丹羽兵助

ウィキペディアから無料の百科事典

丹羽 兵助
にわ ひょうすけ
生年月日 1911年5月15日
出生地 愛知県東春日井郡守山町(現・名古屋市守山区
没年月日 (1990-11-02) 1990年11月2日(79歳没)
死没地 愛知県愛知郡長久手町(現・長久手市
出身校 関西学院中退
所属政党民主党→)
国民民主党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 勲一等旭日大綬章
親族 弟・丹羽久章
孫・丹羽秀樹

日本の旗 第51代 労働大臣
内閣 竹下改造内閣
在任期間 1988年12月27日 - 1989年6月3日

内閣 第1次中曽根内閣
在任期間 1982年11月27日 - 1983年12月27日

内閣 第2次田中角榮第2次改造内閣
在任期間 1974年11月11日 - 1974年12月9日

選挙区 旧愛知2区
当選回数 12回
在任期間 1955年2月28日 - 1976年12月9日
1979年10月7日 - 1990年11月2日

選挙区 東春日井郡選挙区
当選回数 2回
在任期間 1947年4月30日 - 1955年
テンプレートを表示

丹羽 兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 1990年11月2日)は、日本政治家自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。愛知県議会議員(2期)。名古屋市内の陸上自衛隊駐屯地で、統合失調症で入院から一時退院中だった男に首を刺され、翌月に亡くなった[1][2]。弟は丹羽久章元衆議院議員。孫に丹羽秀樹衆議院議員がいる。

概要[編集]

1967年の衆議院議員総選挙。弟の丹羽久章(右)の初当選を祝う丹羽兵助(左)。

愛知県東春日井郡守山町(現・名古屋市守山区)出身[3]。名古屋中学校(現・名古屋中学校・高等学校)卒業後、牧師を目指して関西学院神学部に進むも父である丹羽兵助(先代)の急逝にあう[4]。長男として家業の土建業の丹羽建設を継いだ[5]

政界入り

1941年4月、守山町議会議員に初当選[5]

1947年愛知県議会議員選挙に東春日井郡選挙区から民主党公認で立候補し、初当選[6]。1951年の県議選は国民民主党公認で立候補し再選[7]

1955年第27回衆議院議員総選挙旧愛知2区から日本民主党公認で立候補し、初当選した(当選同期に愛知揆一田村元椎名悦三郎唐沢俊樹高村坂彦渡海元三郎など)。自民党内では傍流の三木派→河本派に所属。丹羽は初当選の1955年以降、地盤のない春日井市で一人ひとりにきめ細かく接して着々と後援会の「二八会」をつくり上げ[8]、住所も春日井市南下原町に移した[2]

1976年第34回衆議院議員総選挙は落選。1979年の総選挙で返り咲く。

第2次田中再改造内閣国土庁長官第1次中曽根内閣総理府総務長官沖縄開発庁長官竹下改造内閣労働大臣などを歴任した。

1987年、自由民主党代議士会会長に就任。党内の意見調整のかなめとして尽力した[4]

1988年勲一等旭日大綬章を受章[9]

1990年の選挙違反事件[編集]

1990年2月18日の第39回衆議院議員総選挙で12期目の当選を果たした。しかし選挙直後の2月21日、妻と、丹羽の秘書を務める長男の孝充が公職選挙法違反の疑いで事情聴取を受ける。両名は1989年12月11日、名古屋市内の料亭で開かれた忘年会で春日井市議会議員、春日井市選出の児島貢・愛知県議会議長、春日井市長の鈴木義男ら計25人にそれぞれ、現金20万円入りの封筒を包み込んだ箱入りの靴下セットを渡すも、後日25人全員が丹羽側に現金を突き返した[10]

事情聴取を知った丹羽は名古屋市内の支援団体の事務所に身を寄せた。丹羽の選対幹部は同事務所に電話し、丹羽に「県警本部長に会い、頭を下げておいた方がよい」と忠告するが、丹羽は県警には行かず、その夜、妻と孝充は逮捕された[11][12][注 1]。翌2月22日、同幹部は再度、丹羽に電話し「あなたは高齢だし、潔く身を引いたらどうか」と辞職を促した。丹羽はこれに対し「(現金を受け取って返した)市議たちに、あまりアレせんよう言っといてくれ」と答えた。「アレとは警察にいろいろしゃべることか」と直感した幹部は電話をそのまま切った。「長年選挙を手伝ってきた私に、謝罪の一言もなく、証拠隠滅を頼むなんて」と幹部は憤り、翌23日、丹羽は潜伏先を長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)の佐久総合病院に移した。名古屋地検が出頭を命じると、3月10日、丹羽は病院を出発。名古屋市内のホテルで一泊したあと、3月11日に名古屋地検関係施設に出頭。事情聴取を受け、同日中に再び病院に戻った[10]。選対事務長を務めた児島貢は「事件発覚後心配だったが、丹羽先生からは何の連絡もなかった。冷たいものですよ」と嘆いた[11]

妻と孝充は懲役2年、執行猶予5年の判決を受けた[18]連座制を規定する公職選挙法251条の2は当時はまだ改正前であり、旧条文の「公職の候補者」を字義どおりに解釈する最高裁判所昭和35年2月23日判決があったことから、丹羽は起訴を免れた[19]

刺殺事件[編集]

1990年10月21日午前、陸上自衛隊守山駐屯地名古屋市守山区)で行われる記念式典(一般市民にも公開)に来賓出席するため、秘書の車で司令部庁舎に到着。隊員の案内で1階ロビーの喫煙コーナー前を歩いていたところ、部外者の男(統合失調症で守山荘病院に措置入院中。当時は一時退院中であった)に首をナイフで刺された[2]。出血多量により心肺停止状態で守山区のヤトウ病院に搬送され、その後愛知郡長久手町(現・長久手市)の愛知医科大学病院で手術を受けたが、12日後の11月2日に死去[20]。79歳没。

異なる型の血液型記載と原因分析

ヤトウ病院に搬送された際、秘書が申告した血液型と秘書が偶然持参していた国会便覧の血液型記載を信用し、通常は行われるクロスマッチテストが行われないまま、上記通りの血液が輸血された。しかし、実際の血液型とは異なる型の血液であると言う医療事故も重なった[21]。また、愛知医科大学病院でも不適合輸血が行われた[20]。司法解剖の結果、死因は頸部を切られたことによる失血死で、型違い輸血は死因に影響しないと判断されたと言われている[21]

なお、丹羽が実際の血液型と異なる血液型を記載していたのは、当時流行していた血液型占いのブームが原因であり、血液型による印象が得票数に繋がると考えたのではないかと推測されている[22]

遺族による訴訟

遺族は関係した3病院を相手取り、総額1億7,700万円の損害賠償を求める訴訟を起こしたが、守山荘病院とヤトウ病院が解決金を支払うことで2000年12月15日までに和解が成立した[23]

死後[編集]

長男の孝充は懲役2年、執行猶予5年の判決を受けたものの、1991年6月、即位の礼に伴う特赦で公民権を回復した[24]

1993年7月18日の第40回衆議院議員総選挙に丹羽孝充は自民党公認で立候補するも次点で落選。さらに同年7月24日、公職選挙法違反の疑いで逮捕された[25]。孝充は6月下旬、票のとりまとめなどの報酬として、後援会幹部ら運動員計15人に総額2,550万円を渡したほか、別の一人に100万円を渡そうとした。母親も買収容疑で逮捕された。被買収による逮捕者も小牧市議会議員、清洲町議会議長、春日町議会議長、前豊明市議会議員、穂積英一県議[26]、元豊山町助役など広範囲に及び、越山会と並び称されるほど巨大集票組織だった兵助の「二八会」は二代目で壊滅的となった[27]1997年5月2日、最高裁の上告棄却により、孝充の実刑判決(懲役2年6月、追徴金200万円)は確定した[24]

人物[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1990年2月の総選挙では、愛知県下の5つの選挙区で以下の6人の自民党候補が選挙違反事件を起こした。しかしいずれも無事当選を果たし、自身が罪に問われることもなかった。

出典[編集]

  1. ^ 安倍晋三元首相『襲撃事件』日本国内に衝撃走る 過去には細川護熙元首相らも男に銃撃される - 中日スポーツ 2022年7月8日
  2. ^ a b c 『中日新聞』1990年10月22日付朝刊、1面、「丹羽元労相 刺され重態 入院中の男襲う 陸自記念式典会場で 守山駐屯地 すぐ逮捕 『議員ならだれでも』」。
  3. ^ 丹羽 兵助 (ニワ ヒョウスケ)”. コトバンク. 2018年12月11日閲覧。
  4. ^ a b 第120回国会 衆議院 本会議 第4号 平成2年12月18日”. 国会会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  5. ^ a b 『中日新聞』1990年11月2日付朝刊、1面、「守山駐屯地で刺され入院 丹羽兵助元労相死去」。
  6. ^ 『愛知県議会史 第九巻』愛知県議会、1981年3月16日、344頁。 
  7. ^ 『愛知県議会史 第九巻』愛知県議会、1981年3月16日、362頁。 
  8. ^ 『中日新聞』1993年8月9日付朝刊、市民総合版、11面、「ニュースの行間/ 丹羽容疑者派の選挙違反 金にすがった懲りない姿 情けない...支援者らあきれ顔」。
  9. ^ 「秋の叙位叙勲4538人、晴れの受章 隠れた功労者、史上2位の1741人」『読売新聞』1988年11月3日朝刊
  10. ^ a b 『中日新聞』1990年3月12日付朝刊、1面、「名地検 丹羽代議士から聴取 衆院愛知二区妻子買収事件 本人は関与否定 長野の病院から出頭 愛知県警も聴取」。
  11. ^ a b 『中日新聞』1991年3月12日付朝刊、31面、「『市議たちにアレせんよう...』 丹羽氏が口止め? 電話 選対幹部の辞職“勧告”も無視」。
  12. ^ a b 『中日新聞』1990年2月22日付朝刊、31面、「愛知二区選挙違反 丹羽氏の妻と長男逮捕 春日井市議らに現金 全員が返却」。
  13. ^ a b 『中日新聞』1990年2月22日付朝刊、31面、「田辺氏(愛知一区)浅野氏(愛知五区)の秘書も」。
  14. ^ 『中日新聞』1990年2月20日付朝刊、31面、「愛知2区でも逮捕者 久野派の前町議」。
  15. ^ 『中日新聞』1990年2月21日付朝刊、31面、「後援会役員 買収で逮捕 愛知二区久野派」。
  16. ^ 『中日新聞』1990年2月20日付朝刊、31面、「江崎氏の秘書逮捕 愛知3区の選挙違反 買収、2人に40万円余」。
  17. ^ 『中日新聞』1990年2月27日付朝刊、11版、31面、「杉浦氏派違反の後援会事務局長 強引に金権指揮 怖さ知らず〝実弾攻勢〟 63年の市長選で選対幹部が分裂 初めて表舞台に」。
  18. ^ 『中日新聞』1993年7月23日付朝刊、31面、「愛知2区 買収事件 丹羽氏の母 また逮捕 故兵助氏派違反に続き 元日進町議長らも逮捕」。
  19. ^ 朝日新聞』1990年3月16日付夕刊、12面、「空洞化の選挙違反連座制 公示前は不問」。
  20. ^ a b 『中日新聞』1990年11月3日付朝刊、1面、「死亡の丹羽元労相 2病院が不適合輸血 本人O型にB型 容体に影響か 愛知県警事情聴取 秘書の申告信用 守山の病院」。
  21. ^ a b 支倉, p. 118.
  22. ^ 支倉, p. 119.
  23. ^ 『中日新聞』2000年12月15日付夕刊、16面、「丹羽元労相遺族 病院側と和解 死亡事件訴訟で」。
  24. ^ a b 『東京新聞』1997年5月2日付夕刊、10面、「丹羽被告の上告棄却 93年衆院選買収事件 最高裁、実刑確定へ」。
  25. ^ 『中日新聞』1993年7月25日付朝刊、1面、「愛知二区違反 落選の丹羽候補逮捕 票取りまとめ 600万円を渡す」。
  26. ^ 『中日新聞』1993年8月6日付朝刊、1面、「丹羽派違反 穂積県議を逮捕 集票報酬 約200万円受け取る」。
  27. ^ 『中日新聞』1993年7月25日付朝刊、30面、「後援会『二八会』 “鉄”の結束 崩壊危機 兵助氏亡き後、人心離れ」。

参考文献[編集]

  • 支倉逸人『検死秘録』光文社、2002年。ISBN 4334973523 
公職
先代
中村太郎
日本の旗 労働大臣
第51代 :1988年 - 1989年
次代
堀内光雄
先代
田邊圀男
日本の旗 総理府総務長官
第30代:1982年 - 1983年
次代
中西一郎
先代
田邊圀男
日本の旗 沖縄開発庁長官
第13代:1982年 - 1983年
次代
中西一郎
先代
西村英一
日本の旗 国土庁長官
第2代:1974年
次代
金丸信
議会
先代
八木徹雄
日本の旗 衆議院文教委員長
1971年 - 1972年
次代
渋谷直蔵