ヴァンセンヌ城

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Château de Vincennes
Part of ヴァンセンヌ
パリ
ヴァンセンヌ城のドンジョン
ヴァンセンヌ城の位置(パリとその郊外内)
ヴァンセンヌ城
ヴァンセンヌ城の位置
座標北緯48度50分34秒 東経2度26分09秒 / 北緯48.842778度 東経2.435833度 / 48.842778; 2.435833
種類
歴史
建設c. 1340-1410
建設者シャルル5世
主な出来事百年戦争
パリの戦い英語版
第二次世界大戦

ヴァンセンヌ城(ヴァンセンヌじょう、Château de Vincennes)は、フランスパリの東方、ヴァンセンヌにあるである。

ヴァンセンヌの森の北方にあり、14世紀から17世紀にわたるフランス王の城である。

歴史[編集]

他のシャトー同様、ヴァンセンヌ城も狩猟小屋に由来する城で、ルイ7世によって1150年頃に、ヴァンセンヌの森の中に作られた。13世紀、フィリップ2世ルイ9世はこの地に大きな荘園を作り、そのルイ9世は第8回十字軍をこの地から出発させたものであると思われる。

ヴァンセンヌはより堅固な城になっていった。フィリップ3世1274年)とフィリップ4世1284年)はこの地で結婚し、14世紀のルイ10世1316年)、フィリップ5世1322年)、シャルル4世1328年)はこの地で亡くなっている。

城は強化されていくにつれ、より大きくなり、14世紀後半にはかつての城にとってかわった。フィリップ5世による1337年から始まった工事で作られたドンジョンの塔は52mの高さを有し、これは中世ヨーロッパの砦の構造物としては最も高いものである。長方形を呈する外壁は二世代ほど後のヴァロワ家の時代の1410年頃に完成された。ドンジョンは王室の住居と見做されており、また図書館として開かれシャルル5世が勉学をした場所である事でも知られている。百年戦争期、フランスに対して優勢を誇ったイングランド王ヘンリー5世はこのドンジョンの中で1422年に亡くなっている。

城内では荊の冠英語版サント・シャペルが受け取るまで保管されていた。その痕跡はサント・シャペル・ド・ヴァンセンヌ英語版に残っている。

17世紀、建築家のルイ・ル・ヴォールイ14世の為にアンヌ・ドートリッシュジュール・マザランの為のパルテール英語版を挟んで対になる隔絶された離れを作ったが、一旦ヴェルサイユ宮殿が全ての中心になるとその後の建築は許されなかった。壮麗な部屋にはルイ14世の初期のスタイルが見られる物もあるが、これらは例えばヴォー=ル=ヴィコント城を彼が表現した時より以前の物である。その城をル・ヴォーらに作らせたニコラ・フーケは哀しい哉、ルイ14世の嫉妬を買いヴァンセンヌに左遷され、不便な暮らしを強いられた。1691年にはもう一人の哀しき居住者、ジョン・ヴァンブルー英語版が左遷され、作品のいくつかをこの地での経験から著したとされるが、これに関しては議論がある。

ピエール・ティリュー・ドーメニル英語版 「足が返されればヴァンセンヌを放棄する」

18世紀に放棄されてからも、シャトーは国立セーヴル工場英語版の有するヴァンセンヌ磁器英語版の工場として存続し、そして刑務所となり、マルキ・ド・サドドゥニ・ディドロオノーレ・ミラボー、有名な詐欺師のジャン・アンリ・ラテュード英語版等が収容され、それはカンブレーに由来するイギリス・ベネディクト会衆会英語版の尼僧の集会のようなものであったと形容される。1791年2月末、アントワーヌ=ジョゼフ・サンテール率いるコルドリエ・クラブに後援され、フォーブル・サンタントワーヌ(現在のパリ11区及び12区界隈)から始まった1000人以上の労働者の暴動はシャトーの周辺を行進し、これはバスティーユ襲撃のように王権の一部を政治犯に渡すためにバールやつるはしを用意させる元となったと言う風説もあるが、その動きは結局ラファイエットにより妨害された[1]フランス革命期に於いては特に城は役割を果たさなかったが、1796年に軍需工場が出来ると、現在の所有者であるフランス軍に渡っている。ナポレオン戦争期、ヴァグラムの戦いで足を失い木の義足となったピエール・ティリュー・ドーメニル英語版1812年にこの城の防衛任務を命ぜられた。ライプツィヒの戦いで大きな損害を被った直後に第六次対仏大同盟パリが攻撃された戦い、パリの戦い英語版で彼は「足が返されればヴァンセンヌを放棄する」(Je rendrai Vincennes quand on me rendra ma jambe、)と語った。

この城は処刑の舞台でもあり、1804年にはルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデが、1917年にはマタ・ハリがこの地で処刑されており、ナチスドイツの支配下でも1944年8月20日に30人の虐殺が執行された。

庭園は19世紀に英国式庭園で作られた。1860年ナポレオン3世ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクをドンジョンと教会の修復の為に雇用し、ヴァンセンヌの森を彼に与えた。

また、この城は参謀の勤務地でもあり、モーリス・ガムラン1940年ナチスドイツの侵入防衛の連合軍総司令部を置いていたものの、敗北している。現在では国防史編纂部の本拠となっている。

様相[編集]

初期の城に関しては絵が一枚しか残っていないものの、14世紀以降に関しては多数残っている。城は長方形をしており、その外周は1kmを超えた(330m×175m)。城には六つの塔と三つの門があり、それぞれ元々は13mの高さである。城全体は深い石製ので囲まれている。ドンジョンは52mの高さがあり、その外壁は砦の西側を兼ねており、残りの城の部分とは堀で分かたれている。 大壁(grande enceinte)は壁の重さで自立しているのみである。

ギャラリー[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ Christopher Hibbert, The Days of the French Revolution 1980:133f.
  • Frank McCormick, "John Vanbrugh's Architecture: Some Sources of His Style" The Journal of the Society of Architectural Historians 46.2 (June 1987) pp. 135–144.
  • Jean Mesqui, Chateaux-forts et fortifications en France (Paris: Flammarion, 1997)

外部リンク[編集]