クリーム (バンド)

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クリーム

左よりジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルース、エリック・クラプトン
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランドロンドン
ジャンル
活動期間
レーベル
旧メンバー

クリームCream)は、イングランド出身のスリーピースロックバンド

活動期間はたった3年ほどであるがブルースポップサイケデリアを融合させたサウンドを展開し[1]、ジャズやブルースなどで行われているライブでの即興演奏(インプロビゼーション)をロックに導入した先駆者であり、スタジオ録音で数分だった曲をライブでは10分以上かけて演奏することもあった。また、ワウを流行らせるなど当時の最新機材を駆使した大音量のエレクトリックサウンドから、ジミ・ヘンドリックスと共1960年代におけるハードロックの源流とされるグループの一つであり同ジャンルの基礎を創り上げたとも評されている[2]。 当時既に成功を収めていたバンドで活動していたジャック・ブルースエリック・クラプトンジンジャー・ベイカーの3人が集まって結成されたという経緯から世界初のスーパーグループの1つであると考えられている[3][4][5]。 世界でのアルバム総売上は3500万枚以上に及び[6]、 『Wheels of Fire』は世界初のプラチナ認定を受けた2枚組のアルバムとなった[7][8]

概要[編集]

クリームの楽曲には「Crossroads」や「Spoonful」などの伝統的なブルースを基本としたもの、「Born Under a Bad Sign」などのモダンなブルース、さらにエキセントリックな「ストレンジ・ブルー」「英雄ユリシーズ」「Toad」などがある。 ヒット曲は「I Feel Free」(UK, #11)、[8] 「Sunshine of Your Love」(US, #5)、[9]「White Room」(US, #6),[9]「Crossroads」(US, #28)、[9] 「Badge」などがある。

クリームの音楽性と演奏スタイルは、レッド・ツェッペリンのような1960年代後半以降の英ハードロック・バンド、オールマン・ブラザーズ・バンドグレイトフル・デッドフィッシュなどのジャムバンドマウンテンフェリックス・パッパラルディらアメリカン・ハードロック[10]ラッシュなどのプログレッシブ・ロックバンドらにも影響を与えたとされている[11]。しかしジンジャー・ベイカーは音楽誌のインタビューで「クリームがロックだった事は一度もない。あれはインプロヴィゼーション(即興音楽)だ」[12]「レッド・ツェッペリンもヘヴィ・メタルも嫌いだ。巨大アンプの爆音が苦痛で堪らなかったからだ」と、影響を与えてきたヘヴィサウンドについては嫌悪感を示した[13]

クリームはVH1誌の 100 Greatest Artists of Hard Rock で16位にランクし、また、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第66位となった[14]

メンバー[編集]

経歴[編集]

ジンジャー・ベイカーが、ヤードバーズで注目され脱退後ホワイト・ブルースの名門ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズに在籍していたエリック・クラプトンをバンドに誘う。クラプトンは、当時マンフレッド・マンにいたジャック・ブルースをベーシストにするならば、という条件を出す。ベイカーはブルースと非常に仲が悪かったがこの条件を呑み、1966年にデビューする運びとなる。

ブルースが作曲しリード・ヴォーカルを取る曲が多いにもかかわらず、アメリカのレコード会社はクラプトンをプッシュし、クラプトンとそのバックバンドとして売り出すことを提案したが、もちろんバンド側に却下された。ライブ・アルバムを聴けばわかるように、3人は全く対等の高度な演奏力で火花を散らし、強烈なアドリブを繰り広げ、誰かがリーダーシップを取って牽引するというようなことはなかった。わずか2年半の活動で世界を席巻し、1968年に解散するも、後続のミュージシャンに多大な影響を与えた。

結成[編集]

1966年の7月、クラプトンはすでにヤードバーズとジョン・メイオール&ブルースブレイカーズでの活動によって、イギリスで第一級のブルースギタリストとしての評判を得ていた[1]。 しかしクラプトンは、メイオール・バンドの環境を窮屈に感じ、新しいバンドで演奏することを求めていた。

1966年に、クラプトンは当時グレアム・ボンド・オーガニゼーション[注釈 1](以下「GBO」と略)のバンド・マスターだったベイカーと出会う。ベイカーのバンドにはジャック・ブルースがベース、ハーモニカとピアノを担当、ディック・ヘクストール=スミスらを擁し、バンドは高度な演奏力を評価されていたがベイカーもまたGBOに息苦しく感じていた。高い人気から看板役でボーカル、オルガン担当のグレアム・ボンド薬物中毒に陥りその精神不安定と人間関係にうんざりし[注釈 2]、ボンドの名を冠するバンドの実態は統率が崩れつつあった。「ジンジャーのことはずっと好きだった」とクラプトンは言う。「ジンジャーは、僕がジョン・メイオールと一緒に演奏するのを観に来た。ライブの後、彼のローバーでロンドンまで送ってくれた。彼の車と運転には感動した。彼は新しいバンドを始めたいと僕に言っていて、僕も同じことをずっと考えていた」[15]。 その後2人は私的な音合わせの機会を重ね互いの演奏技術に感銘を受け、ベイカーの方からクラプトンを、まだ名前のない新しいグループに誘うことになった。クラプトンは即座に受け入れるが、ジャック・ブルースをベースとして迎えることが条件だった[8]。クラプトンによると、ベイカーはその提案に驚くあまり、車をぶつけそうになったという[16]。実は、クラプトンはボーカルにスティーヴ・ウィンウッドを迎えたいという願いもあったそうだ。

クラプトンは1966年3月に短期間ブルースブレイカーズでプレイしていた頃に、ジャック・ブルース(ベース・ギター、ボーカル担当)と会ったことがあった[8]。同時期に2人はアメリカに本社があるエレクトラ・レコードがイギリス進出を果たしその記念の一環として制作した英米バンドのセッション・オムニバス・アルバム『ホワッツ・シェイキン』に参加している。表ジャケットにはカーマ・スートラ・レコード専属人気バンドラヴィン・スプーンフル[注釈 3]というエレクトラ社外のバンドが掲載されていた。移籍ではなくこの記念アルバムのためにわざわざ限定契約を交わす気合いの入れようで、支社開設準備とアルバムのイギリス・サイドのプロデュースを担当したアメリカ人ジョー・ボイドも本社に対抗して大胆な奇策を立てた。これがセッション・バンドのザ・パワーハウス で、クラプトンにスペンサー・デイヴィス・グループからスティーヴ・ウィンウッド、ピート・ヨークマンフレッド・マンポール・ジョーンズとブルースという若手では実力人気ともにトップのミュージシャンの集結はイギリスにおいて新興エレクトラ・レーベルの宣伝と話題作りに成功した。クラプトンはこのセッション参加共演からブルースのボーカルと楽器演奏腕前に感動し、彼と継続的に活動したいと思ったのであった。

クラプトンは知らなかったのだが、ブルースはボンドのバンドに所属していたものの、ベイカーとは非常に仲が悪いことで有名であった[17]。両人は素晴らしいジャズ・ミュージシャンであり、お互いのスキルを尊敬してはいたが、GBOというバンドでは2人のエゴを押さえ込むには小さすぎた。ボンドの人気からバンド活動を続けることは出来たが、内情に関しては徐々に目立ち始めたボンドの奇行と無気力に加え、ブルースとベイカーの険悪な関係からステージ上では演奏を放棄してケンカを始めたり、一方が楽器をサボるほどであった[17]。ベイカーがブルースにクビを宣告した後もブルースはライブに現れ続けた。最終的には、ブルースはベイカーにナイフで脅されるまでバンドから離れなかった。

にもかかわらずベイカーは、メンバーそれぞれが曲と詩を出し合う、協力的なバンドになることを思い描いていた。バンドは「クリーム」と名付けられた。クラプトンとブルース、ベイカーは、すでにブリティッシュ・ミュージック・シーンにおけるブルースやジャズのミュージシャンの間で「cream of the crop(選りすぐりのもの)」と見なされていたからである。クリームに決定する前には、「Sweet 'n' Sour Rock 'n' Roll(甘酸っぱいロックンロール)」という名前も検討されていた。3人の中で、イギリスの中ではクラプトンがもっとも評判を得ていたが、彼はアメリカでは知られていなかった。「フォー・ユア・ラヴ」がビルボードトップ100にチャートインする前に、ヤードバーズを脱退していたからだ[1]

クリームの非公式なデビューは、1966年7月29日、マンチェスターのライブハウス「Twisted Wheel」でのギグ[18]。正式なデビューは、2日後の「Sixth Annual Windsor Jazz & Blues Festival」だった[8][19]。結成間もなく、オリジナルの持ち曲も少なかったが、クリームは熱の籠ったブルースのカバーを演奏し、大観衆を震撼させ、好反響を得た。10月には、ロンドンに来たばかりのジミ・ヘンドリックスが、かねてからファンであったクラプトンとステージでの共演を熱望し[8]アニマルズのベーシストでヘンドリックスのマネージャーだったチャス・チャンドラーを通して紹介された[8]

この頃のエピソードとしては、ジミがクリームのステージ上にのぼり、「キリング・フロア」のジャムをしたが、クラプトンはジミの演奏の凄さにぶっ飛び、泣きそうになっていたというものがある。

英米ミュージシャンの交流からステージ演奏ではPAアンプ・スピーカーが林立し、結成初期のうちに、ブルースがリード・ボーカルをとることが決められた。クラプトンは歌うことを恥ずかしがっていたが[20]、たまにブルースのボーカルにコーラスを付け、そしてそのうちに、"Four Until Late"[21]、"Strange Brew"[22]、"Crossroads"[23]、"Badge"[24]などの主だった曲で、リード・ボーカルを取るようになった。

フレッシュ・クリーム[編集]

クリームのデビューアルバム『フレッシュ・クリーム』は、1966年に録音・発表され、イギリスのチャートで6位、アメリカのチャートで39位を記録した[25]。内容は「Four Until Late」、「Rollin' and Tumblin'」(マディ・ウォーターズの曲)、「Spoonful」(ウィリー・ディクスン作曲、ハウリン・ウルフの録音)、「I'm So Glad」、「Cat's Squirrel」など、主にブルースのカバーだった[26]。その他の曲としては、ジャック・ブルース作で作詞は友人のピート ・ブラウンと共作した"I Feel Free" (イギリスでのヒットシングル[8]。アルバムにはアメリカ版にのみ収録) やジンジャー・ベイカー作の"Toad"(ロックのドラム・ソロとしては最も初期の作品)などがある。

初期のクリームは、多くの曲を演奏してみせるタイトなバンドであった。「N.S.U.」や「Sweet Wine」「Toad」などすべての曲は5分程度のバージョンにうまくまとめられた。しかしたった2か月後には、セットリストは短く1曲ずつがぐっと長くなった。スタジオ録音では1967年「ストレンジ・ブルー」からアメリカ人フェリックス・パパラルディをプロデューサーに招聘しアレンジや一部の演奏に携わった。

解散[編集]

活動末期 - オランダTV出演時(1968年1月)

結成時よりクリームが抱えていた根源的な問題は、ついには1968年11月の解散へ導いた。ブルースとベイカーの対立は、バンドに緊張をもたらした。クラプトンもまた、メンバー同士がお互いの意見を十分に聞かないと感じていた。クラプトンはあるとき、「クリームがコンサートで演奏しているとき、自分が演奏を止めてもベイカーもブルースも気づかない」と語った[17]。クラプトンはまた、クリーム後期のコンサートはメンバーそれぞれの見栄の張り合いだけになっていたと語った[27]。クリームは1968年5月のアメリカツアー中に、解散することを決断した[28]。7月に、アメリカでの解散ツアーとその後ロンドンでの2回のコンサートを最後に解散すると、公式に発表された。クリームは11月4日のロードアイランドでのコンサートでアメリカツアーを終え、11月25日と26日に最後のイギリス公演をロンドンで行った[28]

クリーム以降[編集]

クリームの解散後、クラプトンとベイカーは直ぐにブラインド・フェイスを結成。(クラプトンは以前よりクリームにスティーヴ・ウィンウッドを引き込み、ブルースとベイカーの緩衝剤になってもらおうと試みていた)。クラプトンはその後、より即興が少ない方向に演奏の方向性を大きく変え、デラニー&ボニーデレク・アンド・ザ・ドミノスを経て、ソロとしてのキャリアを進めていった。だが、クラプトンはドラッグと酒におぼれ、1976年には「キープ・ブリテン・ホワイト」という白人主義的な発言に加え、レイシストのイーノック・パウエルを支持する発言を行い、厳しい批判を受けた。

ベイカーは、ブラインド・フェイスを基にジャズ・フュージョンのアンサンブル、ジンジャー・ベイカーズ・エアフォースを結成した。このバンドのメンバーは、ウィンウッド(ボーカル)、元ファミリー~ブラインド・フェイスのリック・グレッチ(ベース)、グレアム・ボンド(サックス)、元ムーディ・ブルースで後にウイングスに加入するデニー・レイン(ギター)であった。一方ブルースは様々なソロワークで成功をおさめ、1969年には『Songs for a Tailor』をリリースした。

再結成[編集]

「ロックの殿堂」入りで集結したメンバー (1993年)

1993年ロックの殿堂入りを果たし(プレゼンターはZZトップ)、その場限りの再結成で「サンシャイン・ラヴ」と「クロスロード」「悪い星の下に」の3曲が演奏された。

2005年5月にも、解散前の最後のライヴを行ったロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、10月にはニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、再結成ライブが行われた。

2014年にブルースが71歳で、2019年にはベイカーが80歳で亡くなり、現在メンバーで生存しているのはクラプトンただ1人となった。

ディスコグラフィ[編集]

スタジオ・アルバム[編集]

ライヴ・アルバム[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本語表記についてGrahamはグレアムかグラハム、Organisationはオーガニゼーションかオーガナイセションの2通りある。
  2. ^ キーフ・ハートリーの聴取をもとに構成した「ブリックヤード・ブルース」(Keef Hartley/Ian Southworth共著、中山義雄訳)でベイカーらが脱退した1967年頃共演したジョン・ハイズマン(ヘクストール=スミスとコロシアムを結成)は「兼業からプロミュージシャン一本で生活するきっかけをグレアム・ボンドから貰ったがギャラ分配が不透明であるときはボンド本人の負債返済が優先され支払いが無く、ボンドの気ままさで演奏活動は左右されサボタージュを数度起こし対応に追われたり演奏技術上達も望めない状況から他のバンドへ移籍を考え、ひいてはコロシアムを結成するきっかけになった(要約略記)」とボンドとの関係をコメントし、金銭(ギャラ)問題も推測される。
  3. ^ イギリスはパイ・レコードからカーマ・スートラUKで販売された。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g Unterberger, Richie. “Cream Biography, Songs & Albums”. AllMusic. All Media Network. 2021年11月17日閲覧。
  2. ^ クリームの誕生と解散〜ロック史に新たな潮流を生み出したトリオバンドの強烈なグルーヴと不協和音〜”. TAP the POP (2016年7月16日). 2018年10月30日閲覧。
  3. ^ Musicradar.com
  4. ^ CNN.com
  5. ^ Whereseric.com
  6. ^ Jack Bruce Music (2008年). “Jack Bruce - Biography”. 2011年4月13日閲覧。
  7. ^ Cream - the Band” (英語). BBC (2000年9月20日). 2008年6月30日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h Cream: Classic Artists (DVD). Image Entertainment. {{cite AV media}}: 不明な引数|year2=は無視されます。 (説明)
  9. ^ a b c Cream: Biography: Rolling Stone”. RollingStone.com. 2008年7月8日閲覧。
  10. ^ allmusic (((Black Sabbath > Overview)))”. Allmusic.com. 2008年11月8日閲覧。
  11. ^ allmusic (((Rush > Overview)))”. Allmusic.com. 2008年11月8日閲覧。
  12. ^ Archive Interview−ジンジャー・ベイカー”. リットーミュージック (2021年8月19日). 2021年12月4日閲覧。
  13. ^ ジンジャー・ベイカー、「ジョン・ボーナムはミュージシャンとも呼べない」とツェッペリンを酷評”. NME JAPAN (2015年6月16日). 2018年10月30日閲覧。
  14. ^ VH1's 100 Greatest Artists of Hard Rock (20-1)” (英語). VH1 (2000年). 2008年6月26日閲覧。
  15. ^ McDermott, John (November 1997), “Strange Brew”, Guitar World magazine 
  16. ^ Clapton, Eric (2007). Clapton: The Autobiography. New York, United States: Broadway Books. pp. g. 74. ISBN 978-0-385-51851-2 
  17. ^ a b c White, Dave. “Cream” (英語). about.com. 2008年6月27日閲覧。
  18. ^ クリームという名前がついたばかり、1966年夏に行われたバンド初のライヴ”. U discovermusic.jp (2018年9月1日). 2019年8月15日閲覧。
  19. ^ Clapton, Eric (2007). Clapton: The Autobiography. United States: Broadway Books. pp. g. 77. ISBN 978-0-385-51851-2 
  20. ^ Ertegün, Ahmet. Classic Albums: Cream - Disraeli Gears (DVD). Eagle Rock Entertainment. {{cite AV media}}: 不明な引数|year2=は無視されます。 (説明)
  21. ^ Cream (1966). Fresh Cream
  22. ^ Cream (1967). Disraeli Gears
  23. ^ Cream (1968). Wheels of Fire
  24. ^ Cream (1969). Goodbye (1969)
  25. ^ Pattingale, Graeme (1999年1月17日). “Fresh Cream” (英語). 2008年6月30日閲覧。
  26. ^ Album Review: Fresh Cream” (英語). answers.com. 2008年6月30日閲覧。
  27. ^ Clapton, Eric (2007年10月8日). “Eric Clapton Chronicles Music, Addiction and Romance in New Book” (英語). Clapton: The Autobiography. spinner.com. 2012年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年11月8日閲覧。
  28. ^ a b Welch, Chris (2005年8月4日). “The Farewell” (英語). 2008年6月28日閲覧。

外部リンク[編集]