入間森畑の戦い

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入間森畑の戦い
戦争戊辰戦争
年月日明治元年3月6日-明治元年閏4月12日
場所出羽国入間村(天領、慶応4年2月より庄内藩の管理)
結果:新政府軍の勝利
交戦勢力
新政府軍
天童藩
山形藩
旧幕府軍
庄内藩
指導者・指揮官
澤為量
(奥羽鎮撫軍)
酒井吉之丞,
(庄内軍二番大隊隊長)
戦力
200
損害
庄内藩領に撤退
戊辰戦争

入間森畑の戦い(いりまもりばたけ の たたかい)は六十里越街道付近の集落で行われた、旧幕府軍の庄内藩と新政府軍の天童藩の間に行われた、戊辰戦争の戦いの一つである。

経緯[編集]

明治元年閏4月11日、酒井吉之丞率いる庄内軍が本道寺に布陣した。前夜、吉川村(西川町吉川)に宿泊した新政府軍はこの日のうちに沼山(西川町沼山)に進んで、休憩した後に、入間境岩坂松ノ木平で水沢の庄内軍と交戦した。新政府軍から戦死者2名が出て、龍源寺に仮埋葬した。

庄内軍は横岫に陣営して、新政府軍は寒河江川を隔てて、吉川村に布陣した。閏4月11日入間村字森畑に進出して、辰の刻から砲撃戦を始めた。昼過ぎに、庄内軍は渡河して水沢村字宿下に進み攻勢に出た。また、本道寺にいた庄内軍の一隊が、寒河江川を渡り、月岡から山越えして小山道を通って、森畑の新政府軍を背後から奇襲した。この結果新政府軍は甚大な損害を蒙り敗走した。その際に、綱取付近にいた庄内軍の伏兵の待ち伏せで、新政府軍は損害を出している。

夕暮れに、新政府軍300人が綱取から進撃して字山崎に着たので、庄内軍は退却した。その時、新政府軍は庄内軍の営所である横岫 を焼払った。

庄内軍が本道寺から引き上げる時に、新政府軍が追撃して、本道寺伽藍および月岡の12軒の民家を焼討ちした。しかし、本道寺集落は、名主ら三人の懇願によって焼討ちを免れた。その後、新政府軍は沼山に戻った。一方庄内軍は六十里越を通って庄内領に退却した。

戦後[編集]

戦場になった、六十里越えの西川地区の集落は大きな損害を受けた。周辺の村、水沢村、綱取村、入間村の住民は米の炊き出しを命じられて、閏4月10日より5月初めまで、薩摩藩長州藩新発田藩尾張藩、および、山形藩、天童藩に12,277食(29石)を提供した。

西川地区の大半は、それまで幕府領であり、庄内藩は2月まで管理を命ぜられていたので、西川地区の損害に対しては、その後手当米を支給している。

参考文献[編集]

  • 『西川町史』
  • 『三百藩戊辰戦争事典』人物往来社、2000年