兵農分離

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兵農分離(へいのうぶんり)は、日本史における用語の一つで、戦国時代から江戸時代にかけて推し進められた、武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策を指す。江戸時代には、江戸幕府が国政を管掌する途上において、武士と他の階級を明確に区別し、武士を最上位に置く体制を確立した。

概要[編集]

兵農分離は、戦国時代から江戸時代にかけて推し進められた武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策を指す。兵の専業化による強化、武士が農業から離れ農地の非所有、在地武士制から城下集住と領主による農民の直接支配への転換、二刀帯刀の武士・農民の区別、身分固定などの政策が行われた[1]

しかし、江戸時代でも土佐国や九州地方、東北地方では半農制が多く残り続け、完全な兵農分離がされていない地域が多かった。また、一般的には兵農分離が兵力を強化したとの説が大きいが、江戸時代には支配層からの、武士たちが都市生活で家計費用がかさみ、弱体化し、半農制の兵士的な有力さを説く意見も多かった[2]

戦国時代を扱ったコンピューターゲーム等では徴兵制や古代ローマの職業軍人制と類似した制度として扱われているが、史実では内容も目的もそれら2つとは大きく異なる。

歴史[編集]

中世期[編集]

日本の中世期においては、幕府地頭御家人、その郎党といった正規の武士以外に地侍(土豪)、野伏農民等も武装していた。武士は律令時代の武装開拓農場主を出自とし、農場主が小作人の子弟を郎党として戦時の体制を構成していたため、兵と農は不離あるいは同義語に近い。また政府の治安維持を担う機能がほぼ都市部に限られ、流通業者も武装しなければならず、農業系武士の代表が鎌倉幕府御家人たちであるならば、商業系武士の代表としては鉱山経営者であり運輸業者であったといわれる楠木正成等が挙げられる。

つまり武装を必要としない江戸時代の安定を見るまでは、経済的に許される範囲において、あらゆる階層が武装していた。

戦国時代[編集]

戦国時代後期に、その武装しているあらゆる階層の中から、惣村から大名や領主、国人に戦力や戦場用務を提供する武家奉公人が現れる。奉公人は、その給与のほか略奪、人取りによる人身売買、苅田などが許されていた[3]。彼らは軍の構成の58%を占めていた[4]大坂冬の陣加賀藩400石取りの武士を例にとると侍衆の若党1 - 2人、馬引きや槍持ちの下人3 - 6人、他に労役農民の人夫1 - 2人を連れるよう規定されていた[5]。戦闘する侍衆の多くは惣村経営の主導者層である。軍役は侍のつとめであって百姓のつとめではない、という考えを中世的兵農分離という[6]。戦国時代後期には、武家からの兵力動員の求めを忌避し、一定の兵の専業化と身分の区別が進んでいた[7][8]。非戦闘員の兵糧運搬などの人夫の課役はあったが、戦闘員ではなかった。戦国大名により、それ以外の農民の武器も自弁の戦時動員も画策されたが、村奉公衆と区別され、北条氏は豊臣氏との戦争で緊急の村人を戦闘員として戦時動員したが、反発を恐れていた[9]武田戦も含め非常時として3回民衆動員令が村請に依存して徴兵がなされたが、不正申告・動員忌避の抵抗が多く、「人夫なら出すが兵は出せぬ」と抵抗理由に、中世的兵農分離を盾にして徴兵忌避をした[7]。 武家奉公人には、戦闘ではなく労働力の提供層とされた中間や小物なども存在していた。

武家奉公人の中には主従関係で日常的に雇われている奉公人と、戦時だけ雇われる下々奉公人とが存在した[4]。その多くが金銭や米で雇われていた。戦国時代は渡り奉公人が盛んで、凶作と飢饉の続く中では、食っていくための一大産業であった。しかし、大名・領主層にとって、良き者の確保を巡りその流動は紛争の種であった[10]

継続的に戦闘が行われる戦国期においては、戦国大名はいつでも、迅速に、また長期的に政略的・軍事的要地に精兵を動員できるようにしたいが、この中世的兵農分離下では、召集するのに時間が掛かった。また、彼らの郎党には半士半農の者が多く、農繁期の動員に対して不満をもたれるといった問題もあった。

そのような中、応仁の乱前後の社会情勢の中で生まれた足軽傭兵としての側面を持ち、農業商業という生産物ではなく、戦闘力の提供層を形成した。骨皮道賢のように集団としての労働力を組織する者も現れた。

戦国末期になると、農業生産力が向上して足軽などの非生産者にも食料が行き渡るようになり、商業が発展して金銭に余裕の生まれた戦国大名の一部には、長期的に兵力を保持する必要から、足軽を継続して雇用したり、家臣団に組み入れる勢力も現れた。加えて村落に居住する侍衆を直接的な農業経営から分離して城下に集めて専任の職業軍人とすれば、召集に必要な時間を短縮できて農繁そして期出兵の問題も解決できた。さらに武具の質も上げることができた。

織豊政権[編集]

織田政権により、柴田勝家越前国で検地を開始し細川藤孝丹後国でも続けられた。また、馬廻衆や弓衆の武士と家族たちの城下町への集住が強制されるがそれ以外の、重臣を含めた武士層の妻子たちは領地で暮らしていた。また、身分法令や政策は出さなかった[11]

豊臣秀吉が天下を統一し、豊臣政権で天正19年8月令や天正20年正月令で人掃令で身分法令とされるものが発布された。村落自身が武力によって相論を解決することを禁じる喧嘩停止令を発布した。刀狩で、百姓から大刀・脇差の二刀帯刀権を剥奪し、武士身分の標識とした[12]。さらに検地で土地権利者と年貢納入者の名請人(なうけにん)に農民を当て身分を固定したと言われた[13]。これらは身分制度を固定する政策だとされてきた[14]

また兵農分離による家臣の城下への強制集住は、京都・伏見に大名の妻子の居住が強制され、大名らも京都・伏見在住が長くなったが、国元へ帰国が許されていた[15]。また武士層全体への都市居住政策は無かった[16]

大名の妻子らの城下への強制集住は、楽市楽座とともに、城下町発展の大きな要因となる。具体的な政策として惣無事令や、身分にかかわる政策として刀狩海賊停止令が施行された。これらは、土地の支配関係を明らかにし、武士以外の帯刀権を剥奪した。海上においては海賊勢力を解体して、警護料などの金銭徴収を禁止し、大名の水軍武士と漁民に分離するものであった[17]

兵農分離政策研究の転換[編集]

身分固定令とされてきた豊臣時代の2令は、朝鮮侵攻への奉公人逃亡禁止と確保のためのものだとの指摘が大きくなっている[14]。また、検地帳の名請人は、近江国など畿内でも豊臣秀吉の直臣が多く記載され、土佐国長宗我部氏でも、ほぼ全帳が残る検地帳の名請人に、武士身分の記載が多くあり、兵農分離政策としては成り立たなくなっている[18]。検地の名請人は、年貢納入責任者を決定するもので、百姓身分を決定せず、侍・武士、商人や職人など他の身分に属するものがいた[19]。また家臣の城下集住も、各領地単位では強制政策は無く、転封が続いたことで城下にまず居住したが、転封先での武士と新領地との関係が断ち切れて、そのまま城下集住になったという説が大きくなっている[20]。また検地により把握した石高の土地から家臣を移動させて同石高の土地を与える政策を取っていて転封と同様の効果を与えた[21]

こうして進んだ武士層の城下集住と、帯刀権規制が江戸時代に一時緩むが再度規制され、兵農分離に大きな役割を果たしたと、指摘されている。

江戸時代[編集]

江戸時代に入るとこの方針は一層強化され、支配階層を武士として、それ以外の農民、職人、商人と厳密に区別された。武士と平民が褒章として名字や帯刀権限を与えられた者以外は公的には使用できなくなった[22]。法令上は、身分の移動は行えなくなった。しかし、下級武士の権利が江戸時代後期には御家人株として取り引きされるようになり、その後、譜代身分さえ取引され、その後代に勝海舟など子孫が栄達した例もある[23]。また農民から商人の移動は多くされるようになった。 徳川家康親衛隊の八王子千人同心百人組、地方の外様大名である高知藩郷士米沢藩相馬藩長州藩佐賀藩熊本藩鹿児島藩などのように政策的に半農制を残した地区や食糧生産量における自給率が厳しい地域では江戸時代末期まで兵農(商工)分離がされず、家臣の多くが農村地帯や町人地に居住したという事例も多い。 また飢饉以外では食糧自給率が足りていた仙台藩でも警備の人員上藩士に臨時に取り立てる例もあった[24]

明治時代以降[編集]

やがて明治維新によって明治時代になると、「四民平等」を建前として、近代的な身分制度が創出され、1870 年(明治3年)に平民苗字許可令、さらに平民苗字必称義務令廃刀令などが公布。苗字帯刀などの武士の特権とされた制度も、帯刀は廃止。名字も平等になり、特権とはならなくなり、武士と平民の境目は無くなった。その名残は戸籍に「士族」や「平民」などと記されるだけとなった。第二次世界大戦1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止により戸籍における族称の記載も完全に廃止された。

脚注[編集]

  1. ^ 朝尾直弘『国史大辞典』「兵農分離」吉川弘文館、1991年
  2. ^ 平井 2017, pp. 23-27、34-39.
  3. ^ 藤木 2005, pp. 30、39-40.
  4. ^ a b 池 2003, p. 162.
  5. ^ 藤木 2005, p. 12引用:木越隆三『大坂冬陣における家中奉公人と給人夫役』 - 『加能史料研究』7号、1997年
  6. ^ 池 2003, p. 167、176.
  7. ^ a b 藤木久志『村と領主の戦国世界』東京大学出版会、1997年「村の動員」
  8. ^ 稲葉継陽『日本近世社会形成史論』校倉書房2009年「村の武力動員と人夫役」
  9. ^ 平井 2017, pp. 60–71.
  10. ^ 藤木 2005, pp. 6-7、112-122.
  11. ^ 平井 2017, pp. 91、180-190.
  12. ^ 平井 2017, pp. 143–170.
  13. ^ 平井 2017, pp. 132–136.
  14. ^ a b 平井 2017, pp. 91–129.
  15. ^ 平井 2017, pp. 191–204.
  16. ^ 平井 2017, pp. 221–222.
  17. ^ 松岡久人『国史大辞典』「海賊衆」吉川弘文館 1983年
  18. ^ 平井 2017, pp. 136–142.
  19. ^ 池上裕子『日本中近世移行期論』〈歴史科学叢書〉 校倉書房 2012年、「日本における近世社会の形成」
  20. ^ 平井 2017, pp. 219–222.
  21. ^ 平井 2017, pp. 171.
  22. ^ 尾脇秀和『刀の明治維新 - 「帯刀」は武士の特権か?』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2018年、p.116
  23. ^ 姜鶯燕「<研究ノート>近世中後期における武士身分の売買について : 『藤岡屋日記』を素材に」『日本研究』第37巻、国際日本文化研究センター、2008年3月、163-200頁、doi:10.15055/00000544ISSN 0915-0900CRID 1390290699747366016 
  24. ^ 長井政太郎「東北地方における郷士集落について (1)」『地理学評論』第29巻第11号、日本地理学会、1956年、689-699頁、doi:10.4157/grj.29.689ISSN 00167444CRID 1390282679310578688 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]