佐東銀山城

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佐東銀山城
広島県
佐東銀山城遠景
佐東銀山城遠景
別名 銀山城、金山城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 武田信宗
築城年 不明
主な城主 安芸武田氏毛利氏
廃城年 慶長5年(1600年
遺構 曲輪、堀切、石垣、井戸
指定文化財 県史跡
地図
佐東銀山城の位置(広島県内)
佐東銀山城
佐東銀山城
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佐東銀山城(さとうかなやまじょう)、または銀山城は、安芸国佐東郡(広島市安佐南区)にあった日本の城山城)。「銀山城跡」として広島県指定史跡[1]

概要

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現在、武田山と呼ばれる標高410メートルの山頂を中心とし、周辺の尾根に50以上の曲輪を持つ巨大な連郭式山城であった。堀切や近世城郭に見られる桝形の原点とも言える巨岩を利用した御門跡などの遺構が存在するも、他の山城に見られるほどの築城が行われた形跡は少なく、自然の要害を利用した山城であった。周辺地域には支城や寺社を配し、防衛網を作り上げていた。

沿革

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武田山上高間からの眺望(広島市内中心部方面)

鎌倉時代初期、この地は、古市、今津等の市場や港町として賑わっており、古代山陽道瀬戸内海に面した安芸国の流通・経済の中心地であった。承久3年(1221年)の承久の乱の後、恩賞として安芸国佐東郡を得た武田氏当主・武田信光は、この武田山の麓に守護所を建て、安芸国佐東郡の経営に乗り出した。しかし時代が下り、元寇や幕末の政情不安によって戦乱の雰囲気が高まり、正安元年(1299年)には桜尾城平員家の攻撃を受け、佐東銀山城は落城した。このような状況下、所領の防衛に適した地に城郭を構える必要に迫られ、安芸国に下向した武田家当主・武田信宗によって、鎌倉時代末期に現在の武田山頂上域に建てられたとされる。

室町期には、安芸国へと進出を図る周防国戦国大名大内氏との激闘の舞台となり、幾度となくこの城を巡って攻防戦が繰り広げられた。

永正14年(1517年)、山陰の尼子氏と結んだ安芸武田氏当主・武田元繁は、毛利氏の西隣の吉川氏を攻めた。元繁は安芸有田で毛利元就率いる毛利軍や吉川軍と戦って元繁は討死したため(有田中井手の戦い)、これ以降安芸武田氏は弱体化に歯止めがかからなくなった。

天文10年(1541年)、毛利元就は吉田郡山城の戦いにて尼子軍を撃退。同年、元就は銀山城を攻めこれを攻略した(佐東銀山城の戦い)。この時、元就は夜間に火を点けた草鞋千足を太田川に流し、佐東銀山城に籠る武田氏に動揺を与えたという伝承がある(この伝承を裏付けるように、太田川の川岸付近にある広島市東区戸坂町には、「千足」の地名が現在も残っている)。銀山城には大内方の城番として冷泉隆豊が置かれた。

天文23年(1554年)、毛利元就は厳島の戦いの前哨戦として佐東銀山城を攻略。大内氏城番・栗田肥後入道は説得に応じて即日開城し、城は毛利の支配下に置かれた(防芸引分)。

以後、銀山城は関ヶ原の戦いまで毛利氏の支配下に置かれた。毛利元就の隠居城として使う予定があったものの、現実にそれが実行されることはなかった。後に広島城が築かれるとその重要性は低下し、毛利氏が関ヶ原の戦い後に移封されると廃城となった。

江戸時代以降も城地が荒らされることはなく、現在は周辺地域の住民よる保全活動により維持整備され、ハイキングコースとして定着している。

逸話

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安芸武田氏滅亡の際、残党が再起するための資金として、武田山中の洞窟に先祖伝来の純金の茶釜を埋め、目印として白南天を植えたという伝説が残っている。元々この山は金銀を産出したとされ、「銀山」の名もこれに由来するものだと言われている。武田山の真北には、かの石見銀山が位置しており、また真南には、武田氏が甲斐より勧請した宇品・神田神社が位置している(当初は東区。戦中、軍用地として徴用され、現在地に移転)。

現在、この山城の登山道口には広島経済大学広島県立祇園北高等学校がある。 なお、祇園北高校の校章には武田菱があしらわれている。

また、地域のゆるキャラとして、武田山のお殿様をイメージした「たけちゃま」が存在する。

略年譜

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支城

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脚注

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参考資料

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  • 『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第1集』(広島県教育委員会)

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯34度27分22秒 東経132度26分55秒 / 北緯34.456度 東経132.44852度 / 34.456; 132.44852