ジム・トレーバー

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ジム・トレーバー
Jim Traber
ボルチモア・オリオールズ時代
(1987年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州コロンバス
生年月日 (1961-12-26) 1961年12月26日(62歳)
身長
体重
182 cm
96 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
プロ入り 1982年 MLBドラフト21巡目
初出場 MLB / 1984年9月21日
NPB / 1990年4月8日
最終出場 MLB / 1989年10月1日
NPB / 1991年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ジェームズ・ジョセフ・トレーバーJames Joseph Traber , 1961年12月26日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州出身の元プロ野球選手内野手)。

経歴[編集]

オクラホマ州立大学では野球の他にアメリカンフットボールでもクォーターバック(QB)として活躍。

1982年MLBドラフト21巡目(全体の543番目)でボルチモア・オリオールズに指名され契約。1984年9月21日にメジャーデビュー。オリオールズでのニックネームは「The Whammer」。トレーバーの守備位置は一塁手であり、オリオールズには同位置にはエディ・マレーが不動のレギュラーであったため、トレーバーはレギュラーを獲得できなかった。

1990年近鉄バファローズに入団し、来日。同年は打率.303、24本塁打、92打点と存在感を示した。

1991年オールスターゲームに出場。同年は打率こそ.272と落ちたが29本塁打を放ち、前年同数の92打点ながら、打点王を獲得し、ベストナインゴールデングラブ賞に選ばれた、さらにリーグ最多の14敬遠を記録し、存在感を見せつけた。しかし、翌年の年俸で100万ドル(当時約1億3000万円)を要求するトレーバー側と70万ドル(当時約9100万円)を提示する近鉄球団側との交渉[1]が決裂し、同年限りで退団となった。

1993年リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルモンテレイ・サルタンズで1年間プレー[2]

2019年まで、トレーバーはオクラホマで20年以上続くスポーツラジオDJを務めた。5月に脳腫瘍に倒れたが、手術が成功して回復中である[3]。また、1995年4月19日に起こったオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の際には、現場近くの放送局に居合わせ、日本のスポーツ新聞のインタビューに応え、事件の様子を伝える記事を提供していた。

人物[編集]

試合中は気性が荒く、後述する乱闘騒ぎのほかに新人・野茂英雄が初登板で清原和博に死球を与えて打席でうずくまると周りに集まった西武メンバーを執拗に挑発していた。また一塁守備では出塁した石毛宏典に話しかけて牽制からの挟殺プレー、外野からのバックホームを突如カットして離塁走者をアウトにするなど機転を利かせたプレーもあった。これらは体型に似合わない俊敏さがコミカルで珍プレー好プレー等ではよく取り上げられた。

歌が得意で、オリオールズ時代にはしばし試合前のアメリカ合衆国国歌独唱を担当した[4]

来日中は自分の娘をインターナショナル・スクールではなく日本の小学校に通わせていた。

ビールが大好物で、仲の良かった金村義明は「トレーバーはビールが主食です。みんなで食事に行っても、トレーバーは瓶ビールだけ頼む。みんなが食べている間、彼だけずっとビールを瓶のまま、ラッパ飲みしてました」とコメントしている。その為か野球選手にしては腹はかなり出ていた方だが、前述のゴールデングラブ賞の受賞や園川との乱闘劇の際盗塁の名手である大石大二郎の追走を振り切ってしまうダッシュ力を見せており、日本での通算盗塁が13個(失敗3個)など動きは機敏だった。また、トレーバーは金村の実家の焼肉屋の常連客であり、親にも殴られた事のない「いいとこの坊ちゃん」だったという。

乱闘騒ぎ[編集]

1991年5月19日秋田・八橋球場で行われた対ロッテ戦で、園川一美からの死球に激昂して園川を外野まで追いかけて乱闘騒ぎを起こした。この乱闘の際にロッテの金田正一監督に、顔面を2回蹴られた事はプロ野球珍プレー・好プレー大賞で放送されたことによって有名になり、一時期同番組内で繰り返しそのシーンが放送されていた(1回目は外野付近で揉み合いになった際、その後ベンチへ引き上げるが金田を見つけて相手ベンチへ突進するも躓いて転んだところに金田が振り上げた足が当たった)[5]。ただし、退場させられたのはトレーバーだけであって、金田は退場宣告されなかった。この試合後に近鉄のマネージャーからロッテのマネージャーに「トレーバーが狙いに行くから気をつけて」という内容の電話があって金田監督が1日ホテルから一歩も出なかったと金村がバラエティ番組で語っている。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1984 BAL 10 24 21 3 5 0 0 0 5 2 0 0 0 1 2 0 0 4 1 .238 .292 .238 .530
1986 65 240 212 28 54 7 0 13 100 44 0 0 0 5 18 2 5 31 6 .255 .321 .472 .793
1988 103 376 352 25 78 6 0 10 114 45 1 2 1 3 19 3 1 42 8 .222 .261 .324 .585
1989 86 257 234 14 49 8 0 4 69 26 4 3 1 3 19 1 0 41 7 .209 .266 .295 .560
1990 近鉄 123 528 495 64 150 25 1 24 249 92 2 2 0 5 25 5 3 70 18 .303 .337 .503 .840
1991 124 533 486 61 132 15 2 29 238 92 11 1 1 9 33 14 4 51 9 .272 .318 .490 .807
MLB:4年 264 897 819 70 186 21 0 27 288 117 5 5 2 12 58 6 6 118 22 .227 .279 .352 .631
NPB:2年 247 1061 981 125 282 40 3 53 487 184 13 3 1 14 58 19 7 121 27 .287 .327 .496 .824
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB初記録
NPBその他の記録

背番号[編集]

  • 28 (1984年、1986年、1988年 - 1989年)
  • 33 (1990年 - 1991年)

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]