペイールやピラネージ(1720~78)の図集から刺激され、フランスのルドゥーに似て、より繊細でピクチャレスクなネオ・クラシズムを創造していった。イングランド銀行のロトンダのプロジェクトに、ほとんどアール・ヌーヴォーと言ってよい独創性と優雅さを備えている。だが、これらは現在のイングランド銀行、特に外観は、ベイカーによる増改築(1930~40)で著しく損なわれてしまっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 正式名称は「Governor and Company of the Bank of England」である。本店がシティのスレッドニードル通りに所在することから、1797年にジェームズ・ギルレイの風刺漫画の中で「スレッドニードル通りの老婦人」("The Old Lady of Threadneedle Street")と呼ばれるようになり、現在でも呼称されることがある(イングランド銀行公式サイト内の解説「Who is The Old Lady of Threadneedle Street?」を参照。)。過去には「英蘭銀行」とも書かれた。この場合「英蘭」は「イングランド」の音訳であり、「イギリスとオランダ」(英蘭戦争など)を意味しない。
  2. ^ これ以降20世紀初頭までにおいて60万ほどに達したのは、1865-6年(以下8月締め)の73.4万ポンドと、1914-15年の94.9万ポンドだけである[7]
  3. ^ イタリアのジェノアは1407年にCasa di San GiorgioとBank of St.George、ベニスは1587年にBanco di Rialto、アムステルダムは1609年、ロッテルダムは1635年、ハンブルグは1619年、ストックホルムでは1656年に銀行が設立されていた[9]
  4. ^ ウィリアム・パターソンは翌年のスコットランド王国政府のスコットランド銀行設立にも関わっているが、スコットランド銀行は経済的に深刻な状況にあったスコットランド国内への投資およびスコットランド会社によるダリエン計画への投資を目的としておりその性格は異なっている。1707年、スコットランドの経済破綻に伴い連合王国が成立。
  5. ^ これは、名誉革命によって国王となったウィリアム3世治下のイングランドがオランダ財政に学んだ結果でもあった。
  6. ^ 内訳は、政府への貸付金が120万ポンド、民間から買い取った政府債務証が178万ポンド等である[9]
  7. ^ 1752年、コンソル公債が発行される。ロンドン証券取引所において国債取引の比率が5%に落ち込んだ1914年でさえ、金縁証券の筆頭たるコンソルだけは、低リスクゆえに流動性を誇り、最大の取引対象であった。
  8. ^ しかし伝統となって1973年まで続いた。
  9. ^ 1819年にロバート・ピールが議会で開いた委員会でも、金高騰・通貨下落の原因とされた。この委員会は、イングランド銀行が私利のために銀行券を過剰発行することを懸念し兌換再開を結論・勧告した(『概説イギリス経済史』, p. 22)。
  10. ^ 1816-1818年、ナポレオン銀貨を481万7000ポンド鋳造。
  11. ^ 1822年、ハプスブルク家がロスチャイルド一族全員に男爵位を授与。
  12. ^ 1822年の発行国は主に手堅く、ロシアプロシアデンマークなど。チリ債とコロンビア債は4年たつと利子の支払いがとだえた。1823年の発行国は、オーストリアポルトガルスペイン。1824年-1825年は南米から1800万ポンド。1827年で利子が払われなくなる[14]
  13. ^ 外債の洪水が600以上の会社を設立させていた[17]
  14. ^ 浜は、ネイサンが「欧州から金をかき集め」たと書いている[18]。兌換再開からの動きに照らすと、かき集めたというより、外国へ貸し出した金を回収しただけのようである。
  15. ^ クラパムは数値を挙げて金の枯渇こそ否定するも取り付けのあったことは否定せず。一方、ジュグラーの資料によると凄まじい枯渇が読み取れる。1824年1月に1350万ポンドあったのが、1825年12月には120万ポンドにまで減少。
  16. ^ 恐慌のときにやむなく1ポンド紙幣を60万枚発行していた。流通の減少を受けて1832年には銀行券偽造に対する死刑が廃止された。
  17. ^ 伝統的には植民地政府などの代理人をこなした。ユーロクリアのできた頃には80の政府と160以上の公的当局、国際組織のために活動していた。また、この頃から銀行関連業務にも従事し始めた。
  18. ^ 19世紀半ばのヴィクトリア朝時代から第一次世界大戦の終わりまでのイギリスは「世界の銀行」と呼ばれ、世界各地の政府、鉱山、工場、プランテーションなどに投資して、利子を稼いだ。統計によれば、1914年における、世界の海外投資の43パーセントをイギリスが占めた。
  19. ^ 続いて1857年オランダで、1865年ベルギーで、1867年北ドイツ連邦でも撤廃された。
  20. ^ 「実際には支払い能力はあった」[27]。経営失敗の原因は、ブエノスアイレス水道事業会社(The Buenos Ayres Water Works Company) 株の引受・保有[28]
  21. ^ ジョージ・ゴッシェン (初代ゴッシェン子爵)の資料によると、この頃、イングランド銀行の金準備が2400万ポンドであったのに対して、ドイツ・フランス・アメリカの3国は総計2億7700万ポンドであったという。
  22. ^ このときの公定歩合は特に低い2%であった。
  23. ^ このような巨額の起債はイングランド銀行と政府関係のブローカーが手はずを整え、モルガンが主催するニューヨークシ団とロスチャイルドの主催するロンドンシ団が大量に行った[33]
  24. ^ 金為替本位制とは、現地政府手形で通貨を保証する仕組みである。日本は、制度上の金為替本位制ではないが、日英同盟を契機として金準備の大部分をロンドンに置き、その半分以上をイギリス国債に投下するか、もしくはロンドン預金銀行に貸し付けていた[34]
  25. ^ 短期貸し出しによる収入も1904-1907年で一気に増加。以下8月を決算とした数値。単位は千ポンド。
    1893-1894年で331 1894-1895年で160 1895-1896年で158 1896-1897年で243 1897-1898年で293 1898-1899年で356 1899-1900年で410 1900-1901年で441 1901-1902年で485 1902-1903年で524 1904-1905年で301 1905-1906年で457 1906-1907年で500 1907-1908年で322 1908-1909年で200(Clapham(1970), p. 482. 付録D)
  26. ^ モルガンと連邦準備制度の協力により、イングランド銀行は国内で買い集めたUSドル大蔵証券をニューヨーク市場で売却することができた[39]
  27. ^ のちのチェコ国立銀行スロバキア国立銀行
  28. ^ 1ポンド=3.58134ドル
  29. ^ 1ポンド=2.80ドル
  30. ^ アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、オランダ、スイス、ベルギー
  31. ^ 1967年に1ポンド=2.40ドルまでポンド切下げ。
  32. ^ 旧固定価格は国際金融のみに利用され、金自由市場には別価格が適用される。
  33. ^ 閲覧は予約制。月から木曜日、午前10時から午後4時半まで。
  34. ^ このうち、Marcantile Credit はバークレイズに合併。Twentieth Century Banking Corporation はP&Oに合併。
  35. ^ 14行のうちスレイター・ウォーカー(Slater Walker)は、会長職にジェームズ・ゴールドスミスが就いた後、イングランド銀行がN・M・ロスチャイルド&サンズを促して役員を派遣させている。
  36. ^ 14行のうちウォレス・ブラザーズ・バンク(Wallace Brothers Bank) は、1974年にこの社名となる前、1972年3月にE.D.サッスーン・バンキング・カンパニーを買収している。WBB の大株主は1833年創業のクラウン・エージェンツで、27%を保有していた。解決策として、イングランド銀行が530万ポンドをカンパしてスタンダードチャータード銀行が子会社を通じてWBB の全株式を取得した。クラウン・エージェンツも経営危機にあったのである。
  37. ^ ジョンソン・マッセイはデグサと似て貴金属寄りの化学工業を営んでいる。世界金融危機をすぎたころ、ソルトレイクシティの金銀精錬所が水質保全法に抵触し罰金を課され、以来アメリカ合衆国環境保護庁による保護観察下におかれている。2014年12月、朝日化学工業がジョンソン・マッセイの貴金属部門を1億8600万ドルで買収した。翌年6月23日、国際協力銀行が買収に要した資金の一部を融資する貸付契約を締結した。公的機関として安易な亡命受け入れである。
  38. ^ ボスコーアン、ファーニース、ゴドフリー、ウーブロン家とレシュリエー家の家族全員、ヘスコット、スコーイン、エドワード・ラッセル (初代オーフォード伯爵)など
  39. ^ 他には、同名が2人いるダ・コスタス、フォンセカ、ヘンリークズ、メンデス、ヌーネス、ロドリゲス、サルバドール、テクセーラ・デ・マトス。 Da Costas, Fonseca, Henriques, Mendez, Nunes, Rodriguez, Salvadore, Teixcira de Mattos
  40. ^ 末裔にカイエターナ・フィツ=ハメス・ストゥアルト
  41. ^ 1760年、イギリス東インド会社の株主総数においてユグノーが14%を占めていた[66]
  42. ^ なお、イングランド銀行設立の5年前に名誉革命でオランダ総督のウィリアム3世がイングランド王に即位している。
  43. ^ 反撃としてイングランド銀行は同年に法的認可を受け17の地方支店を構えた。支店では、過度の正金需要のときは交換量に制限を設けた。銀行券には支店名が記され、金兌換は券を発行した支店でなければ行えなかった。
  44. ^ スコットランド北アイルランドの通貨発行権は各地域の民間銀行がもっているが、それらの保証準備発行額はごく限定されたもので、それを超える発券にはイングランド銀行券による100%準備が必要とされている。
  45. ^ この資産運用業界は、マーガレット・サッチャーがサープス(State Earnings-Related Pension Scheme, SERPS)を廃止・縮小して年金市場を開放したときに参入して利益をあげていた。

出典[編集]

  1. ^ 仙田左千夫 1992, p. 33.
  2. ^ Alice C. Carter, "The Huguenot Contribution to the Early Years of the Funded Debt, 1964-1714", Proceeding of the Huguenot Society of London, XIX, 1955, pp.31-32.
  3. ^ David Ormrod, The Rise of Commercial Empires: England and the Netherlands in the Age of Mercantilism, 1650-1770, Cambridge University Press, 2003, p.92.
  4. ^ a b ジョン・クラパム 山村延昭訳 『イギリス経済史概説』 未来社 1981年 p.396. 原書 A Concise Economic History of Britain, From the Earliest Times to 1750 Cambridge University Press, 4th ed., 1963
  5. ^ 新庄博 『イングランド銀行成立期における銀行計画と信用通貨』 清明会叢書VII 1969年 45頁
  6. ^ a b Stanley Chapman, Merchant Enterprise in Britain: From the Industrial Revolution to World War I, Cambridge University Press, 2003, p.34.
  7. ^ a b Clapham(1970), p. 付録C
  8. ^ Eight European Central Banks, Routledge, 2012, p.97
  9. ^ a b c 平山健二郎 2006.
  10. ^ a b 井野瀬久美惠 2007.
  11. ^ 楊枝嗣朗「ロック=ラウンズ論争再論 : イマジナリー・マネーとしてのポンドの観点より」『佐賀大学経済論集』第39巻第1号、佐賀大学経済学会、2006年5月、144頁、CRID 1050287462747939840ISSN 02867230 
    (英語) Rethinking on the Controversy between J. Locke and W. Lowndes : from the Viewpoint of Pound Sterling as the Imaginary Money, https://saga-u.repo.nii.ac.jp/records/16874 
  12. ^ 新村聡「スミスのステュアート信用論批判」『岡山大学経済学会雑誌』第32巻第4号、岡山大学経済学会、2001年3月、161-174頁、CRID 1390290699544579072doi:10.18926/oer/41480ISSN 0386-3069 
  13. ^ 吉岡昭彦 1981, p. 14.
  14. ^ a b Clapham(1970), p. 57, pp.101-102. 原書 A BANK OF ENGLAND A History Volume.2. 1797-1914
  15. ^ a b Clapham(1970), p. 88-89
  16. ^ a b ジャン・ブーヴィエ 『ロスチャイルド ヨーロッパ金融界の謎の王国』 河出書房 1969年 pp.74-83.
  17. ^ Clapham(1970), p. 101-102.
  18. ^ 浜矩子 「金融大冒険物語」 エコノミスト (日本の雑誌) 2009/1/13 pp.62-63.
  19. ^ 吉岡昭彦 1981, p. 61.
  20. ^ Clapham(1970), p. 308-309.
  21. ^ A. アンドレァデス 『イングランド銀行史』 日本評論社 1971年 pp.410-413. 原書 A. Andreades Histoire de la Banque d'Angleterre 2tom. Paris 1904
  22. ^ 吉岡昭彦 1981, p. 103.
  23. ^ 官報 1890, p. 312.
  24. ^ リチャード・ロバーツ/デイヴィッド・カイナストン編 浜田康行/宮島茂紀/小平良一訳 『イングランド銀行の300年』 東洋経済新報社 1996年 pp.191-192.
  25. ^ 『概説イギリス経済史』, p. 167.
  26. ^ Burk, Kathleen and others (1989). “Morgan Grenfell 1838-1988: The biography of a merchant bank”. OUP Catalogu (Oxford University Press): 111-123. ISBN 9780198283065. https://ideas.repec.org/b/oxp/obooks/9780198283065.html. 
    ; Vincent P. Carosso, Investment Banking in America : A History Cambridge Mass. 1970 pp.510-513.
  27. ^ アンドレァデス p.433.
  28. ^ アンドレァデス p.432.
  29. ^ 『概説イギリス経済史』, p. 165-166.
  30. ^ Clapham(1970), p. 447-448.
  31. ^ 井村薫雄 『支那の為替と金銀』 上海出版協会 1923年 p.291.
  32. ^ 吉岡昭彦 1981, p. 274.
  33. ^ Letter Gov./Hamilton 6 Dec. 1900.
  34. ^ a b 吉岡昭彦 1981, p. 276
  35. ^ 『概説イギリス経済史』, p. 168.
  36. ^ 吉岡昭彦 1981, p. 281-282.
  37. ^ 吉岡昭彦 1981, p. 275.
  38. ^ Clapham(1970), p. 474-478. 付録B, イングランド銀行利率 1794-1914年.
  39. ^ For Cunliff's closeness, Norman Diary 19 Sept. 1916. For financing proposals generally at this juncture, Weems, America and Munitions, p.312.
  40. ^ Michael D. Bordo and John S. Landon-Lane, "The Global Financial Crisis: Is It Unprecedented?", Conference on Global Economic Crisis: Impacts, Transmission, and Recovery ,Paper Number 1, EWC / KDI Conference, Honolulu, Hawaii, 19–20 August 2010, p.7.
  41. ^ (On 4th May 1925,) two credits have been already conditionally negotiated. First, there is a credit which has been arraged with the Federal Reserve Bank of New York, who have undertaken to give the Bank of England a revolving credit of 200 million dollars for two years from the 10th May or the date of the British Government guarantee, whichever date is the latest. Then there is a second arrangement with a Syndicate headed by Messrs. J.P.Morgan. That is for a revolving credit of 100 million dollars, also for two years, to His Majesty's Government direct.
    [Extract from the speach of the Financial Secretary to the Treasury, the Rt. Hon. Walter Guinness, D.S.O., T.D., M.P., in the debate on the Gold Standard Bill (House of Commons Hansard, Vol. 183, pp.622-623.)]
    簡単な交渉を経た翌日にチャーチルは、JPモルガンから年利1.25%という破格の条件が提出されたことを報告した。
    House of Commons Hansard, Vol. 183, p.815.
  42. ^ Richard Sidney Sayers, The Bank of England 1891-1944, Cambridge University Press, 1976, Appendix 22.
  43. ^ NHK取材班 『金融小国ニッポンの悲劇』 角川文庫 1995年 p.203. 表
  44. ^ McKittrick Collection, aide memoire, or-tchéque, vom 24.3.39.
  45. ^ ガーディアン How Bank of England 'helped Nazis sell gold stolen from Czechs' Wednesday 31 July 2013
  46. ^ John Fforde, The Bank of England and Public Policy, 1941-1958, Cambridge 1992 pp.276-304.
  47. ^ フォレスト・キャピー イギリス金融史研究会訳 『イングランド銀行 1950年代から1979年まで』 日本経済評論社 2015年 pp.185-186. 原題 THE BANK OF ENGLAND Cambridge University Press 2010
  48. ^ フォレスト p.218.
  49. ^ Parsons to Cromer, 'Brief for talk with Dr. Holtrop Gold', 30 October 1961 G1/280
  50. ^ フォレスト 第11章
  51. ^ イングランド銀行 Memorandum of Agreement between Burmah Oil Company and the Bank of England, written in January, 1975
  52. ^ Leszek Niewdana, Money and Justice: A Critique of Modern Money and Banking Systems from the Perspective of Aristotelian and Scholastic Thoughts, Routledge, 2015, p.124.
  53. ^ New York Times, Burmah Oil Sues Bank of England, Jun 3, 1981
  54. ^ New York Times, A SHAKEN BURMAH OIL NOW RISK-SHY, Oct 15, 1981
  55. ^ 広瀬隆 『世界金融戦争 謀略うずまくウォール街』 NHK出版 2002年11月 p.198.
  56. ^ 八尾晃 『国際取引と電子決済 改訂版』 東京経済情報出版 1999年 pp.167-168.
  57. ^ New York Times, Sex and Bank of England: Downfall for No.2 Official, March 22, 1995
  58. ^ Independent, Bank chief quits over `foolish' affair, March 22, 1995
  59. ^ AP News, No. 2 Bank of England Official Quits Over Love Affair, March 21, 1995
  60. ^ Alistair Milne and Justine Wood, UK Banking 1997-2009: a Very Old Fashioned Crisis, Sept, 2013
  61. ^ 経済産業省 Fintech研究会資料 2015年11月30日 p.6.
  62. ^ 日本デジタルマネー協会 BITCOIN2.0概況 2015.05.08 pp.15-16.
  63. ^ WSJ 英政府、RBS株の売却開始へ=オズボーン財務相 2015年6月11日
  64. ^ 浜 2008/11/18 pp.66-67.
  65. ^ クラパム 『イングランド銀行 1』 ダイヤモンド社 1970年 pp.318-319. 原書 A BANK OF ENGLAND A History Volume.1. 1694-1797
  66. ^ 仙田左千夫 1992, p. 38.
  67. ^ クラパム 『イングランド銀行 1』 pp.324-325.
  68. ^ 浜 2008/12/23 pp.44-45.
  69. ^ 宮田美智也「イギリスにおける銀行間取引組織の成立過程 : イギリスにおける銀行制度の成立 (2・完)」『金沢大学経済学部論集』第18巻第2号、金沢大学経済学部、1998年3月、71-99頁、CRID 1050282810903790848hdl:2297/24383ISSN 0285-4368 
  70. ^ Richard Sidney Sayers, The Bank of England 1891-1944, Cambridge University Press, 1976, Appendix 33.
  71. ^ a b 酒井一夫・西村閑也 『比較金融史研究』 ミネルヴァ書房 1992年 序章表1と2
  72. ^ R. S. Sayers, 1976, pp.253-259.
  73. ^ R. S. Sayers, 1976, pp.530-532.
  74. ^ エルネスト・バックス ドゥニ・ロベール 『マネーロンダリングの代理人 暴かれた巨大決済会社の暗部』 徳間書店 2002年 p.204.
  75. ^ a b 米山徹幸「英金融サービス機構(FSA) : 成立までの状況」『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』第13巻、埼玉学園大学、2013年12月、101-110頁、CRID 1050282812975022720ISSN 21884803NAID 120005772428 
  76. ^ A chronological list (1694 - present)”. Bank of England. 2014年7月17日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]