ゼネラルマネージャー

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ゼネラルマネージャー: General manager、略語:GM)は、英連邦諸国や米国企業団体で広く用いられる役職の一つであり、自身の配下にある組織に対して決定権を持つ役職。

かつてはすべてをマネージするという意味から「社長」の意味もあったが、現在は直訳の統括部長の意味が近い[要出典]

概要[編集]

企業団体管理職の一つで、一般にマネージャー支配人)の上位の役職とされる。

英連邦諸国では会社法マネージャー (manager)会社役員 (officer)とされており、ゼネラルマネージャー(総支配人)が日本の会社で言うところの執行役にあたる場合がある。なお、香港ではゼネラルマネージャー (general manager)董事を兼任しない総経理の英語表記とされる。また、アメリカでもカリフォルニア州のように、定款に別段の定めがない限り理事長または社長 (president)(理事長または社長 (president) を置かない場合は会長 (chairman of the board))が、ゼネラルマネージャー(総支配人)および最高経営責任者 (CEO) となると法人法典 (corporations code)(会社法や非営利法人法などを包含する)で定めるもある。

一方、企業・団体によっては、日本の大企業で言うところの部長にあたる場合もある。(この場合は、日本の課長職にあたるマネージャーが損益責任を負わされないのに対し、ゼネラルマネージャーは損益責任を持つことが一般的である。英文肩書きのゼネラルマネージャーは配下組織の人事権や、会社全体の経営への進言も可能である。 ただし、日本企業の「部」に相当する「ディビジョン」を統括する「部長」の場合、英文肩書きのディビジョンマネージャーを用いる場合もあるが、何も付けない「マネージャー」が相当する場合がほとんどでその場合、「部署名」+「Manager」が肩書きとしてはふさわしい(例:経理部長=Accountants Managerなど)。

日本企業においても、マネージャー、ゼネラルマネージャーを正式な職位とし、従来の課長、部長といった役職はその別名として扱うことも多い。なお、日本企業では社長やCEOが兼任するような役職の場合は、ゼネラルマネージャーではなく総支配人と称することが多い。一般企業で英文の肩書きとして用いる場合「係長課長、部長」の職位のさらに上位、一般的に企業経営の決定権を持つ者に用いられる場合が多い。

スポーツにおけるゼネラルマネージャー[編集]

GMは欧米、特にアメリカのプロスポーツで重要な役職である。チームのほとんどの権限はGMが有し、チームの編成や方針の決定、選手や代理人との契約交渉、トレードドラフトなどの新人獲得のとき誰を獲得・放出するか、誰をマイナーリーグなどの下部組織から昇格させるかなど多岐に渡り、球団オーナーから用意された予算の範囲内でこなす。監督はGMの決めた方針を忠実に実行する中間管理職に過ぎないケースが多い。

GMが有能であるか否かがチームの戦力を大きく左右するため、有能なGMは別のチームに引き抜かれることもしばしばある。

メジャーリーグにおけるGM[編集]

GMはさまざまな会見で積極的にメディアに登場する球団の顔でもあり、球団を統率するカリスマ性、経営感覚、契約更改やトレードにおける交渉力、選手の能力を見極める眼力、種々のデータを分析する統計学的センスなど総合的な能力が求められる。

メジャーリーグのGMは、2つのタイプに大まかに分類できる。1つは選手やスカウトを経験してきた現場組で、もう一方は、選手経験の無い背広組。広報やマーケティングなどで実務経験を積んだ人物で、MBA弁護士資格を持つものが多い。

メジャーリーグでは、かなり昔から言葉としてあったようで、1962年文藝春秋10月号に中澤不二雄が書いた記事の中に、前にヤンキースが日本にきたとき、当時監督だったステンゲルが、中澤の来期構想を聞いた質問に対して「それは僕にはわからない、総支配人(ジェネラルマネージャー)のワイズに聞いてくれ」と言ったという記述がある。さらに、金を出すのはオーナー、選手を取ったり、チームの構想を作るのはジェネラルマネージャー、実戦の指揮をとりチームを強くするのは監督、との記述もされている(文藝春秋にみるスポーツ昭和史 第二巻 P244、文藝春秋、1988年8月)。

海外サッカーにおけるGM[編集]

日常の実務的なクラブの経営を仕切っている。ただ、多くのクラブでは実質的な権限をオーナーが握っている場合が多い事から重要な場合においてはオーナー自身がクラブの重要な意思決定を下している。なお、各クラブによっては名称がスポーツディレクターや強化ディレクターなどと呼ぶ場合もある。

日本におけるGM[編集]

プロサッカー(Jリーグ)[編集]

日本ではJリーグ発足を念頭に古河電気工業サッカー部を母体にクラブチーム化された東日本JR古河FCが、1991年にGMポストを作り、就任した奥寺康彦が日本におけるGM第1号とされている。

1993年にJリーグが開幕した。2年目のファーストステージでノーマークの当時最西端のチームであるサンフレッチェ広島が優勝し、取締役強化部長兼総監督として長年にわたり編成全権を担った今西和男が脚光を浴びた。二宮清純が今西を「ゼネラルマネージャー」と表現している。今西はGMの役職名ではなかったが、サンフレッチェ優勝を伝えた1994年の写真週刊誌FLASH」6月28日号9頁に、今西を「ゼネラルマネージャー」と紹介した記述が見られる[1]。「サッカー批評」は、今西を「日本の元祖ゼネラルマネージャー」と評している[2]。ゼネラルマネージャーという言葉が定着したのはこの前後と見られ、1994年頃のサッカー誌などの媒体には「ゼネラルマネージャー」という活字がたくさん使われている。

Jリーグでは1999年より「クラブマネジメント」「マーケティング」「チームマネジメント」の三つのカリキュラムで構成されるゼネラルマネージャー講座を開設し、国内外から大学教授・研究者・強豪海外クラブのGMを講師として招いて組織的なGMの養成を行っている。

プロ野球[編集]

メジャーリーグ流の球団管理方法が注目されたこともあり、パシフィック・リーグの球団を中心にゼネラルマネージャー制の導入が進んでいる。

日本野球機構(NPB)管轄のプロ野球において、スタッフの役割が細分化されていなかった過去の一時期には、三原脩を代表例とする「総監督」の役職で、選手の獲得や契約金の査定などを担うチーム編成に全体的に携わる肩書を設けた球団があった。

近藤唯之が『週刊サンケイ』1970年12月7日号で「ゼネラルマネージャーへの道はけわし!! 三原、水原、鶴岡三大監督の前途」という記事を書いている[3]水原茂、三原脩、鶴岡一人の3人を三大監督と称し[3]、当時この3人は仲が悪いという説もあったが[3]、実際は親しい間柄で、よく3人で会合を持ったり、電話で話すという[3]。原文は古臭い表現を含むがそのまま書くと「3人のテーマは契約金、年俸、監督就任の条件などで、とくにこの中で"ゼネラルマネージャー"の話題が中心になっていたそうだ。簡単にいえば、いつの日か監督の座を去るとき、次はゼネラルマネージャーのイスが与えられるか、どうか、それを最終目標にしなければウソだ、という考えである。『男に生まれた以上、連合艦隊司令長官オーケストラ指揮者、プロ野球の監督はどうしてもやってみたい』という話はよく聞く。しかし、この3人の考え方を追跡していくとき、もはや、いまの監督、コーチ、選手など、ユニフォーム組の終着駅は、このゼネラルマネージャーにあるらしい。ゼネラルマネージャーとは、球団事務局の最高責任者、オーナーから全権を委任されたフロントの代表者と考えていい」などと書いている[3]。この後の話は遠征に際し、三原と水原がチームが勝つために最善と判断した方法を選んだのに、経営合理化を考える球団からそれを反故にされ、近鉄監督時代の三原が「近鉄にないのは優勝旗と誠意だ」という名セリフを吐いた[3]、このようなときに監督は「このドシロウトめ」となり、球団側は「道楽で野球をやっているんじゃない」と反発し、かくて現場とフロントとはソッポを向き合うようになる、こんなとき現場が思うことは同じで「フロントに本当に野球を知っている者がいてくれたら、現場とフロント双方とも助かるのだがー」である。この本当に野球を知っているフロントの代表者こそ、三原、水原、鶴岡たちが終着駅としているゼネラルマネージャーなのだ」である[3]。この他、大リーグ(MLB)の実例として、スタン・ミュージアルセントルイス・カージナルス1963年に引退した後、1964年から1966年までの3年間、カージナルス球団副会長を務めたが、ミュージアルはゼネラルマネージャーの重要性を認め、1967年に球団副会長からゼネラルマネージャーに転向した。ミュージアルは首脳陣人事から、新人補強、トレード、選手の年俸査定から何から何までやり、1967年のワールドシリーズを制覇した[3]。ミュージアルのゼネラルマネージャーは大成功だったのだが、ワールドシリーズ優勝直後にミュージアルは「副業でやっているレストラン経営の仕事が出来ないから」という奇妙な理由で、ゼネラルマネージャーの座を去り、元の副会長に収まった[3]。実はこれほどの功績を残してもミュージアルの仕事ぶりに対して選手、オーナーの双方から猛烈に批判されていたといわれる[3]川上哲治六連覇した直後の1970年に球団常務に就任している[3]。鶴岡は「南海時代、また解説者を通じて、つくづく思ったことは、これからのプロ野球は、背広組とユニフォーム組の合体戦力が、最後にモノをいうと思う」とゼネラルマネージャーの重要性を認めた[3]。近藤は記事の最後に「近い将来、川上、鶴岡、あるいは三原、水原など、誰がなるにしても、その道のけわしさを十分、覚悟してもらわなければならなようだ」と結んでいる[3]

NPBの多くの球団では球団代表の英訳に「General manager」を充てるケースがあったが、親会社の社員が出向の形で球団代表に就任する例が多数を占め、プロスポーツ管理の専門家は少なかったことから、メジャーリーグにおけるGMに比較して権限がきわめて狭かった。

かつては日本ハムファイターズ監督だった大沢啓二が、広島東洋カープ江夏豊を獲得するため、自ら単身で広島の松田耕平オーナー宅に出向いて交渉しトレード移籍を実現させた例[4][5] があるように、監督がチーム編成に大きな権限を持っていて現在の観点においてGMを兼任していたといえるケースが一般的であった。大沢は監督退任後、再任される1984年から1992年までの期間は球団フロントに入り、「常務取締役」としてチーム編成を担った[注釈 1]

根本陸夫は、西武ライオンズの監督を退任した1981年シーズンオフから「球団管理部長」として、また1993年から福岡ダイエーホークスで「代表取締役専務兼監督」として、監督退任後は「代表取締役専務(のちに社長)」として、「球界の寝業師」との異名を取るGM的役割を果たし、チーム力向上に大きな業績を残した。

NPBにおいて「ゼネラルマネージャー」の肩書きを名乗った第1号は、1995年千葉ロッテマリーンズのGMに就任した広岡達朗である。しかし当時はGMとしての業務範囲が明確でなかった上、監督・選手・フロントとの意見の食い違いおよび対立が生まれたことから、2年で退団した。

中日・阪神タイガース東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を歴任した星野仙一は、阪神監督退任後の2004年から2009年まで同球団の「球団オーナー付シニアディレクター」として、GMに近い活動を展開していた。2011年から所属した楽天では監督・シニアディレクターを経て、2015年9月7日付で球団のナンバー3に相当する「取締役副会長」に就任。代表権を保持しないものの、球団の編成・ドラフト戦略・経営に関与する権限を有する現場の総責任者として、従来のGMを上回る役割を担った(在職中の2018年1月4日に死去)[6]

2012年8月からは、阪神の監督やオリックスのGM・監督を歴任した中村勝広が、阪神球団初のGMに就任した。しかし中村は、チームの東京遠征に帯同していた2015年9月23日に急死し、同年10月1日付の人事異動を機に当面の間GM職を廃止することになったが[7]、同年監督を退任した和田豊が「オーナー付シニアアドバイザー」の肩書きで、中村の役割を引き継いだ。

中日では、かつて選手・監督として在籍していた落合博満が、2014年シーズンからGMを務めていたが、2017年1月限りで退団。同時にGM職も廃止された[8]。2019年シーズンは前年限りで監督を退任した森繁和が、「シニアディレクター」の肩書で編成統括を担当し、同年退任、退団している。

読売ジャイアンツでは、2004年に清武英利が「編成本部長兼球団代表」の立場でGMを務め、育成選手制度の拡充などに手腕をふるったが、2011年11月に球団会長で親会社の読売新聞グループ本社代表取締役の渡邉恒雄を批判した、いわゆる「清武の乱」を起こし、すべての役職を解任された。清武が去った後は、球団代表の原沢敦を経て、2015年5月からは読売新聞東京本社運動部長で2度の巨人への出向経験がある堤辰佳が編成本部長兼任でGMに就任。2017年6月からはOBでGM特別補佐だった鹿取義隆が専任としてGMを務めたが、全員が成績不振を理由に退任している。

プロバスケットボール[編集]

日本のバスケットボール界では1996年に廃部となったマツダアンフィニ東京の後継として設立されたクラブチーム、所沢ブロンコス(現:さいたまブロンコス)においてマツダアンフィニ東京元選手・広報の成田俊彦がGMに就任した。

2000年に日本初のプロバスケットボールクラブである新潟アルビレックスBBが発足された際、元男子日本代表ヘッドコーチの河内敏光が社長と兼任する形でGMに就任した。

2005年に埼玉と新潟は、バスケットボール日本リーグ機構(旧JBL)及び日本バスケットボール協会を離脱して、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)を設立。同リーグに参加した球団の多くがGM職を設けた。河内は新潟GMを辞してコミッショナーに就任し、新潟GMは河内同様歴代社長が兼務した後、2015年に中村和雄がヘッドコーチと兼務する形で就任。参加チームのひとつであった東京アパッチでは、2シーズン目となる2006-07シーズンに、元プロ野球選手・監督の東尾修をGMに招いた。

bjリーグに対抗するべく旧JBLを再編する形で設立された日本バスケットボールリーグ(新JBL)では、元アメリカンフットボール選手の山谷拓志リンク栃木ブレックス初代GMを務め、2008年度から2年連続で日本トップリーグ連携機構加盟リーグのGM等に贈られるトップリーグトロフィーを受賞した。山谷はJBLの後身であるナショナル・バスケットボール・リーグ(NBL)発足時に同リーグの専務理事兼COOに就任した。

2016年にbjリーグとNBLを統合して発足されたジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)では、多くのクラブでGMあるいはそれに類する役職が置かれているが、社長やHCが兼任するクラブや単独のGM職を置くクラブ、チーム統括などがGMの役割を果たすクラブなど様々である。また、GMに次ぐ役職として、アシスタントGMを設置するクラブも存在する。鹿児島レブナイズでは2017年に経営危機に陥った際、選手兼GMの林亮太が選手代表として鹿児島にレブナイズを残す会の代表を務め[9]、クラブの経営側の役職であるはずのGMが労働者側の選手会代表を務めるという体制となるなど、BリーグにおけるGMの定義はあいまいである。

主なGM職担当者[編集]

野球[編集]

NPB[編集]
独立リーグ[編集]
MLB[編集]

サッカー[編集]

Jリーグ[編集]

全国地方公共団体コード準拠

リーガ・エスパニョーラ[編集]
プレミアリーグ[編集]
セリエA[編集]
ブンデス・リーガ[編集]

バスケットボール[編集]

Bリーグ[編集]
B3リーグ[編集]
NBA[編集]

ラグビー[編集]

フットサル[編集]

ビーチバレー[編集]

バレーボール[編集]

陸上競技[編集]

プロレス[編集]

過去の主なGM職担当者[編集]

NPB[編集]

  • 根本陸夫(西武ライオンズ管理部長 1981年 - 1993年、福岡ダイエーホークス代表取締役専務/代表取締役社長 1993年 - 2000年)
  • 大沢啓二(日本ハムファイターズ常務取締役 1984年 - 1992年)
  • 広岡達朗千葉ロッテマリーンズ 1994年 - 1996年)
  • 清武英利読売ジャイアンツ取締役編成本部長オーナー代行兼GM 2004年8月 - 2011年11月)
  • 中村勝広オリックス・ブルーウェーブ常務取締役GM 2003年9月 - 2005年、オリックス・バファローズ取締役球団本部長 2008年 - 2009年、阪神タイガース 2012年9月 - 2015年9月23日)
  • 星野仙一(阪神タイガースオーナー付シニアディレクター 2005年 - 2010年、東北楽天ゴールデンイーグルス取締役副会長 2015年9月7日 - 2018年1月4日)
  • 高田繁(北海道日本ハムファイターズ 2005年 - 2007年、横浜DeNAベイスターズ 2011年12月 - 2018年10月)
  • 村上忠則(横浜ベイスターズ取締役チーム運営部門統括 2006年10月 - 2009年10月)
  • マーティ・キーナート(東北楽天ゴールデンイーグルス 2004年10月 - 2005年4月29日)
  • 山田正雄(北海道日本ハムファイターズ 2008年 - 2014年12月。GM退任後はスカウト顧問)
  • 岡田彰布(オリックス・バファローズ監督・編成全権 2009年10月13日 - 2012年9月25日)
  • 原沢敦(読売ジャイアンツ球団代表 2011年11月 - 2015年5月)
  • 落合博満中日ドラゴンズ 2013年10月 - 2017年1月)
  • 吉村浩(北海道日本ハムファイターズ取締役チーム統括本部長兼GM、 2015年1月 - 2021年10月)
  • 堤辰佳(読売ジャイアンツ編成本部長兼GM 2015年5月 - 2017年6月12日)
  • 鹿取義隆(読売ジャイアンツ編成本部長兼GM 2017年6月13日 - 2018年10月11日[10]
  • 石井一久(東北楽天ゴールデンイーグルス取締役GM兼監督 2018年8月 - 2022年12月)

MLB[編集]

Jリーグ[編集]

リーガ・エスパニョーラ[編集]

Bリーグ[編集]

bjリーグ[編集]

JBLスーパーリーグ[編集]

NBDL[編集]

ラグビー[編集]

プロレス[編集]

女子プロレス[編集]

キックボクシング[編集]

NFL[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、1984年は6月に辞任した植村義信に代わって監督に復帰し、シーズン終了まで務めている。1993年に再度監督を務め、1994年に退団した。

出典[編集]