ラリー・ブラウン

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ラリー・ブラウン
Larry Brown
1979年
メンフィス・タイガース AC
役職 アシスタントコーチ
所属リーグ AAC
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1940-09-14) 1940年9月14日(83歳)
出身地 ニューヨーク州の旗 ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区
身長(現役時) 175cm (5 ft 9 in)
体重(現役時) 75kg (165 lb)
キャリア情報
高校 ロングビーチ高等学校英語版
大学 ノースカロライナ大学
NBAドラフト 1963年 / 7巡目 / 全体55位[1]
プロ選手期間 1967年–1972年
ポジション PG
背番号歴 11
指導者期間 1965年–1967年, 1972年–2018年, 2021年–現在
経歴
選手時代:
1967–68ニューオーリンズ・バッカニアーズ
19681971オークランド・オークス / ワシントン・キャップス / バージニア・スクワイアーズ
19711972デンバー・ロケッツ
コーチ時代:
1965–1967ノースカロライナ大学 (AC)
19721974カロライナ・クーガーズ
19741979デンバー・ナゲッツ
1979–1981UCLA
19811983ニュージャージー・ネッツ
1983–1988カンザス大学
19881992サンアントニオ・スパーズ
19921993ロサンゼルス・クリッパーズ
19931997インディアナ・ペイサーズ
19972003フィラデルフィア・76ers
20032005デトロイト・ピストンズ
2005–2006ニューヨーク・ニックス
20082010シャーロット・ボブキャッツ
2012–2016SMU
2018アウシリアム・トリノ英語版
2021–メンフィス大学 (AC)
受賞歴

選手時代

  • ABAチャンピオン (1969)
  • 3×ABAオールスター (1968-1970)
  • ABAオールスターゲームMVP (1968)
  • 3×ABAアシスト王 (1968-1970)
  • オールABAセカンドチーム (1968)
  • オールACCファーストチーム (1963)
  • オールACCセカンドチーム (1962)

コーチ時代

ABA通算成績
得点 4,229 (11.2 ppg)
リバウンド 1,005 (2.7 rpg)
アシスト 2,509 (6.7 apg)
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
バスケットボール殿堂入りコーチ (詳細)
カレッジバスケットボール殿堂入り (2006年)
代表歴
キャップ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オリンピック
金メダル - 1位 1964 東京
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ヘッドコーチ
銅メダル - 3位 2004 アテネ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アシスタントコーチ
金メダル - 1位 2000 シドニー
アメリカ選手権
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ヘッドコーチ
金メダル - 1位 2003 サン・フアン

ローレンス・ハーベイ・ブラウンLawrence Harvey Brown, 1940年9月14日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区出身の元プロバスケットボール選手、指導者。NCAAメンフィス大学でアシスタントコーチを務めている。NCAAトーナメントNBAファイナルの両方を制した史上初のコーチである。2002年9月27日にはコーチとしてバスケットボール殿堂入りを果した。バスケットボール指導者ハーブ・ブラウンは実兄である。

生い立ちと選手時代[編集]

ニューヨーク州ブルックリンで生まれたブラウンは、早くから父を亡くし貧しい幼少時代を過ごした[1]。ニューヨーク州のロングビーチ高校に進み、ポイントガードとして活躍した後、大学は名門ノースカロライナ大学でプレーをした。しかし、身長が174cmしかなくNBAでプレイするには小さすぎ、下部リーグのNABLでプレイをした。が、1964年にナショナルチームに選ばれて東京オリンピックでアメリカ代表として出場し金メダルを獲得する。

その後、ブラウンはABAで選手として活躍する。1968年にはABAのオールスターでMVPに選出され、オールABAセカンドチームにも選出された。彼のABAでの総アシスト数は2,509になり、これはABAの中で歴代7位の成績であり、 1試合23アシストはABA記録である[2]

コーチキャリア概観[編集]

ABA・UCLA時代[編集]

選手引退後の1975年からブラウンはコーチとしてのキャリアを歩き始める。最初のコーチとしての仕事はノースカロライナ州のディビットソンカレッジで、夏のオフシーズンの間だけの就任であった[3]。その後ABAに戻り、1979年まで後のデンバー・ナゲッツとなるデンバー・ロケッツやカロライナ・クーガーズ等のコーチを務めた後、UCLAのコーチに就任する。1980年にはUCLAをNCAAチャンピオンシップまで導くが、優勝はならなかった。

その後、ブラウンは2年ほどニュージャージー・ネッツのコーチを務めるが、1983年より1988年までカンザス大学のコーチに就任する。この頃からブラウンのコーチとしての手腕が注目されるようになり、NCAAのコーチ・オブ・ザ・イヤー(1988年)にも選出されるようになった。そして1988年のNCAAチャンピオンシップでカンザス大学を優勝に導いた。

NBA時代[編集]

その後、ブラウンはNBAで多くのチームのコーチを務める。彼がコーチを務めたチームはサンアントニオ・スパーズロサンゼルス・クリッパーズインディアナ・ペイサーズフィラデルフィア・セブンティシクサーズデトロイト・ピストンズ[4][5]ニューヨーク・ニックス[6]。2004年にはピストンズをNBAファイナルに導き、優勝を果した。彼は一つのチームに長い間勤めることをしないが、それぞれのチームで成績の向上をもたらした。 またチャンシー・ビラップスラシード・ウォーレス等、ブラウンとの出会いで大きく飛躍した選手も数多くいて、アレン・アイバーソンは彼が世界で最高のコーチだ、と評している。 2006年にはNBAでの通算1000勝も達成した。彼の指導理念は、グレッグ・ポポビッチを筆頭に、次世代のNBAヘッドコーチへと引き継がれている。

オリンピック代表コーチ[編集]

ブラウンは2004年アテネオリンピックのアメリカ代表チームのコーチにも選出されたが5勝3敗で銅メダルというアメリカ代表チームとしてはバスケットボールがオリンピックの公式種目になってから約70年の間、男子アメリカ代表がオリンピックで試合を落としたのは1972年ミュンヘンオリンピック1988年ソウルオリンピックでの2試合のみだった。今回のアテネオリンピックでアメリカは3試合に敗れており、過去の負け試合数を一つの大会で上回ることになった。

最近の状況[編集]

ブラウンはピストンズを優勝に導いた後、ニックスのコーチに就任するが、そこでは実績を挙げる事ができなかった。シーズン成績を23勝59敗という惨憺たる成績に終わり、チームやマスコミの批判を一身に浴びることになる。特にステフォン・マーブリーとの仲が険悪になり、お互いに非難しあうような状態になる。

2006年6月22日にニックスはブラウンを解雇し、代わりにアイザイア・トーマスが就任する事になった。その後、フィラデルフィア・セブンティシクサーズのゼネラルマネージャー補佐としてアレン・アイバーソンのトレードの仲介役を果した。2007年にブラウンはセブンティシクサーズの副社長に就任し、その後2008年4月29日シャーロット・ボブキャッツのヘッドコーチに就任したが、2010年に退任した[7]

指導方針[編集]

弱小チームを次々に建て直しNBA屈指の名将として知られるブラウンは、チームバスケットを好み、ディフェンスを重んじたシステマチックなハーフコートバスケットを主体とする。ブラウン好みの選手とはエゴの少なく、ディフェンシブで、基本に忠実な選手であり、特にエース格と呼ばれるプレーヤーを作らない(唯一生粋のフランチャイズ・プレイヤーであるアレン・アイバーソンは例外であった)。選手全員がボールを共有し、全員に得点させる。3ポイントシュートや派手なダンクは多用せず、セットから確実な2ポイントシュートで得点させる。彼自身の言葉で「正しいバスケット」と表現し、これを見事に体現したのが2003-04シーズンデトロイト・ピストンズであろう。

また完璧主義者で非常に厳しいことでも有名であり、選手やフロントと衝突して数年で退団してしまうケースも目立つ。しかし彼の下で飛躍した選手は数多い。

個人成績[編集]

* リーグ1位
ABA記録
太字 キャリアハイ
ABAチャンピオン

レギュラーシーズン[編集]

Season Team GP MPG FG% 3P% FT% RPG APG PPG
1967-68 NOB 78 36.0 .366 .213 .813 3.2 6.5* 13.4
1968-69† OAK
WSA
VIR
77 30.9 .436 .229 .794 3.1 7.1* 12.0
1969-70 82 33.7 .440 .256 .825 3.0 7.1* 13.7
1970-71 29 18.3 .404 .500 .831 1.6 4.2 5.5
DNR 34 23.9 .360 .263 .824 1.8 6.1 8.4
1971-72 76 26.5 .437 .200 .811 2.2 7.2 9.1
Career 376 30.1 .412 .230 .813 2.7 6.7‡ 11.2
All-Star 3 20.7 .444 .667 .778 2.0 5.0 8.3

プレーオフ[編集]

Year Team GP MPG FG% 3P% FT% RPG APG PPG
1968 NOB 17 40.9 .425 .222 .820 3.5 7.6* 16.7
1969† OAK
WSA
16 33.4 .428 .000 .844 3.3 5.4* 14.0
1970 7 38.4 .452 .200 .882 5.0 9.7* 13.9
1972 DNR 7 30.1 .420 .000 .958* 1.4 5.1 9.3
Career 47 36.4 .429 .172 .848 3.3 6.8‡ 14.3

コーチ戦績[編集]

NBAヘッドコーチ実績表略号説明
レギュラーシーズン G 試合数 W 勝利数 L 敗戦数 W–L % レギュラーシーズン勝率
ポストシーズン PG 試合数 PW 勝利数 PL 敗戦数 PW–L % プレイオフ勝率
チーム シーズン G W L W–L% シーズン結果 PG PW PL PW–L% 最終結果
CAR (ABA) 1972–73 84 57 27 .679 1st in East 12 7 5 .583 ディビジョン・ファイナル敗退
CAR (ABA) 1973–74 84 47 37 .560 3rd in East 4 0 4 .000 ディビジョン・セミファイナル敗退
 DEN  (ABA) 1974–75 84 65 19 .774 1st in West 13 7 6 .538 ディビジョン・ファイナル敗退
DEN (ABA) 1975–76 84 60 24 .714 1st in West 13 6 7 .462 ABAファイナル敗退
DEN 1976–77 82 50 32 .610 1st in Midwest 6 2 4 .333 カンファレンス・セミファイナル敗退
DEN 1977–78 82 48 34 .585 1st in Midwest 13 6 7 .462 カンファレンス・ファイナル敗退
DEN 1978–79 53 28 25 .528
 NJN  1981–82 82 44 38 .537 3rd in Atlantic 2 0 2 .000 ファーストラウンド敗退
NJN 1982–83 76 47 29 .618
 SAS  1988–89 82 21 61 .256 5th in Midwest Missed Playoffs
SAS 1989–90 82 56 26 .683 1st in Midwest 10 6 4 .600 カンファレンス・セミファイナル敗退
SAS 1990–91 82 55 27 .671 1st in Midwest 4 1 3 .250 ファーストラウンド敗退
SAS 1991–92 38 21 17 .553
 LAC  1991–92 35 23 12 .657 5th in Pacific 5 2 3 .400 ファーストラウンド敗退
LAC 1992–93 82 41 41 .500 5th in Pacific 5 2 3 .400 ファーストラウンド敗退
 IND  1993–94 82 47 35 .573 4th in Central 16 10 6 .625 カンファレンス・ファイナル敗退
IND 1994–95 82 52 30 .634 1st in Central 17 10 7 .588 カンファレンス・ファイナル敗退
IND 1995–96 82 52 30 .634 2nd in Central 5 2 3 .400 ファーストラウンド敗退
IND 1996–97 82 39 43 .476 6th in Central Missed Playoffs
 PHI  1997–98 82 31 51 .378 7th in Atlantic Missed Playoffs
PHI 1998–99 50 28 22 .560 3rd in Atlantic 8 3 5 .375 カンファレンス・セミファイナル敗退
PHI 1999–00 82 49 33 .598 3rd in Atlantic 10 5 5 .500 カンファレンス・セミファイナル敗退
PHI 2000–01 82 56 26 .683 1st in Atlantic 23 12 11 .522 NBAファイナル敗退
PHI 2001–02 82 43 39 .524 4th in Atlantic 5 2 3 .400 ファーストラウンド敗退
PHI 2002–03 82 48 34 .585 2nd in Atlantic 12 6 6 .500 カンファレンス・セミファイナル敗退
 DET  2003–04 82 54 28 .659 2nd in Central 23 16 7 .696 優勝
DET 2004–05 82 54 28 .659 1st in Central 25 15 10 .600 NBAファイナル敗退
 NYK  2005–06 82 23 59 .280 5th in Atlantic Missed Playoffs
 CHA  2008–09 82 35 47 .427 4th in Southeast Missed Playoffs
CHA 2009–10 82 44 38 .537 3rd in Southeast 4 0 4 .000 ファーストラウンド敗退
CHA 2010–11 28 9 19 .321
NBA Career 2002 1098 904 .548 193 100 93 .518
ABA Career 336 229 107 .682 42 20 22 .476
Career Total 2338 1327 1011 .568 235 120 115 .511

脚注[編集]

  1. ^ Paul Taylor. Jews and the Olympic Games: the .... https://books.google.co.jp/books?id=tGcPDXOjxMoC&pg=PA226&dq=%22Jews+and+the+Olympic+Games%22+larry+brown&hl=en&ei=l92gTuijBsTq0gH6gc21BA&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y 2011年10月26日閲覧。 
  2. ^ The Official NBA Basketball Encyclopedia. Villard Books. (1994). p. 209. ISBN 0-679-43293-0 
  3. ^ “Larry Brown Resigns at Davidson”. Reading Eagle. (July 3, 1969). https://news.google.com/newspapers?nid=1955&dat=19690703&id=98gtAAAAIBAJ&sjid=daAFAAAAIBAJ&pg=5118,1422341. 
  4. ^ PISTONS: Larry Brown Relieved of His Coaching Duties”. Nba.com (2005年7月19日). 2011年1月10日閲覧。
  5. ^ Contract had three years, $18 million left – NBA”. ESPN (2005年7月19日). 2011年1月10日閲覧。
  6. ^ Knicks fire Brown, name Thomas new coach”. ESPN (2006年6月23日). 2011年1月10日閲覧。
  7. ^ Brown returns to Carolina to coach Bobcats”. ESPN (2008年4月30日). 2011年1月10日閲覧。

外部リンク[編集]