三菱商業学校

ウィキペディアから無料の百科事典

三菱商業学校(みつびししょうぎょうがっこう)は1878年(明治11年)3月、三菱会社が創設した教育機関、慶應義塾の分校的教育機関[1]。1881年(明治14年)に「明治義塾」と改名。夜間法律学校も開校した。1884年(明治17年)に廃校となった。

概要[編集]

慶應義塾で教師をしていた森下岩楠が、岩崎弥太郎を説得して、「三菱商業学校」が設立された。修業年限は、予備科3年、本科2年、専門科1年。本科では、「ブライアント・ストラットン著『商業算術』[2][3]や「記簿法初歩」「高等記簿法」などが教授されている[4]

三菱商業学校は、校長の森下岩楠を始め教官のほとんどが慶應義塾の門下生で構成された。教師には、森島修太郎、伊藤銓一郎らがいた。森島修太郎は、商法講習所(現・一橋大学)の第1期生であり、成瀬隆蔵と並ぶ秀才として名をなした人物であった。森島は慶應義塾から「商法講習所」に移り助教を勤めたのち、岩崎弥太郎から渋沢栄一を介して要請を受けた矢野二郎所長のとりなしで、「三菱商業学校」に教師として移った[5]

三菱商業学校では、英語漢学、日本作文、算術簿記などの授業から、英語による経済学歴史地理数学の授業まで幅広く用意された。さらに1年間のインターンシップもあった。学生数はピーク時で百数十名。いわば明治時代のビジネススクールであった。経費はすべて三菱が負担した。

当時、慶應義塾の資金繰りに苦しむ福沢諭吉が政府に貸与を申し出た際に[1]

…三菱(商業学校)は…義塾の分校のようなものである。その分校には政府から(海運助成策などによる三菱への間接的)補助があるのに、本校たる慶應義塾には何もない…

とうらやんだといわれる。

沿革[編集]

1877年(明治10年)の西南戦争後の数年間で力を蓄えた岩崎弥太郎は、商業の教育機関設立に踏み切った。「三菱商業学校」は全国から優秀な学生が集まり、三菱の幹部候補生が育成された。荘田平五郎らが記した『簿記法』(経理規則)[6]では、日本で最も早い固定資産減価償却の導入、貯蔵品の予定価格の適用、独自平均元帳の使用を紹介し、非常に優れたものとされた。この規定は、その後何度も修正され、1885年(明治18年)の日本郵船会社設立の際の経理規定の基礎となった。

また、教員である馬場辰猪大石正巳らが自由党の結成に参加。三菱商業学校の校舎を使って、夜間教室「明治義塾」を開設した。「明治義塾」は土佐の熱血漢たちの、自由民権思想普及の場として人気を集めたが、これがその後、薩長閥の政府から睨まれるところとなった。

1881年(明治14年)、三菱商業学校が「明治義塾」と改称された後も、法律学の講義は行われた。増島六一郎英吉利法律学校創立者)、吉田一士[7]関西法律学校創立者)らは明治義塾法律学校の監事をしている[8]

その後、「明治義塾」は、共同運輸との壮絶なビジネス戦争で三菱会社の資金繰りが逼迫するようになったこと、教員の質にばらつきがあって学校の信用を落としたこと、さらに政府筋から「謀反人の巣窟」と見なされたことにより[9]、1884年(明治17年)に廃校となった。

三菱商業学校の校地となる神田錦町の旧旗本蒔田邸(赤枠内)

校地の変遷と継承[編集]

開校時の校地は第一大区十六小区の越前堀2丁目3番地で、1881年(明治14年)に至って神田区神田錦町2丁目2番地に移転した。この地はもと旗本蒔田氏の屋敷跡で、維新後に山階宮晃親王邸となっていたのを三菱が買収し、母屋・長屋・土蔵を改造して校舎とした[10]。廃校後の1885年(明治18年)4月に岡山兼吉増島六一郎の斡旋によりこの地を三菱から4,128円で購入し、英吉利法律学校東京英語学校が共同使用することとなった[11]

主な関係者[編集]

教職員[編集]

50音順

三菱商業明治義塾旧友会(前列左から4人目が江口定条、中列左から3人目が山本達雄、5人目が豊川良平、6人目が増島六一郎、8人目が三宅雪嶺、後列左から9人目が大石正巳、10人目が川田正澂

門下生[編集]

関連項目[編集]

50音順

脚注[編集]

  1. ^ a b 宮川 2001, pp. 21–56.
  2. ^ 三巻、ストラットン 1887, pp. 65-.
  3. ^ 和漢書分類目録』東京文理科大學、1934年https://books.google.co.jp/books?id=RCY1kV504rcC&pg=PP480&dq=%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3%E5%95%86%E6%A5%AD%E7%AE%97%E8%A1%93&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjxgqSJ3KriAhWIvrwKHRP3DZYQ6AEIKjAA#v=onepage&q=%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3%E5%95%86%E6%A5%AD%E7%AE%97%E8%A1%93&f=false 
  4. ^ 三菱と簿記、そして日本郵船へ(巨大帳簿)”. www.lib.hit-u.ac.jp. 2019年5月20日閲覧。
  5. ^ 「 渡辺専次郎を論ず/159」当代の実業家人物の解剖(国会図書館)
  6. ^ 三菱造船株式会社『広船の步み二十年史』三菱造船株式会社広島造船所、1964年、25頁https://books.google.co.jp/books?id=S188AQAAIAAJ&q=%E7%B0%BF%E8%A8%98%E6%B3%95%E3%80%80%E8%8D%98%E7%94%B0%E5%B9%B3%E4%BA%94%E9%83%8E&dq=%E7%B0%BF%E8%A8%98%E6%B3%95%E3%80%80%E8%8D%98%E7%94%B0%E5%B9%B3%E4%BA%94%E9%83%8E&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiMkraQ26riAhVCyosBHa7ZAT0Q6AEIPTAD 
  7. ^ 創立者 校主”. www.kansai-u.ac.jp. 2019年5月20日閲覧。
  8. ^ のちに関西法律学校創設に参画する井上操鶴見守義も明治義塾の教壇に立っていた(『関西大学百年史』 人物編 55-57頁)。
  9. ^ 通史編上巻 2001, pp. 82–83.
  10. ^ 通史編上巻 2001, pp. 76–77.
  11. ^ 通史編上巻 2001, pp. 135–138.

参考文献[編集]

出版年順

  • 三巻米、ブライアント・ストラットン 著、森島修太郎 訳「簿記」『商業算術書』 3巻、文部省、1887年、65頁- (コマ番号37-)頁。doi:10.11501/901242 
  • 中央大学百年史編集委員会専門委員会、中央大学「通史編上巻」『中央大学百年史』中央大 ; 中央版部 (発売)、2001年、82-83頁。 NCID BA53372299https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA53372299 

関連文献[編集]

  • 三菱社史
    • 武田 晴人「史料紹介『三菱社史 初代社長時代--海運誌』」『三菱史料館論集』、三菱経済研究所付属三菱史料館 (編) (1) 2000年、265-282頁。
    • 市川 大祐「史料紹介 三菱社史 二代社長時代」『三菱史料館論集』、三菱経済研究所付属三菱史料館 (編) (3) 2002年、207-222頁。
    • 『経営資料集大成』VIII 34、日本経営政策学会 (編) 日本総合出版機構 1971年
  • 鵜崎熊吉 『豊川良平』 豊川良平伝記編纂会、1922年

外部リンク[編集]