オペラ館
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種類 | 事業場 |
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市場情報 | 消滅 |
本社所在地 | 日本 〒111-0032 東京市浅草区公園六区二号地 (現在の東京都台東区浅草2丁目5番) |
設立 | 1909年5月 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画、軽演劇の興行 |
主要株主 | 不詳 ⇒ 日活 |
関係する人物 | 榎本健一 二村定一 永井荷風 |
特記事項:略歴 1909年5月 日本館移転跡地に開業 |
オペラ館(オペラかん、1909年5月 - 1944年3月31日 閉鎖廃業)は、かつて存在した日本の映画館、劇場である。
略歴・概要
[編集]1909年(明治42年)5月、日本館が移転した跡地、東京市浅草区公園六区二号地(現在の東京都台東区浅草2丁目5番)に開業した。同年同月8日、それまで大勝館をフラッグシップ館にしていたM・パテー商会が製作配給した映画『楠正成』を上映して始まった。以降、同年内に合計11本のM・パテー作品をフラッグシップとして公開した。
1910年(明治43年)1月1日には、吉沢商店が製作配給した映画『明治曾我』を公開して以降、1912年(大正元年)8月25日公開の『遺言』『日本ジゴマ』まで、吉沢商店のフラッグシップ館になった。同年9月10日、M・パテー、吉沢商店、福宝堂、横田商会が合併し、日本活動写真株式会社(現在の日活)となり、同館も日活の事業場となった。以降、日活のとくに向島撮影所製作作品のフラッグシップ館となった。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が首都を襲い、浅草は壊滅、オペラ館も崩壊するが、やがて再建する。再建後の同年末から1924年(大正13年)にはマキノ映画製作所が作品を供給した。
1931年(昭和6年)12月16日、新築オープン、こけら落としは、榎本健一・二村定一ダブル座長の軽演劇の劇団『ピエル・ブリヤント』の旗揚げ公演であった。1932年(昭和7年)7月、「ピエル・ブリヤント」が松竹と契約して専属になり、フランチャイズ劇場が松竹座となった。
1938年(昭和13年)、永井荷風が脚本を書き、菅原明朗がスコアを書いたオペラ『葛飾情話』の公演を行った。
1944年(昭和19年)3月31日の公演をもって強制的に取り壊され、更地となった[1]。その後、現在同様の複数の商店に分割した。
註
[編集]参考文献
[編集]- 『断腸亭日乗』、永井荷風、岩波書店、1987年7月 ISBN 400310420X