エチオピア
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- エチオピア連邦民主共和国
- የኢትዮጵያ ፌዴራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ
(アムハラ語)
Ityoppiah Federalih Demokrasih Ummuno
(アファル語)
Rippabliikii Federaalawaa Dimookraatawaa Itiyoophiyaa(オロモ語)
Jamhuuriyadda Dimuqraadiga Federaalka Itoobiya(ソマリ語)
ናይኢትዮጵያ ፌዴራላዊ ዴሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ
(ティグリニャ語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:ወደፊት ገስግሺ ውድ እናት ኢትዮጵያ
前進せよ、親愛なる母エチオピア -
公用語 アムハラ語
アファル語
オロモ語
ソマリ語
ティグリニャ語[1]首都 アディスアベバ[2] 最大の都市 アディスアベバ - 政府
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大統領 サーレワーク・ゼウデ 首相 アビィ・アハメド - 面積
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総計 1,129,300.4km2(26位)[3] 水面積率 0.7% - 人口
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総計(2022年) 113,656,596人(12位)[4] 人口密度 100.6人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2020年) 3兆3743億4900万[5]ブル - GDP(MER)
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合計(2020年) 966億1100万[5]ドル(62位) 1人あたり 994.197(推計)[5]ドル - GDP(PPP)
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合計(2020年) 2825億6900万[5]ドル(70位) 1人あたり 2907.85(推計)[5]ドル - 建国
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ダモト王国 紀元前980年ごろ アクスム王国 100年ごろ エチオピア帝国 1137年 / 1270年 イタリアの併合 1936年5月9日 -
1941年11月28日エチオピア・エリトリア連邦 1952年9月15日 エチオピア革命 1974年9月12日
通貨 ブル(ETB) 時間帯 UTC(+3) (DST:なし) ISO 3166-1 ET / ETH ccTLD .et 国際電話番号 251
エチオピア連邦民主共和国[6](エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称エチオピア[7]は、東アフリカの[8]アフリカの角地域に位置する[9]連邦共和制の[6]内陸国である[10]。首都はアディスアベバ[6]。陸上の国境を接する国は、北が1993年に分離独立したエリトリア[11]、東がソマリア、北東がジブチ、北西がスーダン、西が南スーダン、南がケニアである[8]。アフリカ分割を乗り切った[12]エチオピア帝国の系譜を継ぐため[7]、アフリカ最古の国と呼ばれることがある[7][8][10]。アディスアベバにはアフリカ連合(AU)の本部があり、エチオピアはアフリカの政治の中心である[9][10]。世界銀行によると、人口は1億2652万7060人と推定されている[13]。エチオピアは急速に発展している国であるが、世界的に見て貧困国である[14]。
国名
[編集]各公用語による正式名称は、
- アムハラ語: የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ラテン文字転写:Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik)。通称、ኢትዮጵያ (Ityop'iya )。
- アファル語: Ityoppiah Federalih Demokrasih Ummuno。通称、Itiyobbiya。
- オロモ語: Rippabliikii Federaalawaa Dimookraatawaa Itiyoophiyaa。通称、Itoophiyaa。
- ソマリ語: Jamhuuriyadda Dimuqraadiga Federaalka Itoobiya。通称、Itoobiya。
- ティグリニャ語: ናይኢትዮጵያ ፌዴራላዊ ዴሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ラテン文字転写:Nay-Ítiyop'iya Fēdēralawī Dēmokirasīyawī Rīpebilīki)。
公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia(イースィオゥピア)。ギリシア語のサハラ以南を指していた、「Aithein ops ia」(アイトスオプシア[15])から[11]。日本語での正式名称はエチオピア連邦民主共和国[6]、通称エチオピア[7]。アビシニアとも呼ばれた[8]。1974年のエチオピア革命まではエチオピア帝国と呼ばれた[16]。革命後の民政移管で1987年、エチオピア人民民主共和国を宣言。1995年に現在のエチオピア連邦民主共和国となった[6]。
歴史
[編集]古代・中世
[編集]エチオピアは人類の誕生の地と言われる[10]。
紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろ、ダモト(Dʿmt)王国が誕生した。エチオピア北部のアクスムと呼ばれる都市の東にあるイェア遺跡からは文明の根拠が見つかった。文化は南アラビアの影響下にあったと言われたり、現地の自発的な発展があったりと言われる[17]。
アクスム王国は1世紀[17]、または紀元前7世紀ごろ[18]に誕生した。エチオピア高原の北部に位置するこの王国は、勢力圏がナイル川からアラビア半島に及んだ。高度な古代文明を保有しており、独自の文字や貨幣を作った。王国は世界に解放されていて、ペルシア、インド、エジプト、そして地中海の国々と交易をおこなった[17]。アクスム王国にはエジプトからキリスト教が伝えられ国教とした[19]。アクスムの王であるエザナは、333年ごろにキリスト教に改宗した。キリスト教は21世紀にいたるまでエチオピアの主要な宗教となっている[20]。アクスム王国、エチオピア帝国の王朝であるソロモン朝の初代、メネリク1世はソロモン王とシバの女王の子であるという伝説をもつ[10]。
王国は環境破壊、気候の乾燥化、イスラム教勢力による交易ルートの消失によって衰退していく。1137年、アガウ族のザグウェ朝にアクスム王国は滅ぼされた。ただ、当時の文化は受け継ぎ、ゲブレ・メスケル・ラリベラ王はラリベラに11の教会を建設した(ラリベラの岩窟教会群)。1270年、イクノ・アムラクはザグウェ朝を滅ぼし皇帝に即位する[21]。
ソロモン朝の復活
[編集]アムラクによって「復活」したとされる新ソロモン朝は脆弱であったが、1314年に即位したアムデ・ション1世はエチオピア高原の様々な場所に遠征し勢力圏を拡大した。帝国は中央集権的な体制ではなく、地方の支配者は忠誠と引き換えに支配権を与えられた。皇帝は「王中の王」であった。皇帝はエチオピア正教会と結びつき、エチオピア国内にアムハラ語とキリスト教が浸透した。エチオピアはアクスム王国と同じく、交易で栄えた[22]。
イスラムの進出・諸公候時代
[編集]ムスリム商人はエチオピアにおける交易ルートを掌握し、エチオピアの人々にイスラム教を広めた。交易ルート沿いにはイファト・スルタン国、そしてアダル・スルタン国が成立、当時はキリスト教王国と共存関係にあった[23]。
しかし、16世紀に入るとアダル・スルタン国のアフマド・グラニィがエチオピアに対して「ジハード」を宣言。アダル・スルタン国の皇帝、レブナ・デンゲルはオスマン帝国の支援の下エチオピアに侵攻、教会や修道院を破壊した。ポルトガルはキリスト教王国のエチオピアを支援し、加勢を受けたエチオピア軍はタナ湖の岬でグラニィを戦死させた[23]。
アダル・スルタン国は撤退したが、エチオピア全土は疲弊した[24]。エチオピアには諸侯が権力争いに明け暮れ、皇帝の権力は減少した。皇帝ファシリダスは求心力を回復させようと、タナ湖の北に首都ゴンダールを建設した[25]。このころ、南方からオロモ人がエチオピア高原に進出し、オロモ人はキリスト教化・イスラム教化が進んだ[24]。
ソロモン朝の中興
[編集]19世紀中頃、諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世である。皇帝に即位する前はカッサ・ハイルと呼ばれ、武力によって諸公侯を制圧した。エチオピアの再興の基盤を作ったとも言われるが、イギリスとの戦いで敗北したため統治期間は13年間と短かった[26]。
その後継者のヨハネス4世はスーダンのマフディーと戦い、ソロモン朝のもとにメネリク2世などの諸公候たちが団結した。3月9日、ヨハンネス4世は戦いの中で負傷し死亡する[27]。メネリク2世はこの時期に勢力を広げる。メネリク2世はヨーロッパ諸国から手に入れた武器によってエチオピア南部を征服、ウッチャリ条約によってイタリアに皇帝として承認される[28]。メネリク2世は19世紀の末にイタリアの侵略を受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、ヨーロッパ諸国はエチオピア帝国の主権を認めざるを得なくなったと同時に[29]、アフリカ人たちに大きな勇気を与えた[30]。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカで独立を守り切った国家となった[31]。
1930年11月2日に皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世は、即位後エチオピア初の成文憲法となったエチオピア1931年憲法を大日本帝国憲法を範として制定した[32]。1930年11月2日の皇帝ハイレ・セラシエの即位は、カリブ海のイギリス植民地、ジャマイカのマーカス・ガーベイの思想的影響を受けていた黒人の間に、ハイレ・セラシエを黒人の現人神たる救世主、「ジャー」であると見なすラスタファリ運動を高揚させ、アメリカ大陸の汎アフリカ主義に勢いを与えた。
イタリア領東アフリカ
[編集]しかし、新帝ハイレ・セラシエ1世の即位とエチオピア帝国憲法の制定も束の間の平穏であった。ファシスト・イタリアの大統領ベニート・ムッソリーニは、1931年の時点で人口が4,200万人に達していたイタリア国内の過剰人口を入植させるための「東アフリカ帝国」の建設を目論み、1934年の「ワルワル事件」を経た後、「アドワの報復」と「文明の使節」を掲げて1935年10月3日にイタリア軍がエチオピア帝国に侵攻、第二次エチオピア戦争が勃発した[33]。イタリア軍は1936年3月のマイチァウの戦いで毒ガスを使用して、近代武装した帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させた後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はジブチを経て英国ロンドンに亡命、1936年5月5日にピエトロ・バドリオ率いるイタリア軍が首都アディスアベバに入城した[34]。
首都アディスアベバ陥落後、1936年から1941年にかけてエチオピアはイタリアの植民地に編入され(イタリア領東アフリカ)、ファシスト・イタリアはイスラーム教徒のオロモ人を優遇し、キリスト教徒のアムハラ人を冷遇する分割統治策を採用した。その間も「黒い獅子たち」と呼ばれるゲリラが抗イタリアのレジスタンス運動を行った[35]。
イギリス軍政とソロモン朝復古独立
[編集]1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発。1940年6月10日、ナチス・ドイツと同盟していたイタリアは枢軸国側で参戦し、イギリスなど連合国と戦いを繰り広げた。エチオピアを占領していたイタリアは、イギリスとの間で東アフリカ戦線を戦ったが、アフリカ大陸におけるイタリアの勢力は退潮気味となった。間隙を縫うようにイギリス軍がエチオピアに侵攻。1941年4月6日には先遣部隊がアジスアベバに到達した[36]。その後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共にアディスアベバに凱旋した[37]。英軍政を経た後、5月5日、ハイレ・セラシエ1世は首都に帰還。再び独立を宣言した。1942年1月にはアングロ・エチオピア協定を承認、イギリスに独立国として承認された[38]。
戦後の1952年にエリトリアと連邦を組んで、エチオピア・エリトリア連邦が成立した。しかし、国内の封建的な諸制度は温存されたままであり、これが社会不安を引き起こすこととなった。1960年には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した[39]。
帝政廃止
[編集]1962年にはエリトリアをエリトリア州として併合した[6]。こうした中、1973年に東部のオガデン地方でソマリ人が起こした反政府闘争、および旱魃による10万人の餓死者という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍が反乱を起こした。最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月に軍のクーデターによって逮捕・廃位させられた。ここに紀元前より続いたエチオピアの君主制は終焉した。
軍はアマン・アンドム中将を議長とするエチオピア暫定軍事政権(PMGS)を設置して1975年12月に社会主義国家建設を宣言、ソ連の半衛星国となった。1976年に入ると年率50%に近いインフレーション、エリトリア解放戦線との戦闘、労働者の賃上要求ストライキが続発するなど国内は疲弊した。同年2月と6月には、旧支配部族層によるクーデターも発生したが軍事政権に鎮圧された[40]。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長に就任するが[41]、彼が執った恐怖政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦)[42]。1987年に新憲法を採択、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた[41]。
エリトリアの独立・EPRDF政権
[編集]1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線(EPLF) は、エチオピアの反政府勢力ティグレ人民解放戦線(TPLF)などと共にメンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心とした反政府勢力連合エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)によるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された[43]。1991年7月、エチオピア平和民主暫定会議において暫定期間憲章が採択され、メレス・ゼナウィを中心とする暫定政府が成立[44]。1995年、人民代表院選挙と地方議会選挙が行われ、暫定政府が発展解消。エチオピア連邦民主共和国が成立する[6]。
オガデンの反乱
[編集]エチオピア・エリトリア国境紛争
[編集]1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国際連合安全保障理事会は国際連合安全保障理事会決議1312号によりPKOである国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定した。
2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。
東アフリカ大旱魃
[編集]ハイレマリアム政権
[編集]2012年8月20日、メレス首相の死去を受け、ハイレマリアム・デサレンが新首相に就任した[45]。
アビィ・アハメド政権
[編集]2018年4月2日、ハイレマリアム首相の辞任を受け、後任の首相にアビィ・アハメドが就任[46]。1991年にエチオピア人民革命民主戦線が政権を握って以降、オロモ人の首相就任は初めてとなる[47]。
就任以降、対立構造のあった隣国エリトリアとの和解交渉を始め、2018年9月5日にはエリトリアの首都アスマラで、エリトリアとソマリアとの3カ国による「包括協力協定」に署名。さらに同年9月16日、サウジアラビアの仲介によりエチオピアとの間で「ジッダ平和協定」に署名した[48]。2019年10月11日、エリトリアとの和平を成し遂げたことが評価され、アビィ首相にノーベル平和賞が授与された。同年12月、アビィは新党繁栄党の結成を発表し、エチオピア人民革命民主戦線(ティグレ人民解放戦線を除く)と地方の有力政党が参加した[49]。繁栄党の結成はエチオピア政府が掲げる連邦民族主義と見做されており、ティグレ人民解放戦線をはじめとした地域主義・民族主義勢力は反発し緊張が高まった[50]。
ティグレ紛争
[編集]2020年8月に北部ティグレ州において総選挙が延期したことを契機に州与党ティグレ人民解放戦線(TPLF)との軋轢が増し、2020年11月にはTPLFが政府軍の基地を攻撃したとして開戦を宣言し、政府軍による空爆を含めた攻撃を開始した[51]。戦闘によって市民にも多数の被害が出ており、11月9日に州西部の町マイカドルで600人近い市民が虐殺された[52][53]。戦火の拡大に伴い多数の難民が発生し、隣国スーダンへは11月14日から2日間で約2.5万人が流入[54]。またTPLFは政府への協力を理由に、隣接しているアムハラ州と隣国エリトリアの首都アスマラの空港にロケット弾攻撃を実施し[55]、近隣地域にも影響・被害が広がっている。ティグレ州以外でも各地でオモロ解放戦線など民族系反政府勢力が国軍と戦闘を続けており、内戦の様相を呈している[56]。
2021年に体制を整えなおしたTPLFは反攻に転じて北部各州を占拠。南下しながら首都への攻撃も示唆したため、エチオピア政府は同年11月2日に国家非常事態宣言を発出した[57]。12月下旬からはTPLFは北部ティグレ州に撤退し、2022年2月15日、エチオピア人民代表議会は国家非常事態宣言の解除を可決した[58]。
政治
[編集]政治体制
[編集]政治体制は、連邦共和制。現行憲法はエチオピア1995年憲法である。
国家元首たる大統領の権限は、形式的儀礼的なものに限られる。任期は6年で、下院により選出される。現大統領サヘレウォルクは2018年10月に就任した。
行政
[編集]行政府の長である首相は、下院議員の総選挙後に開かれる議会において、下院議員の中から選出される。内閣の閣僚は、首相が選任し、下院が承認する。任期は5年だが、議院内閣制のため、任期途中で失職する場合もある。
立法
[編集]議会は、二院制。上院(連邦院)は108議席で、議員は各州議会によって選出される。下院(人民代表院)は 548 議席で、議員は小選挙区制選挙で選出される。議員の任期は、上下院とも5年。
政党
[編集]2021年エチオピア総選挙の暫定結果によると、下院に議席を持つ政党は繁栄党(与党)、アムハラ国民運動、社会正義のためのエチオピア市民、ゲデオ人民民主党の4党となっている。ただしティグレ州など紛争地域は選挙が実施されず、総議席の約2割は空席となっている[59]。
1991年以降、オロモ人民民主機構 (OPDO)、アムハラ民族民主運動 (ANDM)、南エチオピア人民民主運動 (SEPDM)、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) の4党による政党連合エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF)が一貫して与党であった。その他の主要政党はエチオピア民主連盟、全エチオピア統一党、統一エチオピア民主党・メディン党、虹のエチオピア・民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合 (UDF) など。反政府勢力として、オロモ解放戦線 (OLF) など4組織で構成された統一オロモ解放戦線 (UOLF) やオガデン民族解放戦線 (ONLF) がある。
かつて共産主義政権時代の支配政党であったエチオピア労働者党は勢力を失い、自然消滅している。
国際関係
[編集]エリトリアとの関係
[編集]かつてエチオピアの領土(エリトリア州)であった北の隣国エリトリアとの関係では、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) がティグレ人民解放戦線 (TPLF) とともに反メンギスツ闘争を戦い抜いたこともあり、1991年のエリトリア独立当初の関係は良好であったが、バドメ地区の領土問題や港湾の利用権、エリトリアの独自通貨導入などにより関係が悪化し、1998年に武力衝突に発展した(エチオピア・エリトリア国境紛争)。2000年に国際連合エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE) が派遣され調停に当たったものの2008年に撤退した。2018年7月9日、エリトリアの首都アスマラにおいて、エチオピアのアビィ・アハメド首相とエリトリアのイサイアス・アフェウェルキ大統領が20年ぶりの首脳会談を行い、長年にわたる戦争状態を終結することで合意。戦争状態の終焉や経済・外交関係の再開、国境に係る決定の履行を内容とする共同宣言に署名した[60][61]。
2020年にエチオピアのティグレ州で起きたティグレ紛争では、TPLFは隣国のエリトリアがエチオピア政府軍を支援しているとしてエリトリアの首都アスマラの空港を攻撃しており[62][63]、人権団体などはティグレ州でのエリトリア軍の虐殺行為を非難して国連やG7もティグレ州からのエリトリア軍の撤退を要求するもエリトリア・エチオピア両国はティグレ州にエリトリア軍が展開している事実を否定していたが[64][65]、2021年3月23日にアビィ・アハメド首相はこれを認めて翌4月にエチオピア政府はエリトリア軍の撤収を発表した[66][67]。
ソマリアとの関係
[編集]東の隣国ソマリアとの関係では、ソマリアがかつて大ソマリ主義を掲げていた関係で問題を抱えている。国内にソマリ人居住地域のオガデンを抱えるエチオピアは、その帰属をめぐって1977年にソマリアとオガデン戦争を起こした[68]。メンギスツ政権は、キューバ軍の直接介入とソ連軍の軍事援助を得たこともあって、1988年に勝利したものの、以後も両国の関係は良好とは言い難かった。
1991年にソマリアのモハメド・シアド・バーレ政権が崩壊しソマリアが無政府状態となった後、2006年にイスラム原理主義組織のイスラム法廷会議がソマリア首都モガディシュを制圧し国土統一の動きを見せると、隣国に於けるイスラーム主義過激派の伸張を嫌うエチオピアはソマリア国内への干渉を強化。同年12月24日、エチオピアはソマリア暫定連邦政府を支援してソマリア侵攻を開始した。
軍事力に勝るエチオピア軍は28日にはモガディシュを制圧し、イスラム法廷会議軍をほぼ駆逐したものの、オガデン戦争の余波でソマリアの反エチオピア感情は根強く、ソマリア各地で反エチオピア暴動が勃発。2008年8月19日、エチオピア軍は2009年初頭のソマリアからの撤退に同意した。
日本国との関係
[編集]中華人民共和国との関係
[編集]1970年に当時のエチオピア帝国と中華人民共和国は国交を樹立し、1971年に訪中した皇帝ハイレ・セラシエ1世は林彪事件後の毛沢東と初めて会談した外国指導者だった[69][70]。エチオピア帝国はエリトリア解放戦線への援助を取り下げた中国から巨額の融資を受けた。1974年の軍事クーデターで皇帝を打倒したメンギスツは中ソ対立を起こしていたソ連に接近して隣国ソマリアのバーレ政権への中国の支援を批判したが、国交は続けて一定の経済協力は維持した[71]。メンギスツを打倒した1991年のメレス・ゼナウィ政権からは本格的に関係回復し[72]、アフリカ連合(AU)本部は中国の費用全額負担で寄贈され、エチオピア初の環状道路と高速道路[73]などエチオピアの道路の7割を中国は建設したとされ[71]、さらに初の風力・水力発電所[74]や初の工業団地[75]、初の人工衛星の打ち上げ[76]、アディスアベバ・ライトレール、グランド・エチオピア・ルネサンス・ダム[77]、アディスアベバ・ナショナル・スタジアム、ジブチ・エチオピア鉄道とボレ国際空港の近代化、伝音科技の携帯電話工場[78]、全土の通信網の整備[79]など中国からの様々な援助を受け入れ[80]、このことからエチオピアは「アフリカの中国」[81]と呼ばれることもある。また、エチオピアの大統領を務めたムラトゥ・テショメは中国に留学した経歴を持っていた[82]。
エチオピアは、中国側からインフラ投資を通じて一帯一路のモデル国家として称賛を受けている国であるが、2018年時点の国の債務額は国内総生産(GDP)の59%にも及んでおり、その大半は中国からの融資とみられている。政府は、より多くの中国企業の国内進出と対中国の債務の軽減を模索している[83]。
国家安全保障
[編集]予算
[編集]375百万米ドル(2012年)
陸軍
[編集]エチオピア陸軍は、1990年代には25万人となっていたが、軍事費圧縮と軍隊の近代化のため削減され、現在は約10万人である。
空軍
[編集]エチオピア空軍は、兵員約2,500人で旧ソ連製の軍用機が中心であり、アフリカ諸国の中では充実した装備である。2002年の国防予算は4億8,100万米ドルと総予算の中で非常に高率を占め、国家予算を著しく圧迫している。
海軍
[編集]エチオピア海軍は、1990年代にエリトリアと連邦を解消するまでは僅かながら存在していたが、連邦の解消後は内陸国となり廃止された。この際に残存艦艇は売却されている。
地理
[編集]エチオピアは世界で27番目に面積が大きい国である。国土の大部分がエチオピア高原を中心とする標高2000m~4000mの高地で、年平均気温は13℃と冷涼である。北部をエリトリアとジブチ(とソマリランド)により海で隔てられた内陸国だが、それぞれ紅海とアデン湾からはわずか70キロメートルしか離れていない。国土の中央にある首都アディスアベバの標高は2,400メートル。北部は水系が多い。ソマリアとの国境を接する東部のオガデン地方はエチオピア高原からソマリアの砂漠へ下る地形である。北部のアファール州はアファール三角地帯と呼ばれる地質学的に重要な低地となっており、東アフリカ沿岸部のタンザニア・ケニアから伸びるアフリカ大地溝帯がこの地域でアデン湾と紅海に分かれる。2005年にも火山が噴火して深さ60メートルの亀裂を作っており、生きている地球の活動が見られる。国の最高地点は北部のタナ湖北東に位置するラス・ダシャン山 (海抜4,550メートル)である。
エチオピア高原は本来の地形は平らだが、標高が高く降雨が多いため浸食が激しく、非常に深い谷や崖が多い。この地形は外国勢力からの防衛には適しており、エチオピアが植民地化されなかった理由にもなったが、一方で交通インフラを整備するには不適切な地形であり、経済発展上の一つのネックとなっている。
気候
[編集]北回帰線以南の熱帯に位置する。気候は標高によって違い、標高1500メートルまでは平均気温27℃から50℃と極めて暑いが、標高1500メートルから2400メートルは移行区間となり、平均気温は16℃から30℃ほどである。標高2,400メートル以上は冷涼な気候となり、平均気温は16℃である[84]。
エチオピア高原は降水量が多く、年間降雨量は1,200ミリメートルを超す。この豊富な降雨量がエチオピア高原に豊かな植生をもたらし、また農耕も行なわれ、アフリカ第2位の人口を支えている。エチオピア高原の豊富な雨量は、高原北部のタナ湖を水源とし西部へ流れるアバイ川(青ナイル川)、高原中央部から南へ流れトゥルカナ湖へと流れ込むオモ川、同じく高原中央部から東部へと流れ下り、ジブチ国境近くのダナキル砂漠へと流れこむアワッシュ川、高原南部から南東部へと流れ、やがてソマリアへと流れ込むジュバ川とシェベリ川など、多くの河川となって四方へと流れ下り、周囲の乾燥地域を潤している。
通常、雨季は6月半ばから9月半ばまでである。アフリカ大地溝帯によって隔てられた東部高原は乾燥しており、その東に広がりソマリアへ続くオガデン地方はさらに暑く乾燥している。
地方行政区分
[編集]民族連邦制
[編集]多民族国家のエチオピアは、民族ごとに構成される12つの州と2つの自治区からなる民族連邦制をとっている。
エチオピアの民族連邦制は、1991年にエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が軍事独裁政権を倒し、権力を掌握した後に導入された。この制度は、1995年に発布された新憲法に基づいており、民族自決を保障し、地方分権化を推進するという目標が掲げられた。新憲法では、各民族には一定の要件を満たすことでエチオピアからの分離独立が認められ、州は各民族の居住地域、言語、アイデンティティ、住民の同意に基づいて設置されることが規定されている[85]。中央の権力が州に移譲され、中央省庁は政策の立案だけをする機関となったと言われる[86]。
しかし、80以上の民族で構成されるエチオピアで、この制度を厳格に運用することは難しく、さまざまな矛盾が生じている。例えば、6民族にしか民族名を冠した連邦州の設立が認められていないことが挙げられる。また、多くの州憲法が特定民族の優位性を認めており、州内の他の民族は二等市民の扱いを受けることが多い。さらに、複数民族が混住する地域での州境設定が土地をめぐる民族間対立を激化させる要因となっている。州は特別警察や民兵を保有し、それが紛争を加速させている[85]。
2010年代後半からは、民族間の対立が大きな問題となっている。特に、2018年にアビィ・アハメドが首相に就任してからは、改革によりさらに衝突が激化した。ティグレ紛争をはじめとする民族間の武力衝突が頻発しており、エチオピア全土での安定化には至っていない(エチオピア内戦)[85]。
以下に州と自治区を示す[87]。2020年6月と2021年11月と2023年8月に新たな州が追加された。
- アディスアベバ(自治区)
- アファール州
- アムハラ州
- ベニシャングル・グムズ州
- 中部エチオピア州(2023年8月創設)
- ディレ・ダワ(自治区)
- ガンベラ州
- ハラリ州
- オロミア州
- シダマ州(2020年6月創設)
- ソマリ州
- 南エチオピア州(2023年8月創設)
- 南西エチオピア諸民族州(2021年11月創設)
- ティグレ州
主要都市
[編集]主要な都市はアディスアベバ(首都)、ディレ・ダワがある。大半の都市が高原に位置している。
経済
[編集]現況
[編集]経済の中心は農業である[88]。2000年以降、エチオピアは経済成長しているが、GDPは最貧国である[14][89]。エチオピアは外国からの投資を積極的に受け入れた[90]。エチオピアの産業基盤は多様化し、農業、インフラ、サービス業、繊維産業などの産業が経済をけん引した[91]。
エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)による政権掌握後、土地制度の改革が進められてきた。1995年の新憲法では政府はすべての土地を所有することとなったが、農産物流通などが自由化された。EPRDFは、採算性の悪い公営企業は売却する方針を固めている[92]。アビィ・アハメド政権下ではその動きが加速している[90]。アディスアベバ近郊のボレレミ、南部のハワサなどに工業団地がある。エチオピア政府は「2025年までの工業化と中進国化」を目標としている[93]。
農業
[編集]オオムギ、テフ、トウモロコシ、コムギ、マメ類、ソルガム、根茎類、 コーヒー、ミレット、野菜が主に生産されている[94]。特に、エチオピアの高原地帯でのコーヒーの生産がさかんで[95]、コーヒーの生産は世界5位[11]。栽培は小規模な農家が多い[95]。エチオピアは花弁の生産もさかん[88]。2015年現在、農業人口は全体の半数以上を占める[91]。
食料は時々不足し、外国の援助に頼っている。社会主義時代は軍備が優先され、エチオピアは飢餓がよく起きた[89]。しかし、エチオピア農業省によると小麦やトウモロコシの生産量が増えてきており、主な食料の自給は達成したとされる。エチオピアの食料の輸入関税は低水準なため、国内の大手企業は外国産の農産物を使う場合がある[94]。
資源
[編集]エチオピアにおいて資源は希少である[96]。採掘される鉱石の中で金と白金のみが大きな経済的な価値を持つ[97]。資源は鉱業・石油・天然ガス省が管轄である[98]。ケンティチャ鉱山は現在操業中であるが、金とタンタルの採掘のみ採掘が許可されている[98]。イタリアによる植民地時代を含む20世紀から21世紀までの調査では、銅、鉛、マグネシウム、鉄などの鉱物資源が発見された[97]。粘土と石灰石の鉱床、岩塩の層が広範囲で確認される[97]。2022年、ソマリ州では天然ガスが発見され[99]、鉱業・石油・天然ガス省が商業的な価値を認定した[100]。しかし、鉱業の国内総生産における割合は少ない[101]。エチオピア商品取引所において、鉱物資源取引は採掘地域の不安定さから見送られている[102]。また、地下資源としては地熱が豊富である[103]。
情報通信
[編集]通信は国営のエチオテレコム1社が独占しているが、2006年からZTEやファーウェイといった中国企業がエチオピア全土の通信網整備を担ってきた[104]。
通貨
[編集]交通
[編集]道路
[編集]高低差が激しく崖の多い地形や、国内の政情不安が続き交通インフラストラクチュアを整備する資金がなかったため、国内の道路網はあまり発達していない。
鉄道
[編集]首都アディスアベバから隣国ジブチの首都ジブチ市まで、全長781キロメートルのジブチ・エチオピア鉄道が通っている。1917年の全通以後、ジブチ・エチオピア鉄道はエチオピア経済を支える柱となってきた。並行する国道の改修や、鉄道自体の管理不足などから利用者が減少。2011年にはディレ・ダワからアディスアベバまでが運休となった[105]時期があった。2018年1月、中国資本で新たに電化されたジブチと結ぶアディスアベバ・ジブチ鉄道が開通した。
航空
[編集]国営のフラッグキャリアであるエチオピア航空が、アディスアベバのボレ国際空港を拠点にエチオピア国内やアフリカ各地、欧州、中東、北米、南米、東南アジアや東アジアに路線を展開しており、2015年4月には日本の成田国際空港にも就航している。
国民
[編集]民族
[編集]国民の大多数はネグロイドとコーカソイドの混血と推定されているエチオピア人種が大多数を占め、80以上の異なった民族が存在する多民族国家である。最大の勢力はオロモ人で34.4%を占め、次にアムハラ人が27.0%となっている。その他、ティグレ人、ソマリ人、シダモ人、グラゲ族、オメト族、アファル人、ハディヤ人、ガモ人、コファ族、コンソ人が主な民族である[106]。また、「ベタ・イスラエル」と呼ばれるユダヤ人が存在するが、その大多数はイスラエルの「帰還法」に基づき、1980年代から1990年代にかけてイスラエルへと移住した。
かつてエチオピア帝国を建国したのはアムハラ人であり、以後もアムハラ人がエチオピアの政府の中枢を握ってきたが、1991年のメンギスツ・ハイレ・マリアム軍事政権の崩壊によって政権はメンギスツ政権を打倒したエチオピア人民革命民主戦線の中核をなすティグレ人の手に渡った。とはいえ公用語はアムハラ語であり、アムハラ文化は他民族にも現在でも影響を与えている。
また、新政権は民族ごとに州を新設し、各民族語による教育を認めたため、最大民族であるオロモ人の勢いが強くなっている。
言語
[編集]エチオピアの言語はアフロ・アジア語族(セム語派、オモ語派、クシ語派)が主であるが、ナイル・サハラ語族も話されている。憲法では全ての言語が平等という観点から公用語を定めていないが、連邦政府の作業言語はアムハラ語と定められている[107]。2020年3月にはアファル語、オロモ語、ソマリ語、ティグリニャ語の4言語が作業言語に追加され、事実上の公用語は5つとなっている[1]。また州は独自の公用語を定める権限を持っており、アムハラ語、オロモ語、ソマリ語、ティグリニャ語、アファル語が各州の公用語となっている他にシダモ語、ウォライタ語、グラゲ諸語、ハディヤ語、ガモ・ゴファ・ダウロ語などが使われている。独自文章語としてゲエズ語も存在する。
エチオピアではエチオピアから独立したエリトリア、隣国のソマリアと共にブラックアフリカでは唯一、非欧米系の自国語が共通語、政府の作業言語として機能している国である。アムハラ語は全土で通用する。これは、植民地支配(イタリアに支配された5年間を除く)を受けていないこととアムハラ語による統制が長年にわたって進められたためである。ただ、翻訳作業の手間がかかるなど、アムハラ語による高度な教育整備が進んでいないことから、高等教育では外国で作成された英語のテキストの使用が必須となっており、その関係で中等教育(9年生~)以上では英語が教育言語となっている。しかし、9年生以上(中学3年・高校や大学)へ進学できるのはエリート層や都市部の一部住民に限定されるため、農村部や地方では英語はほとんど通じず、他のブラックアフリカ諸国に見られるような欧米系の言語支配を受けていないことが分かる。
宗教
[編集]2007年の国勢調査では、キリスト教徒が62.8%と最も多く、続いてムスリムが33.9%、アニミズム信者が2.6%である。キリスト教では大多数がエチオピア正教会の信徒だが、資料によっては、ムスリムの方が、エチオピア正教会の信徒よりも多いとするものもある。また、ユダヤ教を信仰する人々(ベタ・イスラエル)もいるが、多くがイスラエルに移住した。
帝政時代はエチオピア正教を国教としていたが、連邦憲法11条は政教分離を定め、国教を禁じている。なお、帝政時代にも、皇族でありながらイスラムを信仰したイヤス5世のような例もあり、必ずしも国民全てがキリスト教徒というわけではなかった。
婚姻
[編集]婚姻してもほとんどの女性は改姓しない(夫婦別姓)[108]。
教育
[編集]各言語を尊重するために、1年次~8年次にあたる初等部では一部を除くと、他のサブサハラアフリカ諸国に見られるような欧州の言語ではなく各民族語で教育が行われる。9年次~12年次の中等部・高等部や大学などでは英語が教授言語となっている。多くの国民は、初等部のみで教育を終え、中等部以降の教育を受ける国民は非常に少なくなっている。アムハラ語という全土で通用する共通語があるにも関わらず、高等教育での教授言語の英語使用は教師、生徒共に低い英語レベルや英語が苦手な非エリート層の進学率を阻害するなどの弊害を生んでいる。著名な大学にはアディスアベバ大学がある。
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保健
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医療
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治安
[編集]日本の外務省によると、エチオピアのアディスアベバでは、スリ、強盗、ひったくり、置引き、車上狙いなどが発生しており、外国人や富裕層、そして一般市民も被害に遭っている。また、エチオピア全土でアルカーイダなどの武装勢力によるテロが発生している[109]。
メディア
[編集]2010年以来、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)政権は独立系メディアを弾圧してきた。ジャーナリストや記者は脅迫を受けたり、逮捕された。エチオピア政府はテレビ・ラジオ局のほとんどを掌握しており、政府の立場に沿った報道を繰り返していた。また、政府から独立した民間メディアも政府の意に沿った報道をしなければいけなかった。独立系メディアは自己検閲に走った。2010年から2014年までに、少なくとも60人のジャーナリストが亡命した[110]。
2018年に首相に就任したアビィ・アハメドは、前政権との決別を宣言し新たな政策を実行した。その一つが、改革を推し進めジャーナリストなど多くの政治犯を解放したことである。しかし、2021年現在、ジャーナリストなどの投獄が相次いでおり、政治犯の解放は成果を上げていないと言われる[110]。
文化
[編集]エチオピアは、グレゴリオ暦とは異なる独自のエチオピア暦を使用している。エチオピアの1月1日は、グレゴリオ暦の9月11日に当たる。下の祝祭日表の年月日はグレゴリオ暦である。またグレゴリオ暦からは約7年遅れであるが(エチオピアの2000年1月1日は、グレゴリオ暦の2007年9月11日)、その理由はイエス・キリストの誕生年についての見解が違うためであると言われている[111]。エチオピア暦はナイル川の水の増減が元で[19]、1年が13か月ある[10]。30日の月が12回、5日の月(パゴウメン)が1回で構成される[10]。
食文化
[編集]エチオピアの主流の文化であるアムハラ文化において、主食はテフなどの穀粉を水で溶いて発酵させ大きなクレープ状に焼いたインジェラである。代表的な料理としてはワット(カレーのような辛いもの[88])、クックル(エチオピア風スープ)、トゥプス(焼肉・炒め肉・干し肉)[注釈 1]などがある。辛い料理が多い。エチオピア正教の戒律によりツォムと呼ばれる断食の習慣があり、水曜日と金曜日を断食の日とし、午前中は全ての食事を、午後は動物性タンパク質を取らない。四旬節(2月~4月)のツォムは2ヶ月の長期に亘り、復活祭により断食明けとなる。同様に戒律を理由として、ユダヤ教やイスラーム教のように、豚肉を食べることは固く禁じられている。これらの文化は基本的にアムハラ人の文化であるが、アムハラ人がエチオピアの実権を握ってきた期間が長かったため、国内の他民族にも普及している[112]。
これに対し、南部においては、エンセーテといわれるバナナの一種からとれるデンプンを主食とする文化がある。エンセーテは実ではなく、葉柄基部と根茎に蓄えられたデンプンを主に食用とするもので、取り出した後に数週間発酵させたのちパンや粥にして食べる[112]。地域によってはそのまま蒸し焼きにすることもある[88]。エンセーテの葉の繊維は包装にも使う[88]。
エチオピアはコーヒーの原産地と言われており[111][113]、コーヒーは広く常飲されている。また、複数の人でコーヒーを楽しむ「ブンナ(コーヒー)・セレモニー」という習慣がある[114]。エチオピアで生産されるコーヒーの消費の半分がエチオピア[95]。14世紀からエチオピアのコーヒー豆は、イエメンのモカから輸出されたため「モカ・コーヒー」として一部がブランド化した[88]。
アルコール飲料としては、タッジ、テラ、アラキがある[115]。タッジは甘い蜂蜜酒で[88]、テラは伝統的な洋ビールである[115]。また嗜好品として、全土でチャットの葉を噛む習慣がある[116]。
- インジェラとワット
- インジェラとトゥプス
- タッジとトゥプス
- ブンナ・セレモニー
文学
[編集]現代の著名な作家としては、『扇動者たち』(1979年)のサーハレ・セラシェの名が挙げられる。
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音楽
[編集]国教のキリスト教に関連した音楽が発達しているが、同時に古くから民間に伝承されてきた民謡とのかかわりも深い。アズマリはアムハラ人によるミュージシャンのことで、冠婚葬祭や宴会の余興、教会の儀式などに用いられている。山羊の皮を張った胴と馬の尾の弦から作られた弦楽器マシンコの伴奏で歌われる。もう一つのラリベロッチは門付の芸人を指す。彼らは朝早く家々の玄関で祝福の内容を歌い、金や食料をもらう。いずれも独自の歴史と習慣をもった音楽家集団で、エチオピアの音楽を支えている。
ポピュラー音楽に於いては、日本の演歌によく似た、こぶしの効いた音楽様式が存在する。メンギスツ政権期にはアステレ・アウェケ、ティラフ・ゲセセ、ビズネシュ・ベケレ、ヒイルート・ベケレ、アレマイヨ・エシャテなどが活動していた[117]。
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映画
[編集]エチオピアの映画産業は成長を見せている面があるものの、映画の普及においては多くの問題に直面している点が目立つ[118]。
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世界遺産
[編集]エチオピア国内には、2024年現在、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が10件、自然遺産が2件存在する[119]。
- シミエン国立公園 - (1978年、自然遺産)
- ラリベラの岩窟教会群 (ザグウェ朝)- (1978年、文化遺産)
- アワッシュ川下流域 - (1980年、文化遺産)
- ティヤ - (1980年、文化遺産)
- アクスム- (1980年、文化遺産)
- オモ川下流域 - (1980年、文化遺産)
- 歴史的城塞都市ハラール・ジュゴル -(2006年、文化遺産)
祝祭日
[編集]日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月7日[注釈 2] | エチオピア正教会のクリスマス | Ledet | [120] |
1月19日[注釈 2] | 神現祭 | Timket | [121] |
2月2日[注釈 2] | イード・アル=アドハー | Eid-ul-Adha | |
3月2日 | アドワの戦い記念日 | [121] | |
移動祭日 | エチオピア正教会の聖金曜日 | ||
移動祭日 | エチオピア正教会の復活大祭 | Fasika | |
5月2日 | Mulud | ||
5月5日 | 愛国の日 | [121] | |
5月28日 | 軍政終結記念日 | [121] | |
9月11日[注釈 2] | エチオピアの元日 | [121] | |
9月27日[注釈 2] | 十字架挙栄祭(マスカル) | [121] | |
11月14日[注釈 2] | ラマダンの終わり | Eid-al-Fitr |
スポーツ
[編集]サッカー
[編集]エチオピアでも他のアフリカ諸国同様にサッカーが最も人気のスポーツであり、1944年にサッカーリーグのエチオピアン・プレミアリーグが創設されている。エチオピアサッカー連盟によって構成されるサッカーエチオピア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには11度出場しており、自国開催となった1962年大会では初優勝に輝いている。
オリンピック
[編集]エチオピア国内で最も人気のあるスポーツはサッカーであるが、エチオピアが最も強いスポーツは陸上競技、特にマラソンなどの長距離走である。2022年現在、オリンピックでは通算金メダル23個・銀メダル12個・銅メダル23個を獲得しているが、これは全て陸上競技によって獲得したものである。
陸上競技
[編集]エチオピアはオリンピックにおける陸上競技でメダルを多く獲得している[19]。高原は「自然のトレーニング場」と呼ばれ[10]、心肺機能を育み、陸上競技で有利に立てる[19]。アベベ・ビキラが有名で[19]、2回金メダルを獲得した[10]。マモ・ウォルデ、ゲザハン・アベラ、ファツマ・ロバはいずれも金メダリスト、エチオピア人[10]。
著名な出身者
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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- ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』(明石書店、1999年10月20日、初版第一刷発行)207-219頁
- ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』(明石書店、1999年10月20日、初版第一刷発行)219-229頁
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参考文献
[編集]- 岡倉登志『エチオピアの歴史』(初版第一刷発行)明石書店、東京、1999年10月20日。ISBN 4-7503-1206-1。
- 岡倉登志編著『エチオピアを知るための50章』(初版第1刷)明石書店、東京〈エリア・スタディーズ68〉、2007年12月25日。ISBN 978-4-7503-2682-5。
- 辻原康夫『早わかり世界の国ぐに』平凡社、2011年11月22日。ISBN 978-4-582-83548-9。
- 北川清; 指田千景『世界の国々5 アフリカ州』帝国書院、2014年4月1日。ISBN 978-4-8071-6023-5。
- 竹内啓一『データブック 世界各国地理 第3版』石破書店、2004年11月15日。ISBN 4-00-500484-9。
- ジェロー・マグラン; アラン・デュブレッソン; オリヴィエ・ニノ 著、鳥取絹子 訳『地図で見るアフリカハンドブック』原書房、2019年。ISBN 978-4-562-05568-5。
- 松村圭一郎『所有と分配の人類学』筑摩書房、2023年。ISBN 978-4-480-51200-0。
- 『アフリカ史』山川出版社、2009年8月25日。ISBN 978-4-634-41400-6。
- 『エチオピア帝国再編と反乱(ワヤネ)』春風社、2021年3月25日。ISBN 978-4-86110-721-4。
関連項目
[編集]- エチオピア関係記事の一覧
- エチオピア饅頭
- ヒレジロマンザイウオ(スズキ目シマガツオ科の魚、関東地方では俗に「エチオピア」と呼ぶ)
- エチオピア (小惑星)(エチオピアにちなんで命名された小惑星)
- シマガツオ#俗称「エチオピア」の由来
外部リンク
[編集]- スリ族:裸族:世界一お洒落な民族と言われるスリ族,又はスルマ族
- オモ川流域のオモ渓谷に住むハマー族,又はハマル族
- ラリベラの岩窟教会群,ゴンダール,シミエン国立公園のゲラダヒヒ猿,青ナイル川など:エチオピアの世界遺産
- 政府
- 日本政府
- 観光
- その他
- エチオピア大改革:アビー新首相は救世主となれるか - Global News View(GNV)
- "Ethiopia". The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency.
- エチオピア - Curlie
- エチオピアのウィキメディア地図
- エチオピアに関連する地理データ - オープンストリートマップ
- 地図 - Google マップ
- 『エチオピア』 - コトバンク