ドンキーカルテット

ウィキペディアから無料の百科事典

ドンキーカルテット
Donkey Quartet
出身地 日本の旗 日本
ジャンル コミックソング
カントリー・ミュージック
ブルーグラス
活動期間 1964年 - 1970年
メンバー 小野ヤスシ
ジャイアント吉田
猪熊虎五郎
祝勝
旧メンバー 飯塚文雄

ドンキーカルテット1964年に結成され、1970年まで6年間に渡って活躍したコミックバンドの一つである。このメンバーはザ・ドリフターズから独立する形で誕生した[1]

小野ヤスシをリーダーとしてテレビや演芸・公演などでも活躍していたが、1970年に解散する[2]。以降はそれぞれ単独でタレント司会者声優として活動していた。

コミックソングの代表的なヒット曲の一つとして1970年に発売され、後に約20万枚を売り上げた『宮本武蔵』というタイトルがある。

メンバー[編集]

祝以外は初期のザ・ドリフターズの元メンバーだった事もあり、演奏経験が豊富であった。祝が加入後に5人組 = クインテットとなった[3]ものの、グループ名は変更せずにそのまま「ドンキーカルテット」で解散するまで活動した。

小野ヤスシ[編集]

小野ヤスシ(1940年2月11日 - 2012年6月28日 72歳没)

鳥取県の出身でメンバーのリーダーであり、ボーカル・ギター兼ベースを主に担当した。自身のキャッチフレーズを「鳥取県が生んだ自称スーパースター」としていた[4]。他にネタに入る際や、コントが始まる時に用いる台詞として定番になっていた「一発ぶちかましてご覧に入れます」がある。なお小野がリーダーというのは名目上のことで、メンバー間とは常に対等の立場で接しており、特に先輩風を吹かすことは無かった。ドンキーカルテット解散後は単独でマルチタレントとしてテレビ番組の司会や、バラエティー・ドラマに出演して活躍する。主に出演していた代表の番組として、フジテレビ系で放送していた『スターどっきり(秘)報告』があった[5]。晩年はアサヒ緑健のPR番組の司会や、旧知の仲で大親友でもある加藤茶仲本工事とのコミックバンド「加トちゃんバンド」を組んで公演を行っていた。またミッキー安川とは付き合いが長く、ラジオ番組にゲスト出演したこともあった[6]。また年末に行っていた恒例のチャリティーショーにも参加しており、親交を深めていた。2012年6月28日腎盂がんのため死去。72歳没。グレッチ・ギター演奏の達人でもあった[7]

飯塚文雄[編集]

飯塚文雄1940年11月23日 - 2003年3月27日 62歳没)

東京都の出身で立教大学経済学部を卒業。フィドル(バイオリン)を担当していた。元々はジミー時田らと活動し[12]、ザ・ドリフターズに参加して活躍していたが後に離脱し[8]、小野・吉田・猪熊・飯塚の4人で新たなコミックバンドである「ドンキーカルテット」を結成した[9]。ドリフに参加する以前にもカジュアルス[10]というバンドでカントリー・ウェスタンミュージックの経験があったため、この分野の造詣が深いことでも知られていた[11]。ドンキーから離れた後は日本テレビ系深夜番組である『11PM』の水曜日[12]にレギュラー出演することになり、レポーターに起用されて自身の知名度を上げた[13]。音楽活動の方も引き続きカントリーミュージックを中心に行い、晩年は飯塚文雄&キープレンジャースを率いて活躍していた[13]。2003年3月27日に死去した。62歳没。

新宿・歌舞伎町にカントリー音楽のライブハウスである「Liberty Bell」(リバティ ベル)を1974年に開業し、自らオーナーを務めていた。その後歌舞伎町の店は閉店し、渋谷区笹塚に移転し再開店した。2003年に飯塚が逝去した後も営業は継続しており、縁の楽器や飯塚本人を模した看板人形や帽子などが展示され、自由に鑑賞可能であった。現在は再開店した店舗も既に閉業しており、現存していない。

ジャイアント吉田[編集]

ジャイアント吉田1936年1月25日 - 2023年1月2日 86歳没)[14][15]

東京都の出身で本名・吉田一男。ボーカル・ギター兼ベースを担当していた。1958年日本大学経済学部を卒業後、ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ[16]に参加して活動を開始する。いかりや長介とはその頃からの間柄で旧知の仲であり、親友でもあった。しかしザ・ドリフターズ分裂時に残留はせずいかりやのワンマン体制ぶりには反発しており、独立を決めていた小野と行動を共にしている[17]。1970年に発売されたドンキーカルテット唯一のヒット曲となった『宮本武蔵』では、作詞・作曲およびパーカッションとリードボーカルを担当していた。ギャグの受け[18]と間合い台詞は「ひどいなぁ」である。ドンキー解散後は1973年に吉田・猪熊・祝と3人で「シンフォニックマッド」を結成。1970年代末期に西ヒトシ・ジョニー高田ら4人のジャイアント吉田と、ブラックジャック[19]を経て1980年代末期に5人組のジャイアント吉田とドンキーズ[20]を猪熊・やまだマサらと結成[21]した。メンバーは流動的で活動を休止した期間もあるが、途中病気療養することより活動を辞退した猪熊に交代してばんきんや・ニック下平[22]らを加え、晩年まで活躍していた。1973年には、この年に誕生・後にヒットした思考系ボードゲームである『オセロ』のコマーシャルに吉田が起用され、当時話題にもなっている[23]2010年頃からばんきんやのバンドバンバンGと共演活動も行い[14]、カントリーミュージックの客演や、発明家を自称していた[24]。一時期ハワイアンライブハウスを経営していたが閉店し、その後は千葉県鴨川市で「ラハイナ」という店名でハワイアンスタイルのレストランを経営していた[25]。他にも自身の特技でもある催眠術に活路を求め、芸能界の傍ら催眠術師として執筆活動や催眠法のクリニックなど、多方面に活動していた。2010年に設立された一般財団法人日本催眠術協会では理事長を務めている[26]。なお一時期ミスター・マリックの裏方としても参加しており、幅広く活躍していた。

吉田自身は「ジャイアント」という芸名で大柄を想像させたが、実際は小柄の体格であった[27][28]

若い頃は武術に励んでいたために禅・瞑想・気・催眠へと関心を持つことになるが、元々は太気拳澤井健一の初期(3番目)の門下生でもあった。本人曰く「僕は芸能活動よりも、武道の方が関わりは長いんですよ」と語っており、2014年から活動しているインド王族武術(日本宗家)である「Team DATE」の名誉顧問を務めていた[29]2024年1月2日よりTeam DATEが吉田流太気拳 正統の後継団体になったと正式に発表された。

2023年1月2日に死去、86歳没。吉田の死去によりドンキーカルテット結成時のメンバーおよび、ザ・ドリフターズ出身のメンバーは全員が他界した[30]

猪熊虎五郎[編集]

猪熊虎五郎(いのくま とらごろう、1932年 - 2001年11月4日 69歳没)

熊本県の出身で本名・吉岡弘。バイオリン・キーボード兼ベースを担当していた。熊本工業高校を卒業。元々は1963年よりザ・ドリフターズに在籍して活躍していた[31]。大きな体格と坊ちゃん刈りで綺麗に整った髪型をしており、常に礼儀正しく黒縁の眼鏡を掛けた姿も自身の個性でもあり愛嬌があった。メンバーの中でも体格が良く目立った印象的な存在であり、時折長身な猪熊と小柄なジャイアント吉田と比較されることもあった。甲高い声と独特な喋りが特徴的で、彼の持ち味であり個性かつ素質でもあった。話し始めると少し惚けた表情と、その奇妙な面白い声を聞いて笑い出す人がいるほど受けていた。ドンキーカルテット解散直後の1970年からはのちに日本全国酒飲み音頭がヒットしたバラクーダーを結成する岡本圭司がバンドを継承しリーダーとなっていた岡本八とダスターポットへ祝と共に途中参加、その後1973年からは単独でタレント活動を始めた小野を除いた猪熊・吉田・祝と3人で新たに「シンフォニックマッド」を結成し再活動を始めた。その後祝は加入せずにそのまま芸能界を引退したが、吉田と共に新たなコミックバンド[32]である「ドンキーズ」を結成した際も参加しており、積極的な活動を見せている。更に個性的で斬新奇抜な声を活かして声優でも活躍するようになった[33]。しかし晩年は病気療養中だったため、健康面・体調面を考慮して次第にテレビや舞台の出演からは退き、不定期にバラエティ番組などにゲスト出演していた。2001年11月4日に死去、69歳没。

祝勝[編集]

祝勝(いわい まさる、1944年5月 - 79歳)

神奈川県の出身で本名・岩井勝[34]。ベース兼ドラムを担当していた。日本大学在学中は学生バンドマンとして活躍する。大学卒業後に芸能界入りしてドンキーカルテットへ途中参加した[35]。祝の定番芸としては、演奏中やコント・舞台進行中にもかかわらずその流れを完全に無視して自分の世界へ入ってしまい、舞台端や物陰で座り込みながら自分勝手に弁当を開いて食べ始めてしまうという自己中心的であると共に、異質かつ不思議なことをする場面があった[36]。その余りにも身勝手で非常識な行為を、他のメンバーに見付かり叱られるのが定番である[37]。これは祝が最も受けた芸であり見せ場になっていた。ドンキーカルテット解散直後の1970年からはのちに日本全国酒飲み音頭がヒットしたバラクーダーを結成する岡本圭司がバンドを継承しリーダーとなっていた岡本八とダスターポットに猪熊と共に途中参加、その後1973年からは単独でタレント活動を始めた小野を除いた猪熊・吉田・祝と3人で新たに「シンフォニックマッド」を結成し再活動を始めた。シンフォニックマッド解散後[38]、後に吉田・猪熊が新たに発足したコミックバンドの「ドンキーズ」には参加せず[39]、そのまま芸能界を引退した。その後、会社を設立して経営者に転身している[40]。 2023年1月2日にジャイアント吉田が死去したために、現在ドンキーカルテットのメンバーで祝勝が唯一の存命者となっている。

出演番組[編集]

ディスコグラフィー[編集]

シングル[編集]

ドンキーカルテット
  1. 男のまごころ(詞:沢ノ井龍二、曲:三好正純、編曲:川口真) / さいはての渚(詞:沢ノ井龍二、曲:三好正純、編曲:川口真)東芝TP-1581 1968年発売
  2. 宮本武蔵(企画構成・作詞・作編曲:ジャイアント吉田) / 夕べ酒場で聞いたうた(詞:滝田順、曲:小杉太一郎、編曲:山田祥二)RCA(日本ビクター)JRT-1060 1970年発売
  3. ドンキーの歌げんか / トン馬節(詞:京万里、曲:野々卓也)RCA(日本ビクター)JRT-1105
ジャイアント吉田とシンフォニック・マッド
  1. おじいさんと遺書(詞・曲・編曲:ジャイアント吉田) / デゴイチ(D-51)(詞・曲:平出賢文、編曲:ジャイアント吉田)ビクター(RCA)JRT-1299 1973年月発売
  2. 愛の告白(詞桂高丸、曲:鈴木直治、編曲:竹村次郎) / 恋人たち(詞:桂高丸、曲:鈴木直治、編曲:竹村次郎)CBSソニー SOLB
  3. 洋子の港(詞:古沢かずき、曲:鈴木直治、編曲:竹村次郎) / なみだ(詞・曲:ジャイアント吉田、編曲:竜崎孝路)フィリップス(日本ビクター) FS-1858 1976年発売

ソノシート[編集]

ドンキーカルテット
  1. 音のハレンチ 耳で聞くマンガ Dryan Hallench Company(レーベル不明)HP-12 非売品 整髪料ピアス・ドライアン販促用景品 8cmディスク
  2. 牧伸二だよ!!(共演盤)やんなちゃった節 / ボヨヨヨヨーンだよ!! / ボクシング小唄 / ウクレレ教室 / ヤーダ / 癪にさわるよ / やんなちゃった節(続)日本ビクター SD-103 7インチディスク 1965年発売[46]

「帰ってきたドンキーカルテット」について [編集]

1984年10月7日から1985年9月29日までの1年間に渡り、日本テレビで放送されたレオナルド熊がメインのバラエティ番組『WAッ!熊が出た!!』の約10分間コーナー枠の『帰ってきたドンキーカルテット』で、小野ヤスシとジャイアント吉田の2人が主になって往年の音楽コントやトーク・書き下ろしの演芸を披露している。

ジャイアント吉田はYouTubeに自身の公式チャンネルを設け[47]、この番組を家庭用ビデオテープにて放送当時に録画して保存されている番組の一部を公開していた[48]。番組が放送されてから既に40年ほど経過しているが、ビデオテープの保存状態・画質は比較的良好であった。

ドンキーカルテットのメンバーのうち祝勝・猪熊虎五郎の2人は都合のため不定期出演[49]だったが、カントリー・アンド・ウエスタン時代の飯塚文雄・岩倉忠[50]ら関係深いミュージシャンにアコーディオン奏者・横森良造などの個性的なゲストが出演している。

小野と吉田のほかには猪熊・岩倉・横森にレオナルド熊[51]、キーボードの担当にシゲ堂本・ドラムスの担当にジョニー高田。他には出雲ミノル・西ヒトシ[52]、やまだマサ[53]バラクーダ・ローサリーアンサンブルなども出演した。

コント・演芸の素材は、収録された1985年頃に人気だったフリオ・イグレシアス、活動後半期のエルヴィス・プレスリーなどを取り上げた[54]。第2回目以降の約10分間は、番組とは別々の特別コーナーにして小野・吉田ら出演者が様々な楽器を用いて自慢の演奏を披露し、小野の往年の十八番芸でもある「一発ぶちかましてご覧に入れます」から始まり、ジャイアント吉田の「ひどいなぁに、自身の小さな身長に対して突っ込まれ、それをボケで交わす自虐ネタ[55]、猪熊虎五郎の「特徴的な裏声のような奇声」[56]、祝勝が担当していた「舞台進行を完全に無視して、黙々と一人で勝手に食べ続けている弁当」[57]に、メンバーが全員で「終いには仲間割れをしてしまい、言い争いと小競り合いとなり収拾が付かなくなるドタバタコント」と、その定番でもある一斗缶金だらい芸など[58]を復活させ、当時の懐かしいコントをほぼ忠実に再現。ゲストミュージシャンの参加から「ドンキーカルテット」を展開させた音楽コントを披露し、更にはナイトクラブジャズ喫茶でこの演芸ショーと、エレキ・インストロメンタルバンドとしてダンス伴奏を務めていた片鱗が伺える[59]

映画出演を除き、ドンキーカルテットの全盛期時代の映像は1982年ポニーキャニオンからVHSビデオで発売された「東京ギャグ列伝〔下〕」以外は殆ど保存されず[60]、当時の資料や台本なども残されているのは殆ど無く現在でも保管されていない[61]。出来る限り音楽や会話などの雰囲気をほぼ忠実に再現・復元した「帰ってきたドンキーカルテット」では、戦後の日本芸能と1950年代の洋楽ポップス・全盛期時代である往年のコミックバンドを垣間見ることが出来るため、昔懐かしく充実とした内容になっている。

コミックバンドの歴史と近況について[編集]

カントリーやロカビリー音楽のバンドから派生したドンキーカルテットは、いかりや長介のドリフターズから分裂する以前から、コミック・ミュージックでは新進気鋭のスタン・フリーバーグ(英語版)や、映画で底抜けコンビジャック・レモンルイ・ド・フュネスなどを自ら研究し、前身カントリー、ロカビリーバンド時代には進駐軍関連で演奏技術を磨いた。米軍キャンプナイトクラブディスコで、客のダンスを遮らないノンストップ演奏に楽器担当が小用など、やむを得ない事情から離れる場合には、その楽器を代理で演奏する技量も求められて、マルチミュージシャン感覚を鍛えたという[要出典]

1930年代、アメリカの影響からボードビル・ミュージックで日本ではあきれたぼういずなど、通称「ボーイズ」達が浅草六区で多くの人が話題となり活躍し、戦後そのメンバーの一人だった坊屋三郎灘康次とモダンカンカンの助けで継続していた。ジャズや原典にあたるジャグミュージックスパイク・ジョーンズが「冗談音楽」へ発展させ、音楽を真面目に演奏しながら茶化して聴衆を笑わせるというジョーンズの画期的な試みは、戦後日本では三木鶏郎が作家としてコミックソング・コマーシャル曲の参考にし、ジャズバンドからフランキー堺とシティ・スリッカーズに、萩原哲晶青島幸男らとハナ肇とクレージーキャッツなどが影響を受け、その後コメディ映画・劇場舞台・ラジオ出演やテレビ出演した際にこの経験知識を生かしており、コミックソングをレコード盤などでその名曲を残した。レコード盤では流行歌・歌謡曲の扱いに、映画・テレビといった目で愉しみ増幅する楽器の擬音や調子外れな音調、すなわち音痴など音楽コントでは特徴的な演奏で表現する愉快さの大半は省略されている[62][63]

1960年代には演奏を交えてコントを行うコミック・バンドの様式が確立し、イギリスではこの流れを汲み曲芸師を伴うこともあった1962年ニール・イネスらのボンゾ・ドッグ・バンドBonzo Dog Band英語版)が結成[64]、2年後マイク・マクギア[65]らが結成したコミック・ソング中心のバンドスキャホード(The Scaffold英語版)など新しい顔ぶれも登場したが、ビートルズ、ロック音楽台頭にエンターテイメントの多様化も顕著で、映像のTVが中心の時代に入り、日本では寄席舞台やラジオで活躍していた三味線など楽器を持った漫才師たちと演歌浪曲講談といったものを取り入れた歌謡漫談の玉川カルテット横山ホットブラザーズなどがTV映像を意識した演術を模索すると、欧米の流行を取り入れて洋楽とその演芸を得意としたドンキーカルテットのようなコミックバンドが出演する機会を減らし、都市部のナイトクラブや大型キャバレーなど、時には外国人を相手にした夜の舞台も時代変化によるプログラムの変更や、閉業で演奏出来る場所も次第に減少していく流れとなる。

後に登場したビジーフォー元メンバーのモト冬樹2012年のインタビューで「今の日本で音楽コントを披露出来る正統なコミックバンドは、もう存在しないでしょうね」と自身の近況を踏まえながら語っていた。テレビのバラエティー番組の増加を始め、その内容の充実・変化などから全体的に専門のコミックバンドは現在も衰退傾向である[66]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ この経緯についてはザ・ドリフターズの項を参照。
  2. ^ 4人メンバー同士で話し合い、合意した上での円満解散であった。解散後は単独でタレントや司会などでも活躍する小野を除き、他の3人は音楽活動を継続して新たに「シンフォニックマッド」という名でコミックバンドを再結成した。その後も元メンバーとの交友関係は良好で、芸能界から引退した祝以外は後述するドンキーカルテットの再結成や、小野・飯塚・吉田・猪熊のそれぞれの企画にはゲストで共演していた。猪熊は晩年、体調面の関係で病気療養のために芸能界から引退して疎遠気味になっていたが、プライベートでの付き合いは最後まで続いていた。
  3. ^ ただし飯塚は早期に脱退した為、5人としての活動は短期間に留まっている。
  4. ^ 他にも「鳥取県が生んだ最大の芸術家」「鳥取県が生んだ天才」という肩書きを自称している。
  5. ^ 同番組では「キャップ」と呼ばれて親しまれており、10年以上の長期間に渡って出演していた。
  6. ^ ミッキー安川のずばり勝負』や『ミッキー安川の朝まで勝負』へ積極的にゲスト出演しており、様々な昔話や芸能界の裏話などを披露していた。また生電話にも時折出演したこともある。
  7. ^ メインの愛器はグレッチ・カントリー・ジェントルマン6122の1962年型オリジナル。このカントリー・ジェントルマン6122・1962年型の再生産品も所有してそれを使い分けしていたが、解散後も盟友ジャイアント吉田にこのギターを託す演奏パート交換があるコントでは、オリジナルのモデルを持参していた。
  8. ^ 小野ヤスシ・ジャイアント吉田・猪熊虎五郎の3人が、いかりや長介のワンマン体制ぶりに反発して不信感を抱き、独立を決意すると共にドリフを脱退した。この分裂騒動の際に飯塚も離脱している。
  9. ^ ドンキーカルテット最初期メンバーの1人であったが、在籍期間は数年に留まっており全盛期には脱退している。しかし、ドリフ分裂の要因となったいかりやのワンマン体制への不満・不信感といった事情とは異なり、お互いに話し合った上での円満脱退であった。
  10. ^ メンバーはフィドル(バイオリン)・飯塚文雄、ボーカル・坂本孝昭、ギター・金平 隆、ベース・豊田和夫、ドラムス・渡辺淳一、オルガン・木坂(神田)美沙子。時期によりメンバーが入れ替わっている。
  11. ^ このような経緯もあり、完全なコミックバンドであるザ・ドリフターズや新たに参加したドンキーカルテットでの音楽活動は、自分には不向きと実感しており、存在感を出すことに苦心していた。
  12. ^ 毎週水曜日の11PMは愛川欽也が司会進行を務めていた。
  13. ^ なお同番組には元ドンキーのリーダーだった小野も出演しており、共演した際には気の合う所を見せていた。
  14. ^ オフィス FORCE 2023年1月12日Twitter
  15. ^ 一般財団法人日本催眠術協会の理事二人が亡くなった ドクター苫米地ブログ (2023年1月10日)
  16. ^ このグループには寺内タケシ東理夫碇矢長一(後のいかりや長介)・尾崎紀世彦なども参加していた。
  17. ^ 当時いかりやとは親友であったものの、テレビ番組や映画・舞台などで共演したことは無かった。また吉田自身もいかりやのワンマン体制ぶりには既に愛想を尽かしており、不信感を抱いてドリフターズからの脱退を自ら決めている。
  18. ^ ジャイアント吉田は主に「ボケ」を担当しており、特にリーダーである小野との掛け合いは絶妙であった。
  19. ^ ザ・ジンギスカン・トリオ解散後(1970年代中頃)西ヒトシは泉ピン子らのバックバンドを務めるブラックジャックに加入。その後再編でジャイアント吉田とブラックジャックになった。1976年「風のいたずら」を発表したムード歌謡デュオ、ブラックジャックがバンド編成に転じ、1978年牧伸二のバックを務めシングルを発売している。短期間ブラックジャックを名乗る異なるバンドが2つ存在していた。
  20. ^ また吉田は別バンドである「ドンキーズ」でも活躍していた。
  21. ^ このために「シンフォニックマッド」は解散する形となり、祝勝はドンキーズには参加せずそのまま芸能界から引退した。
  22. ^ もとザ・ヴィーナスメンバー。ニック下平公式HP[1]
  23. ^ 最初はたった3,000個、オイルショックを乗り越え世界へ” (2007年2月28日). 2020年4月30日閲覧。
  24. ^ その自称している発明品の中には『冗談グッズ』の開発などもあった。
  25. ^ その店も現在、既に閉業しており現存していない。その後は店の経営はしていなかったが、実業家としての経歴も併せ持っていた。
  26. ^ 理事長ご挨拶 日本催眠術協会公式サイト 2023年2月20日閲覧
  27. ^ 会話中は自分自身と相手の身長差がある関係から、その相方を見上げる姿勢でボヤき気味に「あのねぇ、ちょっと悪いんだけどもさぁ〜、オレの方もねぇ、ちょっと首の方が疲れちまうんだょなァ〜!」と、思わず嘆き節が入ってしまう。その後ドンキーズ時代には、吉田と同じく低身長のやまだマサに対してシークレットシューズを自ら履いた後に「あのさぁ〜!、言わしてもらうけどねぇ〜、今はチビで笑いを取って良いのはオレが限界なんだョ!キミたちには分っかるっかなァ〜?」と打ち明けていた。
  28. ^ 実際に大柄だったのは猪熊虎五郎の方であった。また芸名は「ジャイアント」と称しているが実際の吉田が小柄なために、その不釣り合いな芸名自体をメンバーが指摘したこともある。またリーダーの小野が吉田に対して「ちょっと聞きたいんだけどさ、なんでお前はチビなのにジャイアントって名前なの?自分でもそう思わないか?」と疑問を称したこともあった。
  29. ^ 「Team DATE名誉顧問」は太気拳創始・澤井健一の弟子だった!! 吉田かずおインタビュー dropkick(2017年2月1日)
  30. ^ 後述の祝勝はドンキーカルテットを結成してからの途中加入者であり、結成時のメンバーでもなければドリフターズに加入していた経験も無い。
  31. ^ しかし1964年になると、ドリフのリーダーであるいかりや長介のワンマン体制には不満を抱いており、それに反発して小野・吉田らと共にドリフを脱退。新たなコミックバンドである「ドンキーカルテット」を結成し、それに猪熊もメンバーに加わったという経緯がある。
  32. ^ 「シンフォニックマッド」は祝が芸能界から退いた関係もあり、後に解散している。
  33. ^ 声優として猪熊を代表する作品として、NHKで放映されていた人形劇『プリンプリン物語』のモドロ役がある。
  34. ^ 芸名として頭文字を変更しており、読み方はそのまま「いわい まさる」となっている。
  35. ^ 一時期飯塚と共にメンバーとして在籍しており、ドンキーカルテットは短期間であるが5人編成となった。
  36. ^ 本来なら弁当を開いて食べる場所や雰囲気では無いにもかかわらず、祝は平然と弁当を開いて黙々と食べ始めるため、観ている者は呆気に取られていた。
  37. ^ 祝が食べる姿を見付けて注意するのは大体リーダーの小野であり、時折吉田も加わっていた。その際には祝の頭や肩・背中などを小突いて叱り付けている。
  38. ^ 漫才コンビ木田鶴夫・亀夫の内弟子だった木田Q太と数ヶ月のみ短期間ではあるが、共に活動した事があった。木田Q太は木田P太・Q太として活動実績がある[2][3]。その後トニー茂木と漫才コンビ、ポパイを結成(木田Q太のプロフィールでは1975年に結成としている[4])。1979年にコンビ解消後は司会業を中心に、脚本執筆などの活動を行っている。木田Q太の所属する事務所(2017年4月現在)(株)キャッツ企画ホームページ[5]、人物紹介[6][7]
  39. ^ 祝はこの「ドンキーズ」には加入しないまま芸能界から引退している。芸能活動を退いた理由は不明。
  40. ^ こちらのサイトで祝の近況が確認出来る。北方将大 オフィシャルサイト ノーブルグループ家族感謝祭開催
  41. ^ 初代の司会を担当した。
  42. ^ 前期後半のレギュラーを担当。
  43. ^ 「帰ってきたドンキーカルテット」のコーナーに出演した。
  44. ^ ジャイアント吉田のみ出演。「吉田の発明品クイズ」に出演した。
  45. ^ 猪熊虎五郎のみ声の担当、モドロ役。
  46. ^ ザ・ドリフターズからドンキーカルテットへ~小野ヤスシの青春、ニッポン放送ON LINE、2018年6月28日(更新:2020年1月12日)。
  47. ^ ジャイアント吉田 official channel[8]※ただし現在は閉鎖されている。
  48. ^ 2016年6月5日までに計11回分が公開されている。しかし現在は削除されており閲覧することは出来ない。
  49. ^ 祝勝は当時、既に芸能界を引退していたという諸事情があった。
  50. ^ いかりや長介らが脱退後のジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのメンバー。短期間になるが飯塚・ジャイアント吉田らと共演している。フジテレビの子供番組『みんなあつまれキーパッパ』にレギュラー出演していた。
  51. ^ 熊は番組のメイン司会者であり、第1回目のみに登場している。
  52. ^ グループ・サウンズ期のザ・ヤンガーズメンバー。フォークトリオのザ・ジンギスカン・トリオを経て吉田とブラックジャックに参加し、平行で1982年頃漫才コンビVANVANを仲一也と組み活動していたが引退[9]出展「『お笑いスター誕生!!』の世界を漂う[10]」仲一也はその後一也に改名を経て、相撲呼出し漫談家として活躍中(2017年4月現在、落語芸術協会公式サイトから[11])。
  53. ^ または山田昌、もとアイドル・フォー
  54. ^ レオナルド熊は初回である第1回目のみ出演で降板しており2回目以降は別々のコーナーに分離した関係もあるため、帰ってきたドンキーカルテットには姿を見せなかった。
  55. ^ メインはリーダーの小野との会話で、吉田が言い間違えたのを突っ込まれるやり取りがあった。シゲ堂本が扱う「シンセサイザー」を思わず吉田が「シンセサイダー」と言い間違えており、それを指摘されて突っ込まれた場面がある。
  56. ^ 帰ったきたドンキーカルテットでも、小野に小突かれた猪熊が「アィダダダダダァ〜!!」と奇妙で面白い声を発するなど、メンバー同士で当時の頃と変わらない小競り合い・取っ組み合いなどを展開していた。
  57. ^ 祝が出演していない回は、別のメンバーが弁当を勝手に食べる役を代行していた。
  58. ^ 特に一斗缶は実際にへこんでしまっており、形が変形してしまうほどであった。
  59. ^ 地上波TVで再放送される機会が多い「アラモのテーマ」をもとにしたコントなどで聴ける小野のギター、など。
  60. ^ 当時生放送だった番組や、映像を保存してDVD・ブルーレイソフト化などの二次利用や、保存して残したり後世に伝えようという観念がなかった時代だったという事情もある。
  61. ^ 当時の映像・台本などの資料が乏しく手元に無かった状況であった。しかしドンキーの全メンバーが久々に集結しており、当時の雰囲気や明るい芸風も変わらぬままコント・音楽を披露している。
  62. ^ スタン・フリーバーグらも苦心し台詞から構成歌唱演奏が無ければラジオドラマ寸劇と大差ないものもあった。
  63. ^ ソノシート「音のハレンチ 耳で聞くマンガ」・ドンキーカルテット1969年、小野ヤスシによるライナーから引用「昭和30年代にさ、フランキー堺とシティ・スリッカーズというコミックバンドがあったのを知ってるかい?あちらのスパイク・ジョーンズばりに効果音プラス、ジャズの面白いグループだったんだよ。しかも、サイドメンが全員一流のジャズメンとして通用する一流の腕があり、堂々たるフルバンドだったのさ。この辺りからコミック音楽が盛んになり、ラテンをやっていた「ハナ肇とキューバン・キャッツ」がクレージーと名を変えてからのことは君も知り過ぎているよな。その後「ドリフターズ」しかり、世志凡太のグループしかり。そしてこの鳥取県が生んだ芸術家?ドンキー・カルテットあたりが受けに入ってる訳なのよ。ドンキーのギャグは、ジャズ喫茶やクラブなどでお客さんを笑いでブッ倒すアングラ的なセンス!そのムードを電波に乗せたのが当たった訳なんだが、この盤でも独特の笑いを振り撒いている。物を食べながら聞いちゃいけないよ。吹き出すと困っちゃうからさ」(原文のまま、引用図書に代わり資料〈証言〉として実物から転記)
  64. ^ モンティ・パイソンチームとの交友からビートルズのパロディラトルズが派生した。
  65. ^ ポール・マッカートニーの実弟。
  66. ^ 「Team DATE名誉顧問」は太気拳創始・澤井健一の弟子だった!! 吉田かずおインタビュー - Dropkick (2017.2.1)

参考資料[編集]

  • 東京ギャグ列伝〔下〕フォーマット・VHSテープ ASIN: B000064N3I  販売ポニーキャニオン 発売1992年10月21日
  • 昭和達人芸大全〜笑芸・喜芸・すっとこ芸 フォーマット・DVDボックス ASIN: B00008BDJ 発行NHKソフトウェア・販売ポニーキャニオン 発売2003年3月19日 NHK番組1991年放送「爆笑!コント大集合」出演ドンキーズ(ジャイアント吉田、猪熊虎五郎、ばんきんや参加)※解説文、メンバー紹介、データ表記無し