バテレン追放令

ウィキペディアから無料の百科事典

秀吉のバテレン追放令 (吉利支丹伴天連追放令)。

バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日天正15年6月19日)に豊臣秀吉筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreにし、英語fatherとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。

原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の「覚(おぼえ)」(「覚書(かくしょ)」とも呼ばれる)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の「覚」が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。

概説[編集]

織田信長は、鉄砲伝来から鉄砲(火縄銃)に強い関心を持って国内大量生産して導入することで戦を有利にし、天下布武(五畿を中心とする畿内・近国天下統一)を目前にした。鉄砲をもたらしたポルトガル人が命を懸けてキリスト教の布教をするのに感心し、南蛮貿易、一部仏教勢力への牽制として、キリスト教を保護していた。豊臣秀吉は元来信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。イエズス会の宣教師は1583年に大坂に初めて到着、大坂城にはその後キリスト教に興味を持つ女性を含む多くの日本人がいた[1]1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。イエズス会への許可は、当時の仏教徒への許可より優遇されたものだった[2]。天正14年(1586年)3月[3]『日本西教史』によると、秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った[4][5]

しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され[注 1]、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている事などを天台宗の元僧侶である施薬院全宗らから知らされたとされる[注 3][注 6]。このときに『天正十五年六月十八日付覚』も施薬院全宗と見られる人物によって起草された。この翌日の6月19日(西暦7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。

バテレン追放令は外交政策だけでなく以降の禁教令、鎖国、キリシタン迫害までの反キリスト教的宗教政策の原動力となった[19]。バテレン追放令以降の秀吉の書簡は[19]キリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど[20]神国思想を意識的に構築しており、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した[21][22][23]。追放令以降も秀吉は三教神道儒教仏教)に見られる東アジアの正統性を示すことによってキリスト教の特殊な教義を断罪したが[24]、家康の発令した「伴天連追放之文」(起草者は以心崇伝)でも、キリスト教を三教一致(神道儒教仏教)の敵として名指しで批判している[25][26][27]

欧米ではバテレン追放令を秀吉の独裁者としての側面、領土拡張政策の文脈の中で検討することがある。ジョージ・サンソムはキリスト教の教えが社会的な序列、既存の政治構造に挑戦したことに注目しており、バテレン追放令を秀吉が独裁者、専制君主の観点から宣教師を単なる異教徒の枠を越えて、社会秩序の土台を弱体化させるものとして恐れた結果として起きた動物的な防衛反応だったと分析している[28]。スペイン領フィリピンではバテレン追放令を敵対的な外交政策として警戒を強め、秀吉によるフィリピン侵略計画の発端と見なしている[29][30][注 7]ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックは1587年のバテレン追放令から1592年のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している[31]

追放令の社会的背景[編集]

明侵略のための支援要請[編集]

バテレン追放令以前、秀吉は明侵略のためにポルトガルから2隻の軍艦を購入できるよう、宣教師に取引斡旋の依頼をしていた[注 8]。追放令後もスペイン人に軍艦の購入を打診したが、秀吉によるフィリピン侵略に使われる可能性を危惧したスペインは拒絶した[32]

関連する基本資料の記述[編集]

バテレン追放令の原文(11か条の「覚」)には宣教師が中国、朝鮮、南蛮に日本人奴隷を売っていた[注 3][注 6]と糾弾する箇所があり、その具体的な状況として『天正遣欧使節記[注 9]と、11か条の「覚」と部分的に内容が重なる箇所がありバテレン追放令と同時期に書かれた『九州御動座記』が参考文献とされることがある。11か条の「覚」が宣教師とポルトガル商人を同一視していたかは不明だが、より広義なポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷しか存在は確認されておらず[33]日本人奴隷の具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。

バテレン追放令に先立ち豊臣政権は九州を制圧した。遠征時の九州の様子は豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己によって『九州御動座記』として1587年7月頃に記録されたが、内容の大半はキリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。

牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。

ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[34]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている[35]

『デ・サンデ天正遣欧使節記』は1582年に旅立った少年達の記録として追放令前後の九州の社会的状況を記したものとして引用されることがある。出版年は1590年のものであるため、バテレン追放令の影響と見られる記述も収録されている。日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[36]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている[37]

宣教師の社会的評価[編集]

バテレン追放令の原文では日本を神国と宣言する一方で、キリスト教を邪法として定義しており、異文化、異教を広めていた宣教師への風当たりは強かった。

日本における宣教師への社会的評価を示すものとして、誹謗中傷を目的として流布された風説がある。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[38]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。

司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[39]

さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[40]仏教説話集『沙石集』には生き肝をとする説話があり[41]仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダ等による西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。

人肉を食うということも、草木を枯らすということも、また戦乱をおこし、町を焼き、国々を滅ぼすということも、つまるところは一つである。異邦人としての天竺人、とくに宣教師の存在そのものが、死と破滅を伴うという神秘的な考え方である。 — 岡田章雄『キリシタン・バテレン』至文堂、1955

こうした外国人が破滅をもたらすという考え方には、排外主義的な外国人や異教徒への恐怖があると岡田章雄は分析している[38]

宣教師は「にせものの誑し狐」と呼ばれることがあった[42]。こうした狐との呼称には宣教師が人を騙すべきとの固定観念があったという。豊後で宣教師達と論争をした仏僧達は次のように述べたという。

天竺から来た伴天連たちが言うことはすべて嘘である。彼らペてん師たちはお前たちを欺くから、まるで子供のように素直であってはならぬ[43]

狐と宣教師を同一視して排斥することは、当時の日本人の宗教観とも合致する。前田利家の実子で秀吉と正妻おねの養女の豪姫が病にかかったときに、狐が憑いたとされ、秀吉は伏見稲荷へ宛て朱印状を発布した。「日本の内、年々狐狩り仰せつけられるべく候」などの脅し文句が著述されているが、この朱印状が偽物でない事が明かされている[44]

宣教師に対する奴隷貿易批判について[編集]

1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師による奴隷貿易を批判している[注 3]

大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。 — 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」

宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[45]、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり[46]、宣教師が初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年であり信憑性は低い。

11か条の「覚」にある宣教師による奴隷貿易糾弾については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[10]

16世紀から17世紀への転換期、イベリア同君連合の第2代支配者であるポルトガル国王フィリペ2世(スペイン国王フェリペ3世)は、イエズス会の要請により、1571年の勅許を再制定して日本人の奴隷貿易の交易を中止しようとしたが、彼の政策はポルトガル帝国の地方エリートの強い反対に会い、長い交渉の末、イエズス会のロビー活動は失敗に終わった[47][注 3]

日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、永代人身売買を改めて年季奉公人とするように働きかけが行われた[48][49][注 10]。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた短期所有者証明書(schedulae)[54]に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改めるよう介入したとされている[48][55]。マテウス・デ・クウロス等の宣教師らによって、人道的介入であっても関与自体が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、宣教師の人道的な関与についても禁じられた[56]。1598年の人道関与の禁止決定についてはバテレン追放令によって、日本の国内法が奴隷貿易を違法としたことも影響していたとされる[57][注 11]

宣教師らは年季奉公人(または期間奴隷)の洗礼も行うことがあった。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた[66][67]

秀吉が奴隷貿易に怒って追放令を発したとの説もある(後述の追放令の原因を参照)が、最新の研究はこの説を否定している[57]

スペインとの外交関係[編集]

バテレン追放令以前からスペインは日本人によるフィリピン侵略を警戒していた。フィリピンでは倭寇の大規模な襲撃が1574年、1582年と続いていたが、日本によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルであり、マニラでは日本人がフィリピンを植民地にするつもりであるとして備えが行われていた[68][注 8]

1587年のバテレン追放令後、秀吉はポルトガル人を介さない通商路の開拓に関心を抱くようになった[注 7]。明国との貿易は閉ざされており、フィリピンは数少ない選択肢の一つとなっていた[69]1587年、フィリピンには2隻の日本船が来航したが、バテレン追放令の敵対的外交政策と整合しないためスペイン人の疑惑は深まり、フアン・ガヨというキリスト教徒で冒険家の日本人に対してフィリピン人の反乱計画に加担した容疑がかけられた[29][70]

1589年、30〜40人の巡礼者と称する日本人の集団がマニラを訪問した。彼らはマニラ周辺の河口を15リーグ (単位)歩いて偵察し去っていったが、スペイン人はこれを日本側の諜報活動と見ており、秀吉の領土拡張政策の始まりと考えた[30]。フィリピンとの交易が認可された1591年[69]には原田孫七郎がフィリピン征服の実地調査を行ったとスペイン側は分析しており、バテレン追放令を契機とし秀吉によるフィリピン侵略を警戒するスペインと日本の相互不信が強まることになった[32]

スペインの日本への領土的野心については、スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に追放令以前に舵を切っていた[71]

私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これらすべてのものを与えてくださっています[71] — 1586年、スペイン国王フェリペ2世

むしろスペインは秀吉の統一政権がフィリピンに侵略する可能性に注意を払っていた[32]

スペイン人はバテレン追放令をフィリピン侵略計画の発端と見なしていた[29][30]

追放令以前の宣教師の状況[編集]

日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒が元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している[72]。1563年十一月七日頃[73]には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれたという[74]。1573年には深堀純賢によってトードス・オス・サントス教会が焼き払われた[75]。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが[15]、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは神社仏閣の破壊を禁じていた[76]

長崎はもともと小さな寒村に過ぎなかったが、カリオン神父

ここには諸領主から迫害されて信仰を失いまいとして各地から追放されて来た様々なキリスト教徒たちによって造られた四百以上の家屋からなる集落がある

と述べている[6]大村純忠は新町長崎と茂木寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした[7]大村純忠ポルトガル船の誘致、新町長崎茂木寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている[8]

長崎の特殊な状況、キリスト教徒と仏教徒間の対立がバテレン追放令の原因とする説もある(後述の追放令の原因を参照)。

追放令の原文[編集]

『天正十五年六月十八日付覚』原文[編集]

  • 伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事、
  • 国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事、
  • 其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
  • 弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事、
  • 右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事、
  • 伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
  • 本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事、
  • 国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
  • 伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事、
  • 大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事[注 3]
  • 牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。

右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、

天正十五年六月十八日     朱印 — 天正十五年六月十八日付覚[77][78]

(大意)

  1. (自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
  2. (大名に)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんことだ。
  3. 大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
  4. (知行地が)200、3000以上の大名は、キリスト教徒になるには、秀吉の許可を得ればできることとする。
  5. 知行地がこれより少ない者は、八宗九宗[注 12]などのような宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。
  6. キリスト教徒については、一向宗以上に示し合わせることがあると、そう聞いているのだが、一向宗はその国郡を寺領(寺内町)を置いて大名への年貢を納めないだけでなく、加賀国を全てを一向宗にしてしまい、大名の富樫氏を追放し、一向宗の僧侶に治めることを命じ、そればかりかさせ越前国までも取ろうとし、治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実だ。
  7. 本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置く(=天満本願寺)ことを許しているが、この(一向宗の)寺領のようなものは以前から許したことはない。
  8. 国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。
  9. (大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない。
  10. 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する[注 3]
  11. ウシやウマを売買して食べることは、これもまたけしからんことである。

ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。

以上 天正15年(1587年)6月18日

『吉利支丹伴天連追放令』原文[編集]

追放令には前日の「覚」から意思の変化を示す文言があり、日付、伝来も同一でないことから一夜で秀吉に心境の変化があったとする説が提案されている。「覚」では重臣達が出席した御前会議での施薬院全宗の讒言とみられる糾弾を列挙しているが、6月18日時点では宣教師の追放を命じたりキリスト教を邪教と断じてはいなかった。「覚」にあった奴隷、人身売買の文言が消えたのは、ガスパール・コエリョの反論によって修正した可能性もあるが、いずれにせよ家臣団の中でも強い影響力のあった高山右近の棄教・服従の拒否によって追放令が発布された説が検討されている[79]

追放令では「神国」である「日本之地」でのキリスト教の布教はいかなる条件であっても「曲事(不正)」であり、その神国で神社仏閣を打ち破り信徒を持つことは、前代未聞の「天下」の「御法度」に背く(仏法に反する)「邪法」であると断じている[注 13]。バテレン追放令は『神風』、『神皇正統記』とならぶ神国思想皇国史観の宗教的な象徴、源流と見なされているが、天皇・神社の権威を借用しておらず、主に仏教側の視座から施薬院全宗が起草したことがうかがえる[80]

  • 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
  • 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
  • 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
  • 黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
  • 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。

已上

天正十五年六月十九日     朱印 — 吉利支丹伴天連追放令[81]

(大意)

  1. 日本は自らの神々によって護られている国[注 14]であるのに、キリスト教の国から邪法[注 15]をさずけることは、まったくもってけしからんことである。
  2. (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。
  3. キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法[注 15]を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。
  4. 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
  5. いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。

以上 天正15年(1587年)6月19日

ただ、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡している。キリスト教への強制の改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由とし、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とした。事実上は信仰の自由を保障するものであった[82]

注進状(天正十五年七月十三日)[編集]

『吉利支丹伴天連追放令』のおよそ1ヶ月後の天正15年(1587年7月13日、豊臣秀吉は注進状を皇大神宮(内宮)に奉納している。

伴天連御成敗之事、関白秀吉朱印六月十八日之御紙面、神慮大感応たるへき旨也、就其捧御礼連署、天照皇太神宮
注進 抑 御朱印之趣伴天連御成敗等之事
右御朱印致頂戴、誠以一天太平四海快楽大慶此時奉仰尊

天正十五年七月十三日 — 黒住真『天皇を中心とする日本の「神の国」形成と歴史的体験』[80]

天照皇太神宮と関連付けて「伴天連御成敗」が宣言され「神慮大感応」と感謝されており、天台宗の元僧侶が主導してはいるが神仏共同による宗教弾圧であったとする見解もある[80]

「追放令」の起草[編集]

追放令本文の起草は秀吉本人ではなく、秀吉の側近で主侍医でもあった施薬院全宗とされている。なお、ルイス・フロイス『日本史』によれば、全宗の師である曲直瀬道三は、この追放令発布以前くにキリスト教に入信し(天正12年、1592年)、「ベルショール」の洗礼名を受けている[83]

追放令の原因[編集]

秀吉がこの追放令を出した理由については諸説ある。

  1. キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
  2. キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため。
  3. ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。(性的奴隷からゆきさん遊郭)
  4. 秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。
  5. 豊臣秀吉によって1586年5月4日、イエズス会に対して布教許可証が発布されたことに危機感を覚えた仏教等の在来宗教勢力による宗教弾圧の要望を受け入れたため。
  6. ポルトガルとイエズス会(またはスペインとフランシスコ会)による侵略を防ぐため[注 1]。(学説とは無関係だが自主公表された情報源等において陰謀論として論じられてきた。)
  7. ポルトガル・スペインのを、長崎・平戸・口之津だけでなく、博多にも寄港させるよう頼んだが「博多湾は水深が浅く危険である」と断られたため。

1.については、イエズス会宣教師ルイス・フロイスによると秀吉の言い分は「かつて織田信長を苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教は大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」というものである。秀吉がこのような考えを持つに至った直接的なきっかけは、九州征伐に向かった秀吉の目の前で、当時の日本イエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョが、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示したことだとも見られている。同時期にイエズス会東インド管区巡察師として日本に来ていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノはコエリョの軽率な行動を厳しく非難しており、コエリョの行動に問題があったことは確かなようである[84]。キリスト教の拡大については、6月18日の11か条の「覚」(『御朱印師職古格』)ではキリシタンも「八宗九宗」(第九条)と規定して体制下の宗教と見なしていたが、翌19日の「追放令」ではこれを覆すかのように「邪法を授け」るものとしてキリスト教を厳しく規定しなおしている。

2.のキリシタンによる神道・仏教への迫害については、九州において領民を強制的にキリスト教に改宗させたり、神社仏閣を破壊する[注 13]などといったことが有馬氏大村氏などで行われていた。[信頼性要検証]

3.の人身売買説に関しては、11か条の「覚」に、日本人を南蛮に売り渡すことを禁止する一文がある一方[注 3][注 16][注 17]、翌日の「追放令」にはそのような文言は見当たらない。秀吉は1587年の九州征伐の際、九州を中心として奴隷貿易が行われていたことについて当時のイエズス会の布教責任者であったコエリョを呼び詰問するとほぼ同時期にバテレン追放令を発布している。ただし、1537年に発令された教皇勅書スブリミス・デウスは異教徒を奴隷とする事を禁じ、イエズス会は日本人を奴隷として売買することを禁止するようにポルトガルに呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世は大規模になった奴隷交易がカトリック教会への改宗に悪影響を及ぼすことを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[86][87]ことについて秀吉が知っていたかどうかについては不明である点には留意が必要である。

デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[37]

日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[37]

また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[37]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[88]。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[注 9]。伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[16][注 4]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 5]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[17][18]

4.の女性問題で秀吉が激怒したと言うのは(フロイス日本史)、正確には「女を連れていこうとした施薬院全宗が怒って、秀吉にキリシタンを讒言した」というものであり、「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」というのは誤りである。よってこれが理由ということは考えられないとの説があるが、女漁りが施薬院全宗個人の嗜好である場合、宣教師から秀吉に告げ口される前に施薬院全宗が先を制して噂、憶測等をもとにした讒訴をしたとも考えられる。「(秀吉のために)キリシタンの女を連れていこうとした施薬院全宗が命令への不服従に怒り、秀吉にキリシタンの女が命に逆らったと讒訴をして秀吉が激怒した」のであれば矛盾は無くなる。

5.は自身も仏教徒である秀吉が元僧侶である施薬院全宗大村由己の讒言を受け入れたことを前提とし、秀吉側近だった施薬院全宗等が九州で一定の信者数を持ち、前年に布教許可まで受けたキリスト教に対する危機感を主要な動機とした宗教戦争との見解である。必ずしも神国皇国史観に沿った魔女狩り、宗教弾圧であったとする俗説と対立するわけではない。豊臣政権から徳川幕府に移行してからも、仏僧である以心崇伝がキリスト教弾圧において主導的役割を果たしている。一方で、キリスト教の禁止を働きかけたのを神道側とする見解もあり、その直接的なきっかけが、伊勢神宮がある伊勢国南部を与えられていた蒲生氏郷がキリスト教の洗礼を受けたことに伊勢神宮や神宮と密接な朝廷が危機感を覚えたとするものである[93][94]

6.のポルトガルやスペインによる植民地化[注 1]を懸念した陰謀論については、大航海時代のポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した港湾都市、小規模の貿易拠点、居留地を手に入れる一方で、すでに文明が発達していたインド、中国等のアジア諸国の植民地化には成功していない。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争を伴う内陸部の植民地化ではなかった。イエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するかのように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスがアジアで植民地を増やしていった。

フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない[95][96]。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた[95]イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである[97][98][99]。宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても見解は分かれている。1591年から1593年に秀吉はフィリピン総督に服従を迫っており、豊臣政権はアジアにおけるポルトガル、スペインの脆弱な戦力を把握していたとみられる。追放令でもポルトガル、スペインを軍事的脅威とはみなしてはいない。

7.の出来事の直後に発令している。これより前にも大坂で同様な頼みを、やはり「大坂湾の水深が浅い」という理由で断られており、機嫌を損ねていたと思われる。

追放令の影響[編集]

1587年の禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。

南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収し、1592年(文禄元年)には長崎をイエズス会から奪還し直轄地にしたが[要出典]、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。1591年インド総督大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教神道儒教仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[24]秀吉ポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[100]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[101]豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[102]

追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[103]。1590年、ガスパール・コエリョと対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[104]

秀吉が明と朝鮮の征服を試みるのと並行して、1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、1592年5月31日に入貢と服従を勧告する秀吉からの国書をフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉もフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をしていたが、フィリピン占領計画が実施されることは無かった[105][106][107]

1593年(文禄2年)、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタイタリア語版平戸に来着し、肥前名護屋城で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた[106][107]

秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことであるが、事件を発端とした弾圧からはイエズス会が除外されており追放令は空文化していた。

日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになる。慶長18年(1614年)12月19日、家康は新たなバテレン追放令の作成に着手した。幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝を江戸に呼び、文案を作成させ、翌日、これを承認、秀忠に送り捺印させた[108]。その結果、「伴天連追放之文」ができあがった。伴天連追放之文は排吉利丹文ともいう[108]。「伴天連追放之文」の大半は神道儒教仏教に関するもので、キリスト教を統一された日本の宗教(神道儒教仏教の三教一致)の敵とし、キリスト教を禁止するための神学的正当性を示そうとした[25][26][27]。言い回しなどは基本的な部分において施薬院全宗が起草したバテレン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都にあった教会等の全国の宗教施設を破壊、キリスト教徒は日本各地に散らばることになるが弾圧は徹底されなかった。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教を介して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[109]

徳川秀忠元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、キリスト教の本格的な宗教弾圧キリスト教徒に対して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に好意的で弾圧に乗り気で無かった京都所司代板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)、この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において処刑(元和の大殉教)、中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた[110]

島原の乱後に出版された『吉利支丹御退治物語』には火炙りによる処刑を成仏のためと処刑法に抗議するような記述はない。

火あぶりに、なるも。うしざき。車ざき、さかはりつけ。かやうのなんに、あふか。のそみの、かなふ成仏と心へて、いのちを、いとひ。かなしむもの、なきと、みえたり。あはれなる事共かな、ちゑのなきものハ。をのれが、みヽに聞入、心に、おもひ。さだめたる事をハ。かつて、ひるかへす事なし。たとへは、二三さいの、わらんべか。かヾみのうちの、かちを見てハ、まことの、かたちと思ひ。水の中の月を、みてハ。ゑんこうが。てにとらんと、おもふ、おろかなる心と、ひとしきもの也。ぐ人はみな、かくのごとし。げたうの法、まほうなるべし[111]

火あぶり」「牛裂き」「車裂き」「逆さ」にあうのは外道邪教のせいであると批判の矛先をキリスト教に向けており、現代の基準では野蛮な行為を異教徒に対する攻撃として正当化している。

島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であり、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、檀家を宗門人別改帳から削除し無宿非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。

追放令後の外交関係[編集]

欧米の歴史学者の中には豊臣秀吉の反キリスト教的な外交政策は、伝統的な社会序列に従わない反体制思想として危険視されていたキリスト教から秀吉の独裁政権を守るために行われたと主張する者がいる[28]。スペイン人歴史学者ホセ・エウゲニオ・ボラオ・マテオはスペイン領フィリピン在住のスペイン人がバテレン追放令を秀吉のフィリピン侵略作戦の前触れとして理解し、スペイン人が日本からの侵略に備えていたことをスペイン側の資料から提示しており[29][30]ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックも1587年のバテレン追放令から1592年の原田喜右衛門のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している[31]

1587年、日本からの2隻の船がフィリピンに来航したが、バテレン追放令の敵対的外交政策と整合性のとれない和船の来航に警戒したスペインは日本の侵略に備えるようになった[29]1589年には巡礼者と称する日本人の集団が、マニラ周辺を歩き周り偵察しており、バテレン追放令を契機とした膨張政策の始まりであるとスペイン側は記録している[30]1591年には原田孫七郎がフィリピン征服の実地調査を行ったとされ、侵略を警戒するスペインと日本の相互不信が強まっていった[112][注 18]

日本人によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルである[注 8]マニラでは日本人の倭寇が単なる略奪以上の野心を持っているかもしれないと推測されており「彼らはほとんど毎年来航しルソンを植民地にするつもりだと言われている」[68]と警鐘を鳴らしていた。

天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書によると、秀吉はフィリピンのみならず「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」とし[3][113]インド南蛮東南アジアポルトガルスペインヨーロッパ等)への侵略計画を明らかにした。秀吉は先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした[114][注 18]

1592年原田喜右衛門がマニラに来航して秀吉の親書を総督に渡した[注 19]豊臣秀吉フィリピンに対して降伏朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した[115]

1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本フィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べた[116]。ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。

フィリピン黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない[117]

ロペスはまた日本人フィリピン軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らはこれらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという[118]。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になると考えていた[119]

その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞いたが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、日本人は1万人で十分と言った。さらにロペスに10隻の大型船輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた[120]。ロペスは最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろうといった[121]

1596年、空文化していたバテレン追放令がサン=フェリペ号事件を契機にして更新された[31][注 18]1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオンスペイン語版フィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした[122][123]。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている[122][123]。バテレン追放令の更新によってスペリン領フィリピンでは、秀吉によるフィリピン侵略への懸念が再燃した[124][注 20]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b c 寒村に過ぎなかった長崎には、各地で迫害され追放されたキリスト教徒たちが集まっていた[6]大村純忠は都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることを条件に新町長崎と茂木寄進1579年に打診し、1580年に寄進状を発行した[7]。イエズス会は迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所を確保できることや土地をいつでも手放す自由があることを考慮して、大村純忠の打診から3年後の1582年に受け入れた[8]
  2. ^ ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[15]
  3. ^ a b c d e f g h イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[9]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[10]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[11][12][13]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[14][注 2]
  4. ^ a b 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [90]のだという。
  5. ^ a b 江戸幕府が豊臣秀吉遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[91][92]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、本人の意志に関係なく性的サービスの提供の強要が横行した(性的奴隷)。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発だった[17]
  6. ^ a b 伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[16][注 4]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 5]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷からゆきさん)として売る商行為は近代まで続いた[17][18]
  7. ^ a b 追放令をスペインは膨張政策の予兆と捉え、未遂に終わったがフィリピンへの侵略計画を予想し的中させた。フィリピン侵略の偵察と見られる和船来航は1587年、1589年にあり、1591年には具体的な侵略計画に関わったと見られる原田孫七郎がフィリピンを訪問している。その一方で秀吉は1591年にフィリピンとの交易を認可しており[29]、フィリピンとの交易と侵略計画を同時に行っていた。
  8. ^ a b c 1586年3月、秀吉はガスパール・コエリョに対しへの侵略計画を明かしている[3][4][5]
  9. ^ a b 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、宣教師によって記述された情報はポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動[89]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注 3]
  10. ^ 江戸時代前期の年季奉公の主流は奴婢下人の系統を引くもので、奉公人は人身売買の対象となった。江戸幕府は法律上は営利的な人の売買を禁止したが、それは主として営利的な人の取引に関したもので、実際においては父や兄が子弟を売ることは珍らしくなく、また人の年季貫は非合法でなかった[50]。主人と奉公人との間には、司法上ならびに刑法上の保護と忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴えることが許されず、封建的主従関係であったという[51]江戸時代に入り雇用契約制度である年季奉公が一般に普及しはじめると譜代下人(または譜代奉公人)としての男性の売買は江戸時代中期(十七世紀末)にはほとんど見られなくなった。しかし遊女飯盛女の年季奉公ではいくつかの点で人身売買的な要素が温存された[52]
    1. 家長権を人主から雇い主へ委譲
    2. 転売の自由
    3. 身請け・縁付けの権利を雇い主に委譲
    4. 死亡後の処置も雇い主へ一任
    中田薫 (法学者)は「奴婢所有権の作用にも比すべき、他人の人格に干渉し、其人格的法益を処分する人法的支配を、雇主の手に委譲して居る点に於て、此奉公契約が其本源たる人身売買の特質を充分に保存する」[53]として「身売的年季奉公契約」と名付けた[52]
  11. ^ 中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが[58]、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている[59]。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという[60]。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した[61]。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという[60]。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある[62]。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民奴隷の区別をいっそう困難にしていた[63]。最新の研究ではアジア人奴隷(または年季奉公人)は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある[64][65]
  12. ^ 八家九宗のことで、日本に広まった仏教の南都六宗倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗華厳宗)に、天台宗真言宗を加えて8つとし、さらに禅宗あるいは浄土宗を加えた9つの宗派を指す。
  13. ^ a b キリスト教に敵対的な領主は領内の十字架を倒し、キリスト教徒を元の教えに強制改宗するように命じたり(1564年十月十四日)[72]、1563年十一月七日頃には修道院とキリシタンの農民たちの家を燃やした[73][74]。1573年には教会が焼き払われている[75]。このようにキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していた[15]
  14. ^ 神国」や「神州」という語は、対外的な緊張が高くなったときに用いられた。
  15. ^ a b 本来は「邪法」の対語は「正法」であるが、ここではこれを仏法(仏教そのもののこと)と言い表している。
  16. ^ 徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版には、「秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録や天正遣欧使節の報告書にはヨーロッパ人がアジア人を奴隷貿易していたことが書かれている」と記されているが、これは出典が不明な上、朝鮮出兵の時代の日本になぜか「記者」がいたり、当時は外国人が入ることを許されなかった朝鮮においてヨーロッパ人がアジア人を使役していたりなど、事実と異なる記述がある。このため信憑性を疑問視する説もある。
  17. ^ その他の条文で「商人は出入り自由」としていること、後の朝鮮出兵において朝鮮人捕虜を日本に連れてきて労働力としていることなどから、これは主要な目的ではなく、明征服にあたって少しでも人口を減らしたくなかったために盛り込まれた条項と推測する山本博文の説もある[85]
  18. ^ a b c 1587年の追放令から1592年の原田喜右衛門のフィリピンへの降伏勧告、1596年の追放令の更新を一連の流れとして記述することがある[31]
  19. ^ 秀吉の親書も含めた4通の手紙を受領したことが記録に残されている。
  20. ^ 日本によるフィリピン侵略は秀吉だけでなく、1630年松倉重政によって計画が行われた。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた。1637年には息子の松倉勝家の代においても検討がなされた[125]
    その後、5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきたキリスト教難民がマニラに到着し続ける一方で日本への神父の逆流が続いていた……松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君でキリスト教であったが、勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てに遭遇することになる。 — 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー、69(4)、10、2016、pp. 8-9[125]

    オランダ人は1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたが[126]、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていた[127]。フィリピン征服の司令官は松倉勝家が有力であったが、同年におきた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けた[128]

    島原の乱の数ヵ月後、将軍徳川家光の諮問機関は廃城となっていた原城を奪うために必要な努力と、何百マイルも移動して(当時の東アジアで最も要塞化された都市の一つであった)マニラ要塞に対抗するために同様の規模の軍と同様の海軍の支援を計画することを比較検討した。フィリピン侵攻のために用意した1万人の兵力は10万人、つまりその3分の1の反乱軍に打ち勝つために原城に投入しなければならなかった兵力であるべきとの分析がなされた[128]

出典[編集]

  1. ^ Kitagawa, Tomoko (2007). “The Conversion of Hideyoshi's Daughter Gō”. Japanese Journal of Religious Studies 34/1: 9–25. JSTOR 30234173. https://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/2916. 
  2. ^ The Spanish Lake (His the Pacific Since Magellan), O.H.K.Spate, 1979/6/1, Univ of Minnesota Pr (1979/6/1), ISBN 978-0816608829
  3. ^ a b c 朝尾直弘『天下一統』 8巻、小学館〈大系 日本の歴史〉、1993年。ISBN 419892273X 
  4. ^ a b クラツセ 1925, p.452
  5. ^ a b 西村 1922, p.471
  6. ^ a b Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598. f.435
  7. ^ a b Alejandro Valignano S. I. Sumario des las Cosas de Japon(1583). Adiciones de l sumario de Japon (1592). editados por jose Luis Alvarez-Taladriz. Tokyo 1954. Introduction. p. 70.
  8. ^ a b 井手勝美訳「日本イエズス会第一回協議会(1580-81)と東インド巡察師ヴァリニャーノの裁決(1582)」(キリシタン文化研究会編『キリシタン研究』第二十二 吉川弘文館 1982) p246,292-293,328 
  9. ^ Thomas Nelson (2004). “Slavery in Medieval Japan”. Monumenta Nipponica (Sophia University) 59 (4): 463-492. ISSN 00270741. JSTOR 25066328. https://www.jstor.org/stable/25066328 2024年3月14日閲覧。. 
  10. ^ a b OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  11. ^ Ehalt, Rômulo da Silva『Jesuits and the problem of slavery in early modern Japan』東京外国語大学 (Tokyo University of Foreign Studies)〈博士(学術) 甲第244号〉、2018年。doi:10.15026/91848NAID 500001067476https://tufs.repo.nii.ac.jp/records/1040 
  12. ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
  13. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
  14. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 494-504
  15. ^ a b c Boxer, C. R. (Charles Ralph); Calouste Gulbenkian Foundation. UK; Commonwealth Branch; Fundação Oriente; Discoveries Commission (1993) (英語). The Christian century in Japan, 1549-1650. Aspects of Portugal. Carcanet in association with the Calouste Gulbenkian Foundation, The Discoveries Commission, Lisbon, the Fundação Oriente, Lisbon. ISBN 9780520027022. ""But since the Portuguese are unwilling to do this, and they often go to places against the padres` wishes, there is always much jealousy and rivalry between these lords, from which follow in turn to great toil and moil to the padres and to Christianity. And, moreover, it sometimes happens that the Portguese go with their ships to the fiefs of heathen lords who bitterly persecute the padres and Christianity, wrecking churches and burning images, which causes great scandal and contempt of the Christian religion."" 
  16. ^ a b 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 実業之日本社、1923年
  17. ^ a b c Harald Fischer-Tiné (2003). “'White women degrading themselves to the lowest depths': European networks of prostitution and colonial anxieties in British India and Ceylon ca. 1880–1914”. Indian Economic and Social History Review 40 (2): 163–90 [175–81]. doi:10.1177/001946460304000202. 
  18. ^ a b Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Translated by Karen F. Colligan-Taylor. Routledge. p. 63. ISBN 978-1317460251. https://books.google.com/books?id=vlXrBgAAQBAJ&pg=PA63 
  19. ^ a b 日本キリスト教史、1990、五野井 隆史、ISBN 978-4642072878, pp. 150-151
  20. ^ 高木昭作「秀吉・家康の神国観とその系譜 : 慶長十八年「伴天連追放之文」を手がかりとして」『史学雑誌』第101巻第10号、史学会、1992年、1717-1742,1881-、CRID 1390001205135309056doi:10.24471/shigaku.101.10_1717ISSN 00182478 
  21. ^ 日本の近世〈第1巻〉世界史のなかの近世、朝尾直弘、中央公論新社(1991/07), pp. 108-118
  22. ^ 日本キリスト教史、1990、五野井 隆史、ISBN 978-4642072878, pp. 203-205
  23. ^ Handbook of Christianity in Japan / edited by Mark R. Mullins. p. cm. — (Handbook of oriental studies, Section 5, Japan ; v. 10) ISBN 90-04-13156-6 I. Japan—Church history. I. Series. pp. 251-252, "A more antagonistic dynamic between Shinto and Christianity in the late sixteenth and early seventeenth centuries is more easily identified. Early evidence is to be found, for example, in Hideyoshi's expulsion edict of 1587 and his 1591 letter to the Governor General of Goa (Gonoi 1990, 150ñ1). In both, Hideyoshi deploys Shinto symbolism to justify the expulsion from Japan of Christianity and its missionaries. Item 1 of the edict reads: Japan is the Land of the Gods. Diffusion here from the Kirishitan Country of a pernicious doctrine is most undesirable. His 1591 letter begins in the same vein. The fact is that our land is the land of the godsîóand then proceeds to an exposition of what Takagi Shÿsaku (1993) has identified as Yoshida Shinto theories of the origins of the universe. Asao Naohiro has observed that Hideyoshi was consciously constructing the idea of Japan as land of the gods as a counter and response to the idea of Europe as land of the Christian God. Ieyasu's letters to the Governor General of the Philippines in 1604 and the Governor General of Mexico in 1612 articulate the same ideas about Christianity's incompatibility with Japan as shinkoku, the land of the gods (Asao 1991, 108ñ18; Gonoi 1990, 203ñ5). More research needs to be done on this linkage between the Christian proscription and Shinto ideas, but it would not be surprising, given the nature of the nativistic dynamic, if counter-Christian concerns were somewhere present in the anxiety of both Hideyoshi and Ieyasu to have themselves deified and venerated after their deaths. "
  24. ^ a b Sources of Japanese Tradition, vol. 2, 1600 to 2000, edited by Wm. Theodore de Bary, Carol Gluck, and Arthur E. Tiedemann, New York: Columbia University Press, 2005. pp. 169-170
  25. ^ a b Guillaume, Xavier. “Misdirected Understandings: Narrative Matrices in the Japanese Politics of Alterity Toward the West.” Contemporary Japan, Volume 15, Issue 1. Japanstudien: Jahrbuch des Deutschen Instituts für Japanstudien 15 (2003): p. 99.
  26. ^ a b 海老沢有道『キリシタン南蛮文学入門』教文館, 1991. pp. 253-256
  27. ^ a b 狭間芳樹『日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 : ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって』アジア ・ キリスト教 ・ 多元性 3, (March 2005), pp.63-65
  28. ^ a b Sansom, George Bailey, Sir (1965). The Western world and Japan. CHaddon Craftsmen, Inc. p. 129. ""From his standpoint as a dispotic ruler he (=Hideyoshi) was undoubtedly right to regard Christian propaganda as subversive, for no system can survive unchanged once the assumptions upon which it is based are undermined. However high their purpose, what the Jesuits were doing, in Japan as well as in India and China, was to challenge a national tradition and through it the existing political structure. This last is an animal that always defends itself when attacked, and consequently Hideyoshi's reaction, however deplorable, was to be expected and does not seem to need any fuller explanation."" 
  29. ^ a b c d e f La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "Con ocasión de la llegada de los barcos de Matsuura de Hirado (1585) y de Ohmura de Nagasaki (1586), los japoneses que aún permanecían en Cagayan así como muchos de Lingayen, se desplazaron a Manila. Las primeras relaciones entre españoles y japoneses de Manila estuvieron marcadas por el recelo. Por un lugar estaban las sospechas sobre los verdaderos motivos de la llegada de barcos japoneses, ya que ello no casaba demasiado con la promulgación del decreto de expulsión de misioneros cristianos en 1587, es decir, de los jesuitas portugueses venidos de Macao. Ciertamente, el decreto no tuvo grandes consecuencias, ya que los misioneros disminuyeron sus apariciones públicas, e Hideyoshi se dio por satisfecho. Pero, las sospechas en Manila se agravaron con los dos barcos que llegaron en 1587. En el primero de ellos, perteneciente al japonés Joan Gayo, la tripulación resultó sospechosa de complicidad en una insurrección de nativos, liderada por Agustín Legazpi. Algunos fueron arrestados y, en particular, el intérprete japonés Dionisio Fernández fue ajusticiado el 13 de junio del año siguiente (1588)8. El segundo barco, de Matsuura de Hirado, llegó el 15 de julio con armas y provisiones. Aunque el capitán del barco llevaba un mensaje de buena voluntad de su señor Matsuura y de su hermano, cuyo nombre cristiano era Gaspar, esta vez los españoles tomaron precauciones y los 40 marineros de la tripulación fueron atendidos por la iglesia de Manila y tras acabar sus negocios se marcharon."
  30. ^ a b c d e La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "En 1589, fueron 30 ó 40 japoneses los que llegaron a Manila. Iban con vestimenta de peregrinos, para visitar las iglesias del país. Llevaban rosarios en el cuello y se movían con gran penitencia. Anduvieron 15 leguas alrededor de Manila y sus esteros, reconociéndolo todo. No se les molestó y se acabaron marchando. El gobernador fue de los que creyó a posteriori que habían venido en misión de espionaje, y con los datos que hubieran obtenido, tras contrastarlos con los de otros de los comerciantes, “se [habría] conocido en Japón la riqueza y la flaqueza de los naturales y la gente española que había para defender las Islas”9. Era el inicio del expansionismo de Hideyoshi10, y los españoles pensaron que también podrían ser objeto de un ataque japonés, y, en previsión de ello, Gómez Pérez Dasmariñas dio instrucciones, a principios de 1592, para preparar la defensa. Una de las medidas adoptadas fue congregar a todos los japoneses residentes de Manila en un barrio extramuros, el de Dilao, confiscarles sus armas y limitar su libre movilidad por la ciudad. La medida no parecía vana, a juzgar por las embajadas de Japón que llegaron a continuación a Manila."
  31. ^ a b c d 「Handbook of Christianity in Japan / edited by Mark R. Mullins. p. cm. — (Handbook of oriental studies, Section 5, Japan ; v. 10) ISBN 90-04-13156-6 I. Japan—Church history. I. Series. p. 9-11
  32. ^ a b c Never Imagine Yourself to be Otherwise: Filipino Image of Japan over the Centuries, Elpidio STA. ROMANA and Ricardo T. JOSE, Asian Studies 29 (1991), pp. 67-68, "In 1591, a Japanese named Harada Magoshichiro was reported to have studied parts of the Philippines and recommended that Hideyoshi conquers the Philippines. Hideyoshi made concrete plans but sent an emissary the following year to Manila and demanded that the Spaniards become his vassals and pay tribute; otherwise he would invade the Philippines. He has just invaded Korea, and the poorly defended Spaniards could only reply that they sought friendship with Japan. Japanese ships entering Manila were checked thoroughly to make sure they carried no weapons. The Japanese community in Manila was disarmed and resettled outside Manila in a place called Dilao district. The next year, the Spaniards tried to guard their north flank by invading Taiwan but a typhoon thwarted that expedition. Later, Hideyoshi also sent a request to the Spanish authorities in the Philippines for shipbuilders but was refused by the Spaniards who realized that they will be used to build warships. The apprehensive Spaniards sought reinforcements from Mexico. 10 The Japanese were also suspicious of Spanish attempts to proselyte in Japan. This mutual suspicion - Spain fearing a Japanese invasion, Japan suspicious of Spanish evangelization and fearful that Japan might be involved in power conflicts in Europe- was to continue into the early 17th century."
  33. ^ Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X
  34. ^ CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.
  35. ^ da Silva Ehalt, Rômulo (2017). Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan (Thesis). Tesis Doctoral, Tokyo University of Foreign Studies. p. 346.
  36. ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
  37. ^ a b c d デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p233-235
  38. ^ a b 岡田章雄『キリシタン・バテレン』至文堂、1955
  39. ^ フェルナン・ゲレイロ編「イエズス会年報集」『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第一冊、同朋舎、1987
  40. ^ 松田毅一監訳『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第二冊、同朋舎、1987、217-289頁
  41. ^ 小学館 2020a, p. 「猿の生肝」.
  42. ^ 東洋文庫所収『日本史-キリシタン伝来のころ』2、58 頁、1963、平凡社
  43. ^ 松田毅一、川崎桃太訳『完訳フロイス 日本史』、中央公論新社、2000 年。6 巻 116 頁
  44. ^ 桑田忠親『太閤の手紙』文藝春秋新社、1959、257-259 頁
  45. ^ 高麗江日本仁を売遣侯事曲事、1587年6月18日
  46. ^ 小学館 2020b, p. 「宗氏」.
  47. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
  48. ^ a b Rômulo da Silva Ehalt, Jesuit Arguments for Voluntary Slavery in Japan and Brazil, Brazilian Journal of History, Volume: 39, Number: 80, Jan-Apr. 2019., p.10
  49. ^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 275. RUIZ DE MEDINA, Juan G. Orígenes de la Iglesia Catolica Coreana desde 1566 hasta 1784 según documentos inéditos de la época. Rome: Institutum Historicum S.I., 1986, p. 114-22.
  50. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 58
  51. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 62
  52. ^ a b 嶽本新奈『境界を超える女性たちと近代 : 海外日本人娼婦の表象を中心として』一橋大学〈博士(学術) 甲第798号〉、2014年、15頁。doi:10.15057/26725hdl:10086/26725NAID 500000960865https://doi.org/10.15057/26725 
  53. ^ 中田薫「徳川時代に於ける人売及人質契約」『法制史論集』3・上、岩波書店、1943 年。
  54. ^ Servitutem Levem et Modici Temporis Esse Arbitrantes: Jesuit Schedulae & Japanese Limited-Term Servitude in Gomes Vaz’s De mancipiis Indicis, Stuart M. McManus, BPJS, 2018, II, 4, 77-99
  55. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt、p. 426
  56. ^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 273-276v. Pagès in PAGÈS, Léon. Histoire de la religion chrétienne au Japon – Seconde Partie, Annexes. Paris: Charles Douniol, 1870, p. 70-9. SOUSA, Lúcio de. “Dom Luís de Cerqueira e a escravatura no Japão em 1598.” Brotéria, 165. Braga, 2007, pp. 245-61.
  57. ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt、pp. 514-523
  58. ^ ブリタニカ・ジャパン 2022a, p. 「年季奉公」.
  59. ^ OKA Mihoko. “Kirishitan to Tōitsu Seiken.” In: ŌTSU Tōru et alii. Iwanami Kōza Nihon Rekishi Dai 10 Kan, Kinsei 1. Tokyo: Iwanami Shoten, 2014, pp. 185-187
  60. ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 473
  61. ^ PÉREZ, Lorenzo. Fr. Jerónimo de Jesús: Restaurador de las Misiones del Japón – sus cartas y relaciones (1595-1604). Florence: Collegii S. Bonaventurae, 1929, p. 47.
  62. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 730-2
  63. ^ MIZUKAMI Ikkyū. Chūsei no Shōen to Shakai. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 1969.
  64. ^ SOUSA, Lúcio de, and OKA Mihoko. Daikōkai Jidai no Nihonjin Dorei. Tokyo: Chuokoron-Shinsha, 2017.
  65. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 33
  66. ^ OM, Lib. 4, Tit. XVI; LARA, Silvia Hunold. ‘Legislação sobre escravos africanos na América portuguesa’. in: ANDRÉS-GALLEGO, Jose (Coord). Nuevas Aportaciones a la Historia Jurídica de Iberoamérica. Madrid: Fundación Histórica Tavera/Digibis/Fundación Hernando de Larramendi, 2000 (CD-Rom), p. 57. Tit. XCIX.
  67. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 91
  68. ^ a b Memorial to the Council, 1586, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 6, p. 183.
  69. ^ a b Visiones de un mundo diferente: Política, literatura de avisos y arte namban Imagen de portada del libro Visiones de un mundo diferente: Política, literatura de avisos y arte namban, Osami Takizawa (coord.), Antonio Míguez Santa Cruz (coord.), Centro Europeo para la Difusión de las Ciencias Sociales, 2015, ISBN 978-84-608-1270-8, p. 63, "Tras el edicto de expulsión de los jesuitas en 1587, Hideyoshi se interesó por abrir una posible vía de comercio que no pasase necesariamente por los portugueses y, puesto que el trato con los chinos seguía cerrado, las Filipinas eran una de las pocas alternativas disponibles; así, a partir de 1591 se autorizó el comercio con Manila9 . De todas formas, se trató de un lujo muy luctuante y bastante pobre, tal y como se extrae del reducido número de navíos comerciales japoneses llegados a la capital ilipina durante los años analizados en este artículo, diecisiete según nos dice el profesor Emilio Sola10. En cuanto a las mercancías intercambiadas, sabemos por los documentos castellanos que el principal negocio era el de la plata japonesa –Japón producía en ese momento nada menos que un tercio de la plata mundial11– a cambio de la seda china, con lo que realmente se trataba básicamente de hacer de intermediarios en el interrumpido comercio entre Japón y China. Aparte de esto, Filipinas importaba cáñamo, cobre, hierro, acero, plomo, salitre, mantas, pólvora, espadas, etc.12 y en Japón estaban muy interesados por cierto tipo de vasijas de cerámica ilipina."
  70. ^ Never Imagine Yourself to be Otherwise: Filipino Image of Japan over the Centuries, Elpidio STA. ROMANA and Ricardo T. JOSE, Asian Studies 29 (1991), pp. 67-68, "In 1587, an ill-fated Filipino anti-Spanish rebellion led by Don Agustin de Legaspi, Martin Panga and Magat Salamat took place in Manila and adjacent areas. The Filipino rebels got in touch with a Christian Japanese adventurer named Juan Gayo and enlisted him in a plan to use other armed Japanese to be disguised as traders stationed offshore. On signal, Gayo and his men were to attack from the sea and help the Filipinos drive the Spaniards out of Manila. But when the time of the attack came, Gayo either simply lost interest or betrayed the rebels. The Filipino rebels waited in vain for his help; meanwhile, the Spaniards discovered the plan, rounded up the leaders and executed them publicly. 9 The involvement of a Japanese naturally made the Spaniards more suspicious."
  71. ^ a b Geoffrey Parker, The Grand Strategy of Philip II (New Haven and London: Yale University Press, 1998), 6.
  72. ^ a b Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598. f. 155.
  73. ^ a b バチェコ・ディエゴ著・佐久間正訳『長崎を開いた人―コスメ・デ・トルレスの生涯』(中央出版社 1969)
  74. ^ a b アルメイダ、1564年10月14日付豊後発信書(Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598.f.151v.)
  75. ^ a b Ribeiro, Madalena, Gaspar Vilela. Between Kyúshú and the Kinai, Bulletin of Portuguese - Japanese Studies, vol. 15, diciembre, 2007, pp. 9-27
  76. ^ H・チースリク 「高山右近領の山間部におけるキリシタン――布教・司牧上の一考察」(キリシタン文化研究会『キリシタン研究第十六輯』一九七六年)
  77. ^ 原文は伊勢神宮神宮文庫所蔵の『御朱印師職古格』
  78. ^ 高瀬(2013年)より引用。
  79. ^ 安野眞幸「「キリシタン禁令」の研究」(尾藤正英先生還暦記念会編『日本近世史論叢』吉川弘文館、 1984年)
  80. ^ a b c 黒住真「天皇を中心とする日本の「神の国」形成と歴史的体験」(稲垣久和編『神の国と世界の回復 ―キリスト教の公共的使命―』教文館、2018年)
  81. ^ 原文は松浦史料博物館蔵の松浦家文書。
  82. ^ 日本の「鎖国」」 、 2011年4月4日閲覧。
  83. ^ 大鳥蘭三郎「曲直瀬一溪道三の入信問題に就て」(『日本医史学雑誌』1307号、1942年)
  84. ^ 高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」(『キリシタン時代の研究』岩波書店、1997年)
  85. ^ 山本博文『天下人の一級史料―秀吉文書の真実―』(柏書房、2009年)
  86. ^ Nelson, Thomas (Winter 2004). Monumenta Nipponica (Slavery in Medieval Japan). Vol. 59. Sophia University.. p. 463 
  87. ^ Monumenta Nipponica: Studies on Japanese Culture, Past and Present, Volume 59, Issues 3-4. Jōchi Daigaku. Sophia University. (2004). p. 463. https://books.google.co.jp/books?id=XoQMAQAAMAAJ&q=Portuguese+and+other+Occidental+sources+are+replete+with+records+of+the+export+of+Japanese+slaves+in+the+second+half+of+the+sixteenth+century.+A+few+examples+should+serve+to+illustrate+this+point.+Very+probably,+the+first+Japanese+who+set+foot+in+Europe+were+slaves.+As+early+as+1555,+complaints+were+made+by+the+Church+that+Portuguese+merchants+were+taking+Japanese+slave+girls+with+them+back+to+Portugal+and+living+with+them+there+in+sin.+By+1571,+the+trade+was+being+conducted+on+such+a+scale+that+King+Sebastian+of+Portugal+felt+obliged+to+issue+an+order+prohibiting+it+lest+it+hinder+Catholic+missionary+activity+in+Kyushsu.&dq=Portuguese+and+other+Occidental+sources+are+replete+with+records+of+the+export+of+Japanese+slaves+in+the+second+half+of+the+sixteenth+century.+A+few+examples+should+serve+to+illustrate+this+point.+Very+probably,+the+first+Japanese+who+set+foot+in+Europe+were+slaves.+As+early+as+1555,+complaints+were+made+by+the+Church+that+Portuguese+merchants+were+taking+Japanese+slave+girls+with+them+back+to+Portugal+and+living+with+them+there+in+sin.+By+1571,+the+trade+was+being+conducted+on+such+a+scale+that+King+Sebastian+of+Portugal+felt+obliged+to+issue+an+order+prohibiting+it+lest+it+hinder+Catholic+missionary+activity+in+Kyushsu.&hl=en&sa=X&ei=j3YVU9-ZKImZ0QHKsIHQCg&redir_esc=y 2014年2月2日閲覧。 
  88. ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
  89. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
  90. ^ 『日本売春史』中村三郎
  91. ^ 唐権『海を越えた艶ごと一日中文化交流秘史』新説社、2005、p121
  92. ^ 古賀十二郎『新訂丸山遊女と唐紅毛人』長崎文献社、1968、p232
  93. ^ 神田千里「伴天連追放令に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』史学科篇37号(2011年)
  94. ^ 清水有子「豊臣秀吉政権の神国宣言」『歴史学研究』958号(2017年)
  95. ^ a b Lipp, Solomon. Lessons Learned from Pedro de Gante. American Association of Teachers of Spanish and Portuguese. Hispania, 1947, 194.
  96. ^ Schwaller, John F. (October 2016). "Franciscan Spirituality and Mission in New Spain, 1524–1599: Conflict Beneath the Sycamore Tree (Luke 19:1–10) by Steven E. Turley (review)". The Americas. 73 (4): 520–522.
  97. ^ Metcalf, Alida C. (2005). Go-Betweens and the Colonization of Brazil : 1500-1600. Austin, TX: University of Texas Press. pp. 17–33. ISBN 0-292-70970-6.
  98. ^ Caraman, Philip (1976), The lost paradise: the Jesuit Republic in South America, New York: Seabury Press.
  99. ^ "Bartolome de Las Casas | Biography, Quotes, & Significance". Encyclopedia Britannica. Retrieved 3 November 2017.
  100. ^ de Bary, Wm. Theodore (2005). “Part IV: The Tokugawa Peace”. Sources of Japanese Tradition: 1600 to 2000. Columbia University Press. pp. 149. ISBN 9780231518123 
  101. ^ Boxer, C. R. The Christian Century in Japan: 1549-1650. Manchester: Carcanet Press Ltd., 1951., pp. 149-151.
  102. ^ Berry, Mary Elizabeth. Hideyoshi. Cambridge, MA: Harvard University Press, 1982. pp. 92-93
  103. ^ Boxer, C. R. (1951). The Christian Century in Japan: 1549–1650. University of California Press., pp. 152–53. GGKEY:BPN6N93KBJ7.
  104. ^ The Spanish Lake, O. H. K. Spate, 2000
  105. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  106. ^ a b 辻 1942, pp.428-449
  107. ^ a b 村上直次郎『異国往復書翰集. 増訂異国日記抄』雄松堂出版、2005年。ISBN 4841930116 
  108. ^ a b Screech, Timon. “The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period.” Japan Review 24 (2012): pp. 8-9.
  109. ^ 池上裕子小和田哲男小林清治池享黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社1995年) 502頁参照。
  110. ^ Joseph Broeckaert: Vie du B.Charles Spinola et notice sur les autres martyrs du Japon, Bruxelles, H. Goemaere (Libraire-Éditeur), 1868.
  111. ^ 寛永十六年(1639)刊『吉利支丹御退治物語』/朝倉治彦・柏川修一編『仮名草子集成』第 25 巻、東京堂出版、1999
  112. ^ Never Imagine Yourself to be Otherwise: Filipino Image of Japan over the Centuries, Elpidio STA. ROMANA and Ricardo T. JOSE, Asian Studies 29 (1991), pp. 67-68, "In 1591, a Japanese named Harada Magoshichiro was reported to have studied parts of the Philippines and recommended that Hideyoshi conquers the Philippines. Hideyoshi made concrete plans but sent an emissary the following year to Manila and demanded that the Spaniards become his vassals and pay tribute; otherwise he would invade the Philippines. He has just invaded Korea, and the poorly defended Spaniards could only reply that they sought friendship with Japan. Japanese ships entering Manila were checked thoroughly to make sure they carried no weapons. The Japanese community in Manila was disarmed and resettled outside Manila in a place called Dilao district. The next year, the Spaniards tried to guard their north flank by invading Taiwan but a typhoon thwarted that expedition. Later, Hideyoshi also sent a request to the Spanish authorities in the Philippines for shipbuilders but was refused by the Spaniards who realized that they will be used to build warships. The apprehensive Spaniards sought reinforcements from Mexico. 10 The Japanese were also suspicious of Spanish attempts to proselyte in Japan. This mutual suspicion - Spain fearing a Japanese invasion, Japan suspicious of Spanish evangelization and fearful that Japan might be involved in power conflicts in Europe- was to continue into the early 17th century."
  113. ^ 辻 1942, pp.410-411
  114. ^ 徳富 1935, pp.453-460
  115. ^ M. T. Paske-Smith, “Japanese Trade and Residence in the Philippines,” Transactions of the Asiatic Society of Japan 42, no. 2 (1914), pp. 696–97.
  116. ^ Francisco de Lorduy, statement incorporated in report by Governor Gómez Pérez Dasmariñas to the king of Spain on the second embassy to Japan, April–May 1593, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 39. The reference may be to Kiemon’s close associate Hasegawa Sōnin instead.
  117. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 41.
  118. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 39.
  119. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 47-48
  120. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 51-53
  121. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 51-54
  122. ^ a b Martín de la Ascensión to Doctor Morga, 28 January 1597, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 15, p. 125.
  123. ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p.5
  124. ^ Visiones de un Mundo Diferente Política, literatura de avisos y arte namban, Coordinadores: Osami Takizawa y Antonio Míguez Santa Cruz, Centro Europeo para la Difusión de las Ciencias Sociales, ISBN 978-84-608-1270-8, p. 80, "Tras el incidente del galeón San Felipe y la ejecución de los religiosos, en Manila se entendió que la relación de amistad a la que supuestamente se había llegado con Hideyoshi había terminado, por lo que se volvió a temer una invasión japonesa de las Filipinas –si es que alguna vez había desaparecido la sospecha. Así, se continuó trabajando en las defensas de Manila y su isla, e incluso se llegó a considerar nuevamente la conquista de Formosa. En un movimiento calcado a otros que se habían efectuado en el pasado, se decidió enviar una embajada a Japón para, nuevamente, ganar tiempo y tratar de recuperar tanto la carga coniscada del San Felipe –sumamente importante para la economía de las Filipinas– como los restos de los mártires de Nagasaki. Para ello, esta vez se preirió no elegir a un religioso como embajador y la tarea recayó en Luis de Navarrete, un militar muy cercano al Gobernador Tello."
  125. ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., pp. 8-9
  126. ^ Hirofumi Yamamoto, Nihon Rekishi Sōsho,vol. 39, Kanei Jidai (Tokyo: Yoshikawa Kobunkan, 1989), pp. 54–55.
  127. ^ The perceived status of the Dutch as the shogun’s “loyal vassals” is brilliantly analysed in Adam Clulow, The Company and the Shogun: The Dutch Encounter with Tokugawa Japan (New York: Columbia Univ. Press, 2014).
  128. ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p.10-11

同時代史料[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]