ジャーヒズ

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ジャーヒズの『動物の書』よりキリンの図

ジャーヒズアラビア語: الجاحظ‎, ラテン文字転写: al-Jāḥiẓ776年ごろ生 - 868年または869年ごろ歿)は、9世紀のイラクの文人[1]#生涯)。博物学的内容の『動物の書』や、ムゥタズィラ派の神学論、政治宗教に関する論争など、多岐にわたる内容の作品を散文形式のアラビア語で著した[1]#著作)。

生涯[編集]

あだ名の「ジャーヒズ」は「張り出した目」を意味する[1][2]。本名(イスム)は「アムル」といい父親の名前は「バフル」である[1]。「アブーウスマーン」のクンヤがあり、南イラクのバスラに由来する「バスリー」のニスバがある(Abū ʿUthman ʿAmr b. Baḥr al-Baṣrī[1]

ジャーヒズに関する伝記的情報の主な情報源としては、ハティーブ・バグダーディー英語版(d. 1071)、イブン・アサーキル英語版(d. 1175)、ヤークート(d. 1229)の各著作が知られている[1]:387r

ジャーヒズが生まれついた家系は、アラブ部族のひとつバヌー・キナーナ英語版に帰属する[注釈 1]マワーリーの一家であり、取り立てて名家というわけではない[1]。父方祖父はハバシュ[注釈 2]出身の黒人奴隷であったようである[1][3](ジャーヒズの項)

ジャーヒズは、ヒジュラ暦160年(西暦776-777年)ごろにバスラで生まれた[1]。ジャーヒズの著作のほとんどすべてが、彼の出生地であるバスラではなく、のちに彼が移り住んだバグダードサーマッラーで書かれている[1]。にもかかわらず、ジャーヒズの思想に深いかかわりを持つのはバグダードでもサーマッラーでもなくバスラの知的・文化的環境であった[注釈 3][1]

ジャーヒズが生まれたころのバスラは、南イラクでもっとも繁栄した都市の座をクーファと競い合う大きな町であり[2]、この町のモスクや市場には人が集まってイスラーム教の教義や政治について活発な議論が繰り広げられていた[1]。この時代のバスラやクーファのモスク(アラビア語で「マスジド」)に集まって議論した人々を特に指す言葉として「マスジディーユーン」という単語が生まれ、バスラにはミルバドの市アラビア語版というそのような議論が繰り広げられたことで有名な市場もあった[1]

ジャーヒズはごく若いころからマスジディーユーンの議論に加わり、多くを学んだ[1]。子どもの頃のジャーヒズは、とにかく好奇心旺盛で、早く自立したいと願いながらも怠惰であったという[1]。これ以外の情報はほとんど知られていない[1]

バスラで学んだのちに、アッバース朝のカリフであるマアムーンの招きによりバグダードに移り[3](ジャーヒズの項)、アラビア語の詩や伝承をもとに説話文学などの散文文芸を確立した。

著作[編集]

主な著作に、修辞法について書いた『雄弁と明快の書』、博物学的な内容の『動物の書』、ペルシア人を風刺した『けちんぼどもの書』などがある[3](ジャーヒズの項)

註釈[編集]

  1. ^ この時代の征服地における、非アラブの異教からイスラームへの改宗者は「マウラー」(あるいはその複数形である「マワーリー」)と呼ばれた[3](マワーリーの項)。マワーリーは所定のアラブ部族のいずれかへの帰属が義務であった[3](マワーリーの項)
  2. ^ al-Ḥabaš, エチオピア
  3. ^ ジャーヒズの著作を多く西洋近代語に翻訳した東洋学者シャルル・ペラ英語版の説[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Pellat, CH (1965). "al-Djāḥiẓ". In Lewis, B.; Pellat, Ch. [in 英語]; Schacht, J. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume II: C–G. Leiden: E. J. Brill. pp. 385–387.
  2. ^ a b Pellat, Charles (1969). The Life and Works of Jāḥiẓ. Islamic world series. University of California Press. Part One. https://books.google.com/books?id=2O3VVpXdc-8C&pg=PAPA1 
  3. ^ a b c d e 『イスラム事典』平凡社、1982年。 

発展資料[編集]