井伊直幸

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井伊直幸
井伊直幸
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 享保14年7月21日1729年8月15日
死没 寛政元年2月26日1789年3月22日
改名 大之介(幼名)、直英、直幸
戒名 大魏院弥高文山大居士
墓所 東京都世田谷区豪徳寺二丁目の豪徳寺
官位 従四位下侍従玄蕃頭掃部頭少将、従四位上、中将、正四位上
幕府 江戸幕府 大老
主君 徳川家重家治家斉
近江彦根藩
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直惟、母:堀部氏
養父:井伊直定
兄弟 直禔直幸井伊直定養女、井伊直定養女、印具咸重室、木俣守融室ら
正室:井伊直存
側室:伊藤氏、高橋氏、坂本氏、量寿院、池崎氏
直尚直寧俊姫直富直中直広真田幸専土井利義直明直容直致、扁勝、暉玄、摂有、松平康哉正室、立花鑑門正室、雍姫、磐、松平忠馮正室、謙ら
養子:美子井伊直存井伊直朗
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井伊 直幸(いい なおひで)は、江戸時代中期から後期の大名近江彦根藩第13代藩主。江戸幕府の大老は初め直英(なおひで)、後に直幸。井伊直亮,井伊直弼らの祖父。

経歴[編集]

享保14年(1729年)7月21日、井伊直惟の次男として生まれる。彦根藩第9代藩主であった父の直惟が亡くなった時は、まだ5歳と幼少であったため、家督は叔父の直定に譲られた。直定に嫡子ができず、直幸の兄の直禔がその養子となったが、宝暦4年(1754年)に直禔が急逝し、幕命により直定が再び藩主となった。

幕府は井伊家の血筋を重視して他家からの養子を許さなかったため、直定の養子となり[1]、宝暦5年(1755年)に直定の再隠居に伴い、晴れて藩主となった。

宝暦9年(1759年)12月12日、将軍の徳川家重右大臣転任にともない、陸奥会津藩松平容頌とともに朝廷への使者を命じられる。なお、この人選は幕閣に工作し、上野前橋藩松平朝矩への内定を覆して実現したものであった。幕府内での序列(「譜代(将軍家家臣団)筆頭にして幕府大老の井伊家」と「親藩(将軍家親族)の筆頭格の一角である会津藩」、そして「親藩にして“将軍家の兄の家”である越前松平氏一門の朝矩」)を顧慮した上での工作であったと推測される。しかし宝暦10年(1760年)2月、養父の直定の病気を理由に使者を辞退、同じ溜詰の大名、讃岐高松藩松平頼恭と交代する。同年4月25日、朝廷への使者の務めを終えた松平容頌は左少将に任官、直幸は官職で序列を追い越されて、焦りを抱くようになる。同年9月6日、徳川家治の将軍宣下にともない、朝廷への使者を命じられる。その結果、同年12月6日、左少将に任官し、松平容頌と同格となる。同年、直英から直幸に改名した。

直幸はさらなる官位の上昇を目論む。宝暦13年(1763年)9月6日、徳川家基の山王社へのお宮参りに際し、井伊邸でもてなし、翌日、従四位上に昇進する。明和2年(1765年)、徳川家康の150回忌に際し、日光東照宮へ将軍の名代として参詣する。その際、幕府へ官位の昇進を願うものの、却下される。ただし、同年10月15日、翌年の家基の元服に際しての加冠役を命じられて、左中将に任官する。なお、同日、松平容頌は理髪役を命じられて、同じく左中将に任官している。

安永7年(1778年)2月23日、50歳に達したことやそれまでの功績を考慮されて、正四位上に昇進する。天明4年(1784年)11月28日には大老に任命された。大老在任中は実子の直富が藩政を執っていた。天明の大飢饉においても直幸の計らいで、領内各所に施粥場が設けられて藩の蔵から米が配られ、彦根藩では一人の餓死者も出さなかったといわれている。

幕政では田沼意次と共に執政していたが、意次に賄賂を積んで大老の座を手に入れたという噂もあった。天明6年(1786年)に将軍の家治が死去すると、若年寄で同族の井伊直朗大奥と共謀して次の権力の座を狙ったが政争に敗れ、天明7年(1787年)に大老職を辞する。

文芸にも造詣が深く、絵画や書を残している。

寛政元年(1789年)2月26日に死去した。享年61。世田谷の豪徳寺に葬られた。跡を六男の直中が継いだ。

官位[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 77頁。

参考文献[編集]

  • 朝尾直弘編『彦根城博物館叢書5 譜代大名井伊家の儀礼』(サンライズ出版、2004年)