伴勇資

ウィキペディアから無料の百科事典

伴 勇資
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県福岡市
生年月日 (1923-05-20) 1923年5月20日
没年月日 (2003-07-29) 2003年7月29日(80歳没)
身長
体重
170 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手三塁手
プロ入り 1950年
初出場 1950年3月11日
最終出場 1954年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

伴 勇資(ばん ゆうじ、1923年5月20日 - 2003年7月29日[1])は、福岡県福岡市出身のプロ野球選手捕手内野手)、野球監督。

来歴・人物

[編集]

福岡工業(現・福岡県立福岡工業高等学校)在学中には、甲子園に2回(春1回〈1940年〉、夏1回〈1940年〉)出場。1940年春の大会ではベスト4まで進出した。福岡工時代のチームメイトに、上野義秋大崎憲司千頭久米夫(いずれも後に、西日本鉄道硬式野球部及び西鉄でもチームメイトになる。)がいる。

福岡工業卒業後は、早稲田大学に進学した。早大でも正捕手の座を掴み、1943年10月16日に開催された出陣学徒壮行早慶戦(世に言う「最後の早慶戦」)でも「2番・捕手」で先発出場している。早大卒業後、西日本鉄道硬式野球部に所属。1948年第19回都市対抗野球大会では、捕手としてチームの優勝に貢献。この時のチームメイトには、先述の上野,大崎,千頭の他に、武末悉昌投手・宮崎要監督兼二塁手・深見安博三塁手・塚本悦郎中堅手がおり、後に西鉄の草創期を形成するメンバーとなった。

1950年にこの年新設された西鉄クリッパースに入団。しかしプロでは、楠協郎,日比野武の壁を破ることはできず、控え捕手の座に甘んじた。捕手登録だったが、1952年に三塁手として1試合出場している。1953年東急フライヤーズ、そして1954年大映スターズに移籍し、1954年限りで現役引退した。

引退後は、アマチュア野球の指導者に転身した。まず柳川商業の監督に就任し、同校を1963年夏の甲子園へ甲子園初出場に導いた。次いで国士舘大学硬式野球部の第2代監督に就任[2]。その後は準硬式野球部の部長、監督を歴任、平行して、1970年代1990年代初頭にかけて、「保健体育講義」の講師も勤めていた[2]

2003年7月29日午後11時55分、脳梗塞のため東京都八王子市の病院で死去[1]。80歳没。

D-BOYSワタナベエンターテインメントに所属する若手男性俳優集団)の舞台「ラストゲーム〜最後の早慶戦〜」では彼をモデルにした伴東勇介(ポジションは捕手)なる人物が登場し、2008年の初演では中村昌也2010年の再演では中川真吾が彼の役を演じた。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1950 西鉄 33 70 61 8 11 2 0 4 25 11 2 1 0 -- 8 -- 1 13 4 .180 .286 .410 .696
1951 43 83 72 8 13 3 0 1 19 6 2 1 2 -- 9 -- 0 9 2 .181 .272 .264 .536
1952 47 96 86 5 13 3 1 1 21 9 0 2 0 -- 10 -- 0 14 2 .151 .240 .244 .484
1953 東急 50 60 52 4 13 2 0 0 15 4 0 1 1 -- 7 -- 0 9 5 .250 .339 .288 .627
1954 大映 16 19 16 1 2 0 0 0 2 1 0 0 1 0 2 -- 0 5 0 .125 .222 .125 .347
通算:5年 189 328 287 26 52 10 1 6 82 31 4 5 4 0 36 -- 1 50 13 .181 .275 .286 .561

背番号

[編集]
  • 24 (1950年)
  • 11 (1951年 - 1952年)
  • 23 (1953年)
  • 27 (1954年)

脚注

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]