ピニンファリーナ

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ピニンファリーナ
Pininfarina S.p.A.
本社所在地 イタリアの旗 イタリア
トリノ
設立 1930年
業種 自動車製造
事業内容 工業製品、自動車のデザイン、設計、自動車の製造、販売
代表者 パオロ・ピニンファリーナ会長CEO
ロレンツァ・ピニンファリーナ(副会長)
関係する人物 バッティスタ・ピニンファリーナ(創業者)
外部リンク Pininfarina
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創業者バッティスタ・ファリーナとフェラーリ・400 “Superfast II”(1960年)

ピニンファリーナPininfarina S.p.A. )は、バッティスタ・“ピニン”・ファリーナ1930年に創業した、イタリア最大のカロッツェリア及びグループ企業。創業時と変わらず、トリノを本拠地とする。現在は、バッティスタの孫であるパオロ・ピニンファリーナが、CEOを務める。

概説[編集]

フェラーリに代表される自動車のデザインおよびエンジニアリング、中規模の生産工場を持ち委託生産を主とし、特に既存車からカブリオレバリオルーフなどのコンバーチブルにリデインすることを得意とする。また、デザイン分野において垣根がなく船舶電車トラックバストラクターモーターサイクルフォークリフトオフィスチェアプロジェクタースピーカーエスプレッソマシンゴルフクラブ電話機サングラス時計歯ブラシジャクージPC周辺機器などまで幅広く手がける。

2006年トリノ・冬季オリンピックに深く関わっており、聖火台トーチのデザイン及び12,000本のトーチの製造、カウントダウンクロックのデザインなどを担当している。

近年は、ピニンファリーナ創業初期のように、フェラーリ・P4/5フェラーリ・612 Kappaなど富裕層向けにプライベートワンオフカーの製作にも力を入れつつある。

2015年12月、インドのマヒンドラグループ傘下の自動車製造会社・マヒンドラ&マヒンドラと、同じくマヒンドラグループ傘下のテック・マヒンドラが株式の76パーセントを取得し、子会社とすることを発表した[1]。会社の独立性は維持される。

関連企業・子会社[編集]

歴代代表・CEO[編集]

主な提携企業(自動車関連)[編集]

など

自動車関連モデル(コンセプト、モックアップを含む)[編集]

など

その他の関連製品・設備[編集]

など

日本メーカーとの関係[編集]

日産自動車[編集]

ブルーバード2代目 410型(1963年-1967年)、セドリック2代目 130型(1965年-1971年)でピニンファリーナにデザインを委託。フローイングラインと呼ばれるエレガントな曲線を纏ったが、日本国内ではリアの「尻下がり」スタイルが不評であった事が仇となり、ブルーバードは販売台数でライバル車種のトヨタ・コロナの後塵を拝する結果に終わる。セドリック、ブルーバード共に、モデルライフの途中でリヤの「尻下がり」スタイルを矯正する大掛かりな金型の変更を行っている。

本田技研工業[編集]

1984年、ピニンファリーナがシティ・カブリオレのボディ基本構造、ソフトトップのスタイリング及びレイアウトの設計をしたことから関係が深まり、同年トリノショーでミッドシップHP-X(Honda Pininfarina X)を発表、ただのモックアップモデルであったが、NSX開発の原動力となっている。

1995年東京モーターショーで電動格納式ルーフのスパイダーArgento Vivo(アルジェント・ヴィーヴォ)を発表した。エンジンはホンダの2451cc直列5気筒のG25Aを採用した。ピニンファリーナ独自に製作したシャシーフレームおよびボディパネルにアルミを採用した。前後のフードパネルは鏡のように研磨されていることからイタリア語で「流動する銀」と名がつけられている。同時にホンダはほぼ同じコンセプトのSSMを発表し、1999年にそちらを布石としたS2000が発売された。

三菱自動車工業[編集]

1999年パジェロイオをベースにしたパジェロ・ピニンが発表され、ピニンファリーナの工場で生産されていた。翌2000年には日本でも、外観の意匠をピニンファリーナが手掛けた「パジェロイオ・ソレント」が発売された(2004年まで販売)。また2005年、欧州仕様のコルト電動格納式ルーフを採用したコルト・クーペカブリオレを発表、2006年4月からコルトCZCとして同工場で生産が開始された。

脚注[編集]

  1. ^ インドのマヒンドラ、ピニンファリーナ買収で合意”. Response (2015年12月15日). 2018年4月15日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]