ウー・ヌ
ウィキペディアから無料の百科事典
ウー・ヌ ဦးနု | |
---|---|
ウー・ヌ(1962年3月) | |
生年月日 | 1907年5月25日 |
出生地 | イギリス領インド帝国、ミャウンミャ管区ワケマ |
没年月日 | 1995年2月14日(87歳没) |
死没地 | ミャンマー、ヤンゴン、バハン郡区 |
出身校 | ラングーン大学 |
所属政党 | 反ファシスト人民自由連盟 |
配偶者 | Mya Yi |
初代ビルマ連邦首相 | |
在任期間 | 1948年1月4日 - 1956年6月12日 |
大統領 | サオ・シュエタイッ バー・ウ |
第3代ビルマ連邦首相 | |
在任期間 | 1957年3月1日 - 1958年10月29日 |
大統領 | バー・ウ |
第5代ビルマ連邦首相 | |
在任期間 | 1960年4月4日 - 1962年3月2日 |
大統領 | ウィン・マウン |
ウー・ヌ(ウ・ヌー、ミャンマー語: ဦးနု, ラテン文字転写: U Nu, 1907年5月25日 – 1995年2月14日)は、ビルマ(ミャンマー)の政治家。20世紀のビルマにおける主要なナショナリストのひとりであり、独立後のビルマ連邦の初代首相となり、第3代・第5代首相を歴任した。
なお、「ウー」は男性に対する敬称であり、彼の正しい名前は「ヌ」である。
生涯
[編集]1907年にワケマで生まれ、1929年にラングーン大学卒業。翌年にタキン党に加入、日本軍のビルマ占領後、1943年にバー・モウ政権下で外相・宣伝相に就任。戦後は反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の副総裁。制憲議会議長となる。
1946年のビルマ独立に関するイギリス・ビルマ協定に首席代表として調印。1947年7月19日にアウンサンAFPFL総裁の暗殺事件が発生、後を引き継ぐ形でAFPFL総裁に就任。翌年の1948年1月のビルマ独立に伴い、初代首相に就任。
1947年制定の憲法規定に基づき、1948年1月4日~1956年6月12日、1957年2月28日~1958年10月28日、1960年4月4日~1962年3月2日にかけてビルマの首相職を歴任した。
1962年のネ・ウィンによる軍事クーデターで失脚。クーデターの際に逮捕されたが、1966年に釈放。
その後、インドやイギリスに滞在。1969年には、ロンドンでネ・ウィン政権に対する抗議の記者会見を行なったのち、「議会制民主主義党」と呼ばれる民兵組織をタイ・ビルマ国境付近において結成。元CIA職員でビルマに精通したビル・ヤングの資金援助を受けた他、カレン民族同盟など少数民族の民兵組織と連携を模索した。一時期は兵力が数千人に達し、タイを「聖域(ビルマ軍の攻撃を受けない後方基地)」として、ビルマ国境地帯でのレジスタンスを行なった。しかし結果的に失敗し、議会制民主主義党は崩壊した。1973年にはインドに亡命した。
1980年にはビルマ政府の恩赦を受けて帰国。しばらくは政治活動を控え、米国のイリノイ大学において仏教の講義を行なうなどして半ば隠遁生活であった。しかし、8888蜂起をきっかけとして政治活動を再開。1962年のクーデターを「非合法」とみなし、自らは1988年において「首相」であると主張した。アウンサンスーチーをはじめとする有力な野党指導者に対し、自らが樹立した暫定政府への合流を主張するものの、野党指導者たちが従うことは無かった。その後も、1962年のウー・ヌ同様にクーデターの際に逮捕されたウィン・マウンを「大統領」に据えた暫定政府を樹立するものの、民主化運動の主流になる事はできず、1989年12月には反逆罪で国家法秩序回復評議会に逮捕され、自宅に軟禁される事となった。
1995年にヤンゴンの自宅で老衰で死去。
外部リンク
[編集]- ダヴィド・ベン=グリオン(イスラエル初代首相)と対談するウー・ヌ(YouTube)[リンク切れ]
公職 | ||
---|---|---|
先代 (創設) バー・スエ ネ・ウィン | ビルマ連邦首相 初代:1948 - 1956 第3代:1957 - 1958 第5代:1960 - 1962 | 次代 バー・スエ ネ・ウィン ネ・ウィン |