ペギー葉山

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ペギー葉山
ひまわり社『それいゆ』第23号(1952)より
基本情報
出生名 小鷹狩 繁子
(こたかり しげこ)
生誕 (1933-11-09) 1933年11月9日
出身地 日本の旗 日本東京市四谷区(現・東京都新宿区
死没 (2017-04-12) 2017年4月12日(83歳没)
学歴 青山学院女子高等部
(現・青山学院高等部
ジャンル ジャズ
歌謡曲
職業 歌手
タレント
活動期間 1952年 - 2017年
レーベル キングレコード
事務所 東和商会太田事務所
公式サイト ペギー葉山の公式サイト

ペギー葉山(ペギー はやま、本名:森 シゲ子(もり シゲこ)[注 1]、旧姓:小鷹狩 シゲ子(こたかり シゲこ)、1933年11月9日 - 2017年4月12日)は、日本の女性歌手タレント。社団法人日本歌手協会7代目会長(後に名誉会長)。

東京都新宿区出身。青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)卒業。1952年キングレコードよりレコードデビュー。

来歴[編集]

東京・四谷に生まれる。生まれたのは1933年11月9日だが、当時同居していた祖父が出生届を引き出しに入れたまま出し忘れたことから、戸籍上の出生日は1933年12月9日となった。このことから幼少時は誕生日プレゼントを2度貰っていた。

幼少時から歌が好きだったことから、青山学院中学部(現・青山学院中等部)在学中に内田るり子に師事し声楽を習い、音大進学を志す。しかし次第にFEN放送(現・AFN)から流れるアメリカのポピュラー音楽へ関心を深めていき、青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)2年の時に映画『我が道を往く』を観た際、劇中で主演のビング・クロスビーが歌う「アイルランドの子守唄」に感動、クラシックからポピュラー・ジャズへの転向を決意。

ほどなく友人の紹介から進駐軍のキャンプで歌い始め、その歌声とセンスを見込んだティーブ・釜萢の口利きで、当時の一流ビッグバンドである渡辺弘とスター・ダスターズの三代目専属歌手として活躍する。

1954年10月6日、日劇「秋の踊り」

学校卒業後の翌1952年11月キングレコードから「ドミノ/火の接吻」を発売し、レコードデビュー。1954年には「第5回NHK紅白歌合戦」に紅白歌合戦初出場を果たす。渡辺弘とスター・ダスターズの専属解除後の1955年2月には初渡米。各地で歌い、盛況を博す。

1958年ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞受賞。翌1959年には「南国土佐を後にして」の空前の大ヒットで、ジャズ/ポピュラー界だけではなく歌謡界においても、その地位を不動のものにする。

1960年オーストラリア/ゼネラルテレビの招きで、テレビ番組『今宵のメルボルン』に1か月間レギュラー出演する。

同年の8月にはロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれる。この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。帰国後、自身の作詞で同ミュージカルの劇中歌「ドレミの歌」をペギー自身の訳詞で紹介した。ペギーの訳詞・歌唱による「ドレミの歌」はNHK「みんなのうた」でも使用され、音楽教科書にも掲載されるなど、国民に広く知られている。

しかし、生来病弱であったことに加え、その人気による過密スケジュールから、1963年気胸を患い半年間の療養を余儀なくされたが、病気療養中に「ラ・ノビア」「」もヒットしたことも幸いし、ブランクをものともせず無事復帰した。また、復帰翌年の1964年には「学生時代」がロングセラーとなり、人気の健在ぶりを示した。

1965年に俳優の根上淳と結婚、1968年には長男を出産している。甥はROUTE 66THE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕であり、THE CHAPPYSがデビューする際に雅裕氏はペギーの自宅へ挨拶に赴き、彼が持参したレコード会社の企画書に目を通しデビューを喜んだ。根上とは、芸能界きってのおしどり夫婦で知られ、1998年に根上が糖尿病合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けた。

1966年の「第17回NHK紅白歌合戦」では、紅組司会を務める。ただし、歌手として出場することはできなかった。これは、当時のNHKの「例え歌手であっても司会に専念してもらう」という方針のためである(九重佑三子も同様)。

タレントとしての活動も多くこなし、知られているものではNHK紅白歌合戦の紅組司会(1966年の「第17回NHK紅白歌合戦」)や「歌はともだち」(NHK)の司会に、「ひらけ!ポンキッキ」(フジテレビ)のしつけコーナー、「ウルトラマンタロウ」のウルトラの母の人間体である緑のおばさんとしても知られる。

1974年には司馬遼太郎に続き、2人目となる高知県名誉県人の称号を贈られた[1]。また、ペギーが歌手生活60周年を迎えた2012年には高知市はりまや橋公園に「南国土佐を後にして」の歌碑が設置され、ペギーも除幕式に出席した[2]よさこい祭りの全国コンクール(毎年8月12日)においては、葉山の名前を冠したペギー葉山賞が優秀チームに贈賞されている。

1991年、『It's Been A Long Long Time』(キングレコード)の録音でハンク・ジョーンズケン・ペプロウスキーと共演した。

1995年紫綬褒章2004年には旭日小綬章[3]をそれぞれ受章。

2007年6月からは、青木光一の後を継ぎ、社団法人日本歌手協会7代目初の女性会長に就任し、2010年6月末日まで務めた。一般社団法人移行後は理事職。2014年6月には、田端義夫・青木光一に次ぎ3人目となる名誉会長に就任している。

2010年に発売した「夜明けのメロディー」(ラジオ深夜便のうた)は、『ラジオ深夜便』で初オンエアされて以来リスナーを中心に高く評価され、1971年発売の「雲よ風よ空よ」以来約40年ぶりのオリコンチャートインを果たす快挙を成し遂げた。また、登場回数も30回にせまりロングランも記録している。そのほか、NHK「みんなのうた」などでも歌声を聴かせている。

歌手としての活動のほか、日本歌手協会役員としての業務、亡夫の介護体験をもとにした講演など多方面で活動。デビューから60年を迎えてもなお、第一線で活躍し続けた。

2017年4月12日肺炎により東京都内の病院で死去[4]。83歳没[5]。墓所は取手市弘経寺。

死去に先立つ1月4日から毎月第1水曜日付のデイリースポーツ西日本スポーツに聞き書き連載「人生はケ・セラ・セラ」の連載を開始していたが、訃報を受けて5月3日に掲載を予定していた分を死去翌日の4月13日付に、あらかじめ取材したものが前倒しで掲載された。

前記の通り、『ウルトラマンタロウ』に出演していたことから、訃報を受けてウルトラシリーズのファンから故人を悼む声が多数上がった[6]ほか、ウルトラの母の実子であるウルトラマンタロウ / 東光太郎役の篠田三郎が「スタッフや出演者にお菓子か何かを作ってきてくださった」「その後も偶然出会うことが多く、縁を感じた」「東京では桜が散り始めていますが、一つの大輪の花が散ってしまった」などと故人のあたたかな人柄や撮影当時のことを追悼の意と共に明かしている[7][8]

芸名の由来[編集]

"ペギー"は友人宅の混線電話がきっかけで親しくなったテレホン・フレンドのアメリカ人から「君の声はペギーという感じだ」と言われたことから、"葉山"は進駐軍廻りの際に一緒にアルバイトしていた学生に「長谷川一夫フランク・シナトラ…芸能人にとって、ハ行は縁起がいい。」と言われ、「確かにその通り。ペギーだけでは苗字が無いし、それなら何か…」ととっさに思いついたのが葉山であったことからである。ただ、芸名の由来となったペギーの愛称を付けたアメリカ人とは一度も会ったことがないそうである。

当時、巡業などで地方へ行くとペギー葉山ではなく、ペリー葉山ペンギン葉山ペジー葉山といった誤記が多数あった。

人物[編集]

好角家であり、砂かぶり席で観戦している様子が、度々NHKの大相撲中継の際に確認されていた。

戦前からの宝塚歌劇の大ファンで特に葦原邦子とは葦原ママと慕い、親子のような親しい関係を築いていた。

家系[編集]

父方・小鷹狩家の先祖は広島藩主浅野家の家老職を勤めたこともあった[9]。また、母方の祖父は白虎隊の生き残りである[10]。なお父方の叔母は能楽師・粟谷益二郎(粟谷家は元広島藩お抱え能楽師であった)と結婚し、粟谷菊生の母となったのでペギーと粟谷はいとこ同士になる[11]

両親も広島の出身で[12]、戦争中、父方の実家がある広島に疎開する予定だったが、直前に父・明が「広島の近くはという軍港もあるし、海の近くより山奥の方が安全だろう」と急遽集団疎開に切り替え、福島県石城郡大野村(現・いわき市)に疎開し原爆被災を免れた[9][12][13]。しかし父方の祖父は被爆死し原爆投下1か月後に白骨化した状態で発見された[14]

楽曲に関して[編集]

代表曲「学生時代」(平岡精二作詞・作曲)は自身の学生時代がモデルである。当初曲名は「大学時代」だったが「自分は大学へは行っていないから」と現在のタイトルへと改めてもらった。同歌の歌詞中に出てくる「蔦のからまるチャペル」とは、青山学院青山キャンパス内にある国の登録有形文化財のベリーホール内にあるチャールズ・オスカー・ミラー礼拝堂のことである。同建物の前には、「学生時代」の歌碑が2009年に建立され、ペギーも除幕式に出席している。

訳詞も手がけ、後に音楽の教科書にも掲載されるなど広く親しまれている「ドレミの歌」について、ペギーは後に「(『サウンド・オブ・ミュージック』の)第1幕終了後の休憩時間に、客が皆ロビーで「ドレミの歌」を口ずさんでおり、その光景を見ながら『この歌に日本語の詞を付け、お土産に持ち帰ろう』と思わずにはいられなかった」、「終演後、劇場の売店で購入したヴォーカルスコアとオリジナルのLP盤を大事に抱えて、ホテルにまっしぐらで帰り、辞書と原譜とにらめっこ。先ずドレミの『ド』はドーナツのド。幼い頃大好きだった母の手作りおやつが浮かんで、戦時中の集団疎開で空腹な時、一番食べたかった。最高のおやつでした。子供の好きな食べ物でまとめよう!そう思いますが、『ファ』で行き詰まりました。発想を転換し、易しく考えてみたら、浮かびました。そうだ、『ファ』ではファイト、『シ』は幸せ、出たア!『ドレミの歌』の誕生です。今も摩天楼に朝の光が差し込む風景を覚えていますよ。」と語っている[15]

「ドレミの歌」の歌詞は当初、すべて食べ物にしようとしていたが(ミはミカンなど)、「ファ」で始まる食べ物がファンタ炭酸飲料)しか思いつかず、商品名(商標名)になるため断念した[16]というエピソードがある。また、2番の詞は、レコード化される際に新たに付け加えられたものであり、ペギーが東北地方へコンサートに出かけた際に、車窓から小学校で運動会の予行演習をしていた子供たちの姿を見て、歌詞にしたものである[16](英語原詞には2番は存在しない)。

「ドレミの歌」の日本語詞を作詞したことが縁となり、1995年(平成7年)11月25日放送のNHK BS2のテレビ番組「世界・わが心の旅」で、当時存命中であったトラップ家の人々との対面が実現した[17][18]

作曲家の古賀政男とは家が隣同士であったことから家族ぐるみで交流があった。1968年、長男の誕生祝いに古賀は曲を書き下ろし贈ったが当時はレコード会社の違いなどの事情もあり、世に出すことは叶わず譜面も紛失し幻の曲となっていた。しかし古賀の生誕100年の年だった2003年にペギーが書棚を整理した際に発見、曲は『天使のための子守唄』これをコンサートで披露したところ、好評であったことに加え、当時クリアできなかった権利問題もクリアできたことからCD化されている。

作品[編集]

アルバム[編集]

オリジナル・アルバム[編集]

発売日 タイトル 備考/規格品番
キングレコード
1st 1960年 南国土佐を後にして LKF 1065
2nd 1963年 My Favorite Songs ─ペギーの歌日記─ SKJ 1013 / KC 29 / FL 31134
3rd 1964年 ペギーのクリスマス SKK 42
4th 1965年 〜ペギー、平岡精二を歌う〜 SKK 64
5th 1966年 ママとよい子のアルバム SKK 173
6th 1967年 ペギーのファミリーショー SKK 368
7th 1970年 ハッシャバイ ─ペギーの子守唄─ SKK 641
8th 1971年 雲よ風よ空よ SKD 64
9th 1973年 ふるさと 東日本編 SKW 51〜52
10th 1973年 クラシック・ラヴ・サウンズを歌う SKA 51
11th 1974年 心の窓に灯を SKD 209
12th 1976年 雨あがりの恋人たち SKA 161
13th 1978年 日本の旅情 SKS 26
14th 1979年 ペギーと歌おう 世界の子供のうた
  • SKA 260
  • 国際児童年記念盤
15th 1979年 恋歌 ─万葉の心を求めて─
16th 1983年 PEGGY'S MUSIC GEMS
  • K28A-416
  • 前田憲男プロデュースによるジャズ・アルバム
17th 1987年 What A Wonderful World 〜歌ある限り〜 K28A 821

ライヴアルバム[編集]

発売日 タイトル 備考/規格品番
1970年 愛のおくりもの ─ペギー葉山リサイタル─
  • SKK 890
  • 1969年12月6日サンケイホールにて収録
1972年 リサイタル マイ・ウェイ SKD 107
1975年 わたしの旅 ─ペギー葉山リサイタル─ SKA 103
1982年 我が心に歌えば ─ありがとう30年─(ペギー葉山・オン・ステージ) K20A-255

企画アルバム[編集]

発売日 タイトル 備考/規格品番
1960年9月 ひらけ!ポンキッキ
  • SKM(H)2229
  • 以下楽曲にて参加
    • おたまじゃくしは元気な子
    • 手のうた
    • 星がルンラン
    • 未来へつづくポンキッキ

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

1966年第17回NHK紅白歌合戦は紅組司会を務めたが、当時のNHKの意向により出場歌手には非選出。また、1967年第18回NHK紅白歌合戦も妊娠中だったため出演していない。

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1954年(昭和29年)/第5回 月光のチャペル 09/15 笈田敏夫(1)
1955年(昭和30年)/第6回 2 マンボ・イタリアーノ 07/16 笈田敏夫(2)
1956年(昭和31年)/第7回 3 ケ・セラ・セラ 13/25 山形英夫
1957年(昭和32年)/第8回 4 シャンテ・シャンテ 21/25 旗照夫(1)
1958年(昭和33年)/第9回 5 年頃ですもの 19/25 笈田敏夫(3)
1959年(昭和34年)/第10回 6 南国土佐を後にして 12/25 フランク永井(1)
1960年(昭和35年)/第11回 7 マンマ 25/27 フランキー堺
1961年(昭和36年)/第12回 8 ブリア 12/25 フランク永井(2)
1962年(昭和37年)/第13回 9 トゥナイト 20/25 アイ・ジョージ
1963年(昭和38年)/第14回 10 女に生れて幸せ 21/25 旗照夫(2)
1964年(昭和39年)/第15回 11 ラ・ノビア 15/25 フランク永井(3)
1965年(昭和40年)/第16回 12 学生時代 18/25 ボニージャックス
1968年(昭和43年)/第19回 13 愛の花咲くとき 03/23 千昌夫
1989年(平成元年)/第40回 14 南国土佐を後にして(2回目) 第1部に出演 (対戦相手なし)

(注意点)

  • 1989年の紅白第1部は、「紅白40年特別企画」として行われたものである。従って、通常の紅白歌合戦とは異なる取り扱いがなされており、曲順も男女交互という形ではなかった。
  • 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

NHKみんなのうた出演歴[編集]

▲はラジオのみの放送、△はNHK衛星第2テレビ(現 - BSプレミアム)の『なつかしのみんなのうた』での放送。

初放送 曲目 コーラス 再放送
1961年(昭和36年)12月 - 1962年(昭和37年)1月 赤鼻のトナカイ 東京放送児童合唱団 (なし)
1962年(昭和37年)2月 - 3月 かあさんの歌
(1962年版)
(なし) 2003年(平成15年)12月 - 2004年(平成16年)1月
2006年(平成18年)8月8日△
2006年(平成18年)10月15日△
2007年(平成19年)1月1日△
1962年(昭和37年)6月 - 7月 ドレミの歌 音羽ゆりかご会 2021年(令和3年)4月▲
1962年(昭和37年)8月 - 9月 アイルランドの子守唄[20] ヴォ―チェ・アンジェリカ (なし)
1962年(昭和37年)10月 調子をそろえてクリック・クリック・クリック 西六郷少年少女合唱団 2022年(令和4年)1月▲
1963年(昭和38年)2月 - 3月 小さな靴屋さん[21] (なし) 2019年(平成31年)2月 - 3月▲
1963年(昭和38年)9月 走ろう子馬よ[22] 東京放送児童合唱団 2020年(令和2年)8月 - 9月▲
1964年(昭和39年)2月 - 3月 回転木馬 西六郷少年少女合唱団 (なし)
1964年(昭和39年)4月 - 5月 五月のうた (なし)
1964年(昭和39年)10月 - 11月 フルーツサラダの歌[23] 2022年(令和4年)10月 - 11月▲
1964年(昭和39年)12月 - 1965年(昭和40年)1月 木ぐつをはいて(サボをはいて)[24] 西六郷少年少女合唱団 (なし)
1965年(昭和40年)4月 - 5月 ウンパッパ 東京放送児童合唱団 2018年(平成30年)10月 - 11月▲
2021年(令和3年)3月▲
1965年(昭和40年)8月 - 9月 トム・ピリビ(1965年版) (なし) (なし)
1966年(昭和41年)8月 - 9月 ひなげし[25] 大阪放送児童合唱団 2015年(平成27年)2月 - 3月▲
1969年(昭和44年)12月 - 1970年(昭和45年)1月 パンのマーチ 東京少年少女合唱隊 詳細
1973年(昭和48年)6月 - 7月 算数チャチャチャ ヤング101 詳細
1974年(昭和49年)6月 - 7月 ひげなしゴゲジャバル (なし) 詳細
1994年(平成6年)4月 - 5月 みどりの星 タンポポ児童合唱団 (なし)
2012年(平成24年)6月 - 7月 とんとんとん (なし) 2019年(令和元年)6月 - 7月(リクエスト

出演は全19回で、ソロ歌手としては天地総子の全22回に次ぐ。

出演[編集]

吹き替え[編集]

CM[編集]

受賞歴[編集]

著作[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 名誉高知県人”. 高知県. 2022年7月25日閲覧。
  2. ^ ペギー葉山感激 高知で「南国土佐を後にして」歌碑除幕式スポニチ、2012年11月4日
  3. ^ 平成16年春の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都” (PDF). 内閣府. p. 3 (2004年4月29日). 2004年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月23日閲覧。
  4. ^ “歌手のペギー葉山さん、死去「ドレミの歌」の日本語作詞”. 産経ニュース. (2017年4月12日). https://www.sankei.com/article/20170412-UADV6NHWT5IXZC6VFJ4EM2BZLA/ 
  5. ^ “歌手のペギー葉山さん死去 83歳「南国土佐を後にして」”. スポニチ. (2017年4月12日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/04/12/kiji/20170412s00041000215000c.html 
  6. ^ ペギー葉山さんの訃報にネットでは「ウルトラの母が逝ったか…」 - Sponichi Annex
  7. ^ ウルトラマンタロウが「ウルトラの母」を追悼 ペギー葉山さん死去で(1) - dot.
  8. ^ ウルトラマンタロウが「ウルトラの母」を追悼 ペギー葉山さん死去で(2) - dot.
  9. ^ a b ペギー葉山さんの歌声 - 天風録”. 中国新聞 (2017年4月13日). 2017年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月16日閲覧。
  10. ^ 福島県 北海道に足跡を残したふくしまの人々2012年8月8日閲覧
  11. ^ 父粟谷菊生から聞いたおもしろ楽屋裏話 3
  12. ^ a b 市田忠義ホームページ【人・であい】
  13. ^ 公式ブログ (2009年8月6日). “広島への祈り”. 2017年4月12日閲覧。
  14. ^ 公式ブログ (2016年5月11日). “オバマ大統領の広島訪問”. 2017年4月12日閲覧。
  15. ^ 西日本新聞 『ドレミの歌』は人生の宝物 ペギー葉山 プレス掲載情報 劇団四季 2012年9月18日朝刊掲載、2019年10月12日閲覧
  16. ^ a b 『唱歌・童謡ものがたり』51頁。
  17. ^ 世界・わが心の旅 - NHKクロニクル
  18. ^ 『唱歌・童謡ものがたり』53頁。
  19. ^ 読売新聞社文化部『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』社会思想社、1997年、61頁。ISBN 4390116010
  20. ^ 原曲:Too-Ra-Loo-Ra-Loo-Rai (That's an Irish Lullaby)
  21. ^ 原曲:Le petit cordonnier(Françis Lemarque)
  22. ^ 原曲:Poly Polisson(イザベル・オーブレ
  23. ^ 原曲:Saladedefruits(The Silver Folios)
  24. ^ 原曲:En passant par la Lorraine(フランス民謡)
  25. ^ 原曲:Gentil Coquelicot(フランス民謡)

外部リンク[編集]