エミリアーノ・ヴィヴィアーノ

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エミリアーノ・ヴィヴィアーノ
ボローニャ時代(2010年)
名前
ラテン文字 Emiliano Viviano
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1985-12-01) 1985年12月1日(38歳)
出身地 フィレンツェ
身長 195cm
体重 90kg
選手情報
在籍チーム トルコの旗 ファティ・カラギュムリュクSK
ポジション GK
背番号 1
利き足 左足
ユース
1999-2002 イタリアの旗 フィオレンティーナ
2002-2004 イタリアの旗 ブレシア
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2004-2009 イタリアの旗 ブレシア 126 (0)
2004-2005 イタリアの旗 チェゼーナ (loan) 13 (0)
2009-2011 イタリアの旗 ボローニャ 72 (0)
2011-2012 イタリアの旗 インテル 0 (0)
2012-2014 イタリアの旗 パレルモ 20 (0)
2012-2013 イタリアの旗 フィオレンティーナ (loan) 32 (0)
2013-2014 イングランドの旗 アーセナル (loan) 0 (0)
2014-2018 イタリアの旗 サンプドリア 110 (0)
2018-2019 ポルトガルの旗 スポルティングCP 0 (0)
2019 イタリアの旗 SPAL (loan) 17 (0)
2020- トルコの旗 ファティ・カラギュムリュク 70 (0)
代表歴
2004 イタリアの旗 イタリア U-19 11 (0)
2004-2005 イタリアの旗 イタリア U-20 10 (0)
2006-2007 イタリアの旗 イタリア U-21 10 (0)
2008 イタリアの旗 イタリア オリンピック 6 (0)
2010-2011 イタリアの旗 イタリア 6 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2022年7月11日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エミリアーノ・ヴィヴィアーノEmiliano Viviano, 1985年12月1日 - )は、イタリアフィレンツェ出身のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー

経歴[編集]

地元であるACフィオレンティーナ下部組織出身。2002年、クラブが破産する1ヶ月前にブレシア・カルチョの下部組織に移籍する[1]

ブレシアではルカ・カステラッツィマッテオ・セレーニの前に出番に恵まれなかったが、2004-05シーズンにレンタル先であった当時セリエBACチェゼーナでプロデビュー。その後ブレシアに戻り、4シーズンに亘って守護神を務めた。

2009年1月2日インテルナツィオナーレ・ミラノが350万ユーロで共同保有権を獲得したが[2]、そのままブレシアでプレーを続けた。7月13日にインテルとボローニャFCの共同保有となり、2009-10シーズンよりボローニャでプレーすることになった。自身の古巣であるチェゼーナに移籍したフランチェスコ・アントニオーリに代わってポジションを掴むと、セリエA初年度にして34試合に出場。シーズン終了後にはボローニャとの共同保有が1年延長された。翌2010-11シーズンもレギュラーとして33試合に出場し、ボローニャのセリエA残留に貢献した。

同シーズン終了後にASローマへの移籍に合意し、ボローニャがインテルから保有権を買い取った後に移籍する予定となった[3]。しかしボローニャが入札の書類手続でミスをしたため、結果的にインテルへの完全移籍が成立した[4][5]7月23日、練習中に左膝前十字靭帯損傷の大怪我を負い[6]手術を受けた[7]。離脱中の8月31日、インテルとジェノアCFCとの共同保有となったことが発表された[8]

2012年1月13日、インテルがジェノアから共同保有権を買い取った後、新たにUSチッタ・ディ・パレルモに共同保有権が譲渡された[9]2011-12シーズンの後半はパレルモでアレクサンドロス・ツォルヴァスからポジションを奪取して20試合に出場した。

シーズン終了後にパレルモが保有権を買い取り、8月1日にフィオレンティーナにレンタル移籍。ユース時代以来の復帰となった。移籍後は退団したアルトゥール・ボルツに代わって正GKに定着した。

2013年9月2日アーセナルFCへのレンタル移籍が発表された[10]

2014年8月12日UCサンプドリアへの完全移籍が決定した[11]

2018年6月22日、プリメイラ・リーガスポルティングCPと1年間の延長オプション付きで2年契約を締結した[12]

2019年1月7日、SPALにシーズン終了までのレンタル移籍が発表された[13]

代表歴[編集]

2005年オランダで開催されたFIFA U-20ワールドカップでは正GKを務めた。2007年UEFA U-21欧州選手権ではジャンルカ・クルチの控えだったが、大会中はクルチの負傷により代わりにゴールマウスを守った。2008年北京オリンピックにも出場した。

2010年8月7日、新たに監督に就任したチェーザレ・プランデッリによりイタリアA代表に招集され[14]9月7日フェロー諸島戦で初キャップを記録。

人物[編集]

  • フィレンツェ出身であり、地元クラブとして下部組織時代を過ごしたフィオレンティーナには度々愛情を示すメッセージを送っている。2002年にクラブが破産したことでオーナーが変わるが、降格処分を受けたため最初は若手を起用する余裕はないだろうと思い移籍する。
  • その後いくつかのクラブを転々とするが移籍シーズンにはフィオレンティーナに移籍したい旨を発言していた。2012年にローンによってフィオレンティーナに10年ぶりに復帰した際には「お金ではなく自分のキャリアを考え移籍した」と語った[1]

タイトル[編集]

アーセナル

脚注[編集]

外部リンク[編集]