ウォルター・オルストン

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ウォルター・オルストン
Walter Alston
1954年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州ヴェニス
生年月日 1911年12月1日
没年月日 (1984-10-01) 1984年10月1日(72歳没)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手監督
初出場 1936年9月27日
最終出場 1936年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
殿堂表彰者
選出年 1983年
選出方法 ベテランズ委員会選出

ウォルター・エモンズ・オルストン(Walter Emmons Alston、 1911年12月1日 - 1984年10月1日)はアメリカオハイオ州ベニス出身の野球選手(一塁手、右投右打)、監督。ニックネームは「Smokey」。選手としては僅か一試合の出場にとどまったが、1954年から1976年の23シーズンにわたってドジャースの監督を務め、7回ワールドシリーズに出場し、うち4回優勝している。1983年アメリカ野球殿堂入り。

人物・来歴[編集]

ロナルド・レーガン大統領と会談するオルストン(1982年)

一塁手としてセントルイス・カージナルスに入団したが、メジャー出場は1936年9月27日の1試合だけ。後に殿堂入りする強打者ジョニー・マイズに代わって出場し、1度だけ打席に立つも三振に終わる。二度の守備機会で1つのエラーを記録したのが、メジャーでプレイヤーとして残した成績のすべてであった。その後数年マイナーリーグで選手としてプレイした後、マイナーの監督に就任する。また、選手及びマイナー監督時代、オフシーズンには学校で教壇に立つなどして指導力を磨いた。

42歳で1954年ブルックリン・ドジャースの監督に就任。当時のドジャースはジャッキー・ロビンソンをはじめ、デューク・スナイダーロイ・キャンパネラピー・ウィー・リースギル・ホッジスドン・ニューカムらのスター選手が名を連ねていたが、就任初年度の1954年はいきなり92勝62敗[1]で2位。そして1955年にはリーグ優勝し、ワールドシリーズでは、それまで何度も苦杯を飲まされたニューヨーク・ヤンキースを破り球団史上初、ブルックリンで唯一のワールドチャンピオンに輝く。 翌1956年にもリーグ優勝するが、ワールドシリーズではヤンキースと対戦する。2勝2敗で迎えた第5戦でドン・ラーセンによるワールドシリーズ史上初(現時点で唯一)の完全試合を喫し、第6戦は延長戦をサヨナラ勝ちで制して3勝3敗のタイに持ち込んだものの、最終戦で敗れて連覇はならなかった。

1958年にはチームがカリフォルニア州ロサンゼルスに移転。ブルックリン時代の本拠地エベッツ・フィールドから広いドジャー・スタジアム[2]に本拠地が変わると、サンディー・コーファックスドン・ドライスデールらの投手を中心として、モーリー・ウィルスウィリー・デービスといった快速選手を中心とした機動力チームに改める。そして、1959年1963年1965年にワールドチャンピオン、1966年1974年にはリーグ優勝を果たした。最優秀監督賞も3度受賞し、オールスターでも最多の7勝をあげた。1976年シーズン終盤に、指揮をトミー・ラソーダに譲り、勇退。レギュラーシーズンで通算2,040勝、ポストシーズンで23勝をあげた。

オルストンのドジャース在籍時の背番号「24」。
ロサンゼルス・ドジャースの永久欠番1977年指定。

勇退した翌1977年に、オルストンの功績を称えられ、ドジャース在籍時の背番号24」は永久欠番に指定された。 引退後、1983年にはアメリカ野球殿堂入りを果たすが、オルストンは殿堂入りの直前に心臓病に見舞われ、闘病生活を送っていたため、オルストンの孫が代理で殿堂入りセレモニーに出席している。心臓病の治療の甲斐なく、翌1984年10月1日に72歳で死去した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1936 STL 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 -- 0 1 0 .000 .000 .000 .000
MLB:1年 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 -- 0 1 0 .000 .000 .000 .000
  • 「-」は記録なし

受賞歴・記録[編集]

年度別成績(監督)[編集]

年度 チーム リーグ・地区 年齢 試合 勝利 敗戦 勝率 順位/チーム数 備考
1954年 BRO NL 42 154 92 62 .597 2 / 8  
1955年 BRO NL 43 154 98 55 .641 1 / 8 WS
1956年 BRO NL 44 154 93 61 .604 1 / 8 NL
1957年 BRO NL 45 154 84 70 .545 3 / 8  
1958年 LAD NL 46 154 71 83 .461 7 / 8  
1959年 LAD NL 47 156 88 68 .564 1 / 8 WS
1960年 LAD NL 48 154 82 72 .532 4 / 8  
1961年 LAD NL 49 154 89 65 .578 2 / 8  
1962年 LAD NL 50 165 102 63 .618 2 / 10 (2球団拡張
1963年 LAD NL 51 162 99 63 .611 1 / 10 WS
1964年 LAD NL 52 164 80 82 .494 7 / 10  
1965年 LAD NL 53 162 97 65 .599 1 / 10 WS
1966年 LAD NL 54 162 95 67 .586 1 / 10 NL
1967年 LAD NL 55 162 73 89 .451 8 / 10  
1968年 LAD NL 56 162 76 86 .469 8 / 10  
1969年 LAD NL WEST 57 162 85 77 .525 4 / 6 (東西2地区制に移行)
1970年 LAD NL WEST 58 161 87 74 .540 2 / 6  
1971年 LAD NL WEST 59 162 89 73 .549 2 / 6  
1972年 LAD NL WEST 60 155 85 70 .548 3 / 6  
1973年 LAD NL WEST 61 162 95 66 .590 2 / 6  
1974年 LAD NL WEST 62 162 102 60 .630 1 / 6 NL
1975年 LAD NL WEST 63 162 88 74 .543 2 / 6  
1976年 LAD NL WEST 64 158 90 68 .570 2 / 6  
通算 24年 3,658 2,040 1,613 .558    

エピソード[編集]

  • 監督就任時、選手としての実績がなく無名で、記者に現役時代の成績を尋ねられて、「1936年に1回だけ打席に立って三振した」と答えた。

脚注[編集]

  1. ^ 1961年までは154試合制。
  2. ^ ドジャー・スタジアムの開場は1962年で、1958年~1961年ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを本拠地として使用。

出典・外部リンク[編集]